2014-01-15

フード左翼と平安美人




フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(朝日新書)の著者・速水健朗さんへのインタビュー記事がアップされた。

自分探しが止まらない』『ラーメンと愛国』『都市と消費とディズニーの夢』『1995年』など、速水さんといえば毎度面白い切り口で人気のライターだが、今回の本もまた面白かった。

フード左翼とは、アンチ「食の工業化」で、親「ベジタリアン、マクロビ、オーガニック」な人たち。フード右翼とはその対立概念で、ジャンクや安くて便利で量の多い物を好むような人たち。

本書はフード左翼を中心に書かれ、最終的には消費者としての立場が政治意識を決定づけているのではないかとする意欲作。まあ、面白いので興味のある人は読んで欲しい。

速水さんは近年フード左翼的食生活に傾斜しつつも、食の理想を過度に追求しようとする人たちには冷ややかだ。オーガニック食品だけでは世界の人口を支持することはできないので、遺伝子組み換え食品だろうが上手く活用していくべきだとしている。そして遺伝子組み換え食品を忌み嫌う人たちの主張はオカルトの域をでないと一刀両断する。

速水さんがそう考えるのも、彼が経済保守の立場に立っているからだ。つまり基本的には市場原理に任せた小さな政府がいいという発想だ。そのことは彼のこれまでの発言を見れば明白だし、インタビューも何度か「経済保守の立場をとっている」と自分で言っていた。

その考え方はとてもわかる。なぜなら私自身がちょっと前まで同じような立場だったからだ。中学高校の授業を通じて一番感動したことの一つはアダム・スミスの「神の見えざる手」の説明だったし、そういうメンタリティーがなければ新卒で証券会社なんていかない。

しかし最近少し考えが変わった。詳しく書くとキリがないので、簡単にいうと資本主義このままじゃ後数十年で行き詰まらざるをえないと考える理屈に行き着いたから(マーケットの成長率が資本移動に依拠しているということ、途上国の中産階級の激増、平均利潤率均等化の問題など)。

じゃあポスト資本主義に対して明確な回答があるかといえば、そんなものはあるはずもない。そしてどうしたらいいものか、と誰に頼まれるわけでもなく日々漠然と考えていた。

他方速水さんは、資本主義が限界に差し掛かっているという言説は、この150年くらいいつも繰り返されて叫ばれていることであり杞憂だ、という立場をとっている(本には書かれていないけど、インタビューではそう言ってた)。

とはいえ速水さんの考えは僕が抱いている危惧を払拭してくれるわけではない。今後人類はどういう道を模索すればいいのだろうと思っていたところ、宮台真司さんがVideonews.com の中で面白いことを言っていた。

それはスローフードとLOHASの違いを説明しているくだりでだった。宮台さん曰く、両者の違いは内発性と自発性の違い。つまりスローフードは「スーパーで売ってるよくわからない野菜よりも、多少値段が高くても顔なじみで気心しれた近所の農家のおっちゃんの作った野菜が買いたい」という気持ちであるのに対して、LOHASは「最近はオーガニック野菜が売れ筋だからオーガニックのラインアップを増やそう」とウォールマートが考えることという。

宮台さんは資本主義の限界と騒ぐ輩は愚昧で、内発性を高めることこそが大事だとも説いていた。

これは目からウロコだった。私がかつて新自由主義に傾倒し、速水さん同様経済保守の立場をとっていたのは、かっこいい言い方をすれば市場の力を信じていたからであり、ストレートにいうなら欲望に根ざしたシステムがとてもよくできていたからと思ったからだ。

宮台さんは、今のままでは資本主義は立ち行かなくなるけれども、欲望そのものがより健全なものになれば何の問題もないといっているのだ。

ここで問題は、果たして人間の欲望そのものを変えることができるのだろうかということだ。

少しでも安いものを買いたいという気持ちの強さには、ある種の普遍性があるのではと思えなくもない。

しかし必ずしも悲観することもないのかも知れない。もし人が経済合理性だけで動くなら行動経済学なんて発達するわけはない。感情の質そのものだって変わる可能性だってある。なにせ平安時代の美人は凹凸の少ないオカメ顔だったというのだから。

十二単を着たオカメ顔を可愛い!と人々が思うようになることと比べれば、顔見知りから野菜を買いたいと思うようになることの方が余程ハードルが低いと私は思う。

そして人々のマインドセットがそのように変われば、資本主義という枠組みを残したままでも十分に人々は持続性を勝ちうるかも知れない。いや、欲望がそのままエネルギーになる分だけ強度が強く、結果速水さんのいうとおり何らかしらのソリューションが生まれてくるかも知れないのだ。

とりあえず、顔の見える範囲の人へのありがとうを大切にするところから始めていこう。

what's "my wife's camera"?

2014-01-10

糸井重里さんの「オンとオフだとか、あれは古い」発言から見えるもの。




こんな記事に遭遇。

糸井重里さんに聞いた「公私混同」する働き方

ほぼ日手帳」についての記事だが、その前半を端的にまとめると
「今の時代仕事をするのにオンとオフを区別するのは古い。互いに影響し合ってるんんだから」というもの。

これ「今の時代」に限らず、フリーで仕事をしている人や零細の自営業者なら当然。事実FBでそう書いたところ、フリーや自営業者を中心に我が意を得たり的反応をもらう。

とエラそうに書いたが、何十年も常に最尖端で活躍をし続けてきた糸井さんがそんなことに今さら気づいて「オンとオフの区別は古い」というはずもない。

ではなぜ糸井さんは今頃そんな発言をしたのだろう。

冒頭で書いたとおり、これはほぼ日手帳に関する記事、つまり普通の人に向けてされた発言ということだ。そして日本において手帳を使う普通の人の大半は勤め人だろう。

糸井さんはリーマンにとってもオンオフを区別時代じゃなくなってるよ、と教えてくれているのだ。

じゃあ区別があった時代があったのかというと、これがあった。

たしか90年代に「奴隷のように働き、王様のように遊ぶ」というようなコピーのクレジットカード会社か何かのコマーシャルがあったと思う。仕事は猛烈にこなしながらも、一度会社を出たら仕事を引き摺らずに完全にオンとオフをわけるのがイケテルとされた時代があった。

そう言われると「そっちの方がいいじゃん」という人は今もいるだろう。でも、そういう時代じゃないんだよね、と糸井さんは言っているんだろう。

なぜそういう時代ではないのかということは、そのコマーシャルが生まれた時代背景を考える必要がある。

もちろんバブルの残滓があって一生懸命稼いで、派手に楽しむということが是とされてきたこともある。でももう一つより現実的な側面もある。それは人々が完全に会社に縛られていたということだ。

仕事が終わっても付き合いの飲みニケーションがあり、週末には接待ゴルフ。帰る家は社宅で、夫のポジションがそのまま社宅内での奥さま方のヒエラルキーを決定づける。年に一度の社内旅行は半強制で、独身なら結婚相手の心配までされる。当然、自分の仕事が終わっていようが、課の他の人が皆残業していたらクロックアウトして帰路につくなんてことはありえない。たとえ残っているほとんどの人の理由が周囲の様子見とソリティアであったとしても。

まあバブルでJapan as number one気分でイケテル気持ちでいたけど、その実、労働生産性は高かったことなんかなかったわけだから、ハードワークするということとダラダラ働くといことはなんか違うんじゃねえか、ということに気づいている人は当時もいた。バリバリ稼ぐから下らない同調圧力は勘弁だ、という一つの主張が「オンとオフ」「王様と奴隷」になったわけだ。

しかし裏を返せば当時は中間共同体としての会社が機能していたということでもある。当時日本は世界で唯一社会主義が成功した国と揶揄されていたけれども、その中で大切な役割を担ったのが会社だった。

中間共同体なんていうと大仰に聞こえるかも知れないけど、要は帰属意識を持てる共同体だ。多くの国では宗教ならびにそれを取り巻く教会などの施設が帰属を含めた精神的支柱になっているが、日本はそもそも多神教な上に太平洋戦争に敗戦したため宗教にそれを託すことが難しくなった。また急激な高度経済成長により都市化が進み、同時に地域共同体が弱体化した。

その代わりに会社の果たした役割は大きかった。業務とは関係のない煩わしいことも多い代わりに、堅固な受け皿として社員をきちっと包摂していた。

私が新卒で入社した企業は、会社に忠誠さえ誓えばそこそこいい給料、行き届いた福利厚生、条件のいい住宅ローンから身元のしっかりしたお嫁さん候補まで用意してくれていた。会社を誇りに思い、それにノレる人たちにとっては最高の共同体だった。

会社共同体のもたらす利益を存分に享受していた当時の人たちは、心の奥底では煩わしさは共同体の一員たるコストだとわかっていた。だからかっこつけて「オンとオフ」といってみても、それがファンタジーだということはわかる人はわかっていたはずだ。

それも今は昔。私のいた会社は独身寮や保養施設は売却をして資産を圧縮し、2ヶ月間研修センターにカンヅメさせて行った新人研修のコストは優秀な中途人材を採用する原資になっている。

もはや会社は守ってくれない。それどころかいつクビにされてもおかしくない。会社自身もいつ倒産したり、買収されるかも知れない。

会社を離れたらプライベートな時間が欲しい?どうぞ、ご勝手に。どうせ会社ではもう面倒みてあげることはできないし。

かつて会社に縛られ(オン)、人々が渇望していた自由(オフ)は、大海に寄る辺なく解き放たれるという形で獲得されたわけだ。

そもそも縛り付けるものがないのだから、オンとオフの区別という考え方自体が古くなりつつあるということになる。

もちろんまだ会社によって温度差はあるだろう。でも間違いなく日本の会社共同体は機能しなくなってきている。

となると会社との関係は以前とは変わってくる。それは"会社"という主体があって、そこに「人材」として所有的に囲い込まれることではなく、あなた自身が主体となって労働力なりスキルを提供しにいくということになるのだ。

主体があなた自身である限り、平日も休日も勤務時間中もアフター5も関係ない。常にあなたという人がいるだけだ。あなたがキャリーしているもの、すべて丸ごとがあなたのキャリアになる。

逆にいうと、常に主体であることを求められる時代になっている。そこに主体がないと機械やコンピュータに簡単に置き換えられてしまうという世知辛い時代にもなっている。

自営業もフリーもリーマンもない。みんな平等に世知辛い。だからこそ楽しんで主体性をもってやっていかないといけない。糸井さんはやんわりと、そして厳しくそう教えてくれている。

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