2013-12-21

猪瀬直樹と中小企業30人の壁



猪瀬直樹が辞任した。

これまでの徳洲会の派手な金のバラマキ方や
特捜が起訴に慎重だった様子から鑑みるに、
今回の問題は必ずしも猪瀬直樹が本丸の巨悪とは思えないけど、
彼の脇の耐えられない甘さを考えると辞任自体はやむなしか。

もちろん金銭の受け渡しについてナイーヴすぎたことが
今回の直接的な原因になっていると思うが、都議会の執拗な
追究がなければあるいは猪瀬氏もかわし切れたかも知れない。

しかし芝居がかったイジメのような議会の追究でついに
ギブアップに追い込まれたというところだろう。

ところで一年間知事職にいた猪瀬氏はどのような知事だったのだろうか。
これについてはTBSラジオの「Session 22」の中で行政学専門の
中央大学教授佐々木信夫さんが解説していたのを聞いた。

それを聞く限り、エネルギー政策や高齢者向けケア付きハウスやら
それなりに興味深いことに取り組んでいたよう。しかも本人がかなり
イニシアティブをとりながら。

思えば彼は道路公団改革で名を馳せた人だけに、こうした自らの
手腕には自信があったから自ら先陣を切っていったようだ。

それが拙かったんだろうなぁ。
東京都の予算規模は12兆円規模。韓国の国家予算並だ。
どんなに優秀な人でもこの規模の組織を一人では動かせない。
チームをきちっと作って権限委譲をしてやっていかないと回らない。

しかし猪瀬氏はきっとそれができなかったんだろう。
自分の手腕に対する猛烈な自負があるだけに、人には任せられない。
官僚に任せると官僚の利益しか実現しないと肩肘張っていたのかも知れない。
史上最高の得票数が、もともと傲慢な人柄に輪をかけ、与野党問わず
都議会議員に上から目線で接してしまい信頼醸成ができなかったのかも知れない。

結果、疑獄事件発生後に都議会内でのイニシアチブ争いも兼ねての吊し上げに
会ってしまう。それが下世話な報道に乗って勢いが出て辞任せざるを得なく
なったのだろう。

この問題って起業した人がぶち当たる従業員30人の壁に似ている気がする。
スタートアップした会社が従業員30人規模になると壁を迎えるという問題だ。

どんな優秀な創業者社長でも、ある程度規模が大きくなったら
すべてを掌握することは不可能だ。
30人規模になれば社長とは膝詰めて話をしたことのない社員も増えて
くるだろうし。

にも関わらず、従業員すべてに自分と同じ気持で働いて欲しいと思い、
自分のコピーを作ることによって成長を目指すタイプの経営者がいる。

これは難しそうだ。もちろん経営理念やイズムを浸透させることは大事だ。
しかし、30人規模になったらもはやきちっとした組織を編成しないと
コントロール不能だろう。一人ひとりの得手不得手もちがうだろうし。

会社を起こして30人規模まで成長させるような経営者は、
大抵プレーヤーとしては優秀で推進力がある場合が多い。

他方、堅固な組織を作ろうとしたら、地味で遅々として進まない作業に
取り組まざるをえない。これはパワフルな経営者との食い合せがあまりよくない。

ならば信頼できる人に権限委譲をしてでも組織を築いていかないと、
早晩どこかで行き詰ってしまう。その人のキャパが30人なのか100人かは別にして。

優秀であればある程、他の人が頼りなく見える。しかし頼りないと
思われている方は、敏感に自分が信頼されていないことを感じ取る。
だから組織図を形だけ作っただけでは、チームとして力を発揮する
強力な組織はできない。

権限委譲を伴った組織作りは本当に難しい。でもそれができないと
いつまでたってもワンマンの洗練されない組織のままでとどまってしまう。

そしてワンマンが何かの拍子に判断を誤ってしまうと、組織として
挽回することができなくなる。

厳しい市場環境を勝ち抜き事業を大きくしていった力強いワンマン経営者を、
自分のことしか信じない傲慢な都知事と並列にしてしまうことに違和感を
覚える人もいるかも知れないが、チームとして機能する組織づくりという観点から
いえば、実はその両者になんら違いはないことは意識しておかなければいけない。

what's "my wife's camera"?


2013-09-17

【映画評】"Kick Ass 2"



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"Kick-Ass 2"( キック・アス2)
監督: 主演: 

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いたい気な少女Hit-Girlが、派手なアクションで次々と無慈悲かつ残忍に敵を倒していくのを、大興奮でやんや喝采していた正統派Kick-Assファンには今回の続編はあるいは物足りないかも知れない。

"Kick-Ass 2"では現代アメリカ社会の抱える深淵なテーマにまで踏み込んでしまった。Kick-Assの無邪気な季節は過ぎ去った。

例により、ネタバレに対する考慮は一切ないので、事前に内容を知りたくない鑑賞前の方は鑑賞後にお読みください。

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ネタバレ注意
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<ヒーロー映画ではなく、ビジランテ映画としてのKick-Ass2>
Kick-Ass 2はヒーロー映画ではない。前作と異なりヒーローが悪者と対峙しカタルシスを得る構造になっていない。

ヒーローとして闘うのでなければKick-Ass/Hit-Girlは何として闘うのだろうか。それはビジランテ(vigilante: 自警団)として闘っているのだ。

ビジランテは共同体の秩序を守るために形成される。中央政府に対する不信感という政治的理由によって組織されることもあるが、統治権力が治安維持をすることが困難になった場合に自然と形成されることもある。

本作の場合はどうだろうか。

統治権力の治安維持装置といえば何といっても警察組織だ。ところが本作における警察組織は存在感がないのみならず、極めて無能に描かれている。同じビジランテ映画、Batmanシリーズでもそこまで警察が無能に描かれることはない("The Dark Knight Rises"映画評はこちら)。

冒頭の立ち回りのシーンではHit-GirlはおろかKick-Assさえ拿捕することもできていない。その後Daveの父親を誤認逮捕した上で留置場で殺されるという失態を犯し、Mother Russia との攻防では一方的にやられるだけだ。どう考えても警察が治安維持装置として機能しているように描かれていない。

このことが何を意味しているかは自明のように思える。それは作り手がアメリカの統治権力が機能していないと感じ不信感を抱いているということだ。

アメリカ人は世界でも有数な愛国心の強い国民であると思うが、彼らのメンタリティーはいささか日本人には理解しづらいところがある。彼らは"アメリカ"という抽象やその建国の理念に関しては揃って感銘し忠誠を誓うのだが、それがすなわち連邦政府を支持することにはつながらないのだ。むしろ連邦政府を忌み嫌うものさえいる。この辺りのことは以前銃規制や合衆国憲法修正第2条のことと絡めて書いているので興味があれば読んで欲しいが、アメリカ人には「お上の事には間違いありますまいから」という日本的感覚はゼロだということだけはしっかり理解する必要がある。

逆に統治権力=アメリカ建国の理想を叶えるリーダーと思える時、アメリカ人は連邦政府を支持する。強いリーダーシップと理想的な規範を父性として崇拝するのだ。

裏を返せば、警察や統治権力が機能していないという風に描かれているこの映画上では「アメリカ社会が父性不在の時代に突入してしまった」と言っているようなものなのだ。

つまり本作は父性が機能しない現代に我々がどう生きるべきかを問うている。

ここで唐突に父性を語られることに戸惑いを覚える人もいるかも知れないが、実は主要登場人物3人の行動原理はみな父性との関係性上に成り立っている。

<主要登場人物3人と対峙する父性>
まず敵役のMotherXXckerことChrisは映画冒頭で誤って母親を殺してしまうが、実はより重要なのは父親との関係だ。

父性が象徴するものは支配であり、堅固な道徳規範である。Chrisは両親、特に大きな存在だった父、を失うことによって誰からも支配されなくなり、また社会との結びつきである道徳からも自由になってしまう。その結果、独善的な正義が振りかざされ、MotherXXckerという幼稚なヒールとなる。

うがった深読みをすればChrisはGeorge W. Bushのメタファーであると考えられなくもない。

次にKick-AssことDaveと父親の関係だ。Daveの父親はどちらかというと善良ではあるが冴えないタイプだ。それでも息子がおかしなことをしているのではないかと心配し、それを正そうと頑張る。

彼は牧歌的な時代の父性の象徴である。善良に生きることを旨とし、それに務める。しかし彼は本作では何も成していない。息子の身代わりになるのは一見英雄的な行為に見えるかもしれないが、それ自体は何をも解決しなかった。

牧歌的な時代の父性は、現代においては無力に殺されゆくだけに描かれる。

では本作でキモとなっているMindy a.k.a. Hit-Girlはどういう父性と向きあっているのだろうか。彼女が向きあう父性は一作目で殺されてしまう実父のBig Daddyではない。親代わりとして彼女に接するBig Daddyの警察官時代の相棒のSgt. Marcusだ。

Marcusは完璧で理想的な父親役を務める。深い愛情と威厳をもってMindyに接し、決して感情的になることなく、彼女と向き合い必要に応じて彼女を諭す。

MindyもMarcusの愛情を深く感じ、それに応えようとする。しかしここでMarcusがとってしまうのはメジャーグループの女の子の中にMindyを放り込もうとすることだった。

<資本主義の象徴としてのメジャーグループ>
お約束でbitchである彼女たちとは決裂をする。Kick-Assファンはスクールカーストでいうなら相対的にNerdが多いだろうから、Jockサイド相手に溜飲を下げヤンヤするお決まりの展開だ。

しかしこの映画においてメジャーグループの女の子たちが象徴するのは単なるスクールカーストの頂点ではない。それは資本主義社会そのものなのだ。

おしゃれな彼女たちがパジャマパーティーで集まり、マニュキュアを塗りながらガールズトークをする様子には確かに勝ち組感がある。しかしその前にストリートで返り血を浴びながらギャングと命の切った張ったをしているMindyを知っている観客にとってそれはとても空虚なものに映る。特に商業アイドルであるボーイズグループがカメラ目線で甘い声で歌うのに彼女たちがウットリする様子は、いかにも非リアルなママゴト恋愛にしか映らない。

ここで大事なのは、理想的な父性であるMarcusが、そのグループに入ることをMindyの幸せだと思ったということなのだ。空虚な資本主義的ヒエラルキーで上位に放り込むこと以外で娘の幸せを達成する想像力がなかった。最も信頼できる男、知性と理性と愛情の塊であるMarcusでさえ、つまり現代社会の理想的正統派父性でさえ、混沌としてこれからの時代を乗り越えるための想像力を提示することができないのだ。

社会の父性(統治権力、警察)が機能せず、伝統的な父性も役に立たず、現在理想的だと思われる父性でさえ未来に対して何の想像力を発揮することのできない現代において、どう生きるべきかを問うているのが"Kick-Ass 2"なのである。

<イニシエーションとしてのキス、そして道なき道>
Marcusの期待に応えようとしたMindyだが、彼女が真っ先にしたことは「資本主義的王道」の道から外れることだった。一瞬そこに憧れを感じつつも、そこに21世紀のリアルはないということを看破した彼女はその世界を後にする。

そして父親を殺されたDaveにMotherXXuckerと対峙することを促す。Mindyにとってリアルな世界は国家とか資本主義とかの上位概念ではなく、家族とか友だちという手に触れることができる世界であることを確認するのだ。

闘い、当然勝利を収め、MindyはNew Yorkを去ることをDaveに告げる。そして彼とキスをする。

このキスはとても切ないが、そこに性的ニュアンスは皆無だ。Mindyは「数々の殺人罪に問われ、Marcusに迷惑をかけるから」という理由でNYを後にする。
つまり父性と訣別することを決める。わずか14,5歳にして誰かの加護の下に置かれることを完全に諦め、新しい時代に対して自らの力で立ち向かっていくことを決意するのだ。

もとより戦闘マシーンとしては高度に完成されたMindyではあったが、この悲愴ともいえる覚悟によって彼女は完全に自立した大人になる。それは劇中絶えず成長を見せながらも、どうしてもボンクラな部分が残るDaveとは対照的な迷いのない自立だ。

キスという性的な行為をすることは一見大人へのイニシエーションのようにも映るが、実はMindyのイニシエーションは一気に数段高いステージに駆け昇り、すでにセックス経験もそれなりにある年上のDaveに対し、むしろ母性さえ見せるキスをするのだ。

Daveの方に性的興奮は生じただろうが、精神的に恐ろしい成熟を見せてしまったMindyの方にそのニュアンスはない。彼女にあるのはこれからを生きていことに対する壮絶な覚悟だけだ。

年長者と年少者という二人の関係が一気に入れ替わり、精神的な成熟の非対称性が浮き彫りになるこのシーンは、Mindyの決意の分だけ切なさという形で観るものの胸に残る。


そして観客は、毅然たる様子で道なき道を疾走するあどけなさの残るティーンエージャーの背中をただただ見送ることしかできない。

what's "my wife's camera"?

2013-04-22

娘が生まれた。

娘が生まれた。

結婚7年目、不妊治療の末に授かった娘だ。

出産には立ち会った。感動的だった。
娘が無事に出てきたことは思ったほど感動的というわけでもなかった。

出産の間の妻の様子が感動的だった。
彼女は陣痛の苦しみの中、笑みを携えていた。

いきむ声は地獄の断末魔というより、誕生の無事を懇願する親鳥のソプラノだった。

初めての出産は恐怖に違いない。
針の穴にラクダを通すような痛みと言われて平静でいられるはずもない。

でも妻は生まれてくる娘も不安に違いないと考えた。
生まれてくる子(私たちは妊娠中、あえて性別を聞かなかった)に自分の感情の起伏がすべて正確に伝播しているということは、9ヶ月の実感で妻は確信していた。

自分が出産中痛みに耐え切れずネガティブに思考してしまったら、赤ちゃんも世界に出てくることに怯えてしまうかも知れない。赤ちゃんにはこの世に幸福な気持ちで出てきて欲しいと妻は思っていた。笑顔で出てきて欲しいといつも祈っていた。

「世界はそんなに悪いところじゃないのよ」

出産の苦しみを男が理解するのは不可能だと人はいう。
想像を越える痛みの中、妻は生まれてくる子を安心させるためにできるだけ美しい声を出そうと努めた。大丈夫だからね、笑顔で伝えようとした。

理想的な安産だった。

出産の苦楽が何で決まるのかはわからない。すべての母親は自分なりに子供の無事な出産を願っているのだろう。正解なんて知らないし、あるかどうかさえわからない。でも、妊娠中も含め、彼女の生まれてくる子への愛は100点満点だった。

私にとって娘はかわいいというよりも無二というか、特別な存在だ。
これから少しずつコミュニケーションが取れるようになっていき、どんどん可愛く思うようになるのだろうと思う。

その大切な娘の母親を妻が務めてくれている幸福を私は噛みしめている。
想像を絶する痛みの中、美しいソプラノを室内に轟かせ、生まれてくる娘への愛だけで顔に笑顔を満たす奈穂乃がいる。

華乃、お母さんのような美しい人のいる素晴らしき世界へようこそ。

2013-01-10

20%ルールの続き。



先日のエントリーで20%ルールを適用した働き方について書いてみたものの、ちょっと具体的なイメージがつかみにくいかな、などと思ってみたりもした。

ところが先日「これこそ20%ルールの美しき形だ!」と思わせる人がいたので紹介したい。Rhymester の宇多丸さんだ。

Rhymesterといえば日本のヒップホップの草分け的存在のいわば大物グループ。宇多丸さんはそのラッパーの一人だが、活動の場はヒップホップのみに留まらず、アイドル評論からTV出演まで多岐に渡っている。

中でもTBSラジオに持つ冠番組「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の映画評のコーナー「シネマハスラー」での活躍は際立っている。

詳しい経緯は知るよしもないが「宇多丸さん映画相当詳しいし、弁も立つし映画評できるんじゃないの?」という感じで始まったコーナーではないかと想像してみる。そしていざ始めることになった宇多丸さんは嬉しかったと同時に「オレなんかが公共の電波で映画評をやっていいのか」とビビったのではないかと。

というのも、いくら根が真面目とはいえ宇多丸さんのこのコーナーにかける準備が尋常じゃないのだ。たとえば一本の映画を評論をするのに、原作があれば読み、監督の過去作は可能な限り入手し予習し、3D映画なら3D版と2D版を、吹替えと字幕があるなら双方を、そうでなくとも一作2回は観て、きちっとノートを取ってから評論に臨むのだ。監督のインタビューなどを海外の記事をも含めてネットで調べているのもまず間違いないだろう。

甲斐あってコーナーは番組の人気コンテンツとなっており、このコーナーの評価が放送業界最高賞のギャラクシー賞の受賞にもつながった。今となっては宇多丸さんは日本で最も人気のある映画評をする人の一人といっても言いすぎではないだろう。

「映画評論家」という言葉を使わずに「映画評をする人」などという回りくどい表現を使ったのは、おそらく宇多丸さんは自分のことを映画評論家だとは考えていないだろうと思ったからだ。

本業はあくまでラッパーで、映画評はいわば「20%」の仕事として行っているというのが本人の自意識ではないか。

そしてそれこそが美しき「20%ルール」のあり方だと思うのだ。

言うまでもなく宇多丸さんの映画評はプロの評論家を名乗ってもまったく問題のないないクオリティーだ。

でも仮に「プロ」を「それでメシを食っていく人」と定義したなら、途端宇多丸さんはプロではなくなる。そもそも一本の映画を評するために毎回何本も本過去作を観て、原作を読んで調べ物して、なんて手間隙をかけてたら効率が悪すぎる。そんなやり方で食っていけるわけがない。

にも関わらず人気が出た後もそのやり方を継続するのは、大好きな映画に対するリスペクトがあるからだろう。そして濃密な熱量は確実にリスナーに伝わる。人気は衰えない。

食っていく必要性に迫られないからこその担保されるクオリティーがある。映画製作者や配給会社に媚びずに歯に衣着せずに言えることによって生まれる価値もある。

結果、宇多丸さんの映画評はイベントや書籍という形でマネタイズされる。そこで生まれたエネルギーが本業にもポジティブなバイブスをもたらす。
これほど綺麗なサイクルがあるだろうか。

意欲と才能がある人が、自らのGoodwillに従い本業とは異なったところで活躍をする。
そんな働き方をする人が増えたら、世の中はもう少し楽しい場所になるような気がする。

what's "my wife's camera"?

2013-01-06

20%ルール




またまたTBSラジオ「文化系トークラジオ Life」から。

編集者の仲俣暁生さんの言葉。
最近、NPOの立ち上げ、ボランティア、ミニコミ誌の発行など仲俣さんが「大人のクラブ活動」と呼ぶ活動をする30代、40代の人が増えていることについて触れて。

彼らがマネタイズできないにも関わらず通常業務の激務の合間を縫ってそういう活動にいそしむのは、それがGoogleの20%ルールに相当するからじゃないかと仲俣さんはいう。

Googleの20%ルールとは、勤務時間の20%を本業以外の自分の好きなプロジェクトに割くように義務付けるGoogleの社則。このことによって業務の硬直化を防ぎ革新的たり続けるのが目的のものだ。

しかし通常の企業にはそのような時間を設ける余裕がないので、個人で自らそれを行い自らの可能性を担保してるのではないかと。そしてそれが新しい働き方のヒントになるかもしれないのではないかと。

これを聞いた瞬間、すっと腹落ち。自分がやっていることはGoogle20%ルールなんだと。
そして仲俣さんの意見に激しく同意。

大して大きくないビジネスとはいえ、激しい競争環境の中レストランを経営することは正直決して楽な仕事ではない。にも関わらず、ライターの真似事をしたり映画祭のディレクターをしたり、色々なプロジェクトに首を突っ込んだりしてしまう。

持ち出しこそないものの、商売として考えたとき採算のとれるようなマネタイズはできていない。それでもやるのは好きだから、と思っていた。

でも「好きだから」といっても趣味とはちょっと違う。それぞれにそれなりにプロフェッショナルなスキルは投入している。そして結果自らの首を絞めるような忙しさになる。

なんでそこまでしてやるのか。

その理由はまさにGoogleの狙いのまま、硬直化をさけることができるからなのだ。
好きなことをする。しかも採算をあまり考えなくていい。脳のクリエイティブな部分が働く。

自分の理想とかポジティブな発想だけでプロジェクトに携われるからストレスが少ない。もちろんその分お金にもならないけど、生活は本業で担保されている。

だから忙しくてもストレスにならない。むしろ楽しい。心地好い。
そして心地好いバイブスの中ではいい仕事ができる。本業にも好影響を及ばす。

資本主義を全否定するのはバカげているけれども、いささか先鋭化しすぎてシステムに遊びがなくなりつつあるのも事実だ。20%の「遊び」はまさにイノベーションのジレンマを避けるためにも有効だ。

その20%で理想を追究できるのもいい。「そうは言っても食っていくてめにはしょうがないんだよ」と言わなくていいのがいい。

こういう働き方が広く普及すれば、行き過ぎた資本主義の負の側面を是正できるかも知れない。

そしてうまくいけばその20%から新たにマネタイズできるビジネスにつながるかも知れない。

戦後日本では会社が中間共同体の役割を果たしてきた。
でももうその役割を企業に負わせることはできない。

ならば会社を抜け、街へ出よう。
やりたいことをアクションに移してみよう。
みんながそうする社会はとても楽しいものな気がする。

my wife's camera"?

2013-01-01

再始動。



久しくブログから遠ざかっていた。
細々としたことに忙殺されていたというのも一つの理由だけど、もうひとつ大きな理由がある。

それはこのブログのタイトルにも関係のあることなのだけれども、最近あまり一眼で写真を撮っていないのだ。

このブログは写真家である妻が、素人時代に始めて買った一眼をゆずり受けたのを機に始めたものだった。

だから必ずエントリーにはそのカメラで撮った写真を載せるように決めていた。彼女が彼女のために買った記念のカメラだから、そのカメラで彼女を撮ることによってそのカメラを彼女のものにさせ続けようというややこしい発想だ。

何はともあれ、写真を撮っていないのでエントリーを上げようがない。だからご無沙汰した。

撮っていないといっても別に夫婦仲が悪くなったからというわけではない。むしろ妊娠してから私たち夫婦の絆はいっそう強まったかも知れない。

そう、妻が私たちの子供を宿したのだ。

よくある親バカのように私も子供の成長を記録したいという欲求に駆られた。しかし写真を撮るとなるとそれは自然妻の領分になろう。ならばと動画を撮ってみようということになったのだ。

子供が生まれてからでは遅いと私は妊娠が発覚してから少しずつ動画を撮る練習を始めた。動画を撮ること自体には上手い下手を考えなければ特に練習も必要ないのかも知れないけれども、その後の編集作業は馴れるのに時間がかかる。

だから馴れておこうと今まで妻に向けていた一眼のレンズをiPhoneのレンズに変えたのだ。

その結果、このブログに上げる写真がなくなった。そして遠ざかった。

別に誰に頼まれて何のために書いているわけでもないブログなので、フェイドアウトしてしまうのもありなのかなとも思った。この数年、FBなどSNSの発達によって発信ならわざわざブログというプラットフォームを使う必要もない。

でもやはりしばらく続けてみることにした。
このブログに明確な目的ができたからだ。

私は動画で妻と生まれてくる子供を記録する。将来子供はその動画を観るかもだろう。最初は楽しんだり、懐かしがったりするだけかも知れない。

しかしそのうち「お父さんはこのビデオをどういう気持ちで撮ったのかしら」とか「このときの親父は40歳か、今のオレとあまりかわらないな、当時どういうことを考えていたのだろう」と思うようになるかも知れない。

そのとき父親が書いたブログが残っているというのは悪くないんじゃないかと思う。
日記を覗き読みするのと違って、最初から公開されているものなので、いつか読みたいと思う日が来たら自由に読むことができるのだから。

というわけで、またブログを書くことにした。

といっても別にたいそうなことを書くわけではなく、内容は今までとあまり変わらないと思う。ただ妻のことを撮る写真が掲載されているエントリーが減ってしまうだけで。

still I dedicate this blog to my beloved wife and my wife's ex-camera.

what's "my wife's camera"?