2012-07-26

【映画評】"The Dark Knight Rises"





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"The Dark Knight Rises "(日本語「ダークナイト ライジング」)
監督:Christopher Nolan 主演:Christian Bale
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〈はじめに〉

今週末いよいよ"The Dark Knight Rises"が日本公開される。

ご存知Christopher NolanのBatmanシリーズの第3作だが、前作"The Dark Knight"はアメリカでの大成功に比し、日本では興行的にはかなり皮算用が狂った結果となった。

しかし本作は日本でもそれなりの成功を収めるということを予見したい。
前作が深遠なテーマを扱い、いわゆる「スッキリしない映画」だったことが日本で興行的に成功を収めなかった理由に挙げる人が多い。

本作は前作よりもわかりやすいストーリーになっているので、そういう意味では間口に広りはあるだろう。

しかし物語の難解さだけで説明をしようとすると生来単純明快なストーリーを好むアメリカ人に"The Dark Knight"があそこまで受け入れられたかの説明がつかない。

本作は完全に前作の延長線上に作られている。

そこで本評ではまず前作"The Dark Knight"がどういう映画だったのかを簡単に振り返り、それが上映された時のアメリカの状況ならびに強く支持された理由を考察したい。
同時になぜ日本でさほど受け入れられなかったのかについても言及したい。

その上で今回の"The Dark Knight Rises"がどういう映画で、なぜアメリカで好調な滑り出しを見せたかを考え、そして日本でも受け入れられると考える根拠について説明したい。

例によってネタバレについての配慮は一切ない。
特に今回は致命的なネタバレを示唆する。

だからこれから観にいく予定のある人は「"The Dark Knight"とはどういう映画だったのか?」までを読む分には問題はないが、「 "The Dark Knight Rises"が提示しているもの」の記述は鑑賞前には読まない方がいいだろう。

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"The Dark Knight"とはどういう映画だったのか?
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"The Dark Knight"は2008年にアメリカで公開されたChristopher Nolan監督のBatmanのシリーズ第2作。

Joker役のHeath Ledgerの怪演が話題になったが、この作品のテーマはそのJokerが問いかける「善悪」の問題だった。

ここではストーリーについては言及しないが、人々に何が善で何が悪かをJokerが問いかけ続けることにより、善悪に対する価値判断が揺らぎ考えさせられる映画、というような評がよくされていた。

しかしもう一歩踏み込んで解釈しないとこの映画がなぜアメリカにおいて特別なものになったのかは理解できない。

Nolanがこの映画で問いかけた善悪とはキリスト教的善悪だったのだ。
そしてJokerこそ実存を問う変則的なニーチェだったのだ。

簡単に説明をすると、中世以来欧米的思想の中心には常にキリスト教的神がいた。そして人間がどう生きるべきかとか道徳の問題もすべてキリスト教に帰結されていた。
だからすべての事象には絶対的な正解があると考えられていた。人々はキリスト教的善悪に基づき、正解を模索しながら生きてきた。

それを否定したのがニーチェだった。そしてすべての中心に神ではなく、人間を置く実存主義を展開した。つまり「神=善」という構造を否定したのだ。だからニーチェは神を殺したと言われる。

さてなぜここでややこしい実存主義まで持ち出してきたかといえば、この映画の上映された時期を考えると、そこまで掘り下げざるをえないからだ。

公開は2008年。この年はG.W.Bush大統領2期目の最後の年。

2003年に始まったイラク戦争は泥沼化をしており、この頃になるとリベラルなアメリカ人は「Bushを再選させたことはアメリカの恥だ」と公然と口にするようになる。そして人々が"Change"を求め、11月の選挙ではObamaが当選する。

映画の公開はObama当選前の7月、Bushがもたらした閉塞感の中で公開された。

イラク戦争はイラク大量破壊兵器があり、9.11とも関係していたというストーリーの上に始まった。

しかし大量破壊兵器も見つからず情報操作が発覚すると、人々はBushが掲げる正義に疑問を抱かざるを得なくなっていた。
民間のミルク工場が爆撃され、罪のない民間人がたくさん死んでいるという報道を目にすると、正義(=Justice)の国アメリカというアイデンティティーが揺らいでくる。
そしてBushの掲げる正義は多分にキリスト教に依拠していることをアメリカ人なら皆知っていた。

日本ではBushといえば「バカ」というイメージくらいしかないかも知れないが、アメリカでは敬虔なキリスト教徒として知られている。
そしてキリスト教原理主義者である福音派の強力な支持を受けていたのは有名だ。

つまり"The Dark Knight"公開当時のアメリカはキリスト教的行動規範を標榜するBushによって正義の国家としてのアイデンティティー・クライシスに陥っていたのだ。前年のサブプライムローン問題も正義の揺らぎに拍車をかけていたかも知れない。

だからこそHeath Ledgerが渾身の演技で「キミの善悪は本当に正しいの?」と問いかけてくると心を強く揺さぶられたのだ。

比して日本はどういう状況だっただろうか。

やはりサブプライムの影響をもろに受け、国家としての自信を完全に消失していた。
しかしそこに善悪二元論が絡む余地はなかった。日本の不況は構造的なものであったし、そもそも日本人の宗教観の根底には万の神の発想がありJokerの揺さぶりはアメリカ人に効いたほどは効かないのだった。

ただでさえサブプライムローンの影響で不況が深刻化している中、わざわざ自分とはあまり関係ない重苦しいテーマの映画を観るモチベーションは人々には湧いてこなかった。
それなら家でタダで観られる北京オリンピックを観戦していた方がいいと思う人が多かったのはむしろ当然かも知れない。

だから"The Dark Knight"はアメリカでは大ヒットし、日本ではあまり受け入れられるなかったのだ。

でも"The Dark Knight Rises"はちょっと違う。

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"The Dark Knight Rises"が提示しているもの
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さて今一度断っておく。

容赦のないネタバレをするので、これから映画を観る人は以下は読まない方がいい。

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いきなり結論を述べると"The Dark Knight Rises"はアメリカの再生をコミュニタリアニズムに見出そうとする作品と読み解くとすべて説明がつく。

舞台は前作の8年後。
前作でGotham Cityを守るため悪の汚名を着せられたBruce WayneはBatmanとして活動するわけにもいかず、完全に無気力な引き籠りになってしまっている。

これはキリスト教的道徳に基づく行動規範を喪失してしまい、さ迷える状態を象徴している。

街はDent Actと呼ばれる警察が強権を発動できる法律の制定により一定の平和が保たれている。

しかしそれがBaneという悪者の登場により一変する。
ではBaneは何者なのだろうか。

映画の前半でBaneが証券取引所を襲うシーンがある。その後、街を支配し金持ちを次々私刑に処す。それらをもってBaneは"Occupy Wall Street"的なものを象徴しているのではないかとする意見がアメリカで湧き上がった。

Nolanはそのことを否定しているが、"Occupy Wall Street"がどういう運動であったかを振り返ってみる価値はある。

2011年9月にカナダの雑誌の創始者の呼びかけで若者を中心にウォール街を占拠した運動だ。主張は富裕層に対する優遇措置の批判、政府による金融機関の救済に対する批判などだ。上位1%の富豪がアメリカの富を独占しているという主張も中心にあった。

上記の運動に女優で人権派のスーザン・サランドンや映画監督のマイケル・ムーアが賛同したことからゴリゴリの左派の運動だという風に捉える人は多い。しかしそれはあくまでもひとつの側面だ。もし本作に極左批判の政治的意図があると考えると、「富を奪われてしまった大富豪のBatmanが極左をやつける物語」ということになってしまい、意味不明になってしまう。

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そこで"Occupy Wall Street"のもうひとつの側面について考えてみたい。

これは先に挙げた彼らの主張で「政府による金融機関の救済」ということと大きく関わってくる。ジャーナリストの冷泉彰彦さんが興味深い指摘をしている。いわくデモの参加者の「ヒーロー」にしばしばRon Paul議員が挙げられていたというのだ。

Ron Paulは共和党の政治家で今年の大統領選にも出馬したが、彼は共和党ながらBushとは立場が違う。バリバリのリバタリアンなのだ。リバタリアンとはとにかく個人の自由を最大限に尊重する立場の人々だ。社会や経済的にも国家の介入を極端に嫌がる。
だから伝統的な保守共和党と異なり、妊娠中絶に国家が介入することさえ反対している。
外交的にも不干渉主義の立場をとり、2002年の共和党候補者の中でイラク戦争決議案に唯一反対している。

つまり"Occupy Wall Street" には左派的な側面とは別にリバタリアン的な側面もあるのだ。

ここで乱暴に言い切りたい。
Baneはリバタリアンを象徴している。

それにはもう一つ根拠がある。それはBaneという彼の名前自体にある。
今年の大統領選ではRon Paulは敗れ、結局Mitt Romneyが共和党の候補となる。
Romneyはモルモン教徒ながら共和党候補になったことで話題になったが、ビジネスマンとしての顔も持っている。

それはプライベートエクイティーファンドと呼ばれる投資会社の創業者という顔だ。
世界的な投資会社に成長したこの会社はいわゆるハゲタカファンドだ。
そしてこの会社の名前がBain Capitalなのだ。BaneとBain、スペルこそは違うが「ベイン」という発音はほぼ一緒だ。

たしかにRomney自身はリバタリアンではないが、彼の会社が「自由競争」の下に巨額の富を築いたこととRon Paulのことを合わせて考えるとNolanがBaneをリバタリアンの象徴として描いたと考えるのはごくごく自然だ。

ではなぜNolanはBaneをロベスピエールばりの人物として描写しているのだろうか。
先にも触れたが、Nolanは本作は政治的な作品ではないと主張している。それは右派を支持する内容でも左派を支持する内容でもないという意味では本当だろう。

しかしNolanはリバタリアンの本質的な危うさに警鐘を鳴らしているのではないだろうか。

リバタリアンつまり徹底した自由を尊重するということは、競争が生ずるということだ。競争が生じるということは勝者と敗者が生まれる。それは強いものが勝つということだ。

通常リバタリアンというと経済や社会保障のコンテクストで語られることが多いが、その思想の実現するものは強者が勝つというものだ。その強弱のクライテリアが暴力というもので図られる危険性は常に孕まれている。

だからBaneはBatmanと素手で格闘する。本作の中盤で二人がタイマンを張り、Baneが勝つことによって彼は支配の正統性を得るのだ。それがリバタリアンの論理だ。

正統性を獲得したBaneはWayneがクリーンエネルギーを製造するために保有していた原子炉を盗み出し、核爆弾とし新たな力の源泉とする。

それを受け「同じものでも誰が持つかによって善にも悪にもなる」という内容のセリフが登場する。

これは本シリーズの中でも珍しいほど説明的なセリフだ。明らかなる蛇足だと思うが、前作のテーマである「キリスト教的善は絶対ではない」ということを反復するこのセリフを入れざるをえなかったのは、前作が難解すぎるという声が多かったからも知れない。

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さて強大な力を得たBaneがGotham Cityを支配する。そしてNolanはリバタリアンの支配がアメリカを崩壊させることを描く。それがフットボール場のシーンだ。

フットボールは当然アメリカを象徴するものだ。そのフットボール場が満席ではないことに注目して欲しい。それはここが特別な場所ではないということだ。アメリカの日常なのだ。

そこに小さな男の子が出てきて、美しいソプラノで国家を斉唱する。
アメリカの国歌の歌詞は自由のために戦った勇者たちを称える内容だ。

このシーンで描かれているのは無邪気に自由を信じ称える、無垢なアメリカなのだ。
しかしそれはリバタリアンによって無残に崩壊される。アメリカを象徴するもの、そしてアメリカの日常そのものが崩れ落ちるのだ。

つまり本作はリバタリアンによって国家の理想さえ崩壊しかねない中、どうやってアメリカというものを再生させていくかを問う物語に他ならない。

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Baneとの戦いに敗れたWayne(Batman)は地下牢に閉じ込められてしまう。しかしこの地下牢は脱出可能だ。


牢獄の上部は完全に開かれており、そそり立った壁を登り切ることさえできれば外界にでられるのだ。

これを観て、なぜBaneは上部を塞がないのだという疑問をもつ観客もいよう。しかしBaneがそうすることは許されない。なぜなら彼はリバタリアンだからだ。

どんなどん底の状況にあろうとも努力によって這い出る道を残しておくことこそがリバタリアン的なのだ。そしてその道を這い出る可能性があることを彼らは自由と呼ぶ。

しかしその壁を登り切ることは困難を極め、それを達成したことのある人は一人しかいない。幾人もが挑戦しては敗れ、そしてほとんどの人はそこから抜け出すことを諦め無気力になっている。

脱出がかくも困難なのは後にWayneが成功したときのカタルシスを高める目的のためだけではない。それは脱出が不可能なほど困難であることを描くことによってリバタリアンの標榜する自由がどれだけ実現困難なものかを表す意図もあるのだ。

Wayne自身は何度かの失敗を経て、最終的には脱出に成功する。そしていよいよリバタリアンからGotham Cityを救うための対決に入る。

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ここでいよいよ冒頭に述べた結論につながっていく。

WayneことBatmanがリバタリアンの暴走を食い止めるために利用するのはコミュニタリアニズムの力だ。

コミュニタリアニズムとは共同体主義と訳される。
これは個人の自由を完全に尊重するというリバタリアンとも、個人権利を共同体に隷属させるという全体主義とも異なる。前者が徹底した「小さな政府」なら、後者は極端に「大きな政府」といえるが、政府と個人の間に存在する中間共同体の存在が大切とし、そこにおける共通善が大切とする立場だ。

ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授はコミュニタリアンの論客として有名で、最近の政治思想の流行でもある。

ではBatmanはコミュニタリアニズムをしてどうリバタリアンと対峙するのだろうか。

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Batmanは4人に協力を求める。

一人はWayne EnterpriseのCEO、Morgan Freeman演じるLucius Fox、一人はシリーズお馴染みGordon市警本部長、一人は若いBlake刑事、そしてAnne Hathaway演じるCatwomanだ。

Foxは核爆弾の解除のため、技術的に協力を求めなければならなかった人物で大きな役割を果たさないが残りの3人はより大きな意味付けがなされている。

まずGordon市警本部長は明白にコミュニティーの「共通善」を体現している。爆弾のリモコンをブロックしてひとまず爆発を阻止する重要な役割を彼が担ったのは必然であった。

次にBlake刑事だが、彼も市警の刑事という共通善の価値を持ちながらもう一つ重要な要素を含んでいる。それは彼が孤児だったということだ。

本作では孤児の存在がシリーズの中でもっとも強調されている。それもそのはずだ。というのは孤児とどう向きあうかというところにコミュニタリアニズムの真価があるからだ。

リバタリアンなら「孤児でも這い上がって来られる道を開いておくことが大切だ」といい、放っておくだろう。キリスト教的道徳に基づけば慈悲の心で施すことになるだろう。

しかしコミュニタリアンにとっては孤児はたまたま肉親がいないだけで、大切なコミュニティのメンバーであるという考え方だ。そして彼らを包摂できることこそがコミュニティーの存続にとって大事だと考える。

作品の前半でWayneが運営する孤児院向けの基金の資金が滞ったとされるシーンがある。それはWayne Enterpriseが利益を出していないことによって生じてしまった状況だ。

これはリバタリアンからすると、「余剰の金がないから孤児に対して何もできない」という理屈になる。しかしコミュニタリアンにとっては金の有無に関わらず孤児的存在を包摂することが大事なのだ。

このことはBlakeの献身的な活躍で表現され、そして作品のラストで決定的に示唆される。

ではCatwomanはどうだろうか。Batmanは何度となく彼女に裏切られるにも関わらず懲りずに彼女を信頼し、そしてまた裏切られるということを繰り返す。

彼女は何を象徴しているのだろうか。これに関しては後述しよう。

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とにかく彼らの協力を得て、BatmanはGotham Cityのために戦う。それは共通善に突き動かされた衝動であり、そこに迷いはない。

この共通善には強い感染力があるとNolanは性善説的に描く。

Gotham市警(GCPD)は前半ではDent Actの担い手、つまり大きな政府の主体性のない官僚機構として描かれる。彼らは途中Baneにより地下に閉じ込められる。

BlakeとBatmanの活躍により地上に復帰したGCPDはBane軍と対峙したとき、身動きがとれなくなってしまう。それはもちろんBane軍の力が強大だということもあるが、もはやGotham Cityを彼らが実効支配してしまっている以上、官僚組織としてのGCPDには戦う理由がないからだ。

しかし上空をBatmanが飛び戦いにいく姿が目に入った瞬間彼らは一気にBane軍に向かって突進していく。この瞬間彼らは主体性のない官僚機構から共通善に突き動かされる主体性をもつコミュニティーの担い手になるのだ。

かくしてコミュニティーとしてのGotham Cityはリバタリアンの象徴Bane軍と全面的に戦う。

そしてお約束のようにBatmanはBaneとの対決を迎える。途中ちょっとしたサプライズがあり、最後にBatmanが絶体絶命のピンチを迎えたときに彼を救ってくれるものが現れる。

それはこれまで彼を裏切り続けてきたCatwomanだった。ここで種明かしをするとCatwomanは功利主義を象徴しているのだ。

彼女の追求する利は最大多数のためのものではなかったが、終始一貫して彼女自身の最大幸福が行動原理となっていた。しかし一旦はGothamから逃げようとした彼女が危険を犯してまで戻ってBatmanを助けるというのはコミュニタリアニズムの伝播力の勝利を意味するのだ。

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しかしここで物語は終わらない。核爆弾の爆発はもはや止められない状況になっている。

そこでBatmanが取る選択肢は自己犠牲だ。これにはちょっとした伏線がある。Wayneが地下牢からの脱出を試みるとき、彼はずっと命綱をつけていた。しかし死への恐怖こそが火事場の馬鹿力を与えるとして命綱をつけずに挑戦してようやく成功するのだ。

つまりWayne/Batmanといえでも死は恐怖なのだ。その恐怖を乗り越えてでもコミュニティーを守るために自己犠牲を選ぶ。

自己犠牲といってもこれは明らかにキリスト教的コンテクスト上のそれではない。NolanはBatmanをGotham Cityの罪を贖うために自己犠牲するイエス的存在としては描いていない。

その証拠は物語のラストで示される。
もしBatmanがイエス的存在だったら、その自己犠牲はBatmanの属人的英雄行為になるはずだ。

しかしWayne自身がいう「Batmanは必ずしも自分である必要はない」という言葉のとおり、Batmanの持つコミュニティーを守ろうとする気持ちは引き継がれていく。
それもコミュニティーによって包摂された元孤児によって。

そしてコミュニティーの継続的な再生が示唆されて物語は終わるのだ。

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以上の"The Dark Knight RIses"はコロラドで起きた不幸な銃乱射事件の後もなお好調な興行収益を上げている

これは冷戦期のイメージを20年も引きずり続け、未だに新しい時代の自己イメージを規定できないで煩悶しているアメリカの実情を表している。

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それでは日本ではこの映画はどう受け止められるのだろうか。

二つの理由で前作よりもはるかに直接的に日本人の胸に響くだろう。それはともに3.11に関係する。

ひとつは「原子力が善にも悪にもなる」という劇中のメッセージが直喩的に刺さってくるということだ。もちろん日本で今表面的に問題になっているのは核兵器の問題ではない。しかし核融合という巨大なエネルギーが人々のためになることと、人々の命を奪うことが紙一重のところで共存しているという実感はすべての日本人に植えつけられた。
だからこそ原発の存否が国民を二分するような議論になっている。

3.11を経験した日本人が「原子炉が核兵器になる」という設定をもはや平静に観ることはできまい。

そしてもうひとつはより本質的な問題だ。それはコミュニティーの問題だ。
3.11以降日本でコミュニティーの大切さを主張する声が増して来ている。

しかし私には現在の日本人が昔のムラ社会のコミュニティーに戻れるとは到底思えない。それは個人の自由と権利をコミュニティーに委譲し、相互監視をすることによって成立していた社会だ。今の日本人がそこに戻りたいとは思っていまい。

それでもコミュニティーの大切さが叫ばれるのはコミュニタリアニズム的コンテクスト上でのコミュニティーを漠然と頭に描いてのことだろう。そしてそれこそがこの映画が描いているものなのだ。

もちろんそんな小難しいことを考えて映画を観る人はいない。それでも本作は観客の潜在意識にそのことを問いかける力があるのではないかと感じる。
だから興行的にも前作を上回る成功を収めると私は予見するのだ。

what's "my wife's camera"?

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