2012-09-16

W38心のベストテン第一位は?

もろもろのハードルを越え、想田和弘監督をグアム国際映画祭にお招きすることに成功。
よかったぁ。

what's "my wife's camera"?

2012-09-07

24時間完結型の生き方。



コネタの取材でこぶたろうさんにインタビューした。

2010年にグアムで会い、それなりにバックグラウンドについては知っているつもりでいた。しかし聞いた話は壮絶だった。

スティーブ・ジョブスは17歳の時以来毎朝鏡に向かうと「もし自分が明日死ぬとしたら、今日これからしようとしていることをするだろうか」と自問していたらしい。

こぶたろうさんも20歳以来同じような生き方をしてきた。
しかし違いはこぶたろうさんの場合は本当に寝たら翌朝目を覚ます保証がなかったということだ。

詳しくは記事を読んで欲しいが、こぶたろうさんは「24時間完結型」の生き方をしてきた。そして実際に話を伺うと彼が本当にその覚悟をもっていることがひしひしと伝わってくる。

強い衝撃を受けた。
自分の生きる行動原理を見直させられた。

what's "my wife's camera"?

2012-09-05

Life感想戦



TBSラジオ「文化系トークラジオLife」の放送がPodcastで全部Uploadされました。
※「"楽しくやろう"というけれど...」part1をダウンロードする(mp3 29'49")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part2をダウンロードする(mp3 28'06")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part3をダウンロードする(mp3 28'48")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part4をダウンロードする(mp3 31'46")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part5をダウンロードする(mp3 23'26")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part6をダウンロードする(mp3 20'14")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part7(外伝1)をダウンロードする(mp3 29'48")
※「"楽しくやろう"というけれど...」part8(外伝2)をダウンロードする(mp3 38'24")

その中で海猫沢めろんさんが「感想戦」をしているという話が出てきました。
面白そうなので参戦。

さて今回は奇しくも私がcharlieに突っかかる形で始まりました。

charlieがOAで話したことは正直いってわかったような、わからなかったような感じだったので改めて予告編も聞いてみました。

最初に予告編を聞いたときは「ゲーミフィケーション」の話かと思っていたのですが、改めて聞いてみると「モチベーションとその内発性」ということがテーマだったのですね。

さてその前提で私とcharlieのアスリート話の齟齬は「モチベーション」という言葉にキーがあったのだと思います。私は「アスリートのモチベーションは内発的に決まってんじゃねえか」と毒づきました。

それに対し本編を聴くとcharlieはどうも同じモチベーションでもcheer up とかself motivating というコンテクストで話をしようとしていたようです。

これでは話が噛み合いません。焚き火に喩えるなら、charlieの話していたモチベーションは着火剤で、私の話していたものは薪そのものです。

着火剤は言葉を換えればアドレナリンといってもいいかも知れません。
これはもちろんアスリートにとっても大事です。試合前に自分を奮い立たせることは普通に行われます。代表的なところでは「ロッキーのテーマ」を聴いたりとか(古いか)。

でもトップアスリートにはそういうアドレナリン的なものとは別に強い内発的モチベーションがあるというのが私が言いたいことでした。

逆にそういう内発的なものがない人は着火剤を点け続けなければいけないのかも知れません。常に自らを奮い立たせ続ける様子は痛々しさを伴うというところから「"楽しくやろう"というけれど...」という匙加減のテーマになったのでしょう。

ただ正直いうとこの「楽しい」というタイトルと予告編の内容から今回のテーマを読み取ることはかなり難しいと思います。これは「楽しい」という言葉がきわめて解釈に幅があるからかも知れません。

このことをアスリートの話とからめてとても納得いく形でお話してくださったのが柳瀬さんのkiller's instinctの話でした。あの話は私が見て来たアスリート(といってもマイナースポーツのトップアスリートですが)の印象と完全に一致していて得心できました。

ところで内発的モチベーションではないself motivateの話の流れででた速水さんのオーバーラップは個人的に完全にツボでした。1950年代からの潜在能力開発話からベトナム戦争へ兵士を送りこむためのニューサイエンス云々のくだりです。

「アメリカンビューティー」でケビン・スペイシーの奥さん役の人が不動産販売をする前に「私にはできる」というような自己暗示をかけ、人工的な笑顔をつくったりするようにしていたようなシーンをアメリカの映画などではときどき見かけることがあります。

ここで面白いのは、こういうself motivationが作品でカリカチュアに描かれるとき、たいがい金髪美女がその役を担うということです。ドラマ「Glee」でWill先生の奥さんのTerriもそうでした。

これは2月の「アメリカ西海岸」特集にまさに直結する話で、ニューサイエンス・ニューエイジ=西海岸=金髪美女というコンテクスト上にあるのでしょう。速水さんの解説でこのことに気づくことができたのは楽しい発見でした。

さて後半で私が小さい頃に母親の言葉に傷ついたというメールを読んで頂きましたが、そのメールが読まれたときtwitter上で私が使った「謙譲」という言葉に対し、「それをいうなら卑下だろう」と突っ込まれた方がいらっしゃいましたが、その通りです。お恥ずかしい。

その流れから山内先生が教育のことについてお話をされていましたが、このシークエンスに限らず山内先生のお話はどれも面白かったです。また是非出演して欲しいです。

最後に今回のテーマ設定にも通ずるのですが、最近charlieが社会学者という枠をでて次世代を育てる教育者の側面が強くなっているように感じられます。


そういう意味でも最後の「与えなくちゃいけなかったのは承認じゃなくて自信なんだ」というくだりはよかったです。ちょっと感動的でさえありました。


蛇足ですが、「えっ、私の年収安すぎる!?」は笑えました。

私のLife感想戦デビュー戦は以上です。

what's "my wife's camera"?

2012-09-02

W36 心のベストテン第1位は?



TBSラジオ 文化系トークラジオ「Life」に出演されていた東大の山内祐平さんの話がかなり面白かったのですが、それはまた機会をあらため今週は従軍慰安婦問題に対する東郷和彦氏の発言。

正直言うと従軍慰安婦問題には興味があまりありませんでした。基本的には日韓基本条約と河野談話で終了したものだと思っていました。

それがTBSラジオのDigを聴いて驚愕した。
東郷氏は今年の1月に京都新聞に従軍慰安婦問題が大問題になりかねないという警鐘を鳴らす記事を寄稿していたのです。

詳しくは音源を聴いたり(今週の金曜日にはリンクが切れると思いますが)、記事を読んで欲しいのですが、領土問題以上にこちらの問題に対する対処の方がよほど深刻な気がします。

このニュースというか、解説がW36の心のベストテン第1位です。

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2012-08-30

盗撮逮捕に思う。


IBMの最高顧問が盗撮で逮捕されました。

晩節を汚したとか色々意見はあるでしょうが、私が注目をしたのは彼を取り押さえたのが目撃した通行人であったということ。

このことについてのコメントは耳にしていないのですが、無関心とか見て見ぬ振りが横行する中、これはなかなかいい話じゃないかと思うんですよね。

それだけです。

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2012-08-26

心のベストテン第1位は? W35



ラジオから流れてきた松田聖子の「小麦色のマーメイド」を聴く。

やばい。高校からユーロビート、ハウスなどに走り歌謡曲をこバカにするようになっていたけど、そのために大切なものを見落としていたかも。

ノスタルジーだけじゃないなこりゃ。なめたペンネームのユーミンの曲もアレンジもいいし、松本隆の詞もいうことない。

阿久悠に傾倒しすぎて、なんとなく軽やかな世界観の詞を軽視していたような気がするけど、松本先生ごめんなさい、私が未熟でございました。

特に2番のBメロの詞はシビれますな。
というわけで今週のW35の心のベストテン1位は「小麦色のマーメイド」に決定。

* * *
すねて怒る君もかわいいよ
急にまじめ顔でつぶやく
嫌い あなたが大好きなの
嘘よ 本気よ
* * *

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2012-08-25

日本外交理解への補助線



ども。

バーバーがたろうです。

外交・領土問題の知識は床屋の域を出ないので前回の吐き出しで終了にしようと思いましたが、現在の日本の一部報道における"評論家"、"コメンテーター"があまりにもデタラメというか勉強不足なのでまた髪の毛を切りに参りました。

このメールの目的はただ一つです。
尖閣問題に関する外務当局が何を考えているのかを理解することを助けることです。

みんながこの問題に対してどう考え、日本の当局の対応に対してどう思っているか知らないけど、少なくとも外務官僚は日々外交のことを日本の利益を中心に真剣に考えている頭のいい人たちです。また彼らを弱腰とか時によっては売国奴呼ばわりする人もいますが、僕が知る限りではわりと右寄りの愛国精神満ちた人たちが多いです。

もちろん彼らの決定が正しいとは限りませんが、少なくとも彼らの思考回路を知らずギャアギャアいうのはみっもない限りです。

もっとも日本では日々様々な情報が出ているので今更僕がしゃしゃり出るまでもないかも知れませんが、まあ洗髪でもしながら聞き流してください。

では簡単にポイントから。
1)尖閣問題は戦争でも起きない限り解決しない。
2)「領土問題」は存在する ー 周恩来・田中角栄、鄧小平の知恵ー
3)前原誠司問題とアメリカ陰謀説

1)尖閣問題は戦争でも起きない限り解決しない。

ま、これは前回のメールでも書いたとおりです。歴史的正統性なんてどこで線引きするかによって変わってきます。双方が双方に都合のいい主張をする場合、国際世論に訴えかけても「双方で話し合って解決しなさい」と言われるのが関の山。余程の利害関係がない限り誰も人さまの喧嘩に口を首を突っ込みたくはないのだから。

ちなみに「尖閣は明らかに琉球王国の支配下にあったから日本のものだ」という人もいるけれども、明代まで遡って「そもそも琉球は朝貢貿易のもと中国の支配下にあった」とか言われたら水掛け論。つまり本当にどこで線を引くかというだけの問題。

余程のことがない限り解決しません。

2)「領土問題」は存在する ー周恩来・田中角栄、鄧小平の知恵ー

で、領土問題なんて解決しやしないというのは両国の外交当局は百も承知なわけですよ。それでも何故領土問題でガタガタ騒ぐかといえば、それは先のメールでも書いた通り外交とは自国の利益を最大化させる営為だからです。 この場合トリッキーなのは「自国」という言葉の意味が時に「現政権」という言葉にすり替わることがあるということ。

簡単にいえば、領土問題で相手国に揺さぶりをかけて何かを引き出すということはわかりやすい「自国の利益」だけれども、国内の不満分子のガス抜きというのは「自国」というよりも「現政権の利益」。

ただいずれの場合にしても領土問題を解決、すなわち国際社会に明確に主権を認めさせることを可能だなんて考えてなんていないんです。

で、僕が一部報道を見てイライラしたのは「そもそも尖閣に関しては領土問題なんて存在しないんです」と本気で言っているようにしか見えない人がいるからです。

ポジショントークとしてのこの発言はあるかも知れませんが、本気で言っていたらゲンナリです。

簡単に歴史を振り返ると、我らが1972年に日中国交正常化するときに、田中角栄が「ところで尖閣の問題はどうすんべ?」と聞いたときに周恩来は「そのことについては話したくない。っていうか、国交正常化に比べればそんな小さなことどうでもよくね?話すのやめね?」と言ったわけですよ。

そして1978年の鄧小平です。登場副首相であった彼は
「このことは話さない方が双方のためでしょ。だって解決しようがないもの。こういうことに触れないってのが中国人の知恵です。10年くらい棚上げしてもいいんじゃないですか。孫の代には少しはアタマもよくなって解決策も見つかるかも知れないし」というわけです。
http://www.jnpc.or.jp/files/opdf/117.pdf 、p7参照)

この背景には当時経済的にまだ未成熟だった中国が円借款を喉から手が出る程欲しがっていたということがあります。

つまりこういうことです。
「どうせ解決なんて不可能なんだから、ことを荒立てないで仲良くしようよ。流石に釣魚島は日本のものだって認めることはできないけどさ、お金を工面してくれたら実質的には支配していいから」

そうして日本が実効支配したのです。
ここで大切なのは1)日本の実行支配が認められている、2)その実効支配は「領土問題」は存在するけれども棚上げしている、という前提に支えられているということです。

言葉を換えれば、尖閣問題の名実において日本は「名」は棚上げにし、「実」を取ることが許されているという超有利な状況にあるわけです。実質的に解決不可能な領土問題においてこれ以上の外交的勝利はありません。

北方領土を始め領土問題についてきちんと理解していた橋本龍太郎はそのことをわかっていたので、日中漁業協定の新協定においても尖閣は「中間水域」というグレーゾンとして残しておいて中国のメンツを潰さなかったわけですよ。

つまり繰り返しになるけど、「領土問題」は存在する。そしてその存在を認めたことが日本に有利な状況をもたらしていると。

だからアホコメンテーターが本気で「領土問題は存在しない」っていうのを聞くとイラついてくるわけです。

3)前原誠司問題とアメリカ陰謀説

ここまで書いただけで、すでに何故外務省が今回のような対応をとるに至ったかという思考回路はわかるでしょう。

しかし今回の尖閣に至るまで一つ大きな問題がありました。
それが前原誠司問題です。

2010年の中国漁船衝突事件のときです。当時国交相だった前原が公務執行妨害罪で逮捕抑留、起訴しました。

これは明らかにこれまでのコンテクストからは逸脱した行為でした。よく引き合いにだされる2004年の上陸では、小泉純一郎が入管法に基づき強制退去にしているわけですが、これと前原の判断との違いはなんでしょう。

これは国家主権の主張の度合いが全く違うのです。

といいながらも実は僕もよくわかっていないのですが、入管法というのはなかなかトリッキーなもののようです。それはポツダム政令を根拠にしており、形式上は政令で法律ではありません。政令と法律における国家主権の関与の強さの違いについては勉強不足でわからないのですが、根拠がポツダム政令にあることや日中漁業協定に回収させることができることから公務執行妨害とは意味が全然違うでしょう(入管法の扱いについての説明が間違っていたらごめんなさい。教えてください)。

それから前原は起訴までしてしまいました。これはもう完全に日本主権の発動です。これでは「今までと約束が違うじゃないか!」と中国が怒っても当たり前です。

いや、正確にいうと怒るというよりも驚いたのではないでしょうか。

「はぁ?日本にとってあんないい条件なのに、何を考えているご破算にしようとしてるの??」という感じです。

これが前回の尖閣問題の時に起きたことです。

さてここからは余談ですが、一応外交についてもそれなりの見識のある前原がいくらタカ派であるとはいえあんな暴挙にでた裏にはアメリカの存在があるのではないかという陰謀論もあります。

中国の台頭をちょっと牽制したかったアメリカが、タカ派の前原に振り付けをつけたのではないかというシナリオです。在日米軍肯定派の前原は基地問題にとっても都合がいいし。直後の内閣改造で前原が外相になったこともこの陰謀論者を加速させています。

あくまでもそれは陰謀論の域をでない話ですが、少なくとも「アメリカの前原の評価が高い」という話を聞いて「はあ、前原さんはエライ先生なんですねー」とアホみたいに感心してはいけないということです。

アメリカの評価が高いというのは、アメリカが自国の利益を最大化するために都合がいい人物であるということだけはお忘れなく。


++

こんなとこです。

一時、前原が日本外交を混乱させましたが、基本的には上記のラインにしたがって見れば外務省の考えていることは大方わかると思います。

今回、起訴せず小泉純一郎と同じ措置を取ったのは外務省が一生懸命、既定路線に舵を戻したということです。

このまま何とか元サヤに収まってくれと願っている人も多いはずです。

ちなみに第2次小泉内閣の防衛大臣だった石破は「前回と今回は状況が違う」というような勇ましいことを言っていますが、それはポジショントークでしょう。「原発が必要なのは核オプションのためではなく、日本人の生活のためだ」と彼がいうのと同じくらいのポジショントークだと思っています。

もし彼がそう思っておらず、本気で中国とこの問題でやり合うべきだと思っているなら危険すぎます。今すぐ「総理になって欲しい議員」候補からはずすべきです。ってそんなことはありえないと思うけど。

そんなとこです。

以上を踏まえた上で、今回の一連の措置の是非を語るのは自由です。でもこういうややこしい問題で人さまに議論をふっかけようとするなら、少なくともこれくらいのことは知って置いて欲しいものです。


 what's "my wife's camera"?

2012-08-19

心のベストテン第1位は? W34

<備忘録> ある映画批評家のある映画に対する批評がひどすぎた。 新しい批評芸を模索しているのかも知れないけれども、それはただの芸であり批評ではない。 しかも以前にそれがある程度の面白さを伴っていたのは作品の原作に対する愛に満ち溢れていたからだ。今回のはひどすぎる。 忙しすぎるのか。映画を嫌いになっていないだろうか。 多くのことを教わった批評家だけに残念だ。 また彼の映画愛に満ち溢れる批評が聞きたい。 what's "my wife's camera"?

2012-08-13

韓国の選手のこと。



竹島問題の韓国サッカー選手の行動に対する為末大さんのTwitterが素晴らしかった。
その意見には賛同する。

でもここではちょっと違った観点でも考えたい。

件のパク・ジョンウ選手の行動は軽率で思慮にかけているということは間違いない。でもその行動は彼がオリンピックの精神とか歴史をきちんと理解していないから生じたとも考えられる。

今年40歳になる私はオリンピックが冷戦の主戦場になるのを見てきた。
モスクワ五輪のボイコット。ロス五輪の開幕のジェットエンジンによる空中浮揚。
「国の威信をかけて」という言葉が生々しさを持っていた。
それを体験した世代と知らない世代ではオリンピックにおける政治の持つ意味の重さは全然違うだろう。

昔は「オリンピックは参加することに意義がある」とよく言われた。幼い頃は文字通りに理解していたけれども、大人になるとそこに別の匂いを嗅ぎ取れる。そう思って調べてみるとやはりその言語は1908年のロンドン五輪でイギリスとアメリカの緊張関係が高まったときに出てきた言葉らしい。

しかしそれから1世紀経た同じ地で行われたオリンピックの日本での報道でそのフレーズを聞いた記憶がない。上の世代にはパク・ジョンウ選手の行動の愚昧さは直観できる。でもオリンピックと政治を結びつけることにピンとこない世代もいるのではないだろうか。

パク・ジョンウは23歳とのこと。
言葉は悪いがサッカーばかりやってきた若者に然るべき見識が身についていないというのは、彼岸の問題だけでもないだろう。

ならばオリンピックへの出場が決まった選手にはオリンピック憲章のエデュケーションがあってもいいのではないだろうか。

それからもうひとつ。

この事件はもちろん前日のイミュンバク大統領の竹島上陸が伏線となっている。
この行為自体は任期満了前の人気取り政策ということで品のない行為だとは思うが、同時にあれが一部の韓国の国家主義者を刺激してパク・ジョンウの事件につながったのは間違いない。

もう一度繰り返すと竹島上陸は下品なパフォーマンスだと思う。しかしイミュンバクの目論見が少なからず当たったという事実は見逃せない。

世界の外交戦場ではあれくらいのラフプレーは当たり前のように行われている。日本が戦争放棄という美しい理念を掲げようが、世界のギリギリでの削りはなくならない。そして日本人はそのことにナイーヴであってはいけない。美しい理念を保ちたければこそ、ラフプレーに負けないようわたり合っていかなければならないのだ。

そういうと石原慎太郎のようなアプローチを取ろうとする人もいるかも知れない。でも私はそれは下品であり、何も解決しないと思う。

為末さんはパク・ジョンウの行為に対していう
「日本として講義するのは得策じゃないと思う。もう一つ次元が上の目線から、オリンピズムの本質を諭すようにIOCに意見を出すべきだ。島の問題ではなく、世界中が大切にしているものを貶めた問題として扱うべきだと思う。」

どこまで目線をあげられるか。
我々の民度は常に試されている。

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2012-08-11

नमस्ते



佛説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空
度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空
空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相
不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色
無受想行識無限耳鼻舌身意無色聲香味触法
無限界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至
無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得
以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無
罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅
三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪
是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚古説
般若波羅蜜多呪即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経

what's "my wife's camera"?

2012-08-10

犬も歩けば。



日本にて。

所要を自転車でたす。いつも思うが自転車の速度はいい。
存外機動力があるので広範囲を動ける。しかも速すぎないので色々なものと出会える。

中華街での中華厨房機器店にて。
頑固な職人風情の出で立ちをしていながら、実は顔が怖いだけで普通にいい人である店員が20代の女の子に中華鍋のよさを伝えている。セールスしているというよりも「中華鍋を使わない人の気持ちがわからない」というような迷いのないセールストーク。迷う女子。

「最初は戸惑うかも知れないけどすぐに馴れる」と店員。「ひとつあれば炒め物でも揚げ物でも煮物でもなんでもOK」と畳み掛ける。そのやりとりは私が入った時にはすでに長時間行われていたようで、連れの女の子は飽きて違うものを見るでもなく手にとっている。

どれだけ経ったか、「よし買う!」と女の子は決意。「これから毎日チャーハンつくるから食べに来てね」と「やっと決めたか」顔の連れに高らかに宣言。なんかいいな。

その日は高校野球神奈川県大会準決勝の日。横浜スタジアムの前を通りかかるとちょうど試合が終わって選手や関係者が出てくるところだった。同級生や学校関係者、父兄が大きな人だかりを作る中、キャプテン、副キャプテンなのだろうか。駆け出てきて帽子をとって皆に深く礼をするところだった。なんかいいな。

気分のいいことばかりでもない。
元町中華街の駅前を通りかかったとき、20代半ばくらいのカップルを見かける。女の子は低い塀に腰掛け、男はその前に立っている。

ただならぬ雰囲気。いってしまえば修羅場中。男が少し声を荒らげているが漏れ聞こえる言葉が「愛情表現」とか痴話喧嘩系。女の子は泣いている。

嫌な感じだな、と思いながらも一応スルー。15m程通りすぎてから気になって自転車を停めて股がったまま振り返って様子をうかがう。

するとしばらくすると男が女の子にのど輪をしながら凄む。はいアウト。
というわけで引き返す。

ちょっと荒っぽいことをしている割には男は別にやんちゃな感じでもなく、どこにでもいそうな会社員風。

一応人様の痴話喧嘩には口を出さないのが大人のタシナミだと心得ているつもりだったので、どうしようかなと思いながらも声を掛けると「警察を呼んでください」と女の子。

一応出て正解か。男は当然「何しゃしゃり出てきてんだよ」モード。めんどうくせぇなぁ。

20m先に交番があったので、そこに引き渡して終えるか、と思って女の子に「行こうか」と促しても腰を上げようとしない。好きなんだろうなぁ。でももっとうまくやらないと将来DVに合っちゃうって。

「ぼくら付き合ってんで!」
いやわかってるって。だったらもっとうまくやれよ。

男は相当ヒートアップしている。まあ女の子と話しているときから頭に血が昇っていたみたいだから当然か。こちらが入ったことで興をそがれた気分になればいいと思ったけど、ダメだったか。

こいつ手を上げてくるかなぁ。男はカラダはこちらより一回りは大きいけど、中学の部活以来運動はしていませんというタイプのぶよぶよ体型。まあ先に殴られても負けることはありえねえなと無意識に値踏み。でもこれが屈強なヤンキーだったら止めに入れたか。そのときは迷わず交番にGOか。

「もう大丈夫なんで!」と凄む男。
どうみても大丈夫じゃないでしょ。

見ないふりをして通り抜ける通行人。
イタリアとかの田舎町だったらあっという間に人垣ができていそうな展開なのに。

「はい、はい、大丈夫です。お兄さん、カッコイイですね。ヒーロー気取りですか」
とにじり寄ってくる男。

どうみたって喧嘩したらオレの方が強そうだよなぁ。こいつ根性があるのか。バカなのか。それともオレが仏オーラを出していたのか。

どうしようかなと悩みながらとりあえず20cmの距離で向きあう。

キスしてやろうか、この野郎。


そこから敵はひたすら「カッコイイですね!」攻撃。
やっぱりキスしてやるか。

結局、らちが明かないのでちょっと引いたところで交番へ向かって警察に事情を話した。警官は超及び腰。女の子が危険な目にあってるのに民事不介入かっつうの。

それにしても男が「カッコイイですね!」と言ってきた時に
「お前がカッコ悪いんだよ」と返せなかった自分が情けない。

うーん、まだまだ修行が足りませんな。

what's "my wife's camera"?

2012-08-07

松井の悪口。



松井秀喜が小学校5年生以来人の悪口を言ったことがないというのは有名な話だ。
素晴らしい。
見習いたい。
できるだけ見習うようにしている。
ただ妻から「口が悪い」と言われているよう、自覚はなくても無意識のうちに傍から見れば悪口に聞こえるようなことを言ってしまっているのだろう。

それでもできるだけ言わないようにするよう心がけている。
何か人の悪口ととれるようなことを言いそうになったとき「これを口にしても誰も幸せにならないよな」と考え思いとどまることくらいはある。

しかし!
今日は久しぶりに声の限りに罵りたい人と触れてしまった。
悪口はいかん、悪口はいかん。
でもあれはサイテーだ。

くそー、
王様の耳はロバの耳、王様の耳はロバの耳、王様の耳はロバの耳!!

うぉ〜〜〜!!

what's "my wife's camera"?

2012-08-06

タマフル、細田守インタビュー。




ビジネスマンは子供っぽさを顰蹙し、大人になりたがる。
芸術家は大人らしさを嘆息し、自分のなかの子供を慈しむ。

what's "my wife's camera"?

2012-08-05

心のベストテン第一位は? W32



グアムに戻ってくるときに久しぶりに飛行機の中で新聞"紙"を読んだ。
日経の夕刊にはWebに誘導する導線があふれていた。
隔世の感。

さて久しぶりの心のベストテン。
今週はやはり1日のこと。
天命を待つ。

what's "my wife's camera"?

2012-08-01

花火の演出がすごい。



久しぶりに日本の花火をゆっくり観る機会に恵まれた。

すごいな、最近の花火は。
観たのはみなとみらいで行われた神奈川新聞社の花火。

日本にいた頃は何度も観たことがあったけど、明らかに進化している。
何がといえば演出が。

これはもはや空をキャンパスにした光の総合芸術ね。
楽しかった。

**

今日は新しいはじまりの日。
花火のような大輪の花が咲きますように。

what's "my wife's camera"?

2012-07-31

包丁屋とスローフード。



久しぶりに鎌倉の町を歩いた。

途中たまたま通りかかった刃物屋を妻が覗きたいというので立ち寄った。

なんとなく妻が包丁をほしがっているのは知っていたが別に冷やかすだけでいいだろうと思って戸をくぐった。

中には店番のおばあさんがいたが、質問をすると奥から私と同年代の男性が出てきた。
こちらの質問にプロらしくどんどん答えながら説明をしてくれる。研ぎ方についても色々と教えてくれる。店の商品に関係のないことでも刃物のことはなんでも答えてくれる。

こういうのいいんだよなぁ。

ということで結局結構いい包丁を買うことになった。
でも「雰囲気に飲まれて買っちゃった」というような後悔はない。っていうか私もそのうちこの店で一本買いたいくらい。

でね、この感覚こそが「スローフード」的なんですよ。

顔の見える身近な生産者から買う。生産者にも買い手の顔が見えているから下手なものは売れない。大量生産じゃないから少し高いかも知れないけれども、きちんとどこがよくてなぜ高いかもきちんと説明する。

買う方は生産者が信頼できる人で信頼できるものを売っていることを知っているから多少値段が高くても買う。

これがスローフードの精神。

ゆっくり食事をとることだけがスローフードではない。
スーパーに「私が作りました」という顔写真入りのラベルが貼ってあるのが「顔が見える」ということではない。

いいよなぁ、こういうの。
やっぱ鎌倉住みたいなぁ。

what's "my wife's camera"?

2012-07-30

ナイーヴな寿司屋



寿司屋にいった。

横浜の中央市場の場内にある店なのでネタはもちろんいいけれども、店構えは瀟洒からは程遠い感じ。言葉を変えればいい感じの店。

その店の中に「アレルギーのある人はお申し出ください」というような手書きの表示があった。久しぶりに顔を出したので詳しくは覚えていないけど以前はなかった表示だと思う。こういう店までディスクレーマーを出さなきゃいけなくなったのかと驚く。

Podcastを聴く。スポンサーのインフォマーシャルで豆乳の宣伝をしている。ひと通りの宣伝が終わったあと「豆乳は大豆から作られていて乳製品は含まれておりません」「大豆アレルギーの人はお飲みにならないでください」というようなディスクレーマーが入る。

アホか。

アレルギーが恐ろしいものであるという認識はある。だから学校給食で「好き嫌いをせず残さず食べましょう」ということを画一的にいうことの危険性はわかっている。

でも今の日本人は自分に大豆アレルギーがあるのに言われないと間違って豆乳を飲んでしまうほどアホなのか?

ほとんどが生の魚貝そのものの寿司屋で自分にアレルギーがあるものを教わらないと峻別できない程スットコドッコイなのか?

もちろんほとんどの日本人はそんなにアホでもスットコドッコイでもないはず。

でもクレーマーに対する過剰反応がこういう事態を招く。それは過剰反応という名の事なかれ主義。事前にクレーマーにいちゃもんを付けられないようにすることをリスクマネジメントだと考える愚。

先述のPodcastの番組でたまたま「放送局はナイーヴだから、極端な意見でもクレームには過剰に反応するんですよ」というようなことを言っていた。

これにも思い当たることがある。
ある番組の番宣で番組メルマガを紹介するとき「その日のテーマは毎日8時頃メールします。気の早いスタッフの場合はもう少し早めに送ることがあります」というアナウンスが入る。

この後半が本当に気持ち悪い。というか胸クソ悪い。
遅くなる可能性があることをあらかじめ断っておくならまだしも、早くなるかも知れないことまでも言わなきゃいけないなんてバカげてる。

そりゃ中には早くメールを送ると「8時頃じゃないじゃないか!」と文句を言ってくるバカげた輩もいるでしょうよ。でもそんなの相手にしてどうするの。

ま、これは放送局がナイーヴだからじゃなくて、スポンサーにケチがつくのを面倒臭がっているからなんだろうけど、それはさておきここでは「ナイーヴ」という言葉に注目。

ここで使われているナイーヴという言葉は日本語の意味でのナイーヴ。繊細で傷つきやすいという感じかしら。

でも英語の本来のNaiveの意味はいうなれば、すれてないというか経験の乏しい純朴バカというイメージ。

念のために辞書を引いてみると
 1.without experience of social rules or behaviour, esp. because one is young.
 2. too willing to believe without proof.

とあり、繊細な文学青年というようなニュアンスはない。

じゃあなぜナイーヴにわけのわからない日本語的ニュアンスがついてしまったのか。
この勘違いは昔の放送局から広まったに違いない。

黎明期の放送局でクレームの電話を受けた新人の子がクレームの内容をアメリカ帰りのプロデューサーに伝えにいくと、
「なにいちいち真に受けてんだ、放っておけ。そんなのをいちいち相手にしている程naiveだと社会やっていけねぇぞ」
とどやされる。

「お客様は神様」と教えられて育った商家の息子だった彼にはクレーマーという発想がなく、さらには"ない〜ゔ"の意味もわからず歳の近い先輩に聞いてみる。
先輩ももちろん意味はわからないけど後輩の手前そうとは言えず、文脈にもなんとなく合致し、その上後輩を傷つけないで済むことから「繊細で傷つきやすいって意味だよ」とテキトーに教える。

教わった後輩は実は遊び人で女の子と飲みに行くたびに、
「僕にはナイーブなところがあるから」と本来の意味からすると赤面したくなるようなことを太宰気取りでいって広めていった。

これに違いない。

ってそんなのどうでもいいから、ディスクレーマーだらけの日本社会、本当にどうにかならないのかね。

what's "my wife's camera"?

2012-07-29

ヒミズと柔道。




園子温の「ヒミズ」のDVDを観る。

大仰な映画評をぶつつもりはないけど、よく指摘されるように震災を織り込んだのはやっぱり失敗かな。話がとっ散らかって散漫になっちゃってる。

それから茶沢さんの改変もどうかなぁ。彼女はやはり無条件に許容する母親/クールな救済の女神というポジショニングの方がよかったんじゃないか。まあ確かにそれだとお約束の人物配置になってしまうけど、映画の設定にするとそれはそれでDVの被害に合っている子供たちの救済の物語に堕してしまうことになると思う。

結果オヤジさんの造形が陳腐になってるし、そして住田がオヤジさんをやっちゃうシークエンスも原作の静かな迫力を損ねてる。

ここまで書いて思った。結局私自身が原作に引っ張られすぎて映画版「ヒミズ」を独立したひとつの作品として観ることができていないということかも知れないな。

未来への出口の見えない閉塞の物語だったマンガ版「ヒミズ」を震災が起きたことによって未来への希望の物語にしようとした園監督の意図は透けてみえる。でもあれだけ原作が強いとテーマを180度変えてしまうノイズはでかくなりすぎてしまう気がする。

希望の作品を撮りたかったのなら「ヒミズ」原作でなく、オリジナル脚本の方がよかったかなというのが結論。

でもちょっとメタに立って「園監督にこういう映画を撮らせざるをえない気持ちにさせた3.11」という命題は考えさせられる。

***

久しぶりにオリンピックを観戦。

柔道を観る。海老沼の試合。

といっても例のジュリーによる判定が覆った話ではない。
ジュリー制度の導入の歴史的文脈を知らないから何とも言えない。まして篠原現監督が現役の時の誤審が関係しているというのだからおいそれと意見することはできない。関係ないけどあれは非道かった。

今回観戦して感じたこと。あれはもはや私の知っている柔道じゃない。国際化にともない柔道がポイントを争う採点競技の側面が強くなっていったということらしいけど、どうにも馴染めない。

青い道着もいまだにしっくりこないけど、それ以上に今の競技形態はダメだわ。

やはり私にとっての柔道のひとつの理想のイメージは1990年の日本選手権無差別級決勝、小川直也対古賀稔彦の試合。当時130kgあって95kg超級でも圧倒的な強さを誇っていた小川に75kgの古賀が背負い投げを武器に果敢に向かっていった試合。
はっきりいっていつどうやって小川が仕留めるのかだけが見所の試合だったし、今の柔道のスピード感からみると冗長に見えるかも知れない。でも古賀はかけ逃げみたいな変なことをせずにちゃんと一本を狙いに生き続けた。負けた後本気で悔しがっていた古賀の姿には感動した。

まあこれはオールドファンの戯れ言の類の発言なんだろうけどね、それでも今の柔道は好きになれないや。
日本選手権はまだ昔ながらの柔道の匂いが残っているのかしら。

what's "my wife's camera"?

2012-07-26

【映画評】"The Dark Knight Rises"





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"The Dark Knight Rises "(日本語「ダークナイト ライジング」)
監督:Christopher Nolan 主演:Christian Bale
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〈はじめに〉

今週末いよいよ"The Dark Knight Rises"が日本公開される。

ご存知Christopher NolanのBatmanシリーズの第3作だが、前作"The Dark Knight"はアメリカでの大成功に比し、日本では興行的にはかなり皮算用が狂った結果となった。

しかし本作は日本でもそれなりの成功を収めるということを予見したい。
前作が深遠なテーマを扱い、いわゆる「スッキリしない映画」だったことが日本で興行的に成功を収めなかった理由に挙げる人が多い。

本作は前作よりもわかりやすいストーリーになっているので、そういう意味では間口に広りはあるだろう。

しかし物語の難解さだけで説明をしようとすると生来単純明快なストーリーを好むアメリカ人に"The Dark Knight"があそこまで受け入れられたかの説明がつかない。

本作は完全に前作の延長線上に作られている。

そこで本評ではまず前作"The Dark Knight"がどういう映画だったのかを簡単に振り返り、それが上映された時のアメリカの状況ならびに強く支持された理由を考察したい。
同時になぜ日本でさほど受け入れられなかったのかについても言及したい。

その上で今回の"The Dark Knight Rises"がどういう映画で、なぜアメリカで好調な滑り出しを見せたかを考え、そして日本でも受け入れられると考える根拠について説明したい。

例によってネタバレについての配慮は一切ない。
特に今回は致命的なネタバレを示唆する。

だからこれから観にいく予定のある人は「"The Dark Knight"とはどういう映画だったのか?」までを読む分には問題はないが、「 "The Dark Knight Rises"が提示しているもの」の記述は鑑賞前には読まない方がいいだろう。

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"The Dark Knight"とはどういう映画だったのか?
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"The Dark Knight"は2008年にアメリカで公開されたChristopher Nolan監督のBatmanのシリーズ第2作。

Joker役のHeath Ledgerの怪演が話題になったが、この作品のテーマはそのJokerが問いかける「善悪」の問題だった。

ここではストーリーについては言及しないが、人々に何が善で何が悪かをJokerが問いかけ続けることにより、善悪に対する価値判断が揺らぎ考えさせられる映画、というような評がよくされていた。

しかしもう一歩踏み込んで解釈しないとこの映画がなぜアメリカにおいて特別なものになったのかは理解できない。

Nolanがこの映画で問いかけた善悪とはキリスト教的善悪だったのだ。
そしてJokerこそ実存を問う変則的なニーチェだったのだ。

簡単に説明をすると、中世以来欧米的思想の中心には常にキリスト教的神がいた。そして人間がどう生きるべきかとか道徳の問題もすべてキリスト教に帰結されていた。
だからすべての事象には絶対的な正解があると考えられていた。人々はキリスト教的善悪に基づき、正解を模索しながら生きてきた。

それを否定したのがニーチェだった。そしてすべての中心に神ではなく、人間を置く実存主義を展開した。つまり「神=善」という構造を否定したのだ。だからニーチェは神を殺したと言われる。

さてなぜここでややこしい実存主義まで持ち出してきたかといえば、この映画の上映された時期を考えると、そこまで掘り下げざるをえないからだ。

公開は2008年。この年はG.W.Bush大統領2期目の最後の年。

2003年に始まったイラク戦争は泥沼化をしており、この頃になるとリベラルなアメリカ人は「Bushを再選させたことはアメリカの恥だ」と公然と口にするようになる。そして人々が"Change"を求め、11月の選挙ではObamaが当選する。

映画の公開はObama当選前の7月、Bushがもたらした閉塞感の中で公開された。

イラク戦争はイラク大量破壊兵器があり、9.11とも関係していたというストーリーの上に始まった。

しかし大量破壊兵器も見つからず情報操作が発覚すると、人々はBushが掲げる正義に疑問を抱かざるを得なくなっていた。
民間のミルク工場が爆撃され、罪のない民間人がたくさん死んでいるという報道を目にすると、正義(=Justice)の国アメリカというアイデンティティーが揺らいでくる。
そしてBushの掲げる正義は多分にキリスト教に依拠していることをアメリカ人なら皆知っていた。

日本ではBushといえば「バカ」というイメージくらいしかないかも知れないが、アメリカでは敬虔なキリスト教徒として知られている。
そしてキリスト教原理主義者である福音派の強力な支持を受けていたのは有名だ。

つまり"The Dark Knight"公開当時のアメリカはキリスト教的行動規範を標榜するBushによって正義の国家としてのアイデンティティー・クライシスに陥っていたのだ。前年のサブプライムローン問題も正義の揺らぎに拍車をかけていたかも知れない。

だからこそHeath Ledgerが渾身の演技で「キミの善悪は本当に正しいの?」と問いかけてくると心を強く揺さぶられたのだ。

比して日本はどういう状況だっただろうか。

やはりサブプライムの影響をもろに受け、国家としての自信を完全に消失していた。
しかしそこに善悪二元論が絡む余地はなかった。日本の不況は構造的なものであったし、そもそも日本人の宗教観の根底には万の神の発想がありJokerの揺さぶりはアメリカ人に効いたほどは効かないのだった。

ただでさえサブプライムローンの影響で不況が深刻化している中、わざわざ自分とはあまり関係ない重苦しいテーマの映画を観るモチベーションは人々には湧いてこなかった。
それなら家でタダで観られる北京オリンピックを観戦していた方がいいと思う人が多かったのはむしろ当然かも知れない。

だから"The Dark Knight"はアメリカでは大ヒットし、日本ではあまり受け入れられるなかったのだ。

でも"The Dark Knight Rises"はちょっと違う。

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"The Dark Knight Rises"が提示しているもの
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さて今一度断っておく。

容赦のないネタバレをするので、これから映画を観る人は以下は読まない方がいい。

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いきなり結論を述べると"The Dark Knight Rises"はアメリカの再生をコミュニタリアニズムに見出そうとする作品と読み解くとすべて説明がつく。

舞台は前作の8年後。
前作でGotham Cityを守るため悪の汚名を着せられたBruce WayneはBatmanとして活動するわけにもいかず、完全に無気力な引き籠りになってしまっている。

これはキリスト教的道徳に基づく行動規範を喪失してしまい、さ迷える状態を象徴している。

街はDent Actと呼ばれる警察が強権を発動できる法律の制定により一定の平和が保たれている。

しかしそれがBaneという悪者の登場により一変する。
ではBaneは何者なのだろうか。

映画の前半でBaneが証券取引所を襲うシーンがある。その後、街を支配し金持ちを次々私刑に処す。それらをもってBaneは"Occupy Wall Street"的なものを象徴しているのではないかとする意見がアメリカで湧き上がった。

Nolanはそのことを否定しているが、"Occupy Wall Street"がどういう運動であったかを振り返ってみる価値はある。

2011年9月にカナダの雑誌の創始者の呼びかけで若者を中心にウォール街を占拠した運動だ。主張は富裕層に対する優遇措置の批判、政府による金融機関の救済に対する批判などだ。上位1%の富豪がアメリカの富を独占しているという主張も中心にあった。

上記の運動に女優で人権派のスーザン・サランドンや映画監督のマイケル・ムーアが賛同したことからゴリゴリの左派の運動だという風に捉える人は多い。しかしそれはあくまでもひとつの側面だ。もし本作に極左批判の政治的意図があると考えると、「富を奪われてしまった大富豪のBatmanが極左をやつける物語」ということになってしまい、意味不明になってしまう。

+++

そこで"Occupy Wall Street"のもうひとつの側面について考えてみたい。

これは先に挙げた彼らの主張で「政府による金融機関の救済」ということと大きく関わってくる。ジャーナリストの冷泉彰彦さんが興味深い指摘をしている。いわくデモの参加者の「ヒーロー」にしばしばRon Paul議員が挙げられていたというのだ。

Ron Paulは共和党の政治家で今年の大統領選にも出馬したが、彼は共和党ながらBushとは立場が違う。バリバリのリバタリアンなのだ。リバタリアンとはとにかく個人の自由を最大限に尊重する立場の人々だ。社会や経済的にも国家の介入を極端に嫌がる。
だから伝統的な保守共和党と異なり、妊娠中絶に国家が介入することさえ反対している。
外交的にも不干渉主義の立場をとり、2002年の共和党候補者の中でイラク戦争決議案に唯一反対している。

つまり"Occupy Wall Street" には左派的な側面とは別にリバタリアン的な側面もあるのだ。

ここで乱暴に言い切りたい。
Baneはリバタリアンを象徴している。

それにはもう一つ根拠がある。それはBaneという彼の名前自体にある。
今年の大統領選ではRon Paulは敗れ、結局Mitt Romneyが共和党の候補となる。
Romneyはモルモン教徒ながら共和党候補になったことで話題になったが、ビジネスマンとしての顔も持っている。

それはプライベートエクイティーファンドと呼ばれる投資会社の創業者という顔だ。
世界的な投資会社に成長したこの会社はいわゆるハゲタカファンドだ。
そしてこの会社の名前がBain Capitalなのだ。BaneとBain、スペルこそは違うが「ベイン」という発音はほぼ一緒だ。

たしかにRomney自身はリバタリアンではないが、彼の会社が「自由競争」の下に巨額の富を築いたこととRon Paulのことを合わせて考えるとNolanがBaneをリバタリアンの象徴として描いたと考えるのはごくごく自然だ。

ではなぜNolanはBaneをロベスピエールばりの人物として描写しているのだろうか。
先にも触れたが、Nolanは本作は政治的な作品ではないと主張している。それは右派を支持する内容でも左派を支持する内容でもないという意味では本当だろう。

しかしNolanはリバタリアンの本質的な危うさに警鐘を鳴らしているのではないだろうか。

リバタリアンつまり徹底した自由を尊重するということは、競争が生ずるということだ。競争が生じるということは勝者と敗者が生まれる。それは強いものが勝つということだ。

通常リバタリアンというと経済や社会保障のコンテクストで語られることが多いが、その思想の実現するものは強者が勝つというものだ。その強弱のクライテリアが暴力というもので図られる危険性は常に孕まれている。

だからBaneはBatmanと素手で格闘する。本作の中盤で二人がタイマンを張り、Baneが勝つことによって彼は支配の正統性を得るのだ。それがリバタリアンの論理だ。

正統性を獲得したBaneはWayneがクリーンエネルギーを製造するために保有していた原子炉を盗み出し、核爆弾とし新たな力の源泉とする。

それを受け「同じものでも誰が持つかによって善にも悪にもなる」という内容のセリフが登場する。

これは本シリーズの中でも珍しいほど説明的なセリフだ。明らかなる蛇足だと思うが、前作のテーマである「キリスト教的善は絶対ではない」ということを反復するこのセリフを入れざるをえなかったのは、前作が難解すぎるという声が多かったからも知れない。

***

さて強大な力を得たBaneがGotham Cityを支配する。そしてNolanはリバタリアンの支配がアメリカを崩壊させることを描く。それがフットボール場のシーンだ。

フットボールは当然アメリカを象徴するものだ。そのフットボール場が満席ではないことに注目して欲しい。それはここが特別な場所ではないということだ。アメリカの日常なのだ。

そこに小さな男の子が出てきて、美しいソプラノで国家を斉唱する。
アメリカの国歌の歌詞は自由のために戦った勇者たちを称える内容だ。

このシーンで描かれているのは無邪気に自由を信じ称える、無垢なアメリカなのだ。
しかしそれはリバタリアンによって無残に崩壊される。アメリカを象徴するもの、そしてアメリカの日常そのものが崩れ落ちるのだ。

つまり本作はリバタリアンによって国家の理想さえ崩壊しかねない中、どうやってアメリカというものを再生させていくかを問う物語に他ならない。

***

Baneとの戦いに敗れたWayne(Batman)は地下牢に閉じ込められてしまう。しかしこの地下牢は脱出可能だ。


牢獄の上部は完全に開かれており、そそり立った壁を登り切ることさえできれば外界にでられるのだ。

これを観て、なぜBaneは上部を塞がないのだという疑問をもつ観客もいよう。しかしBaneがそうすることは許されない。なぜなら彼はリバタリアンだからだ。

どんなどん底の状況にあろうとも努力によって這い出る道を残しておくことこそがリバタリアン的なのだ。そしてその道を這い出る可能性があることを彼らは自由と呼ぶ。

しかしその壁を登り切ることは困難を極め、それを達成したことのある人は一人しかいない。幾人もが挑戦しては敗れ、そしてほとんどの人はそこから抜け出すことを諦め無気力になっている。

脱出がかくも困難なのは後にWayneが成功したときのカタルシスを高める目的のためだけではない。それは脱出が不可能なほど困難であることを描くことによってリバタリアンの標榜する自由がどれだけ実現困難なものかを表す意図もあるのだ。

Wayne自身は何度かの失敗を経て、最終的には脱出に成功する。そしていよいよリバタリアンからGotham Cityを救うための対決に入る。

***

ここでいよいよ冒頭に述べた結論につながっていく。

WayneことBatmanがリバタリアンの暴走を食い止めるために利用するのはコミュニタリアニズムの力だ。

コミュニタリアニズムとは共同体主義と訳される。
これは個人の自由を完全に尊重するというリバタリアンとも、個人権利を共同体に隷属させるという全体主義とも異なる。前者が徹底した「小さな政府」なら、後者は極端に「大きな政府」といえるが、政府と個人の間に存在する中間共同体の存在が大切とし、そこにおける共通善が大切とする立場だ。

ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授はコミュニタリアンの論客として有名で、最近の政治思想の流行でもある。

ではBatmanはコミュニタリアニズムをしてどうリバタリアンと対峙するのだろうか。

***

Batmanは4人に協力を求める。

一人はWayne EnterpriseのCEO、Morgan Freeman演じるLucius Fox、一人はシリーズお馴染みGordon市警本部長、一人は若いBlake刑事、そしてAnne Hathaway演じるCatwomanだ。

Foxは核爆弾の解除のため、技術的に協力を求めなければならなかった人物で大きな役割を果たさないが残りの3人はより大きな意味付けがなされている。

まずGordon市警本部長は明白にコミュニティーの「共通善」を体現している。爆弾のリモコンをブロックしてひとまず爆発を阻止する重要な役割を彼が担ったのは必然であった。

次にBlake刑事だが、彼も市警の刑事という共通善の価値を持ちながらもう一つ重要な要素を含んでいる。それは彼が孤児だったということだ。

本作では孤児の存在がシリーズの中でもっとも強調されている。それもそのはずだ。というのは孤児とどう向きあうかというところにコミュニタリアニズムの真価があるからだ。

リバタリアンなら「孤児でも這い上がって来られる道を開いておくことが大切だ」といい、放っておくだろう。キリスト教的道徳に基づけば慈悲の心で施すことになるだろう。

しかしコミュニタリアンにとっては孤児はたまたま肉親がいないだけで、大切なコミュニティのメンバーであるという考え方だ。そして彼らを包摂できることこそがコミュニティーの存続にとって大事だと考える。

作品の前半でWayneが運営する孤児院向けの基金の資金が滞ったとされるシーンがある。それはWayne Enterpriseが利益を出していないことによって生じてしまった状況だ。

これはリバタリアンからすると、「余剰の金がないから孤児に対して何もできない」という理屈になる。しかしコミュニタリアンにとっては金の有無に関わらず孤児的存在を包摂することが大事なのだ。

このことはBlakeの献身的な活躍で表現され、そして作品のラストで決定的に示唆される。

ではCatwomanはどうだろうか。Batmanは何度となく彼女に裏切られるにも関わらず懲りずに彼女を信頼し、そしてまた裏切られるということを繰り返す。

彼女は何を象徴しているのだろうか。これに関しては後述しよう。

***

とにかく彼らの協力を得て、BatmanはGotham Cityのために戦う。それは共通善に突き動かされた衝動であり、そこに迷いはない。

この共通善には強い感染力があるとNolanは性善説的に描く。

Gotham市警(GCPD)は前半ではDent Actの担い手、つまり大きな政府の主体性のない官僚機構として描かれる。彼らは途中Baneにより地下に閉じ込められる。

BlakeとBatmanの活躍により地上に復帰したGCPDはBane軍と対峙したとき、身動きがとれなくなってしまう。それはもちろんBane軍の力が強大だということもあるが、もはやGotham Cityを彼らが実効支配してしまっている以上、官僚組織としてのGCPDには戦う理由がないからだ。

しかし上空をBatmanが飛び戦いにいく姿が目に入った瞬間彼らは一気にBane軍に向かって突進していく。この瞬間彼らは主体性のない官僚機構から共通善に突き動かされる主体性をもつコミュニティーの担い手になるのだ。

かくしてコミュニティーとしてのGotham Cityはリバタリアンの象徴Bane軍と全面的に戦う。

そしてお約束のようにBatmanはBaneとの対決を迎える。途中ちょっとしたサプライズがあり、最後にBatmanが絶体絶命のピンチを迎えたときに彼を救ってくれるものが現れる。

それはこれまで彼を裏切り続けてきたCatwomanだった。ここで種明かしをするとCatwomanは功利主義を象徴しているのだ。

彼女の追求する利は最大多数のためのものではなかったが、終始一貫して彼女自身の最大幸福が行動原理となっていた。しかし一旦はGothamから逃げようとした彼女が危険を犯してまで戻ってBatmanを助けるというのはコミュニタリアニズムの伝播力の勝利を意味するのだ。

***

しかしここで物語は終わらない。核爆弾の爆発はもはや止められない状況になっている。

そこでBatmanが取る選択肢は自己犠牲だ。これにはちょっとした伏線がある。Wayneが地下牢からの脱出を試みるとき、彼はずっと命綱をつけていた。しかし死への恐怖こそが火事場の馬鹿力を与えるとして命綱をつけずに挑戦してようやく成功するのだ。

つまりWayne/Batmanといえでも死は恐怖なのだ。その恐怖を乗り越えてでもコミュニティーを守るために自己犠牲を選ぶ。

自己犠牲といってもこれは明らかにキリスト教的コンテクスト上のそれではない。NolanはBatmanをGotham Cityの罪を贖うために自己犠牲するイエス的存在としては描いていない。

その証拠は物語のラストで示される。
もしBatmanがイエス的存在だったら、その自己犠牲はBatmanの属人的英雄行為になるはずだ。

しかしWayne自身がいう「Batmanは必ずしも自分である必要はない」という言葉のとおり、Batmanの持つコミュニティーを守ろうとする気持ちは引き継がれていく。
それもコミュニティーによって包摂された元孤児によって。

そしてコミュニティーの継続的な再生が示唆されて物語は終わるのだ。

***

以上の"The Dark Knight RIses"はコロラドで起きた不幸な銃乱射事件の後もなお好調な興行収益を上げている

これは冷戦期のイメージを20年も引きずり続け、未だに新しい時代の自己イメージを規定できないで煩悶しているアメリカの実情を表している。

+++

それでは日本ではこの映画はどう受け止められるのだろうか。

二つの理由で前作よりもはるかに直接的に日本人の胸に響くだろう。それはともに3.11に関係する。

ひとつは「原子力が善にも悪にもなる」という劇中のメッセージが直喩的に刺さってくるということだ。もちろん日本で今表面的に問題になっているのは核兵器の問題ではない。しかし核融合という巨大なエネルギーが人々のためになることと、人々の命を奪うことが紙一重のところで共存しているという実感はすべての日本人に植えつけられた。
だからこそ原発の存否が国民を二分するような議論になっている。

3.11を経験した日本人が「原子炉が核兵器になる」という設定をもはや平静に観ることはできまい。

そしてもうひとつはより本質的な問題だ。それはコミュニティーの問題だ。
3.11以降日本でコミュニティーの大切さを主張する声が増して来ている。

しかし私には現在の日本人が昔のムラ社会のコミュニティーに戻れるとは到底思えない。それは個人の自由と権利をコミュニティーに委譲し、相互監視をすることによって成立していた社会だ。今の日本人がそこに戻りたいとは思っていまい。

それでもコミュニティーの大切さが叫ばれるのはコミュニタリアニズム的コンテクスト上でのコミュニティーを漠然と頭に描いてのことだろう。そしてそれこそがこの映画が描いているものなのだ。

もちろんそんな小難しいことを考えて映画を観る人はいない。それでも本作は観客の潜在意識にそのことを問いかける力があるのではないかと感じる。
だから興行的にも前作を上回る成功を収めると私は予見するのだ。

what's "my wife's camera"?

純文学はSM。



エンターテイメントと純文学。
面白いヤツと小難しいヤツ。
もしくは一般受けをするヤツと高尚なヤツ。

若い頃はそういうようなイメージを持っていた。
でも本をたくさん読み始めてからも、純文学といわれる芥川受賞作のどこがいいのかわからないで「よさがわからないということはオレはイケテないんじゃないか」と考えたこともあった。

それがある程度歳をとってようやくわかった。
純文学は要はSMなんだと。

本を読み続けていくと色々な感動に対する耐性がついてしまう。
物語の展開を想像しながら読んでしまう。
「この伏線はこうやって回収されるのかな」とかついつい思いながら読んぢゃう。

結果、どんなにいいストーリーでも感動の種類が既知のものだと勝手に自分の中でフォルダリングしてしまって興奮できなくなり、そしてインポになる。

別にインポになったからといってそういう作品を楽しめないわけではない。

「おっ、キレイだな」と思ったり、「スタイルいいな」と思ったりはするし、そういう作品と出会えうとうれしくは思う。

でも我をも忘れてしまうような興奮ができない。

別にSMについては詳しくないけど、それは性的嗜好であると同時にエロスとタナトスを渾然一体とすることによって新たなる高揚を得ようとする哲学的な営為でもあるんじゃないかと勝手に想像する。もしそうなら純文学はまさにSMなんだろうと思う。

これは何も読者の興奮の問題だけではなく、書き手にしても自分の書いた物が「どこかで見聞きしたような話」だったり「手垢がついた表現」だったりすることが許せないこともあるはず。

結果、世の中には今までに誰も経験のしたことのないような種類の感動や、誰もがハッとさせられるような表現、描写を求めるようになる。

それが純文学と呼ばれるものなんだろうと思うわけです。

そういう表現の味わいは既存の表現を一通り知って、インポになってからじゃないとわからないもの。

巨乳がぷるぷる揺れているだけでイキそうになっているような人には変態趣味にしか思えないでしょう。

つまりSM的だということ。
だからなんだという話でもあるけど。