2011-12-12

【映画評】"J. Edgar": 「地味で面白みに欠けるイーストウッド最新の秀作」

"J.Edgar"(日本語サイト「J・エドガー」)
監督:Clint Eastwood 主演:Leonardo DiCaprio

レオナルド・ディカプリオ主演のクリント・イーストウッド監督最新作「J.Edgar」は2時間17分の長尺ながら地味で面白みに欠けるものだ。しかしそれでいて紛れもない秀作である。
一見矛盾したこの表現こそがこの映画の本質といえよう。

本作はFBI(アメリカ連邦捜査局)の創設者にて長年長官を務めてきたJ.エドガー・フーバー長官の半生を描いた伝記的映画だ。犯罪、立身出世、コンプライアンス、抑圧された親子関係、ホモセクシャル、メディア操作、権力闘争など様々なテーマが扱われているわりには、派手な銃撃シーンもなければ、歴史を揺るがす新説の提示もなく地味な映画だと断言していいだろう。

その大きな一因はイーストウッド監督が決して史実から離れることない範囲で作品を構成しているところにある。史実にのっとればオリバー・ストーンが「JFK」で提唱したようなスキャンダラスな面白さは作り出しようがないし、他に切れるカードも当然限られてくる。

それでもすべての名声や富を手に入れ終わったイーストウッドが本作をそういう形で作らざるを得なかったのかということに注目しなければいけない。

結論からいえばイーストウッドはディカプリオにエドガーを演じさせながら現在のアメリカ社会に警鐘をならしている。J.エドガーが体現しているのはアメリカそのものなのだ。

少なからぬ評論家が指摘するように、ロシア革命後の1920年代のアメリカは9/11以降のアメリカとそのヒステリックさにおいて酷似する状況だった。

その中エドガーは左翼系過激派を押さえ込むために「情報を一極集中」させ、時と場合によっては「超法規的措置」も厭わない体制で「正義」の名の下に「悪」を粛清する。その結果暴力的権限を手にし、アメリカ大統領さえ脅迫できる立場になり暴走する。

911以降アメリカでは憲法に抵触するとも理解できる「超法規的措置」的愛国者法が制定され、当局に「情報が集中」するようにした。そして「正義」の名のもとアルカイダやイスラムを「悪」とみなし、大量破壊兵器を持っていないということがわかっていたにも関わらずイラクに攻め込むという暴挙に出るのだ。

本作が興行収入的に苦戦している理由のひとつは明確だ。それは主人公のエドガーに対して感情移入しづらいからだ。もちろん様々な葛藤は描かれる。しかし彼にとって不幸な様々な事象を考慮してなおエドガーの暴走ぶりはとうてい共感できない。嫌な奴だ。そしてそういう風に観客に思わせることこそがイーストウッドの狙いなのだ。

「エドガー、嫌な奴だよね。最悪だよね。でもそれって今のアメリカじゃない?」

この問いかけを観客に投げかけるために、作中に登場するエドガーはリアルな存在でなければならなかった。物語を面白くするために人物像を脚色していくとエドガーに現在のアメリカを投影しづらくなる。「だってあれってフィクションでしょ」と言われることは避けなければならなかった。

それゆえイーストウッドは史実にこだわる。エンディングでも史実と取材に基づいていることをわざわざクレジットしているのもそのためだろう。

その結果地味で大きなカタルシスのない物語になる。しかしだからといって救いが提示されないわけでもない。
ラストでエドガーが地に堕ちかけるとき、彼に無報酬の愛情で手を差し伸べる人がいる。それは長年のパートナーだったクライドと、駆け出しの大変なときから隆盛を誇った時期まで変わらず秘書としてサポートしてくれたヘレンだ。

映画のラストでは心臓発作を経てよぼよぼに老けたクライドがエドガーを包み込む。そしてヘレンが原始的な方法でエドガーのことを守る。

映画冒頭から監督は暗喩的にITに懐疑を示すが、このシーンでイーストウッドが本当に大切なものは何かと考えているかということにひとつの明示を与えている。最後、一番困っているときに手を差し伸べてくれるのは、力をもったものでもなければハイテクなものでもなく、長年のリアルな付き合いによって培われる人間関係(コミュニティー)だということだ。

本作は興行的な成功は収めないだろう。アカデミーなどの賞レースでもどこまで受賞できるかは怪しい。

しかしクリント・イーストウッドが80歳を過ぎてなおこの映画を撮らざるを得なかったということの意味を是非アメリカ人には考えて欲しい。


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