2011-02-10

大相撲八百長とサンデル教授




昨日のTBSラジオ「Dig」で大相撲の八百長について特集されていました。

基本的には主張は私がちょっと前にBlogで書いたのと同じく大相撲伝統擁護論に寄ったもので(一応中立は心掛けていましたが、出演者全員が擁護派だったので、全体的にはそういう論調に)、意を得たりという感じも強かったのですが、まずは面白いと思った発言をご紹介。

「そもそも行司は部屋に所属しているのだし(知らなかった!)、審判部の親方もそれぞれ部屋に属しているのだから、それで西洋のスポーツ的中立を求める方が無理だ」というようなことを仰っていたのはノンフィクションライターの高橋秀実氏。御意。

この他にも色々と発言がでます。
「相撲の立会いは行司の掛け声で始まるものではありません。お互いが間合いを計って始めるのです。つまり相手のことを慮(おもんばか)る気持ちは相撲の根底にあります」
「一年中同じ相手と対戦します。当然お互いのことよく知ったもの同士ですから、7勝7敗で千秋楽を迎えた相手が負け越したら十両転落だったら『子供も生まれたばかりだし可哀相だな』という気持ちは生じてしまうものです」
とか。

逆にリスナーからの投稿で、
「幕内力士の談合的注射(=八百長)で、どれだけの十両力士が煮え湯を飲まされ、失望し廃業していったか」という意見もありました。

これらを聞いて「おお、サンデルじゃないか!」と思ったのです。

マイケル・サンデルとは「ハーバード白熱教室」で昨年ブームをおこしたハーバード大学の教授。「トロッコ問題」とかのわかりやすい例題とディスカッションを喚起する授業手腕で一躍日本でも有名になりましたが、彼はいわゆるコミュニタリアン(共同体主義者)の論客で、その政治思想の授業をしていたわけですよね。

簡単にいうと、合理的な利益ばかりを追求する功利主義者の考えも個人の自由に至上の重きを置くリバタリアンの主張もどうしても腹落ちしない局面が出てくる。その間を埋めるのが「共同体的何か」ではないかという思想。

そして小泉改革の負の側面がでてきたり、リーマンショックで市場経済のマイナス面が見えたりしたし、無縁孤独社会が問題となっていた2010年の日本には、共同体に価値を見出すこの思想が一定以上響いたとサンデル人気を分析する人は少なからずいます。

そこで話を戻すと、「大相撲」こそサンデルの提唱する「共同体的何か」を持ち合わせていると思ったのですよね。

古典的自由主義のリバタリアンだったら、八百長ってのは絶対にないですよね。個人の自由が保障されていなければいけないわけですし、その結果の果実も不可侵なわけですから。

次に「最大多数の最大幸福」を標榜する功利主義的観点から立つとどうでしょうか。これは恐らく八百長に対してニュートラルなのではないかと思うわけです。まず八百長によって十両転落を免れて喜ぶ力士が一人いる。それは同時に幕内昇進を阻まれた力士が一人いるというわけですよね。つまりイーブン。もちろん新しい活きのいい力士の上がるハードルが高まるという大相撲活性上のマイナスもありますが、力を落としてきた人気力士が十両転落し引退に追い込まれるというリスクが減ることはプラスといえるわけです。

それでは「共同体主義」的にいうとどうなるのでしょう。まずは共同体主義というものを咀嚼するとそれはトップダウン的なシステムにもボトムアップ的な権利の主張にも任せられないということなんですね。

だからこそ宮台真司氏がよくいうところの「エートス」を共有する中間共同体の存在が大事になるということです。そこに「共同体的何か」が介在するはずだという考えです。

これを相撲に置き換えると、「毎回ガチンコでリバタリアン的にやったって怪我ばかり増えて、みんな力士生命を縮めるだけだぞ。本気を出すのは本当の勝負どころだけでいいじゃないか」ということになり、「お客さんは強い力士が勝つところがみたいんだ。顔の知っている幕内力士を観に来ているんだ。だからある程度彼らに長らく活躍してもらうということはお客様へのサービスにもなり、ひいてはそれが収入と言う形で相撲協会に還元されるのだからそれでいいじゃないか。それが嫌だったら、お客さんが観たいと思うような圧倒的強さを身に着けろ。でも安心していいぞ、この共同体にいたら雨風はしのがせてやるし、飯もたらふく食わせてやるから」ということです。

上記の意見に反論も色々あるでしょうが、それを正面切って否定できる人はいるんでしょうかね。

もちろん先に挙げたように注射のため幕内に上がれず廃業して悔しい思いをした力士もいるでしょう。でもそれは共同体の二重性で、大相撲という共同体の中にさらに「幕内」と「十両」という二つの利益の相反する部分のある共同体があるわけですから発生しうる問題だとも言えますけど、同時に「大相撲」ならびにその発展という観点でみれば同じ船に乗ったもの同士ですよね。そういう共同体には結びつきには一定以上の機能はあるはずです。

ネット難民、ワーキングプア、年金問題、無縁社会など現在日本が抱える問題は色々ありますが、大相撲という組織は少なくとも衣食住は保障しますし、働いて結果さえ出したら相当の給料は保証されている。さらに退職金基金はしっかりしているし、年寄株を取得できれば部屋を継ぐこともできます。

習慣にいささか独自性はありますが、少なくとも昭和以降は現行に近い制度でかなり長い間機能し、そして国民を喜ばせていました。

これをサンデル教授のいう「共同体」と言わずになんというのでしょうか。

というわけで今後相撲協会はどうすればいいのでしょう。まあ公益法人を目指したいというのですから、賭博とか暴力団と結びつく形の八百長はまずいですよね。それならば経営幹部には大相撲出身ではない経営のプロを入れた上で「金銭の授受が発生する八百長は厳禁。発見し次第即刻解雇」とし、いっそのこと「大相撲には『八百長』はないが、日本古来の『慮り』や『あうん』はある」と宣言するのはどうでしょう。

そして「『大相撲』は地域共同体が崩壊しかけている日本に新たに『共同体』の形を提言し、未来へ夢を与える組織だ」と再定義してしまうとか。

ちょうど今度休場するのですから、「Dig」でもいっていたように新燃岳の被災地まで行って瓦礫を取り除いたり、火山灰の払いなどに協力し、そして横綱の土俵入りを見せて見舞うなんてなかなかいいんじゃないかと思います。

あんまり神経質に四角四面になるよりも、それくらい開き直った方がかえって受け入れられやすいと思うんですけどね。どうでしょう。


what's "my wife's camera"?

No comments:

Post a Comment