2011-01-31

【映画評】"The King's Speech"



"The King's Speech"(日本語サイト「英国王のスピーチ」
監督:Tom Hooper 主演:Colin Firth

本年度のアカデミー賞最多ノミネートで俄然注目を増した"The King's Speech"、映画自体の出来はもちろん素晴らしいが、同レース戦線で"True Grit"とともにライバル視されているのがデビッド・フィンチャーの"The Social Network"というのはとても興味深い。

本作のあらすじは公式サイトからも確認できるので至極乱暴にに説明すると、英国王ジョージ5世の次男でありながら内気で吃音だったヨーク公がひょんなことから王位を継承することになるという物語。折りしも時代はラジオ全盛を向かえ、リーダーとしてラジオ演説は必須となる。心配した彼の奥さんが風変わりなスピーチセラピスト・ライオネルを見つけ出し治療に励む中、ヒトラーが世界征服に乗り出す。ラジオ演説で全英国民に団結と覚悟を求めなければいけない英国王、さていかにという内容だ。

映画は美しい構図に支えられた映像、全編にわたる美しく効果的なクラシック音楽、説明的にならないが過不足ないシャープな脚本、そして俳優陣の見事な演技に支えられている。

演出は全体的に抑制が効いており、ラストの演説シーンに向け一切の無駄な盛り上げは見せない。ヨーク公が王位を継承するまでの顛末や、ヒトラーという化け物に挑まなければいけないことをもう少しドラマチックに描くことを好む人もいるかも知れないが、Hooperはそういう手段を取らず、最後のスピーチの静かな感動に向けて物語を静的に進行させていく。

こう書くと本作はヨーク公ことジョージ6世が様々な困難を乗り越えて英国をまとめあげる真の国王として成長していく物語かのように聞こえる。事実そういう側面もなくもない。しかし本作を現代において特別な作品たらしめるのはそれだけが理由ではない。

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以下、完全なるネタバレ(もしくは過剰解説)になるので、もしこれからニュートラルな状態で作品をみたい方は鑑賞後にお読みください。
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さて本作の最大の山場はラストのスピーチのシーンだが、一番大切なシーンはウェストミンスター寺院で戴冠式のリハーサルの日にバーティー(ヨーク公のあだ名)がライオネルとやりあうシーンだ。

映画を通じてバーティーはライオネルと何度かぶつかり、そのことによって自分の過去を克服し成長していくのだが、このシーンは特別な意味を持つ。

ライオネルの素性を知ったバーティーが彼を、学位も資格もなく特別な訓練も受けていないくせに適当なことをして自分をそそのかしたとなじる。

バーティーが最高に激昂した時振り返るとライオネルはエドワード懺悔王の王座に座っている。「一体全体どこに座ってるんだ」と怒り出すバーティーにライオネルは「王座がなんぼのもんじゃ」とやり返す。

そして二人はやり合う。
「話を聞け!」
「なんでキミにそんなことを言われなければいけないんだ」
「神の名のもとにだ!私は王様だぞ」
「いや、違う!自分で違うっていったじゃないか。王様になんてなりたくないって言ったじゃないか。それなのになんで私がキミのいうことを聞かなくちゃいけないんだ」
「私には聞いてもらう権利がある!」
「なんでそんな権利があるんだ」
「一人の人間としてだ。私には言いたいことがあるんだ!(A man! I HAVE A VOICE!)」

こここそが本作の肝なのだ。
ウェストミンスター寺院というイギリス国教会最高の権威ある場所で、その頂に立とうとするものとオーストラリアというイギリス本土の人から見れば片田舎出身の俳優崩れが対等にやり合う。

激しいやり合いの末、ようやくバーティーが王位継承者という立場ではなく一人の男(A man)となるのだ。そして彼が伝えるべきは彼自身の心からの言葉だということに気づかされる(I HAVE A VOICE)。

このシーンの冒頭でバーティーは「キミは信頼と完全に対等な関係を求めてきたじゃないか」とライオネルを責めるが、この一句を放った瞬間に初めてこれが実現されたのだ。

そこには地位や権威もない。そしてこれこそが2011年の現在にこの映画がなぜ大事な意味を持つかという理由でもある。

権力や権威そのものが大事なのではなく、その正当性は国民の支持によって担保されているというのが現在の民主主義の考え方だ。だから国民の一人ひとりがきちっと「自分自身」を持ち「声」を上げることが必要なのだ。そして統治権力が不正に力を行使した場合は国民がそれを正す権利が保障されていなければならない。

上記は民主主義の教科書的説明に聞こえるかも知れないが、そういう理想的な状態はなかなか訪れることはなかった。統治権力は暴力装置を有しているのに対し、国民はあまりにも無力だったからだ。しかし最近ついに国民が対抗する「力」を獲得したのだ。

それがインターネットであり、ソーシャルメディアだ。Wikileaksは統治権力のデタラメを暴き、Facebookの存在が30年続いたムバラク政権をも追い込んでいる。

つまり国民が「力」をしたことによって初めて民主主義が実現される可能性がでてきたのだ。

ここで注目したい。冒頭で述べたとおり今年のアカデミー作品賞には本作と並んで"The Social Network"が挙げられている。アプローチは違うがともにこの問題と密接に関係した作品だ。

"The Social Network"では価値判断こそされていないが、明確にエスタブリッシュ(=権威)とIT勢力(フラットでオープンな世界を望む勢力)が対比されている。

そして本作では「権威というものに縛られる前にまず一人の人間として存在し、きちっと声を上げることが大切なのだ」と伝える。

このことは決して本作が「権威」を否定するというものではない。そのことは二つのことから読み取れる。

ひとつはライオネルがヨーク公を呼ぶ呼称だ。本作では彼は「バーティー」という呼び方と「陛下(Your Majesty)」という呼び方をしている。基本的には「バーティー」と呼ぶが二人の関係に距離が開いたときは「陛下」と呼ぶ。そしてまた「バーティー」に戻るのだが、最後のスピーチが終わった後、再び「陛下」と呼ぶのだ。

これはもちろんライオネルからの「立派な王様になられましたね」というメッセージでもあるのだが、同時に権威のあるアーキテクチャ自体は否定していないということでもある。

そしてもうひとつはバーティー自身の台詞から読み取れる。それは物語の前半、夜会に行く前に娘たちに聞かせる創作のおとぎ話からだ。

それは魔女によってペンギンに変身させられた王様の話だ。その王様は腕がなくなってしまったので、ふたりのお姫様を抱きしめられなくなったことをとても悲しく思っていた。その後王様は南極に飛ばされたものの無事家に帰ってくる。

「帰宅してお姫様たちが彼にキスをすると彼は何に変身したと思う?」バーティーは娘たちに聞く。娘たちが「ハンサムな王子様!」と声をそろえると、「残念。アホウドリでした。でもアホウドリの羽は大きくて二人のお姫様を包み込むことができてよかったとさ」といって娘たちを寝かしつける。

想像に難くないがこの寓話は本作の大切な暗示だ。それを理解するにはアホウドリが何のメタファーなのかを知る必要がある。

アホウドリには二つの意味がある。西洋では伝統的に航海中にアホウドリに追いかけられると幸運があるという幸運の象徴としての意味だ。しかしその伝統的な意味とは別に精神的呪縛、不吉のメタファーとしての意味も同時にあるのだ。

この寓話は最後アホウドリがお姫様たちを抱きしめるというところで終わるが、寓話の王様とはバーティー自身のことだ。そしてお姫たちが何を意味するかといえばもちろん国民だ。つまり物語の最後でバーティーが国民を抱えて生きていくことを暗示している。

しかし国民を包み込むのは英雄的な存在ではなく、幸運にも不幸にもなりうる存在だ。結果のいかんに関わらず、とにかく引き受けることを覚悟して映画が終わるということだ。

本作ではバーディー自身が王という権威の形を引き受けるということに一切の否定的ニュアンスは含まれていない。つまりライオネル同様アーキテクチャとしての権威は否定しないながらもおもねることなく、自我をもってきちんと声を出していくことの難しさと美しさを語っているのだ。

それゆえ本作は1930年代を舞台にした映画にも関わらず、21世紀の今日でも十分心に響く普遍性を持つ作品に仕上がっているのだ。

<追記>
ジョージ6世の本当のスピーチをYoutubeで聴くことができる。作中では一部割愛されているが、それ以外の部分は映画は忠実にスピーチを再現している。


what's "my wife's camera"?

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