2011-01-17

オバマにみる共同体のリーダー。



先日もBlogで触れましたが、Tucsonでの銃乱射事件、余波はなかなか大きいようです。

その中、オバマ大統領が入院中のGiffords議員を見舞った後にアリゾナ大学で行ったスピーチが話題になっています。

「大統領就任後最高のスピーチ」だとか「この事件を機にオバマは浮上し、ペイリンが終わった」など言われるくらいです。スピーチそのものは感動的で素晴らしいものなので是非見て頂きたいのですが、このスピーチを見てオバマのスピーチの直接の内容の素晴らしさ以外に二つのことを思いました。

ひとつはスピーチの長さです。Youtubeの映像は34分程度で、実際のスピーチも30分は超えています。おそらく持ち時間は30分だったのでしょう。

今もし日本で何か大きな事件が起きたとき、日本の首相が30分もの追悼スピーチをすることがありえるでしょうか。秋葉原の通り魔事件の時、福田元首相がどこかで追悼スピーチをしたということを聞いたことはありませんし、あれだけ言葉を操ることに定評のあったポピュリズムの申し子小泉純一郎元首相でさえ附属池田小学校事件のあと国民の記憶に残るスピーチはしていません。

この差は何なんでしょう。もちろんアメリカでは議員が負傷したということはありますが、それだけではないように思えます。大統領制と議院内閣制という制度の差がこれを説明しているようには思えません。

政治家の言葉がどんどん大事になってくるとは昨今日本でも言われています。にも関わらず、官僚の書いたペーパーを棒読みするだけ。他方のオバマにももちろんスピーチライターはいるでしょう。しかし映像を見る限り、彼はメモには目を落とすものの原稿を読んでいるという印象はありません。

被害者の名前とどういう人物かということを話すときも進行を確認する程度で、明らかに原稿を読むというような野暮はしません。これらはオバマ個人のスキル云々とかスピーチライターの手腕云々とかいう話ではありません。上手い下手はあるでしょうが、アメリカの指導者は皆オバマ的リーダーシップを発揮しようとするのに、日本の指導者には一切それがないのはどういうことなのでしょうか。

そしてもう一つ気づいたのが、オバマが「我々アメリカ人は」とか「アメリカ人として」という言葉をよく使っていたということです。比してわれわれが「我々日本人は」とか「日本人として」ということはほとんどありません。ましてや政治家がそういう言葉を使うことは聞いたことがありません。

そういう言葉をあまり多発すると「右傾化」という烙印を押されてしまうのかも知れません。しかし「日本」というひとつの共同体のメンバーとしての「日本人」に対して一つの行動規範を求めるということはリーダーならばむしろ当然するべきではないかと思うわけです。

日本人としての誇りや矜持を国民に問い、求めたからといってそれが右翼だとか軍国主義に通ずるわけではありません。むしろ日本以外の世界中の国はそういうことをしています。なぜそういう問いかけをすることから逃げるようになってしまったということを日本人はもう一度深く考えてみるべきでしょう。

望もうが望むまいが、日本というのは一つの共同体です。そしてそこには指導的役割を担うリーダーも必要ですし、またメンバーも共同体の一員としての自覚が問われます。

現在の日本は難しい問題が山積しています。それらの問題を乗り切っていくには、今一度「日本」をひとつの共同体として見直し、そしてその共同体を指導していくリーダー像というものを真剣に考えなければいけないのかも知れません。


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