2011-01-07

慶応評議員改選とサンデル先生。



安西慶応前学長がNHK会長職への要請を受諾したというニュースを聞いて、「なんで理工バックグラウンドの慶応の塾長が」とちょっと不思議に思ったのと同時に「へえ、慶応の塾長ってそんなにエラいんだ」とも思いました。

そして同時に評議員選というものを思い出しました。慶応の評議委員会といのは慶応の最高意思決定機関としてかなり力のあるものらしいのですが、四年ごとの評議員の改選というのがそれなりの大騒ぎになります

大企業に勤めていれば上司からプレッシャーをかけられ、集票ノルマを課せられたりするという話も聞きます。要は猟官運動というか選挙運動が相当激しいわけです。

大企業のトップの金も名誉も地位もあるような方々がこぞって評議員になりたがるわけです。私ごときでは評議員になることがどれだけ名誉なことなのか、どれだけ実利があるのか、はたまたそれらの方々がどれだけ母校に貢献したいという熱い気持ちがあるのかを察することさえできませんが、とにかくすごい騒ぎです。

さてここで何もその大騒ぎを糾弾するつもりはまったくありません。むしろ興味があるのは、なぜそのような大騒ぎが成立しうるかということです。

ある大企業のトップが評議員選に出馬しようとしましょう。もちろん出るからには当選したい。だから部下を呼びつけて「何とか集票せい」と檄をとばすかも知れません。しかし部下はそれに乗ってあげる必要は全くありません。

もちろんノルマを課せられてそれを果たせなかったら社内的に厳しい立場になるというようなことは考えられますが、原則論でいうと社長にせよ会長にせよ、企業の個人がその出身校の評議員になるかならないかということは経営とは関係のない個人的なことで、そういう私事に会社のリソースを使うことは株主代表訴訟にさえ発展しかねない問題なわけです。

しかし必ずしも出馬している人が檄をとばしているとも限りません。出馬するトップが同窓出身の部下を呼びつけて「今度、評議員に出馬することになったよ」と一言いえばそれだけで何万人規模の会社が一丸となって動く可能性があるというとことがポイントなのです。

たとえばその会社が常に評議員を出し続けている会社だったり、ライバル会社からも出馬する人がいたりしたらなおのことでしょう。全社一丸となってはおろか、関係会社、取引先までをも巻き込んでの一大騒動になる可能性さえでてきます。

このことは何を意味しているかといえば、それは「会社共同体」が機能しているということに他なりません。誰に言われるまでもなく、会社のトップの意見を忖度して組織が一丸となってまわりまでを巻き込んで動きだすわけですから。

そしてこの「会社共同体」というのはなにかといえばそれは社会学的にいえば「中間共同体」ということになるわけです。
中間共同体というのは国家という統治単位でもなく、個人という単位でもなく、その中間に位置する共同体のことです。多くの欧米社会ではキリスト教などの宗教がその受け皿となるのですが、日本の高度経済発展期ではこの会社共同体がおそろしい程の機能をもってこの役割を果たしていたのです。

会社で現役の要職の方に何か不慮のことがあれば、葬儀は社葬になったり、そうでなくとも会社関係者用受付が別途出て社員が交代で受付をやったりということが当たり前のように行われていました。結婚式の主賓にろくに話したこともない会社の部署の重役を招くということも当たり前です。

このことの是非はとりあえず棚に上げ、なぜこのこういうことが成立しえたかを考えるてみるとそれは「会社共同体」というものが機能していたということに他なりません。

理性的に考えれば自分のプライベートの一つの結実である結婚式によく知りもしない会社のお偉いさんを呼んで偉そうなことを言って欲しくはないはずです。しかしそれが平然と行われていたのはそれが社会学者宮台真司が好んで使うところの「エートス」に裏づけされていたからです。

その「会社共同体」的「エートス」とは「立派な『大企業』に就職したら、一生懸命その会社に奉公して役に立つ。そしてあわよくばその中で頭角を現し出世する。そうでない場合でもとりあえずマジメに一生懸命勤めていたら一生面倒を見てもらえる」という一つの社会常識に基づくもので、それゆえに少々不合理と思えるものでも自己正当化し、それを目的としてまい進したり、周囲もよくわからないオエライサンに足代まで持たせて結婚式に出席してもらって有難がるわけです。

もちろんそれらのことは合理不合理という文脈でとらえれば不合理です。でも「会社共同体」という「エートス」が機能している限り、そういったことを「不合理」と一刀両断することもできないのです。

そして冒頭で申し上げた慶応の評議員選の会社ぐるみの大動員はその結集ともいえるわけです。

つまり社長だか会長だかが慶応の評議員になろうがなるまいが本来は会社としては何の関係もないはずです。そんな運動にエネルギーを割いている暇があるならより良い製品を開発したり、より良いサービスを提供したりする努力をするべきだというのが合理です。しかし「会社共同体エートス」のもとでは実は一大学の猟官運動もそれなりの合理性を勝ち得てきたわけです。

「おお、お前あの時はがんばったな。おし、じゃあその要領でこのプロジェクトもひとつきちっと仕切ってくれよ」とか「ああ、こんな立派な方が主賓に来てくださるなんて、XXさんのお嬢さんは立派なところに嫁ぎなさったなあ」とか。

でもいうまでもなくそういう「会社共同体」はかなり崩れつつあるわけです。慶応の評議員選がどうかは知りませんが、日本の経済発展の停滞により(これを小泉政権のせいにする言説も多々ありますが、それは歴史観を欠いた意見だと私は思います)今や「会社共同体」はジリ貧です。

終身雇用も怪しいですし、年功序列もままなりません。派遣社員などの労働力や海外の工場などの力をいかにうまく使うかは経営上の必須課題です。

つまりここで言いたかったのは、かつて慶応の評議員選の激しさに象徴されるような「会社共同体」という「中間共同体」は完全に崩壊しつつあり、そのアルタネティヴ(=代替)がまだ提示されていない状態にあるということなのです。

日本の民主党はもちろん提示できていません。しかし中間共同体なくしては日本は沈む一方というコンセンサスもできつつあるという気がするのです。その第一波が「三丁目の夕日」に象徴される「地域共同体」への憧憬であり、第二波が昨年のハーバード大学のマイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室のブームだったと思うわけです。

サンデル教授は功利主義者やリバタリアンを批判する共同体主義の論客として有名ですが、そんなことを知らない一般視聴者までもがあの番組に心酔したのは、やはり時代の閉塞感の必然があったからでしょう。

しかしサンデル教授に賛同しようがしまいが、慶応の評議員選が盛り上がろうが下火になろうが、もし日本に新しい受け皿としての中間共同体が必要だとしたら、まだ誰もその明確な答えを提示できていないのが現状です。

共同体主義に解を求めるのなら、ハイレベル(=上位概念)の議論だけでなく、一刻も早く具体的な共同体の提示と設計が求められるのはいうまでもないことでしょう。

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