2011-01-31

【映画評】"The King's Speech"



"The King's Speech"(日本語サイト「英国王のスピーチ」
監督:Tom Hooper 主演:Colin Firth

本年度のアカデミー賞最多ノミネートで俄然注目を増した"The King's Speech"、映画自体の出来はもちろん素晴らしいが、同レース戦線で"True Grit"とともにライバル視されているのがデビッド・フィンチャーの"The Social Network"というのはとても興味深い。

本作のあらすじは公式サイトからも確認できるので至極乱暴にに説明すると、英国王ジョージ5世の次男でありながら内気で吃音だったヨーク公がひょんなことから王位を継承することになるという物語。折りしも時代はラジオ全盛を向かえ、リーダーとしてラジオ演説は必須となる。心配した彼の奥さんが風変わりなスピーチセラピスト・ライオネルを見つけ出し治療に励む中、ヒトラーが世界征服に乗り出す。ラジオ演説で全英国民に団結と覚悟を求めなければいけない英国王、さていかにという内容だ。

映画は美しい構図に支えられた映像、全編にわたる美しく効果的なクラシック音楽、説明的にならないが過不足ないシャープな脚本、そして俳優陣の見事な演技に支えられている。

演出は全体的に抑制が効いており、ラストの演説シーンに向け一切の無駄な盛り上げは見せない。ヨーク公が王位を継承するまでの顛末や、ヒトラーという化け物に挑まなければいけないことをもう少しドラマチックに描くことを好む人もいるかも知れないが、Hooperはそういう手段を取らず、最後のスピーチの静かな感動に向けて物語を静的に進行させていく。

こう書くと本作はヨーク公ことジョージ6世が様々な困難を乗り越えて英国をまとめあげる真の国王として成長していく物語かのように聞こえる。事実そういう側面もなくもない。しかし本作を現代において特別な作品たらしめるのはそれだけが理由ではない。

+++
以下、完全なるネタバレ(もしくは過剰解説)になるので、もしこれからニュートラルな状態で作品をみたい方は鑑賞後にお読みください。
+++

さて本作の最大の山場はラストのスピーチのシーンだが、一番大切なシーンはウェストミンスター寺院で戴冠式のリハーサルの日にバーティー(ヨーク公のあだ名)がライオネルとやりあうシーンだ。

映画を通じてバーティーはライオネルと何度かぶつかり、そのことによって自分の過去を克服し成長していくのだが、このシーンは特別な意味を持つ。

ライオネルの素性を知ったバーティーが彼を、学位も資格もなく特別な訓練も受けていないくせに適当なことをして自分をそそのかしたとなじる。

バーティーが最高に激昂した時振り返るとライオネルはエドワード懺悔王の王座に座っている。「一体全体どこに座ってるんだ」と怒り出すバーティーにライオネルは「王座がなんぼのもんじゃ」とやり返す。

そして二人はやり合う。
「話を聞け!」
「なんでキミにそんなことを言われなければいけないんだ」
「神の名のもとにだ!私は王様だぞ」
「いや、違う!自分で違うっていったじゃないか。王様になんてなりたくないって言ったじゃないか。それなのになんで私がキミのいうことを聞かなくちゃいけないんだ」
「私には聞いてもらう権利がある!」
「なんでそんな権利があるんだ」
「一人の人間としてだ。私には言いたいことがあるんだ!(A man! I HAVE A VOICE!)」

こここそが本作の肝なのだ。
ウェストミンスター寺院というイギリス国教会最高の権威ある場所で、その頂に立とうとするものとオーストラリアというイギリス本土の人から見れば片田舎出身の俳優崩れが対等にやり合う。

激しいやり合いの末、ようやくバーティーが王位継承者という立場ではなく一人の男(A man)となるのだ。そして彼が伝えるべきは彼自身の心からの言葉だということに気づかされる(I HAVE A VOICE)。

このシーンの冒頭でバーティーは「キミは信頼と完全に対等な関係を求めてきたじゃないか」とライオネルを責めるが、この一句を放った瞬間に初めてこれが実現されたのだ。

そこには地位や権威もない。そしてこれこそが2011年の現在にこの映画がなぜ大事な意味を持つかという理由でもある。

権力や権威そのものが大事なのではなく、その正当性は国民の支持によって担保されているというのが現在の民主主義の考え方だ。だから国民の一人ひとりがきちっと「自分自身」を持ち「声」を上げることが必要なのだ。そして統治権力が不正に力を行使した場合は国民がそれを正す権利が保障されていなければならない。

上記は民主主義の教科書的説明に聞こえるかも知れないが、そういう理想的な状態はなかなか訪れることはなかった。統治権力は暴力装置を有しているのに対し、国民はあまりにも無力だったからだ。しかし最近ついに国民が対抗する「力」を獲得したのだ。

それがインターネットであり、ソーシャルメディアだ。Wikileaksは統治権力のデタラメを暴き、Facebookの存在が30年続いたムバラク政権をも追い込んでいる。

つまり国民が「力」をしたことによって初めて民主主義が実現される可能性がでてきたのだ。

ここで注目したい。冒頭で述べたとおり今年のアカデミー作品賞には本作と並んで"The Social Network"が挙げられている。アプローチは違うがともにこの問題と密接に関係した作品だ。

"The Social Network"では価値判断こそされていないが、明確にエスタブリッシュ(=権威)とIT勢力(フラットでオープンな世界を望む勢力)が対比されている。

そして本作では「権威というものに縛られる前にまず一人の人間として存在し、きちっと声を上げることが大切なのだ」と伝える。

このことは決して本作が「権威」を否定するというものではない。そのことは二つのことから読み取れる。

ひとつはライオネルがヨーク公を呼ぶ呼称だ。本作では彼は「バーティー」という呼び方と「陛下(Your Majesty)」という呼び方をしている。基本的には「バーティー」と呼ぶが二人の関係に距離が開いたときは「陛下」と呼ぶ。そしてまた「バーティー」に戻るのだが、最後のスピーチが終わった後、再び「陛下」と呼ぶのだ。

これはもちろんライオネルからの「立派な王様になられましたね」というメッセージでもあるのだが、同時に権威のあるアーキテクチャ自体は否定していないということでもある。

そしてもうひとつはバーティー自身の台詞から読み取れる。それは物語の前半、夜会に行く前に娘たちに聞かせる創作のおとぎ話からだ。

それは魔女によってペンギンに変身させられた王様の話だ。その王様は腕がなくなってしまったので、ふたりのお姫様を抱きしめられなくなったことをとても悲しく思っていた。その後王様は南極に飛ばされたものの無事家に帰ってくる。

「帰宅してお姫様たちが彼にキスをすると彼は何に変身したと思う?」バーティーは娘たちに聞く。娘たちが「ハンサムな王子様!」と声をそろえると、「残念。アホウドリでした。でもアホウドリの羽は大きくて二人のお姫様を包み込むことができてよかったとさ」といって娘たちを寝かしつける。

想像に難くないがこの寓話は本作の大切な暗示だ。それを理解するにはアホウドリが何のメタファーなのかを知る必要がある。

アホウドリには二つの意味がある。西洋では伝統的に航海中にアホウドリに追いかけられると幸運があるという幸運の象徴としての意味だ。しかしその伝統的な意味とは別に精神的呪縛、不吉のメタファーとしての意味も同時にあるのだ。

この寓話は最後アホウドリがお姫様たちを抱きしめるというところで終わるが、寓話の王様とはバーティー自身のことだ。そしてお姫たちが何を意味するかといえばもちろん国民だ。つまり物語の最後でバーティーが国民を抱えて生きていくことを暗示している。

しかし国民を包み込むのは英雄的な存在ではなく、幸運にも不幸にもなりうる存在だ。結果のいかんに関わらず、とにかく引き受けることを覚悟して映画が終わるということだ。

本作ではバーディー自身が王という権威の形を引き受けるということに一切の否定的ニュアンスは含まれていない。つまりライオネル同様アーキテクチャとしての権威は否定しないながらもおもねることなく、自我をもってきちんと声を出していくことの難しさと美しさを語っているのだ。

それゆえ本作は1930年代を舞台にした映画にも関わらず、21世紀の今日でも十分心に響く普遍性を持つ作品に仕上がっているのだ。

<追記>
ジョージ6世の本当のスピーチをYoutubeで聴くことができる。作中では一部割愛されているが、それ以外の部分は映画は忠実にスピーチを再現している。


what's "my wife's camera"?

2011-01-30

人が好き?モノが好き?



高校時代、ある人から
「文系に進むか、理系に進むかを決めるのは簡単。人が好きなら文系。モノが好き なら理系。無人島でも好きなモノに囲まれて生きていければ幸せといとい人は理系」ということを言われました。

それを聞いたとき「アホか、誰もいないところで平気で生きていける人なんているわけないじゃないか」と思ったのを記憶していますが、そのことを仲のいい友だち(オシャレさんで、それなりに女の子にもモテル奴)に話したところ「オレ、好きなものに囲まれていれば平気」って言ってました。私は厳しく追求したのですが、それでも彼は「うん、やっぱり平気だと思う」といいました。「ウソだ」と思ったのでしたが、そんな彼はその後理系に進学しました。

現在では日本的「文系」「理系」というカテゴライズに疑問を感じていなくもないのですが、それでも「人好き」と「モノ好き」という傾向はあるのかも知れません。

そういう意味では私は完全に「文系」なのでしょう。そしてありがたいことに人に恵まれた人生を過ごしてきました。人に触発され、人とともに、人に認められたくすごしてきたように思います。

しかしグアムにきて少し変わりました。仕事柄、人々がでかけて出会うようなシチュエーションで働かなくてはならず、仕事上で出会う人はなかなか表面的な付きあいの域をでません。昔ながらの気のおけない友だちもいないですし、東京と比べるとグアムはやはり圧倒的に小さく、面白いシーンも少ないわけです。

・・と思ってなかば諦めにも近い心境でいたのですが、昨日なかなか面白い人と出会うことができました。比較的最近オープンしたレストランの共同オーナー。ご自身前政権のスタッフとして政府で働いており、ご主人も別レストランチェーンを経営するグアムの実業家だということもあり、レストランマーケティングの話をしていてもかなり面白いです。

そう、もちろんグアムにも面白い人はいくらでもいる。それを日々の雑事にかまけて自分から動きもせず「面白い人との出会いがない」と嘆くのはやはり完全にこちらに落ち度があるわけで。

そしてそういう面白い人に「こいつとだったらまた会って話してもいいな」と思われるようにこちらもテンションをあげながら自己研鑽していかければいけないんだよなあ。





what's "my wife's camera"?

2011-01-29

W4 心のベストテン第一位は?



今週はオバマの一般教書演説がありましたが、演説自体はTucsonの銃乱射事件後のものの方がよかったということもあり次点。

というわけで今週の心のベストテン第一位は「日本国憲法」。詳しくは火曜日のBlogに書いたのでご参照頂きたいのですが、日本人として日本の将来を憂いたりするのなら憲法くらいはやはり読んでおきたいところ。10分くらいあれば読めるものなので。

私自身卒業してから一回も読んでなかったくせに色々偉そうに言っていたことの反省も含めて。

what's "my wife's camera"?

2011-01-28

「対岸の家事」



最近のPCは随分アタマがよくなったとはいえ、それでもまだ変換ミスは起こります。

今日は「対岸の『火事』」と打とうと思ったら「対岸の『家事』」と出てきてしまいました。
しかしこれが存外含蓄に富んでいる。

特に共働きのアナタ!これから結婚しようとするアナタ!家庭円満を望むなら、一度この言葉をちょっと真剣に噛みしめてみるといいかも知れません。

what's "my wife's camera"?

2011-01-27

結局Facebookってなんなのよ?



幽霊部員をやっていた時期が長かったのでいつ入会したのかは覚えていませんが、それにしても最近Facebookへの友だち申請が増えています。それは映画「ソーシャル・ネットワーク」の影響でしょうが、日本でもFacebookへの注目が集まっているのは間違いないでしょうね。

すると当然「Facebookってなに?」とか「Mixiとどうちがうの?」って話になります。

ちょっと前ですが、TBSラジオのDigで「Facebookってどうなの?」という特集がありました。

その特集でFacebookを映画をも含めた色々な観点から切っていたのですが、ちょっと不満が残ったというか消化不良でした。

その原因の一つは「実名」問題です。一生懸命Facebookの凄さを説明しようとするとき、どうしてもMixiやGreeなどとの違いを見出そうとしてしまうために実名登録を強調するのでしょうが、そのために却って本質的な議論が抜けているような気がします。

Facebookの一番の本質はそれが「社会インフラになりつつある」ということです。

そう、電気や水道と一緒で社会インフラです。「電気の何がそんなにいいの?」と聞かれたらちょっとすぐには答えにくいかも知れません。「冷房が使えて暑い日本の夏でも快適になるよ」とか「電気がなかったらテレビも見られないじゃない」とか色々あるでしょう。

でも議論をそのレベルに矮小化させてしまうと「冷房は体に悪いからそんなの却ってない方がいい」という人もいるでしょうし、「私はテレビみないから電気はいらないわ」という人も出てきてしまうかも知れません。

同じような議論がFacebookを巡って起こっている気がするんですよね。

「何がそんなに面白いの?」いやいや面白いからやってるわけではないのですよ。「じゃあ何なの?」と問われて考えた結果、一番似ているものは「住所」です。もう少し付け加えるのなら「ハイパーな住所」。

そのことを説明する前にまず私はFacebookをどう使っているかについて説明しましょう。入会したのは大分前でいつだったかさえ覚えていませんが、先述のとおりずっと幽霊部員でした。いや、今でもあまりアクセスしません。それでもFacebookはインフラだと思うのです。

なぜかというと、色々なものをFacebookに収斂させることができるからです。たとえば私はTweetやBlogの更新が自動的にFacebookにUpされるように設定しています。

人によってはFlickrなどの写真、Youtubeなどの動画を自動的にUpさせるように設定させている人もいるでしょう。もちろんFoursqureだって設定できます。とにかくFacebookは世界のWeb上での主だったサービスのプラットフォームになっているわけです。

だから私は普段は自分からはFacebookを見に行きません。しかしメールで「誰々が友だちの承認を求めています」と来たときや「誰々があなたのPostをLikeしています」と来てたまに観にいくとそこで友だちの近況をたまたま目にすることができたり、「ひょっとしてこの人はお友だち?」みたいなSuggestionを受けたりして意外な人と繋がったりもします。

ここでFacebook=ハイパー住所論に戻ると、FacebookというプラットフォームがあるからWeb上の自分のすべてのアクティビティーを収斂させることができるし、したいのならそれを友だちと共有することもできる。まあEvernoteがストック的Lifeログなら、FacebookはFlow的Lifeログなわけです。

さらに住所を公開することによって友だちは年賀状を出すこともできるし、個人的なメッセージを送ることもできるし、駄話もできる。もう少しコミットしたければそこに遊びにいってちょっかいを出すこともできる。そして公開しておけば、損なわれかけた縁が復活することもある。

そういう色々な使い方をすることによって「楽しい」ということになるかも知れません。でもそれはFacebook自体が楽しいものだということではなく、そのプラットフォームを使ってユーザーが楽しんでいるということです。

だから「Facebookって何がそんなに楽しいの?」という質問は「住所って何が楽しいの?」という種の質問に似ているわけです。別にFacebookは楽しいものではなく、便利なプラットフォームに過ぎないわけですから。

そしてだからこそ「実名」じゃないとあまり意味がないわけです。それなのに「実名は日本人になじまない」と議論するのはちょっと的外れなわけです。住所のあるところに表札を掲げないならまだしも、偽の名前を掲げたらOpportunity lossは生じます。まあ、名前を大々的に出さないまでも少なくともメールアドレスは普段使っているものを使わなければプラットフォームとしての機能を果たしません。

「Mixiじゃなんでダメなの?」と聞く方もいるかも知れません。全然ダメじゃないです。MixiでもGreeでもかまいません。機能的にもFacebookやTwitterの機能を真似てどんどん進化していますし。

でもやっぱり圧倒的にFacebookでやる利点は大きいんです。一つはユーザー数。全世界で6億人以上のユーザーがいるのは凄いことです。日本でも今後どんどん増えるでしょう。

「別にオレ海外に知り合いいないし」というかも知れません。でももしあなたが何かのアニメに関することをよくBlogで書くとします。そのBlog記事に外国人がアクセスしてくることは少ないかも知れませんが、Facebookだとその可能性はかなり高まります。

恐らく日本人でもWebの自動翻訳ソフトを使っている方は多いでしょうが、海外の方で自動翻訳ソフトを使って日本語の記事を読む方も少なくありません。

それを機に海外の人とあらたにつながりができるかも知れません。それがビジネスや恋愛に発展する可能性だってなくはないのです。

それからもう一つFacebookの優位性はデファクトスタンダード問題です。「事実上の世界標準」ですね。
現在日々新しいWebサービスが増えています。ある人にとってはとても便利なものもあるでしょう。そのサービスが世界的なものであれば、ほとんどの場合即座にFacebookに連携できるようになります。

LifeログとしてのSNSを考えたときこれは便利です。ちょっとネットで検索すれば連携させる方法がすぐに出てきて、Facebookに収斂させられる。恐らくこのあたりの優位性はGreeやMixiが太刀打ちできるところではないでしょう。

余談ですが、このディファクトスタンダード問題を考え私は昨年長年使ってきたメールアドレスからgmailにメインのアドレスを変更しました。このことによって利便性は高まっています。別のスタンダードのひとつになりつつあるiPhoneとの連携もとてもスムーズですし。

話を戻すと、Facebookは別に面白いものではありません。もちろん使って楽しむ方法はいくらでもあります。でも決してやらなければいけないものではありません。

それでもアカウントを取得すること自体は無料なのですから、少しでも興味があるのなら是非取得してみてください。気づいたら使い勝手のいいプラットフォームに変わっている可能性もありますから。


what's "my wife's camera"?

2011-01-26

一般教書演説



数日前からアメリカのニュースではオバマが行う「State of the Union address」が話題になっていました。

どんな演説なんだろうと思って調べたらこれが大統領の「一般教書演説」のことだったんですね。いやあ知りませんでした。

この演説、もちろんYoutubeで見られるのですが、一時間を超える長いものです。
まあリーダーが一時間も演説をすることの凄さは以前このブログでも書いたのでここでは書きませんし、一般教書の内容の解説はいくらでも専門家がしてくれるでしょうし、私の感想などを書いてもしょうがないでしょうからここでは一つこの演説を観てみようと人にマメ知識。

Wall Street Journal This MorningのPodcastで聞いたことですが、今回の一般議会演説は議員たちの席次が注目されているらしいです。

この演説での席次は基本的に自由なのですが伝統的に共和党は共和党、民主党は民主党で固まって座る慣わしがあります。しかし先日のTucsonの乱射事件を機に無意味な対立はやめようとい動きも強まってきており、民主党系の人の中で「分かれて座るのはやめよう」という運動がでてきたようです。

その運動に呼応する共和党系の議員も出てきたようですが、その結果は若干提唱者の想定外になったようです。各議員が相手の議員の中で政治的に差し障りのない相手を探してペアになって座るという現象が出てきたというのです。

このことをリポーターは「まるでプロムみたいにね」といっていたのは笑えました。プロムとはアメリカの高校生の卒業ダンスパーティーで一大イベント。男女ペアでの参加が前提なので、直前になると男子は誰を誘うか緊張し、女の子は誘ってもらえるかどうか気もそぞろになるというものです。

まあ、全員が全員マッチングするわけではないでしょうが、このことによって会場の席次が従来とは違うものになるのは間違いありません。そのことによって今まででしたら大統領の発言に民主党議員が全員スタンディングオベーションで拍手しているのに、会場の反対側に座っている共和党議員は苦虫を噛み潰したような顔をしてムスっと座っているという明白な対比は見られなくなるだろうということでした。

というわけで私はオバマの演説に耳を傾けながらも、スタンディングオベーションの分布にも注目しながらYoutube映像を見ました。

するとなかなか味わい深い。

科学技術やイノベーションの大切さを述べた後、そのための家庭の果たす役割の大きさについて「スーパーボウルの勝者になることだけが賞賛に値するのではなく、科学コンテストの勝者も賞賛に値すると私たちは子供たちにしっかりと教えていくべきだ」という内容を話したときは満場で総立ち。

「クリーンエネルギー」の重要性を述べ多くの議員が立ち上がった中、しかめっ面で座っていたのは共和党の石油まみれの人なのかなと思ったりします。

慎重な議会運営が要求される中、Tucsonのスピーチ同様全体的に共和党に気を使った発言も多い中、健康保険制度改革のことになると「健康保険産業が患者を食い物にしないように」という強い表現を使い、それに対して民主党系思しき議員が割れんばかりの拍手でスタンディングオベーションをし、共和党系議員は我知らぬという顔をしています。

そういう観点からこの演説を見てみるのも面白いかも知れません。

というか日本の政治家には是非みてもらいたいものです。もちろんスピーチの技術だけを競うのはポピュリズムだという意見もあるでしょうが、政局にがんじがらめで国民さえ説得できないような政治にはもううんざりです。

対立政党を責め立てるだけの政治家の言葉なんてもう聞きたくありません。国民は対立政党に対して厳しい言葉を吐くだけではなく、この国をどうよくするかという建設的な言葉を聞きたいのです。

先に挙げた国民皆保険問題の下りでもオバマは共和党に一撃を与えながらもユーモアを交えながらフォローすることを忘れません。

「この中にも若干新しい保険制度の法案に不安を持っている人がいるという噂が流れてるみたいだね(場内から笑い)。ならばこそ言いたいんだけれども、私は法案がよくなるんだったらどんなことでもするから。ケアがより手厚くなって、負担が少なくなるようなアイディアを持っている人がいるなら、(党を超えてでも)是非一緒に取り組んでいきましょう」

うーん、言語の差に加え、私の訳の至らなさもあってなかなか彼のユーモアも含みながらも毅然としたスピーチのニュアンスは伝えにくいのですけれども(原文はこちらから)、とにかく見事なんです。もちろん実際の議会運営は相当厳しいでしょうけれども、少なくともあの場で野次を飛ばしたら飛ばした方が男を(女も)下げるというような雰囲気なんですよね。

せっかくNHKが高い日本の電波使って国会を中継しているんだから、大臣の答弁も官僚のペーパーを読むものだけじゃなくて、せめてこれくらいのものになったら国民ももっと政治に関心を持つのに。


what's "my wife's camera"?

2011-01-25

あらためて日本国憲法を読んでみました。




私は日本国憲法をまともに読んでみたことはありませんでした。

一応大学では法学部政治学科に在籍していたのですが、「オレは法学部じゃなくてアメリカンフットボール部だ」と嘯いていたような学生だったので、憲法を読んだことはあったかも知れませんが、それはあくまで試験をやっつけるため仕方なくであって、味わったり意味を考えてみたりすることなんてありませんでした。

ところが最近、videonews.comなどを観て「日本をめぐる様々な問題を考えるにつけては、ちょっと憲法くらいは一度きちんと読んでおいた方がいいんじゃないか」と思ったわけです。

そこでiPhoneからiAppliストアに行ってみたら「基本六法」というアプリが無料でダウンロードができたので早速ゲットしました。

ところで憲法ってなんでしょう。もちろん国の大方針、原理原則を定めるものなのですが、同時に国家の統治権力の暴走を防ぐためのフレーミングであるとも言われています。

私はこのことを知りませんでした。このことを意識して読むと憲法前文からかなり味わい深いのです。

まずは
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

と始まります。「われらとわれらの子孫のため」と「子孫」のことが明記されているのは大事です。また最初の文章で「諸国民との協和」を謳い、「再び戦争の惨禍が起ることのないやう」と明言しているのもすごいですよね。

そして
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
と続きます。

おお、ここですね。やはり統治権力は「国民の厳粛な信託による」ものといってます。「その権威は国民に由来」すると。なるほど。「国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」。

法律を学ぶ人で日本国憲法を簡にして要で素晴らしいものだという人が結構いますが、かなり削ぎ落とされて凝縮されたものなので、このままでは全文を書き写すだけになってしまいそうなので興味ある人には自分で読んでもらいたいのですが、前文の後半は日本は「恒久の平和を念願」するとあり、「本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と結ばれるのです。

なんかすごくないですか。確かに「世界に誇るべき憲法だ」という人がいるのもわかります。

その後、「第1章 天皇」「第2章 戦争の放棄」「第3章 国民の権利及び義務」などと続き、個々の条文は「何人もウンチャラカンチャラ」といういかにも感じのものなのですが、その中で表れる第25条なんてちょっとしびれてしまいます。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

この条文の美しさと味わい深さは学生時代にはまったく気づきませんでした。

「第4章 国会」「第5章 内閣」「第6章 司法」と三権について明記した後、「第7章 財政」「第8章 地方自治」「第9章 改正」ときて「第10章 最高法規」で憲法の重さを再度確認し「第11章 補則」で終わります。全11章103章です。

こうやって改めて読んで、その味わいを書いているからといって私は護憲派ではありません。むしろ国会改革のため憲法を見直す必要もあると思っていますし、これからの安全保障を考える上で9条さえも真剣に議論していかなければいけないと思っています。

しかし改憲だろうが、護憲だろうが、大人になった後に憲法を読んでみると色々な発見があります。「日本の憲法なんてどうせ戦後アメリカがやっつけで作って押し付けてきたもんだろ」という方もいるでしょう。それはある程度真実を含んだ意見かも知れませんが、そういう風に言うような人にこそ是非一度さっと目を通してみてもらいたいものです。

とにかく大人になってから日本国憲法をあらためて読むというのはそれなりに面白いので皆さんにもお薦めしたいと思います。先に貼ったリンクの他にもネット上で簡単にいくらでもみつかります。

最後にもう一つだけ条文を紹介させてください。第12条です。

「第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

「龍馬伝」や「坂の上の雲」を観て志をもって明治維新を駆け抜けた先人を憧憬するのも悪くありませんが、私たちにもきちんと大事なミッションが課せられていることにもう少し自覚的であってもいいのかも知れません。


what's "my wife's camera"?

2011-01-23

What we know.



色々なことを学んできたり、経験してきたりするうちに私たちは自然のうちに「ああ、これってこんなもんだよな」などとわかった気になってしまいがちです。

今日、パーティーで会ったPaulはもともと顔見知りの警官。

でもパーティーのホステスの近所に住んでいたPaulが説明してくれたGuamの景色に、それまでまったく知らなかった情報もたくさん入っていました。

この狭いグアムですら、わかったつもりになっていて知らなかった顔が沢山あります。

私を含めてマスメディアを浴びるようにして育ってきた世代が時代の中心にいる現実もあります。

でも今一度足元に目を向けてもいいんじゃない、と思わされた一日でした。

what's "my wife's camera"?

2011-01-22

W3 心のベストテン第一位は?




今週は悩みました。
レオパレスに行って一泊してリラックスした小旅行か一ノ瀬響のニューアルバム「Erathrise 2064」か。

うーん、悩んだ結果もろもろ考えて「Earthrise 2064」。
同アルバムの詳細についてはBlogで音楽評を書いているのでよかったら参照してください。

what's "my wife's camera"?

2011-01-20

2011-01-19

【音楽評】アルバム「Earthrise 2064」(kyo ichinose)




*********************************************
アルバム「Earthrise 2064」(kyo ichinose/ nature blissmu-nest
*********************************************

少しでも彼の音楽に馴染みのあるものなら、本日リリースの一ノ瀬響のアルバム「Earthrise 2064」の出だしを聴いた瞬間に「おや」と思うだろう。

一曲目の「Catetude#1」は力強く上昇するような真っ直ぐさで始まる。リフレインされるコーラスは「ミ・ファ・ソ・ラ・シ」と繰り返す。何のてらいなく上昇していくメロディーに乗り繰り返される「ミ・ファ・ソ・ラ・シ」に新たな音階の始まり、つまり新世界を予感せずにはいられない。

自作の他、CMや他アーティストとのコラボレーションなどでも活躍する現代音楽家の一ノ瀬の楽曲は「音」にとてもコンシャスで構築的であるのが特徴的だ。彼の美意識に基づいて精巧に構築された音楽は気持ち好さを与えるのと同時に常に一定の緊張感を与えていた。

時に故意的にひっかかりのある音や不協和音を入れることによって孤高の壁を築き、その中に飛び込み身を委ねることのできる人以外には関心を示さないというようなエクスクルーシヴネスがあった。

しかし本アルバムでは「Catetude#1」のみならず、すべての曲が極めて真っ直ぐでオープンなのだ。それはあたかも酸いも甘いもすべて認めた上で人生を肯定して目覚めた朝かのように開けた世界である。

6曲目の「Beams of Love」ではエレキサウンドで真っ直ぐかつ静かに愛することの高揚感と希望感を感じさせ、5曲目の「Longings and Gravity」では悲しみをヴァイオリンの音色に乗せどこまでも深いところへ向け漕いでいく。

そうした真っ直ぐな人生賛歌は7曲目の「Si」に象徴される。「Si」はイタリア語で「Yes」、そうこれ以上ない世界に対する肯定だ。そして同時に「Si」は「シ」でもある。ドレミのドの前の音、「シ」。つまり新しい世界の誕生を予感させる音だ。静謐な美しいメロディーに乗せ、閉塞感に包まれる現在の社会をも肯定しつつ新たに誕生する美しい世界を確信しているのだ。

この世界をも肯定する強さを勝ち得たのは一ノ瀬が作家としてのみならず、人間として何か大きなものを乗り越えたのではないかということを想像させる。

そして音楽性が真っ直ぐでオープンなものになったにも関わらず、それは決して単調になったということではない。高品質のヘッドフォンで音の細部まで聴きたくなる彼の熟練した音の構築により紡がれる美しいメロディーは健在だ。

それらこのアルバムの特徴がすべて結集したのが表題作でもある9曲目の「Earthrise 2064」だ。

間違いなく彼の代表作のひとつとなるだろう本作は一ノ瀬的音の構築の楽しさで溢れているのと同時に夜明け感と希望に満ちている。そしてその希望はそのオープン性に強く依っている。おそらく以前の一ノ瀬ならこの曲にも少なからぬ引っ掛かりを散りばめただろう。しかし新生一ノ瀬にはその必要がないのか、真っ直ぐに希望を語ることから逃げていない。

後年に一ノ瀬響ディスコグラフィーを振り返ってみると本作は大きな転換点となった作品だという風に位置づけられるだろう。

そして私はその転換を好ましいものと歓迎する。
これからの一ノ瀬の活動が益々楽しみだ。


what's "my wife's camera"?

2011-01-18

Thank you, Steve.



アップルのCEOのSteve Jobsが無期限の休養に入ることを発表しました。Steveは2009年にも肝移植の治療のため休職したいたことがありましたが、その時は半年の期限付きでした。しかし今回は無期限ということもあり、Steveの引退もささやかれており(ま、これも毎度のことですが)、アップル社の株価も下落するという騒ぎです。

私自身このBlogでアップルならびにSteveのビジョンを絶賛してきましたが、私自身別に筋金入りのアップルユーザーではありません。パソコンもずっとPCでMacを持ったことはありませんし、そもそもIntelに勤めていたこともあったことからみても基本的にはPCユーザです。

にも関わらずAppleならびにSteve Jobsにやられてしまったのは2007年の1月のMacworldの基調講演をPodcastでSteveがiPhoneを発表する姿を観てからでした。

そこで発表されたガジェットは私が思い描いていた理想のガジェットのさらに上をいくもので、そしてそのワクワクを誰よりも素晴らしく伝えたSteveに完全にやられてしまったのです。

以来完全にApple=Steve Jobsという立場のApple Watcherになっていました。
だからSteveがいる限りはAppleは安泰で、逆に彼が引退するときがAppleの危機であると思っていました。

そして今、その危機が訪れるかも知れない状況になっています。アナリストは代理を務めるクック氏は十分にマネジメントも掌握しているし、向こう2,3年でる製品に関してはすでにSteveがきちっと監修しているものしかでないので当分は問題はないといいます。

しかしSteveが去ってしまったら、Appleから何かが致命的に損なわれてしまうことは間違いありません。

でもだからといって私はSteveの休養についてどうこういうつもりはありません。たとえそれが彼の引退に繋がったとしてもです。

我々はすでに十分Steveから恩恵を受けました。彼は明らかに私たちの人生をエキサイティングなものにしてくれました。

それは彼が膵臓癌になった後も、肝移植をしたあとも彼は素晴らしいものを発表し続け私たちの人生を豊かにし、そしてワクワクさせ続けてくれたお陰だと私は思っています。

膵臓癌を押して、肝移植をしてまで現場に復帰した素晴らしいワクワクを私たちに与えてくれたSteveが「もう休みたい」といった時、私たちはどういう態度を取るべきなのでしょう。

もちろん証券アナリストならそのことによって生ずる株価の変化について言及する必要はあるかも知れません。でも一ファンとしてSteveの提供する世界観に熱狂した身としてはただただ「ありがとう」というしかないのではないでしょうか。

Steve以後のAppleの世界については、その後の経営者や消費者ひとりひとりが責任をとるべき問題です。

今はただただSteveに言いたいです。

"Thank you, thank you so much for what you have brought to the world, Steve. We really love you and we appreciate you from the bottom of our heart. Please, please take a good care of yourself with your family. We really love you, Steve, thank you for what have you done."

what's "my wife's camera"?

2011-01-17

オバマにみる共同体のリーダー。



先日もBlogで触れましたが、Tucsonでの銃乱射事件、余波はなかなか大きいようです。

その中、オバマ大統領が入院中のGiffords議員を見舞った後にアリゾナ大学で行ったスピーチが話題になっています。

「大統領就任後最高のスピーチ」だとか「この事件を機にオバマは浮上し、ペイリンが終わった」など言われるくらいです。スピーチそのものは感動的で素晴らしいものなので是非見て頂きたいのですが、このスピーチを見てオバマのスピーチの直接の内容の素晴らしさ以外に二つのことを思いました。

ひとつはスピーチの長さです。Youtubeの映像は34分程度で、実際のスピーチも30分は超えています。おそらく持ち時間は30分だったのでしょう。

今もし日本で何か大きな事件が起きたとき、日本の首相が30分もの追悼スピーチをすることがありえるでしょうか。秋葉原の通り魔事件の時、福田元首相がどこかで追悼スピーチをしたということを聞いたことはありませんし、あれだけ言葉を操ることに定評のあったポピュリズムの申し子小泉純一郎元首相でさえ附属池田小学校事件のあと国民の記憶に残るスピーチはしていません。

この差は何なんでしょう。もちろんアメリカでは議員が負傷したということはありますが、それだけではないように思えます。大統領制と議院内閣制という制度の差がこれを説明しているようには思えません。

政治家の言葉がどんどん大事になってくるとは昨今日本でも言われています。にも関わらず、官僚の書いたペーパーを棒読みするだけ。他方のオバマにももちろんスピーチライターはいるでしょう。しかし映像を見る限り、彼はメモには目を落とすものの原稿を読んでいるという印象はありません。

被害者の名前とどういう人物かということを話すときも進行を確認する程度で、明らかに原稿を読むというような野暮はしません。これらはオバマ個人のスキル云々とかスピーチライターの手腕云々とかいう話ではありません。上手い下手はあるでしょうが、アメリカの指導者は皆オバマ的リーダーシップを発揮しようとするのに、日本の指導者には一切それがないのはどういうことなのでしょうか。

そしてもう一つ気づいたのが、オバマが「我々アメリカ人は」とか「アメリカ人として」という言葉をよく使っていたということです。比してわれわれが「我々日本人は」とか「日本人として」ということはほとんどありません。ましてや政治家がそういう言葉を使うことは聞いたことがありません。

そういう言葉をあまり多発すると「右傾化」という烙印を押されてしまうのかも知れません。しかし「日本」というひとつの共同体のメンバーとしての「日本人」に対して一つの行動規範を求めるということはリーダーならばむしろ当然するべきではないかと思うわけです。

日本人としての誇りや矜持を国民に問い、求めたからといってそれが右翼だとか軍国主義に通ずるわけではありません。むしろ日本以外の世界中の国はそういうことをしています。なぜそういう問いかけをすることから逃げるようになってしまったということを日本人はもう一度深く考えてみるべきでしょう。

望もうが望むまいが、日本というのは一つの共同体です。そしてそこには指導的役割を担うリーダーも必要ですし、またメンバーも共同体の一員としての自覚が問われます。

現在の日本は難しい問題が山積しています。それらの問題を乗り切っていくには、今一度「日本」をひとつの共同体として見直し、そしてその共同体を指導していくリーダー像というものを真剣に考えなければいけないのかも知れません。


what's "my wife's camera"?

2011-01-15

W2 心のベストテン第一位は?




おっす、めっす、きっす!

というわけでいつもとテンションが違うかもしれませんが、「心のベストテン第一位」のW2です。

これは先日も書いたけど、「Sちゃんとの邂逅」です。

先週はバタバタしていて精神的に余裕がなかったから色々な作品に触れる機会がなかったけど、W3はもう少し余裕を持って色々なものに触れたいなあ。


what's "my wife's camera"?

2011-01-14

アメリカが銃規制しない意味がわからない。




アリゾナのショッピングモールでの銃の乱射事件、下院議員も巻き込まれた
こともあり、アメリカでは相当大きなニュースになっています。

日本人の感覚だと「こんなにたくさんの銃の乱射事件があるのに、なんで
もっと銃を規制しないんだ」と思いますよね。

それに対してジャーナリストの神保哲生さんが「ニュース探求ラジオDig」の
中で二つの観点から解説していました。

一つは崇高な理念の点から。

これはアメリカ合衆国憲法の修正第二条を引き合いに出すものです。
修正第二条は国民に民兵を組織する権利を認めるものです。

アメリカ人の多くは歴史的に統治権力としての連邦政府を信じていません。
この辺りのことを話し出すと長くなるのでまた機会があれば別途書きますが、
とにかく少なからぬアメリカ人は連邦政府に対して

「便宜上、仕方がないから統治させるけど、あんたたちの正当性は俺たち
 国民が依託してるからあるってことを忘れるなよ」

と思っているわけです。裏を返せば政府が統治を委託するのに値しなければ
それをひっくり返すのは当然と思っているわけです。

そしてその権利は保証されなければならず、そのためには時と場合に
よっては民兵を組織して政府と対峙する権利さえ保証されなければいけない
という考えに基づくのが修正第二条です。

つまり銃を規制するということは、国民から政府を管理する権利を取り
上げるに等しいと考える人がいるんですね。

共和党の大きな支持母体となっているNRA(全米ライフル協会)は恐らく
こういう立場にたっているのでしょう。

「しかし」と神保さんは続けます。

まあ、こういう崇高な大義名分とは別にアメリカの銃規制のリアリティーは
「泥棒やギャングがすでにたくさん銃を持っているのに、善良な市民の
 銃保有が規制されたらやられ放題じゃないか!」

というもので、そういう現実があるからいつまでたっても銃規制をすることが
できない、ということでした。

昨日Podcastでこのことを聞いたとき「そんなにアメリカ人も単純じゃないだろう」
と思いました。

ところが今日Bloombergの「Businessweek.com」のPodcastを聴いて驚きました。
なんとアリゾナの銃乱射事件が起きた直後、アリゾナ州での銃の販売が
60%伸び、全米でも5%の売上増になったということでした。

それはまさに神保さんの発言を裏付けするものです。
ちょっとショックでした。最悪の負の連鎖です。

大分前に聞いた統計で出自も不明のぼんやりした情報で申し訳ないのですが、
アメリカの銃犯罪の被害者の8割以上が銃保有者だということを聞いたことが
ありました。アメリカの世帯銃保有率が4割弱ということを考えると統計的には
銃を持たないことの合理性は明白だとも思えます。

もう少ししっかりした統計から引くと、全米で銃保有率のトップの州と最も低い
州の殺人率は60%もの差があるのです(もっとも、これは卵か鶏かという議論に
なりえますが)。

日本人の感覚から考えると「銃の保有を許す方がおかしい」となりますよね。

でも実はこれはかなり難しい問題です。これを「銃」ではなく「核」に置き換えて
考えてみると日本人にもわかりやすいでしょう。

誰もが「核廃絶した平和な世界」という大命題には賛成するかも知れません。
でも実際に核兵力を削減しようとしたらこれは相当難しい問題だというのはわかる
のではないでしょうか。

少しずつ削減しようにも各国が平等だと納得できる「少しずつ」なんて簡単に
実現できるわけはありません。

じゃあ一気にと思っても「うちが核を廃絶してもしどこか他の国が隠し持っていたら
どうするんだ」と考えるのは人の常。

この辺りのメンタリティーは核を持たない日本人でも理解しやすいでしょう。
とても難しい問題です。

そしてその難しいことに挑戦し続けてきたのが他ならぬ日本です。憲法第9条という
形をもって。

これは壮大な実験でしたけれども、残念ながら誰も武器や核はおろか、銃さえも
手放そうとはしないというのが現状です。

その中、今日本は数十年前と比べると明らかに防衛力を高めることに世論が
傾いてきています。

私としてはそのトレンドを「軍国的」と一方的に糾弾するつもりはありません。
むしろ個人的には日本の安全保障は根本的に見直されなければならないとも
思っています。

それを考えるとアメリカが銃規制を簡単にはできない現状も他人事ではありません。

どうやったら世界から無駄な血が流されずにすむのでしょうか。
私たちが取り組まなければいけない課題はとてつもなく大きいです。


what's "my wife's camera"?

2011-01-13

Sちゃんとの邂逅。




Sちゃんが2年ぶりにグアムにやってきた。
"ちゃん"づけで呼んでいるけれども、Sちゃんはもう三十も半ばすぎの立派なオジさん。

プロスポーツトレーナーであるSちゃんと知り合ったのはお互いが20代の終わりに差し掛かった頃。Sちゃんは都内のジムのマネージャをしており、私はそこのメンバーだった。

そのジムはパワフルなオジサマ方で溢れていたので、30前のSちゃんは当然のように"ちゃん"づけで呼ばれていたので私もそれに倣った。

Sちゃんはジムがジムを辞めプロスポーツ選手の個人トレーナーに就任した直後、私はグアムに来た。
冬場選手に帯同してグアムに自主トレにくるたびに会い、少しばかりの時間四方山話をし、そしてまた翌年の同じ時期に会うという関係がしばらく続いた。

しかし一般の人の個人トレーナーをしてみたいというSちゃんはそのプロスポーツ選手から離れてしまったため、しばらく会うことはなかった。

そのSちゃんがふたたびその選手を担当することになり、また訪ねてくれた。

歳も近いし、あるひとつの時間を共有した仲ではあるけれども、基本的にはバックグラウンドや考え方などはそこまで共通しているわけでもない。

それでもSちゃんが訪ねてくれるとこんなに嬉しいのは何でなんだろう。別に彼が何かしてくれるわけでもないし(お土産はもらっちゃったけど)、過去に生きるほど老け込んでいるわけでもない。

でも彼に会って他愛もない話をし「ああ、Sちゃんも頑張ってんなあ」と思い、そして自分のことだけで周りまで目が回らなくてもおかしくない状況の彼が忘れずに訪ねてきてくれることに、何ともいえないありがたさと嬉しさを感じるんだよなあ。

やっぱり頑張っている同世代から刺激を受けるのは気持ちが好い。
結局、人なんだよなあ。

what's "my wife's camera"?

2011-01-12

総理ってなんだっけ?




「菅はにはビジョンがない」 「なんだかんだいって小泉はすごかった」 
「一度は小沢にやらせてみたい」

日本の首相について私たちは色々言いますよね。
でも「内閣総理大臣」ってなんなんでしょう?意外とそのことにきちんと
答えられる人は少ないのではないでしょうか。

***

先日、videonews.comに菅首相が出演しました。そこで菅さんが色々
話した末(とはいえ宮台真治氏がしゃべりすぎて、ちょっと消化不良の
ところもなくはなかったのですが)、最後に進行の神保さんが「総理って
いうのは、菅さんが総理になる前に思っていたのと違いますか」という
趣旨の質問をしたところ、十秒近く沈思黙考したあと、

「過去の総理比較的短い任期で辞められた人の原因がなんとなく
わかるんですね。気持ちが萎えるんです。俺はこんなにやってるのにね、
何でわかってくれないんだ。俺はこんなに頑張ってるのになんで評価
されないんだ。色々な思いが伝わらないことで、これ以上やっても無駄だ、
と気持ちが萎えるんですね」

と答えました。

それを受けて神保さんがパーソナリティーを務めるTBSラジオの火曜Dig
では「内閣総理大臣とは?」というテーマで番組を展開していました。

http://www.tbsradio.jp/dig/2011/01/post-643.html

これってかなり素晴らしいテーマ設定だと思いました。というもの菅さんの
Videonews.comの出演が7日の金曜日だったので、Dig的には10日にも
放送がありました。そしてそのテーマは「菅政権の今後のシナリオは?」と
いうものでした。もちろんこのテーマはVideonews.comを受けてのものでは
あるのですが、それでも翌日にその当事者の神保さんがパーソナリティーを
務めるわけですから二日連続でテーマを被らせるわけにはいかない。

スタッフ同士でどういう調整が行われたのかは知りませんが、前日が
ニュースとしての菅政権を扱ったのに対し、この日はその三段くらい上の
レイヤーに行って、「内閣総理大臣とは?」というアーキテクチャ論に
アジェンダセッティングをしたのは炯眼です。

皆さん総理って何か正確にわかりますか。大統領制と議院内閣制の違い
って腹落ちしてますか。まあその辺りの詳しいことはDigを聞いて頂いたり、
Wikiなりで調べてみたりして欲しいのですが、ひとつVideonews.comで神保さんが
またまた面白い指摘をしていました。

菅首相が「やりたいことができない」ということを話したとき、「総理が
やりたいことができないということは何か仕組みがおかしいんじゃないですか」
という内容の指摘です。

これは鋭いです。安倍、福田、麻生、鳩山、そして菅。まあ菅総理が
どこまでもつかわかりませんが、相当危ないところまできてますよね。

もしこれで統一地方選前後に菅さんが辞めることになったら5年連続で
一年以内の政権。これって絶対に個人の資質以外になにかおかしいところが
あると考えた方が自然でしょう。

この5年の総理に対してそれぞれ思うところはあるかも知れませんが、
仮にも一国の首相です。誰かが「なりたあい」といって簡単になれる
ものじゃありません。国のことを真剣に思っている優秀な人や、権力闘争に
命をかけ権謀術策に長けている人たちの中から選ばれているわけです。

彼らはとんでもなく秀でた存在であるわけで、私たち市井のものがエラそうな
ことを言ったり書いたりしても普通に考えれば彼らの方が数十倍優秀で実力が
あると考えるほうが合理的でしょう。

そんな存在である彼らが何もできずに毎年のように一年足らずで首相の座
から降りてしまう。これは個人の資質というよりも首相の選出制度も含めた
日本の議院内閣制(官僚制のあり方も含めて)に問題があるんじゃないかと
一度検証してみる価値は大いにあるのではないかと思うわけです。

****

今、日本は終戦以来最大の変革期に来ています。
色々な言説をみてもようやく「バブルよもう一度」とか「昔はよかった」的
発言が少なくなってきてようやく国民も腹をくくりだしたように思えます。

ここいらで本気で現行の議院内閣制までをも見直すくらいのコペルニクス的
パラダイムシフトが必要なのかも知れません。

もっともそれにはきちんとしたグランドデザインを提示し、それを実行する
強い政治のリーダーシップが必要なのですが、この議論のそもそもの
出だしが強い政治のリーダーシップの不在を回避するにはというもの
なので、そこで出口のない無限ループに陥ってしまうという問題がある
のですが。

嗚呼、どうしればいいんでしょう?

what's "my wife's camera"?

2011-01-11

【書評】「断捨離のすすめ」(川畑のぶこ著)



*********************************************
モノを捨てればうまくいく 断捨離のすすめ」(川畑のぶこ著/同文館出版)
*********************************************

「断舎離」流行っているようですね。

先日知人が「断舎離のすすめ」(川畑のぶこ著)を献本してくださったので、さっそく読んでみました。

「断舎離」という言葉自体はPodcastなどで聞いてなんとなく知ってはいました。そして本書を読む直前にまたまたvideonews.comのマル激オンデマンド第505回で「断舎離のすすめ」の監修をされているやましたひでこさんが出演されており、彼女の話すことがなかなか面白かったので読んでみました。

しかし結論からいうと本書自体にはかなりがっかりしました。それは別に本書に書かれている内容が拙いということではなく、その表現するところがあまりにも薄っぺらだったからです。

本書を簡単に要約すると①かなり思い切ってどんどんものを捨てましょう②そうすれば滞っていたものが流れ出します③思っていた以上にいいことだらけで実践した人はみんなそういいます、ということです。

若干方法論などは書いてありますが、それ以上のことはほとんど書いてありません。
これだけ流行っているのですから「断捨離」関連本を読む人はその程度の前情報はあるでしょう。そういう意味では本書は読むに値しません。まあ、文字に背中を押されることによって前に進める人はそれで十分なのかも知れませんが。

そういうわけで昨日宣言したとおり、本書についてはとてもではないですが書評なぞと呼べるような大それたことは私にはできません。

それでも敢えてここでとりあげたのは「断捨離」という概念自体がなかなか面白いからです。もともとはヨガ思想の断行、捨行、離行、つまり欲望、執着とどう向き合うかという思想から来ているというのは本書でも触れられてはいるのですが、やはりその思想面での踏み込みが極めて弱いのです。

それに対し、videonews.comで観たやました氏はこの概念の提唱者だけあって思想的にもかなり熟慮を重ねている形跡が伺えます。

惜しむらくは同放送中では宮台氏が得意になって自分の片付け哲学を得々と述べてしまい、やました氏の提唱する「断捨離」の奥に潜む哲学を引き出せなかったということです。

まあそもそも宮台氏にMC的進行を求めるのは無理だという前提に立てば、猛獣使いの役目を果たしきれなかった神保氏にもいくばくかの否はあるのかも知れませんが。

というわけでこのダラダラの文章にあえて結論めいたものをつけるとしたら、本書「断捨離のすすめ」は特に読む必要なし。身軽になりたかったら、とにかくどんどん人にあげたり捨てたりすべし。

そしてそれでもまだ興味があるのならやましたひでこ氏の「断捨離」を読んでみたらもう少しましなことが書いてあるかも知れない。

というところです。ちなみに私はやました氏の「断捨離」は読んでいないですし、読むつもりはありませんが。

嗚呼、我ながら書評とは到底呼べない非道い論だなあ。反省。


what's "my wife's camera"?

2011-01-10

【書評】「食品の裏側」(安部司著)



*********************************************
食品の裏側 - みんな大好きな食品添加物」(安部司著/東洋経済新報社)
*********************************************

あらかじめお断りします。
今日、明日のブログは【書評】と称していますが、「評」としては限りなく雑で、
書評の体をなしていません。むしろ感想文に近いのでご了承ください。

というわけで早速。
本書の著者安部氏は長年添加物商社に勤め「添加物の神様」の異名をとった人物。彼が添加物まみれの食品を自分の娘に食べさせたくない!と思い、一念発起をしその商社を辞め、現在の食品がどれだけ添加物まみれか明示したのが本書。

まず始めになぜ「商社勤務の人が添加物の神様?」という疑問をお持ちになるかも知れません。私自身もそうでした。本書を読むと、著者が商社勤務時代、様々な食料関連店へ行きコンサルティングをした上で「それならばこういう添加物を使えば解決しますよ」というような営業スタイルを取っていたので、商社の営業マンながらも添加物に対する知識はひとかどならないのだ。

本書における著者の主張をまとめると下記の通り。

1)現在の市販食品は想像を絶するほど添加物まみれである
2)「添加物」というと何かに添加物を加えて味なり保存性を高めるというイメージがあるが、実際はゼロから添加物を化合することによってつくられる食品も少なからずある。
3)添加物の危険性はまだ人体実験によっては証明されていないが、少なくとも当事者として様々な現場を見てきた立場からいうと、自分の愛する娘には添加物まみれの食品を食べさせようとは思わない。
4)添加物を全面否定する気はない。添加物によって忙しくても安価に手軽に美味しいものを入手することができるようになった。
5)しかしそういうことに無自覚のまま添加物まみれの食品を摂り続けるのはとても危険なので、みんなに自覚的になって欲しい。

というところです。

本書は一冊の本としても十分成立しているが、それでも添加物のおそろしさを知るためには映像の力を借りた方が説得力を増すというのもまた事実だ。

本書を私は知るきっかけとなったのももともとはVideonews.comのマル激オンデマンド第262回「それでもあなたは食べますか」を観たのがきっかけだった。

このインターネット放送では本書の著者の安部氏が出演し、様々な添加物をその場で調合しながらMCの神保氏、宮台氏に試食してもらいながら持論を展開するという内容になっていた。

この番組は衝撃的だった。私が恐らくかなり食べてきただろう豚骨スープベースのインスタントラーメンや、オレンジ色のファンタグレープ、挙句の果てには「いくら風食品」を添加物をミックスするだけで次々と作り上げていくのだ。

コーヒーに入れる「フレッシュ」には一切乳製品は使われていなく、水と油と乳化剤、香料などでできることを簡単に実演してくれる。

これを観たらまずコーヒーに「フレッシュ」は入れられなくなる。でも「フレッシュ」に限らず私たちが普段食べている食品はかなりの割合でこういうものなのだ。

そしてそういうものを避けようと思うと、手間かお金をかけるしかない。

そういうことに目をつぶっていく生き方もあるかも知れない。でも最終的にどういう選択肢を選ぶにしても、こういう事実はまず知っておく必要はあるだろう。

ひとつ本書に対して疑問を投げかけるとすれば、著者が添加物業界を離れてからすでにかなりの年月が経つ。すでにかなりの進歩がなされ、著者の主張するような事実が改善されている可能性がないとはいえなくもない。しかし、少なくとも私がネットで調べた限りにおいては技術的な面で著者に反論している主張は見られなかった。

本書の書かれた事実に対する認識を持つことはとても大切だろう。でもあえて言うのならVideonews.comを観るサブテキストとして読むときに本書は最大の効果を発揮するだろう。

what's "my wife's camera"?

2011-01-09

1000対5の戦い。



少し前からTwitterで社会学者の宮台真司さんをfollowしているのですが、今日始めて宮台さんのTweetが私のTL上に現れました。

内容は宮台さんらしく中間集団についてビギナーにまったく優しくない口調で語っていたものでした。私が一昨日書いたブログと相通ずるものもあったので嬉しくもあったのですが、同時に宮台さんが丁寧に色々なRTに反論していることを面白いと思ったのです。

正直いうと宮台さんに対するRTの中にはそこまで思慮の深くなさそうなものもありました。知らない方のために申し上げると宮台真司さんは現代の屈しの論客のひとりであり、平成の知の巨人です。彼の知識は社会学にとどまらず、歴史、哲学、法律、政治思想、映画、サブカルなど相当な広範囲に渡り、それはどれもかなりの深度を持っています。

つまり彼の知識レベルは化け物級です。その彼に対してチャレンジすること自体は悪いこととは思わないのですが、宮台さんの知識レベルが1000だとしたら、レベルが5くらいにしか達していないんじゃないかと思える人もチャレンジしているわけです。

そして宮台さんがそういう人のRTにも返信しているわけです。始めそのやりとりをみて「そんなTweetにバカ正直に反応しなくてもいいのに」と思ってみていました。

しかししばらく経つとちょっと考えが変わってきました。今までレベル1000のヒトと5の人が同じ土俵に立つ機会はなかったよなあと思ったのです。

それだけレベルの違う人が直接対峙する機会は少ないでしょうし、実際戦ってどれだけ勝負になるのかはわからないのですが、少なくともインターネットの出現によってフラットな土俵が用意されたということ自体には大きな意味があると思うのです。

レベルが1の人と10000の人が同じ土俵にあがると非効率はあるかも知れません。渡辺恒雄氏のように本質を理解せずネット批判をするような人は恐らくこの玉石混交の「石」にしか目がいっていないのでしょう。

たしかに箸にも棒にもかからないような言説もネット上では多々みられますが、少なくともそれが「玉」なのか「石」なのか、「1」なのか「10000」なのかをどこかの知らない「エライひと」に勝手に判断されることはありません。

各人がどの土俵に上がっていくか自分で判断する。実は100しか実力がないのに自らを過大評価して1000の土俵に上がる人もいるかも知れません。でもそのことによって学ぶこともあるはずです。

また自分のことを50くらいだろうと過小評価して隅でこそこそしていると、5000の人からフックアップされるということも考えられます。

実際にはそういうことは少ないかも知れません。気づけば同じような興味、レベルの人たちばかりの集まる土俵が増えるかも知れません。でもそれでもいいんです。大事なのはそこに「権威」が介在しないことなのです。

宮台さんのバカ正直な、そして舌鋒鋭い、反論RTを読み、あらためてインターネットの本質について考えさせられました。


what's "my wife's camera"?

2011-01-08

W1 心のベストテン第一位は?



昨年末「私の2010年」と称して、旧年中に印象に残ったコト、モノ、映画や小説について書いたことがありました。しかし実際書こうとすると存外一年のことなど覚えていないもので、あわてて過去のブログなぞ見返したりしたものでした。

とはいえブログを再開したのは7月からでしたし、東浩紀の「クォンタムファミリーズ」などのように「あっ、この書評はオレの手には追えないな」と思いあえて何も言及しなかった作品もあるので、果たしてあれが「私の2010年」を代表しているのかという不安もなくもありませんでした。

そこで今年からは「心のベストテン第一位」を毎週決めて記録していけば、一年を振り返ったときもう少し精度の高い「私の2010年」ができるのではないかと思ったわけです。

毎週、ノンジャンルで映画でも音楽でもガジェットでもいいから、その週で一番心の振幅の大きかったものを書き留めていく。そして年末にそれらを見返して一年を振り返る。

まあ一年を振り返ることにどれだけの意味があるのかとも思わなくもないのですが、それが何人にも渡って続いていけばそれはそれで一つの価値ある記録になるのではないかと。

というわけで早速2011年、第一週の心のベストテン第一位は-
「Jが突如帰ってしまい、そしてゴハンが喉を通らなくなる」

新年早々なので幸先よくいきたかったのですが、フェアに振り返ってみるとこれが一番心が震えたことでしょう。

Jというのは店の料理人で、彼がある日出勤してきて急に何かにぶち切れて途中で帰ってしまったというのがことの顛末。彼は過去にも何度かそういうことをしていたし、その二週間後には店を辞めることは決まっていたので、普段ならこういうことがあっても「面倒くせえなあ」と思いながら(少しだけ腹を立てながら)淡々と処理していくだけなのですが、この日は駄目でした。

仕事のことで色々ストレスが溜まっていた時期ではありました。ひょっとしたら朝出勤しようと思ったとき車のタイヤがパンクしていたというのも微妙に精神にダメージを与えていたのかも知れません。

とにかく食事をしようとしても全然食欲が湧きません。自慢ではないのですが、私はどんなに嫌なことがあっても食欲だけは失ったことはありませんでした。しかしこの日ばかりはどうしても何も食べる気になれないのです。

そんなことは過去に経験したことがありませんでした。妻がせっかく作ってくれた食事だったので、無理やり少しだけ詰め込みましたが本当に無理やり詰め込むような感じでした。

まあそれだけの話なのですが、そういう風になった事実が結構というかかなりショックでした。というわけでW1の第一位。

やれやれ、来週はもう少し景気のいいトピックになるといいですけどね。


what's "my wife's camera"?

2011-01-07

慶応評議員改選とサンデル先生。



安西慶応前学長がNHK会長職への要請を受諾したというニュースを聞いて、「なんで理工バックグラウンドの慶応の塾長が」とちょっと不思議に思ったのと同時に「へえ、慶応の塾長ってそんなにエラいんだ」とも思いました。

そして同時に評議員選というものを思い出しました。慶応の評議委員会といのは慶応の最高意思決定機関としてかなり力のあるものらしいのですが、四年ごとの評議員の改選というのがそれなりの大騒ぎになります

大企業に勤めていれば上司からプレッシャーをかけられ、集票ノルマを課せられたりするという話も聞きます。要は猟官運動というか選挙運動が相当激しいわけです。

大企業のトップの金も名誉も地位もあるような方々がこぞって評議員になりたがるわけです。私ごときでは評議員になることがどれだけ名誉なことなのか、どれだけ実利があるのか、はたまたそれらの方々がどれだけ母校に貢献したいという熱い気持ちがあるのかを察することさえできませんが、とにかくすごい騒ぎです。

さてここで何もその大騒ぎを糾弾するつもりはまったくありません。むしろ興味があるのは、なぜそのような大騒ぎが成立しうるかということです。

ある大企業のトップが評議員選に出馬しようとしましょう。もちろん出るからには当選したい。だから部下を呼びつけて「何とか集票せい」と檄をとばすかも知れません。しかし部下はそれに乗ってあげる必要は全くありません。

もちろんノルマを課せられてそれを果たせなかったら社内的に厳しい立場になるというようなことは考えられますが、原則論でいうと社長にせよ会長にせよ、企業の個人がその出身校の評議員になるかならないかということは経営とは関係のない個人的なことで、そういう私事に会社のリソースを使うことは株主代表訴訟にさえ発展しかねない問題なわけです。

しかし必ずしも出馬している人が檄をとばしているとも限りません。出馬するトップが同窓出身の部下を呼びつけて「今度、評議員に出馬することになったよ」と一言いえばそれだけで何万人規模の会社が一丸となって動く可能性があるというとことがポイントなのです。

たとえばその会社が常に評議員を出し続けている会社だったり、ライバル会社からも出馬する人がいたりしたらなおのことでしょう。全社一丸となってはおろか、関係会社、取引先までをも巻き込んでの一大騒動になる可能性さえでてきます。

このことは何を意味しているかといえば、それは「会社共同体」が機能しているということに他なりません。誰に言われるまでもなく、会社のトップの意見を忖度して組織が一丸となってまわりまでを巻き込んで動きだすわけですから。

そしてこの「会社共同体」というのはなにかといえばそれは社会学的にいえば「中間共同体」ということになるわけです。
中間共同体というのは国家という統治単位でもなく、個人という単位でもなく、その中間に位置する共同体のことです。多くの欧米社会ではキリスト教などの宗教がその受け皿となるのですが、日本の高度経済発展期ではこの会社共同体がおそろしい程の機能をもってこの役割を果たしていたのです。

会社で現役の要職の方に何か不慮のことがあれば、葬儀は社葬になったり、そうでなくとも会社関係者用受付が別途出て社員が交代で受付をやったりということが当たり前のように行われていました。結婚式の主賓にろくに話したこともない会社の部署の重役を招くということも当たり前です。

このことの是非はとりあえず棚に上げ、なぜこのこういうことが成立しえたかを考えるてみるとそれは「会社共同体」というものが機能していたということに他なりません。

理性的に考えれば自分のプライベートの一つの結実である結婚式によく知りもしない会社のお偉いさんを呼んで偉そうなことを言って欲しくはないはずです。しかしそれが平然と行われていたのはそれが社会学者宮台真司が好んで使うところの「エートス」に裏づけされていたからです。

その「会社共同体」的「エートス」とは「立派な『大企業』に就職したら、一生懸命その会社に奉公して役に立つ。そしてあわよくばその中で頭角を現し出世する。そうでない場合でもとりあえずマジメに一生懸命勤めていたら一生面倒を見てもらえる」という一つの社会常識に基づくもので、それゆえに少々不合理と思えるものでも自己正当化し、それを目的としてまい進したり、周囲もよくわからないオエライサンに足代まで持たせて結婚式に出席してもらって有難がるわけです。

もちろんそれらのことは合理不合理という文脈でとらえれば不合理です。でも「会社共同体」という「エートス」が機能している限り、そういったことを「不合理」と一刀両断することもできないのです。

そして冒頭で申し上げた慶応の評議員選の会社ぐるみの大動員はその結集ともいえるわけです。

つまり社長だか会長だかが慶応の評議員になろうがなるまいが本来は会社としては何の関係もないはずです。そんな運動にエネルギーを割いている暇があるならより良い製品を開発したり、より良いサービスを提供したりする努力をするべきだというのが合理です。しかし「会社共同体エートス」のもとでは実は一大学の猟官運動もそれなりの合理性を勝ち得てきたわけです。

「おお、お前あの時はがんばったな。おし、じゃあその要領でこのプロジェクトもひとつきちっと仕切ってくれよ」とか「ああ、こんな立派な方が主賓に来てくださるなんて、XXさんのお嬢さんは立派なところに嫁ぎなさったなあ」とか。

でもいうまでもなくそういう「会社共同体」はかなり崩れつつあるわけです。慶応の評議員選がどうかは知りませんが、日本の経済発展の停滞により(これを小泉政権のせいにする言説も多々ありますが、それは歴史観を欠いた意見だと私は思います)今や「会社共同体」はジリ貧です。

終身雇用も怪しいですし、年功序列もままなりません。派遣社員などの労働力や海外の工場などの力をいかにうまく使うかは経営上の必須課題です。

つまりここで言いたかったのは、かつて慶応の評議員選の激しさに象徴されるような「会社共同体」という「中間共同体」は完全に崩壊しつつあり、そのアルタネティヴ(=代替)がまだ提示されていない状態にあるということなのです。

日本の民主党はもちろん提示できていません。しかし中間共同体なくしては日本は沈む一方というコンセンサスもできつつあるという気がするのです。その第一波が「三丁目の夕日」に象徴される「地域共同体」への憧憬であり、第二波が昨年のハーバード大学のマイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室のブームだったと思うわけです。

サンデル教授は功利主義者やリバタリアンを批判する共同体主義の論客として有名ですが、そんなことを知らない一般視聴者までもがあの番組に心酔したのは、やはり時代の閉塞感の必然があったからでしょう。

しかしサンデル教授に賛同しようがしまいが、慶応の評議員選が盛り上がろうが下火になろうが、もし日本に新しい受け皿としての中間共同体が必要だとしたら、まだ誰もその明確な答えを提示できていないのが現状です。

共同体主義に解を求めるのなら、ハイレベル(=上位概念)の議論だけでなく、一刻も早く具体的な共同体の提示と設計が求められるのはいうまでもないことでしょう。

what's "my wife's camera"?

2011-01-04

生還。



かつて事業の成功の真っ只中にグアムに遊びに来たAさんとその家族を紹介された。
いかにもエネルギッシュな人で、華やかなことが好きなイケイケとんどんという感じのパワフルな方だった。

好き嫌いが分かれるタイプの人かも知れないが、何でも受け入れるぞという親分肌のところがある他方、存外きちんとした気遣いもされるのが印象的で私はむしろ好意的に思っていた。ただあまりにも経営強気の戦略にはちょっと不安を覚えていた。

私の不精のせいでAさんとの連絡が途絶えてしまってしばらくしてニュースで彼の会社の倒産を知った。少なくともニュースになる規模の倒産だった。

気にかかっていたがどうすることもできなかった。私はAさんの会社の連絡先しか知らなかった。

そのAさんがグアムにやってきた。人づてに聞き、ちょっと挨拶しにいっただけだったけれども、Aさんは生きて帰ってきた。自分が起こした事業がニュースにもなる規模の倒産劇という体験がどれだけの衝撃を与えるかは想像もつかない。

でもAさんは家族とグアムに来られるまでに生き返った。

何はともあれ、おかえりなさい。
一筋縄にはいかない人生だけれども、これからも頑張っていきましょう。

what's "my wife's camera"?

2011-01-02

海の精。



「おお、今日は海が綺麗だね」
家を出る間際に私は妻にいった。

「本当だ!」妻は声を弾ませた。

哀しい知らせを聞いたのはそれから9時間後のことだった。店に食事をしに来てくれたローカルチャモロ人のJが「これからタモンに戻らなきゃいけないんだ。若い子たちがカヤックでパドリングをしていて波に飲まれてしまったんだよ」「えっ、みんな無事なの?」私が尋ねると「一人が遺体で上がって、一人が行方不明なんだ。まだ捜索が続いているからこの後もう一度戻らないとね。

普段はとても静かなリーフの中、海になれたパドラーの一人が亡くなり、そして一人が行方不明となった

犠牲者を飲み込んだ海は、いつもよりも少し猛々しくはあるものの、静かに美しく波を立て続けていた。

what's "my wife's camera"?

2011-01-01

1/365。



元旦を365日ある内の一日に過ぎないと考えるのと、365日の最初の日だと考えるのとで人生に対するスタンスは大きく違ってきそうですよね。

どちらの人にもHappy New Year!!

今年もどうぞ宜しくお願いします。

鶴賀太郎

what's "my wife's camera"?