2011-12-31

20111231



いろいろと怒涛のように過ぎ、今年一年を振り返るポストが書けなかった。
来年こそは真面目にブログ書きます。
みなさん、よいお年を。


what's "my wife's camera"?

2011-12-25

20111225



merry christmas to you all.

what's "my wife's camera"?

2011-12-24

赤鼻のトナカイのヒミツ。



ご存知「赤鼻のトナカイ」

恐らく日本の皆さんに一番なじみのある歌詞は新田宣夫さんの作詞された
こちらではないでしょうか。

***

真っ赤なお鼻のトナカイさんは
いつもみんなの笑いもの
でもその年のクリスマスの日
サンタのおじさんはいいました。

暗い夜道はぴかぴかの
お前の鼻が役に立つのさ

いつも泣いてたトナカイさんは
今宵こそはとよろこびました。
(2番も繰り返し)

***

さて続いて原曲の英詞(カッコ内は私の拙訳)

Rudolph, the red-nosed reindeer
had a very shiny nose.
And if you ever saw him,
you would even say it glows.
(ルドルフという赤鼻のトナカイの鼻は
ピカピカ光っていました。あなたも実際に
みたら思わず「うわっ、光ってる」といって
しまうほどの光りかたです)

All of the other reindeer
used to laugh and call him names.
They never let poor Rudolph
join in any reindeer games.
(他のトナカイは皆彼の名前を口にする
だけで思わず失笑していました。かわいそうな
ルドルフはいつも仲間はずれ)

Then one foggy Christmas Eve
Santa came to say:
"Rudolph with your nose so bright,
won't you guide my sleigh tonight?"
(ある霧深いクリスマスイブの夜、サンタさんが
やってきて彼にいいました。「ルドルフよ、キミの
鼻は光って明るいから、今晩私のソリを先導して
くれないかね)

Then all the reindeer loved him
as they shouted out with glee,
Rudolph the red-nosed reindeer,
you'll go down in history!
(そうすると他のトナカイは皆歓喜に包まれ
「赤鼻のルドルフ!お前は歴史に残るぞ!」
といって彼を愛し始めました)

***

どうでしょう?

全然印象違いますよね。

私は大人になってからこの曲を思い出すとき、いつも
違和感を抱いていました。

「なにこれ、サンタという権威に認められたとたん
みんなが手のひらを返したって話?」と。

もしくは深読みして「これは権威にたやすく迎合する
大衆を揶揄する歌なのか」と。

でもあの牧歌的なメロディーから察するに「欠点だと思って
いるものが、比類なき長所になることもあるんだからね」
という程度の意図しかないようにも思える。

なんだか消化不良な感じ。

だから日本語詞もああいう無難なものにとどめているの
でしょうし、有名な1964年のアニメもルドルフがヒーロー
になるのに別の要素を加えているのでしょうけどね。

クリスマスイブにしょうもないポスト失礼。

what's "my wife's camera"?

2011-12-22

now I'm back.



カメラを壊してしまって以来しばらくブログから遠のいてしまった。
さてまた始動しますか。

what's "my wife's camera"?

2011-12-12

【映画評】"J. Edgar": 「地味で面白みに欠けるイーストウッド最新の秀作」

"J.Edgar"(日本語サイト「J・エドガー」)
監督:Clint Eastwood 主演:Leonardo DiCaprio

レオナルド・ディカプリオ主演のクリント・イーストウッド監督最新作「J.Edgar」は2時間17分の長尺ながら地味で面白みに欠けるものだ。しかしそれでいて紛れもない秀作である。
一見矛盾したこの表現こそがこの映画の本質といえよう。

本作はFBI(アメリカ連邦捜査局)の創設者にて長年長官を務めてきたJ.エドガー・フーバー長官の半生を描いた伝記的映画だ。犯罪、立身出世、コンプライアンス、抑圧された親子関係、ホモセクシャル、メディア操作、権力闘争など様々なテーマが扱われているわりには、派手な銃撃シーンもなければ、歴史を揺るがす新説の提示もなく地味な映画だと断言していいだろう。

その大きな一因はイーストウッド監督が決して史実から離れることない範囲で作品を構成しているところにある。史実にのっとればオリバー・ストーンが「JFK」で提唱したようなスキャンダラスな面白さは作り出しようがないし、他に切れるカードも当然限られてくる。

それでもすべての名声や富を手に入れ終わったイーストウッドが本作をそういう形で作らざるを得なかったのかということに注目しなければいけない。

結論からいえばイーストウッドはディカプリオにエドガーを演じさせながら現在のアメリカ社会に警鐘をならしている。J.エドガーが体現しているのはアメリカそのものなのだ。

少なからぬ評論家が指摘するように、ロシア革命後の1920年代のアメリカは9/11以降のアメリカとそのヒステリックさにおいて酷似する状況だった。

その中エドガーは左翼系過激派を押さえ込むために「情報を一極集中」させ、時と場合によっては「超法規的措置」も厭わない体制で「正義」の名の下に「悪」を粛清する。その結果暴力的権限を手にし、アメリカ大統領さえ脅迫できる立場になり暴走する。

911以降アメリカでは憲法に抵触するとも理解できる「超法規的措置」的愛国者法が制定され、当局に「情報が集中」するようにした。そして「正義」の名のもとアルカイダやイスラムを「悪」とみなし、大量破壊兵器を持っていないということがわかっていたにも関わらずイラクに攻め込むという暴挙に出るのだ。

本作が興行収入的に苦戦している理由のひとつは明確だ。それは主人公のエドガーに対して感情移入しづらいからだ。もちろん様々な葛藤は描かれる。しかし彼にとって不幸な様々な事象を考慮してなおエドガーの暴走ぶりはとうてい共感できない。嫌な奴だ。そしてそういう風に観客に思わせることこそがイーストウッドの狙いなのだ。

「エドガー、嫌な奴だよね。最悪だよね。でもそれって今のアメリカじゃない?」

この問いかけを観客に投げかけるために、作中に登場するエドガーはリアルな存在でなければならなかった。物語を面白くするために人物像を脚色していくとエドガーに現在のアメリカを投影しづらくなる。「だってあれってフィクションでしょ」と言われることは避けなければならなかった。

それゆえイーストウッドは史実にこだわる。エンディングでも史実と取材に基づいていることをわざわざクレジットしているのもそのためだろう。

その結果地味で大きなカタルシスのない物語になる。しかしだからといって救いが提示されないわけでもない。
ラストでエドガーが地に堕ちかけるとき、彼に無報酬の愛情で手を差し伸べる人がいる。それは長年のパートナーだったクライドと、駆け出しの大変なときから隆盛を誇った時期まで変わらず秘書としてサポートしてくれたヘレンだ。

映画のラストでは心臓発作を経てよぼよぼに老けたクライドがエドガーを包み込む。そしてヘレンが原始的な方法でエドガーのことを守る。

映画冒頭から監督は暗喩的にITに懐疑を示すが、このシーンでイーストウッドが本当に大切なものは何かと考えているかということにひとつの明示を与えている。最後、一番困っているときに手を差し伸べてくれるのは、力をもったものでもなければハイテクなものでもなく、長年のリアルな付き合いによって培われる人間関係(コミュニティー)だということだ。

本作は興行的な成功は収めないだろう。アカデミーなどの賞レースでもどこまで受賞できるかは怪しい。

しかしクリント・イーストウッドが80歳を過ぎてなおこの映画を撮らざるを得なかったということの意味を是非アメリカ人には考えて欲しい。


what's "my wife's camera"?

2011-11-12

コンディショニング大失敗。

明日、PICのハーフマラソンを走ります。
というわけで月曜日からにわかにコンディショニングをしてきましたが、昨日結構な風邪を引き完全に失敗です。
今日の回復度合いをみると明日なんとか走れそうですが、タイムよりも完全に完走目標になりそうです。

とはいえ正直いって私のタイムがよかろうが悪かろうが誰も気にしないでしょう。途中棄権するかも知れませんし、レースそのもののキャンセルもありえますが、世界に与える影響は蝶の羽ばたきにも及びません。

でもトップアスリートは大変だよなあ。もちろん自分自身いい結果を残したいでしょうし、結果を出すためにコーチを始め多くの人が関わっています。競技によってはスポンサーなどという形でお金も絡んでくるかも知れません。人気があれば国民の期待なんかも背負っちゃうでしょう。

でも誰でも風邪は引く。もちろんトップアスリートはそういうものの予防も万全なのでしょうが、同時に彼らはドーピング検査があるので迂闊に薬を飲むことも許されない。

ましてオリンピックで金メダルが視野に入るような選手だったらそりゃもう大変。マスコミの煽りで実力以上に期待されちゃう。しかも四年に一度。そりゃ勝負どころで下痢になってもおかしくないですわな。

よかったです、誰にも注目されていなくて。
もし明日のレースを棄権することになったらシレっとやり過ごし、レースそのものが始めからなかったものにしてしまえばいいのですから。

what's "my wife's camera"?

2011-11-09

近所の原発。

まずはこちらのサイトへいって、あなたのお住まいなり学校なり職場から半径10kmのところというとどの辺りになるか検索してみてください。

****

昨日のTBSラジオの「DIg」のニュースで、原子力安全委員会が「原発防災対策の重点区域」を従来の8〜10kmから約30kmまで拡大したというニュースを取り上げていました。このことにより、各原発から30kmの自治体は万が一の事故があった場合に備えて避難計画を事前に立てておくことになったようです。

このことによって考えられる課題もあるようですが、取りあえずは危機管理というからみれば大きな前進のようです。

さて、ここで冒頭のGoogle距離円表示のページに戻ってみてください。
そして検索地点から10kmちょいのところで馴染みのある場所を探してみてください。
私の場合は今グアムのタモンというところにいるので10kmというとアサンビーチ辺りになります。日本にいるとき滞在している横浜のみなとみらいからですと、大体JR川崎駅が10kmです。

ということはですよ、もしアサンビーチなり川崎駅に原発があったとしましょう。そして国なり自治体に「もし大きな事故があったらどうやって避難したらいいんですか」と尋ねたとしたら、今までの基準なら「とりあえずこちらは重点区域ではありませんので大禍はないと思いますが、ニュースなどの情報に気をつけて各自できるだけ安全を確保しながら避難してください」とか言われていたということですよね。

恐ろしいです。アサンにしても川崎にしても「すぐそこ」とまではいかないまでも、「わりかし近く」という感覚です。そこに原発があっても行政は「これだけ離れてれば慌てなくても大丈夫だから」と言ってるわけですよね。

何が恐ろしいかといえば、原発問題以外にも行政が私たちに対して「大したことないですよ」といって済ました顔でいる危険な問題がこの他にも色々とあるだろうということです。原発の後ろにこれだけのウソや欺瞞が隠れていたんですから、他にないって考える方がナイーヴですよね。

この恐ろしい事態に対抗していくには「お上の事には間違いございますまいから」などと悠長なことを言わず、私たちが体制をきちっと監視していき、そして必要に応じて声をあげていくしかないでしょう。

幸いネットも成熟してきて多様な情報が取れるようになってきました。みんなできちっとやっていきましょうね。
政府に色々と委託しているのは私たちなのですからね


what's "my wife's camera"?

性犯罪者の人権について。

昨日、姉貴とちょっとしたいい争いになりました。
話は性犯罪者の人権問題。
何かの流れで性犯罪者の話になり、姉貴は「性犯罪者の人権なんて無視。去勢すべし」と断言していました。

小さな子供を持つ親としては、再犯率が高いとされる性犯罪歴のある人を野放しにされていると想像するだけで許しがたく、被害者に莫大なダメージを与える性犯罪は万死に値するという感覚で発した言葉でしょう。

その気持ちはとてもわかるのですが、酒が入っていたこともあり「人権なんて無視」という言葉に過剰反応してしまいました。そしてちょっと議論を戦わせたのですが、我ながらうまく論点を整理できず家に帰った後もモヤモヤしていました。

そこで性犯罪者の人権についての論点を調べようとモーガン法について調べてみたら下記のようなサイトが見つかりました。
「モーガン法のまとめ @macska dot org」


モーガン法とはアメリカの性犯罪者の再犯を防ぐ目的で制定された法律です。「性犯罪者に発信器をつける」という話など聞いたことがあるかも知れませんが、その根拠がこのモーガン法です。

このブログ「ミーガン法の基礎知識」「ミーガン法の現在」「性犯罪と再犯率」「性犯罪者更生プログラム」と章立てされており、とにかく論点がきちっと整理されていて秀逸です。
また筆者自身がリベラルの立場をとるという風に明言していながらも、極力ニュートラルに両論併記を心がけている姿勢も好感が持てます。

しかし私が姉貴に食ってかかったのはリベラルの立場からでもないですし、個人的にはこのブログの筆者とは異なりミーガン法的アプローチをとるのもいた仕方なしと思う程度に性犯罪を忌むべきものだと考えているので、ここではこのブログの内容については触れません(ただし、本当に一読の価値はありますよ)。

では何に突っかかったかといえば、それは先述したとおり「人権は無視」というセリフです。

以下に昨日きちっと言えなかったことを整理してみましょう。

+++++++

人権を守るということは一般的に考えられているよりもはるかに大事なことです。

憲法でも「基本的人権」は保障されています。ーーと、書くと「そりゃ憲法では基本的人権は大事だって言うに決まってるけど、それを盾に犯罪者を過度に保護するのはおかしいでしょう」という反論が聞こえてきそうです。

では基本的人権を考える前に、まず憲法とは一体何でしょうか。
それは「国家の権限を制限するもの」です。もちろん憲法は国家の基本理念を定めたものでもありますが、基本理念を定めた上で「それを実現する以上の権限は国家は持ちませんよ」というものなのです。

ちょこっとだけ政治思想史のお話。
昔、世界史や倫理の授業でトマス・ホッブズという名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。あるいは社会契約説だとか。

簡単に説明します。昔中世の王様は王権神授説といって「オレは神様のお使いとして統治してるんだから、オレのいうことは神様が言っているもんだと思え」という思想がありました。

でもそれは理不尽だということで出てきたのがホッブズです。
彼は「本来人間は『自然権』という生まれながらに好きなことをできる権利を持っている。でも何のコントロールもしないと下手すりゃみんなすぐに殺し合いになりかねない(=万人の万人に対する闘争)、それじゃマズイからみんなちょっとずつガマンして(自然権の放棄)誰かに上手く仕切ってもらおうぜ」ということを考えます。

そして仕切ってくれる主体を「国家」と考え、仕切ってもらうにあたっての契約が結ばれていると考えました。

そのホッブズに対して「別に万民は闘争しねえよ、もっと自由で平等な存在だよ」といってジョン・ロックとかルソーとかがでてくるのですが、彼らも政府に自然権を一部託しているんだから契約はあるはずだと考え、特ににルソーは「人間が生来もつ自由と平等をより堅固にしてもらうために契約しているんだ」ということを「社会契約論」の中で言ったのです。

自由で平等な人間が、自分が本来もっている権利の一部を放棄してまで仕切らせるんだから、どういう仕切りをみせるのかはっきりと言えよな、といって国家に書かせるものが「憲法」なのです。

だから「憲法は国家との国民の契約書」というように比喩する人もいます。ちなみに他の法律は国家の方から「憲法に書かれたような国にしますので、これだけは守ってくださいね」という(=自然権を制限する)ものです。

ああ、できるだけ簡単に書こうと思ったのですけど、やっぱり長くなってしまいました。でも政治思想史はここまでです。
でもこれでなぜ「基本的人権」という言葉が大事に憲法に記されているかを何となくわかって頂けたでしょうか。

さてもう一度、性犯罪者の人権に話を戻しましょう。
犯罪者に発信器をつけたり、去勢したり、性犯罪歴のある人物の名前をWebで公開するというのは言わば人権の制限です。

では誰がそれを制限することになるのでしょうか。それは国家です。
私たちは国家が基本的人権を制限することにスーパーセンシティブでなければいけないのです。犯罪者のものであっても「人権なんて無視」発言を気安くしてはいけないわけです。

なぜか。それは国家は恐ろしいものだからです。国家との国民の契約関係を意識せず、国民は国家に統治されるものだと考えたらあっという間に王権神授説のような状態になってしまってもおかしくありません。

そういわれてもピンとこないかも知れませんが、究極の人権侵害は命を奪うことです。正しい契約関係が保たれないと人々が正当な理由なく国家にとって不都合だからという理由だけで殺されかねません。

それは荒唐無稽に聞こえるかも知れませんが、今でも世界中で起きています。そしてそれは独裁国家だけでなく民主国家の旗手のアメリカでもCIAによってそのようなことが行われているという人もいます。

アメリカが殺人を含めた不当な人権侵害を実際に行っているかどうか私にはもちろんわかりませんが、少なくとも気をつけていないとアメリカでさえそういうことが起きかねない、という認識は持った方がいいということは間違いないでしょう。

だから「人権を無視」という言葉を軽々と言葉にしてはいけないのです。

++++

最後に姉貴との口論の発端となった性犯罪者の処遇について思うことはことを一応簡単に。

私は国家が国民の人権を制限することは何がなんでも反対だ、といっているわけではありません。
ある犯罪者の存在によって他の人々の人権が侵害されるならもちろんその犯罪者の人権が制限されざるを得ないこともあるでしょう。
懲役はその一つの典型です。一定期間、人権の一部を制限する施設です。でもいったん刑期を務めたら前科があろうが他の人々と同じ人権が保障されなくてはならないというのが原則です。

でもそれではどうしても他の人々の人権を侵害してしまうということだったらモーガン法的なアプローチも視野に入れ価値はあるというのが私の考えです。

但しその方法論については相当スタディーし、運用についてはかなり慎重でなければならないと思います。そのあたりの議論に興味があれば、冒頭でご紹介した「モーガン法のまとめ」サイトを読んでみてください。ツッコミどころもなくはないですが、かなり勉強になります。


what's "my wife's camera"?

2011-11-05

責任をとってよ。

日本での話。

あるカフェで品のいい年配の女性がメニューを眺めながらウェイターに「この中で一番甘くないケーキってどれかしら」と訊ねていた。
するとウェイター「お客さまの味覚と私の味覚とは違いますので、そういう質問にはお答えできません」と。
アホか。何なんだ一体。
あとになって「結構甘かったじゃない」って怒られるのを回避したいのか。店の方針?それともそのウェイターの資質?
少なくともそんなのサービスじゃない。味覚がキミと違うことはわかってるわい。わからないなら誰かに聞いて来い。どれも同じくらい甘いと思うならそう答えろ。
もしあのセリフがウェイター個人からでたものなら彼に言いたい。
「そんなことにさえ責任を持てないようなヘッポコだとキミはこの先の人生を生き残れないぞ」

そしてもしあれが店の方針でそれが今の日本のデフォルトなら、残念ながらそんな国には住みたくない。
(うそ、ホントは住みたいから、住んだ上で国を変えるしかないな)

what's "my wife's camera"?

2011-10-09

「女性の社会進出」なんてなくなればいいのに。

取材でスーダンを訪れた日経BPプロデューサーの柳瀬博一氏が現地の国際貢献の現場を見て驚いたとラジオで話していた(TBSラジオ 文化系トークラジオ) 。
ひとつにはそこには多くの日本人が活動していたということ。そしてもうひとつは働いていた日本人の8割、9割は女性だということ。しかも彼女らは「フワフワ系の自分探しの勘違いネエちゃん」などではなく、一流大学を出て、超一流外資系企業で活躍していたような方が大半で、話を聞くと明確に仕事に対して使命と愛を持って働いているという。

そのことに驚いて後日同行した池上彰さんと一緒にJICAの緒方貞子理事長を訪れて質問を投げかけたところ言下に返事が返ってきた。
「要するにね、まだ日本はあれだけ優秀な女が働く場所がそんだけないからよ」

女性の社会進出。あるいは企業の女性の活用。

私はかつて外資系の広告代理店で働いていた。その会社は欧州ではかなりの大企業だったが、日本では弱小だった。

そこで働き始めてすぐに感じたことがある。それはそこで働く女性がとても優秀なのに比して男性にボンクラが多かったということだ。

すぐに私は自分なりの結論に達した。その会社の要求する英語の水準が高かったこともあり、全然仕事ができなくても英語ができるだけで大きな顔をしている男性社員がいるのだろうということ。

そして日本企業で冷遇されてバカバカしくなって活躍の場を外資系に求めた女性が流れ着いているだろうということ。

象徴的にいえば、東大の法学部を卒業した学生が新卒で外資系の金融機関に就職したいと思うことはあるだろう。あるいは電通なり博報堂なりの広告代理店を志望する学生もいるだろう。

でも彼らの中で外資系の広告代理店を志望する人はほとんどいないだろう。いたら正直言ってその学生の相場観は悪い。すく少なくとも私がその業界にいた6、7年前までは東大の法学部卒の学生が第一志望にする場所には思えなかった。

企業の女性活用。

今書いたことと表裏一体だが、日本企業のほとんどが女性を有効に活用できていない。

アメリカ圏にいて、零細ながら企業を率いる身としては「女性だから」という差別はありえない。零細企業は常に人材に枯渇している。優秀な人材であればそこにジェンダーはない。

私の大学のゼミの担当教官が言っていた。
「僕のポリシーでゼミは男女同数にしたいんだけれども、成績だけで選抜してしまうと女性ばかりになってしまうんだよ」

日本で女性をもっと活用しない手はない。

そういうことを大企業の人事担当の方に話したとしたら、オフレコならきっとこういう返事が返ってくるだろう。

「そのとおりなんだけどね、でも女性は結婚したり、子供ができたら辞めてしまいますからね。やはり社員教育などのコストを考えるとそれはどうしてもリスクになってしまうんですよ」

なるほど。言いたいことはわかる。いつ辞められるかわからない社員は簡単には雇えない。至極最も。

でもこちらでは事情がいささか違う。確かに女性は妊娠したからという理由でいつ辞めてしまうかわからない。でもいつ辞めてしまうかわからないのは女性だけではない。男性だっていつやめるかわからない。条件のいい仕事が見つかればいつでも、いとも簡単には職を変える。

つまりあまり語られないが女性の社会進出の促進には人材の流動化がひとつのカギになっているのだ。

高度経済成長期における終身雇用制度が一定以上の効果を発揮したのは認める。でも日本古来の雇用形態が終身雇用だというのは幻影だ。現代的な終身雇用が広まったのだって1960年代に入ってからだし、その制度の恩恵の下に逃げ切れるのはせいぜい現在60歳くらいの人までだということを考えると、終身雇用の良い面を享受できたのは1940年から1960年に生まれたわずか20年間くらいの間に生まれた人たちなのだ。

しかも最早制度疲労を起こしているのは明白だろう。その理由の詳細については機会があればまた書くが日本の経済ステージ、人口構成は最早終身雇用を許さない。

さらにいうと人口構成から考えると労働力不足による生産力の低下の問題は日本産業にとって死活問題だ。

まだ多くの人は深刻に考えていないかも知れないが移民の受け入れも含めて(現状の建前的な最悪の移民政策についてはまた追って機会があれば)真剣に検討しなければいけない程日本の労働力不足は深刻になってきている。

そのような状況の中で優秀な女性たちを日本社会が活用しない理由はない。

30年前は女性を登用するのには一定のリスクが伴ったのかも知れない。でも今女性を登用しないのはリスクだ。女性にどんどん機会を与えるためには制度を含めて色々変える手間暇やコストがかかるかも知れない。でもそれをしないのは経営の怠慢だ。
日本の企業風土だとセクハラや飲みニケーションなどの問題があって女性の扱いには難儀するという会社もあるかも知れない。でもそんな風土は変えてしまえばいい。
もちろんそういう風土も含めてひとつの文化だという主張もわかる。でも、もし安い労働力で日本と同等以上の技術力を持った世界の他の国々と互角に渡り合っていきたいのなら、少なくともその風土を変えることの方が合理的だということは間違いないはずだ。

震災以降、よくも悪くも日本の旧来の制度の問題点が露呈することが多い。そしてアンシャンレジウムの堅固さに驚愕することもしばしばだ。

アタマではわかっていてもついついとか、まだ当面は大丈夫でしょう、というのが一番怖い。

少なくとも女性の社会進出の環境を整えるのはすでに遅すぎるくらいだ。かつて日本は「経済1流、政治3流」と自らを称していた。でもこのままでは「経済3流、政治5流」にさえなりかねない。ほんと、冗談じゃなく。

日本社会は男性優位でずっときた。その状態は男性にとっては心地はいい。でも形式的な男性優位の気持ち良さを保ちたいがために、商売や国の経済をダメにしてしまっていいと思う程日本人は、日本人の経営者はボンヤリしていないだろうと信じたい。

「女性の社会進出」なんて言葉があること自体が女性が活躍で来ていない証拠。
マザコン、ロリコン的男性優位社会はもうやめてそろそろ「女性の社会進出」なんて言葉ない社会にして女性にもっと活躍してもらいましょうよ。

2011-09-28

野田首相の国連演説。

my wife's cameraというこのブログ。妻から預かっているカメラを壊してしまい、修理が叶わず更新が滞っている。

でも久しぶりに言いたいことがあるので、乱文書きなぐりながらポスト失礼。

野田首相が国連演説をした。その様子をTBSラジオのDigという番組で検証していた。キャスターが演説を受け、政治記者・ジャーナリストに外交の手腕を聞くという番組。http://www.tbsradio.jp/dig/2011/09/post-1270.html

野田首相が国連原子力安全会合で演説をして「原発の安全水準を世界最高に高めた上で輸出は継続する」という趣旨の発言をしたとのこと。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110923k0000m010139000c.html

これを受け政治記者の何某は「国内では脱原発を謳っていながら、藪から棒に原発輸出を語るとはダブルスタンダード」という趣旨の発言。

はっ?野田さんが原発輸出を継続するってのは民主党代表戦で立候補したときに「文藝春秋」の手記に明言してる話ですよね?政治記者であれを読んでいない人はいませんよね?

にも関わらずスッとぼけて「藪から棒」的発言をするのは止めていただけませんか。そうやって善意の第三者ズラをするのはもうやめましょうよ。それが受けると思っているのなら、終わってますから。自分たちが世論を「正しい方向」に誘導できるっていう感覚は時代錯誤甚だしいですよ、いいかげん。

えっ?本当に読んでないんですか?そんな気合の入っていない人はとっとと政治記者辞めちゃってください。

そういうことも全てわかった上で、スッとぼけないで解説をしてくれる人以外はいらないですから。

お願いしますよ。

2011-09-03

一郎から太郎の時代へ。

1993年に「日本改造計画」を読んだときの興奮は今も覚えています。
「これなんだよ、日本が必要としているのはこれ!日本はこの人をリーダーにすべきだ」
それまで政治家といえば利権にまみれながら政争をするだけの人たちと漠然と思っていただけに、明確なビジョンを示してくれた同書は私を高揚させました。そして以降、様々な変節がありながらも私は小沢チルドレンを自称していました。

民主党に合流して「日本改造計画」と真逆のことを言い出しても、今の日本で頼れるのは結局この人しかいないんだ、と疑心暗鬼ながら自分を偽って見守っていました。

でもそれももう終わりです。

3.11。東日本大震災。

パラダイムが明確にシフトし、そしてこれまでの歪みが白日のもとに露呈された瞬間。

細かいことは記しませんが、過去の実績に一定以上の敬意を払っても小沢一郎がもはや終わった人だということが、チルドレンを自称する私にさえはっきりとわかりました。

過去に小沢一郎に対する批判に反駁したこともありましたが、その批判の一定以上の部分は正鵠を射ていて、非は私にあったとさえ気づかされました。

20年近く追っかけてきたわけですから一抹の寂しさがあってもおかしくないはずなのですが、不思議とそういう感覚はありませんでした。

おそらく震災がシフトさせたパラダイムが大きすぎて、平成の政治の中心にい続けただけの人物ごときのことはどうでもよくなってしまったのかも知れません。

21歳のときに「日本改造計画」を読んだ私は間もなく39歳になります。未来を考えるとき、自分自身の未来もさることながら、国や次世代の未来が次第に気になるようになってきました。

その中2010年、当時の鳩山首相が一般人との懇談のために設けた鳩カフェに出席する機会を得て、それを気に鳩山首相の提唱する「新しい公共」という概念に興味を持ちちょっと調べてみました。

確かに鳩山元首相はどこかぼんやりしたところがあるのか、実務的な政治家としては色々問題があったかも知れません。でも彼の提唱する「新しい公共」という概念自体は素晴らしいと心から思ったのです。「新しい公共」とは一言でいえば、様々な公共サービスをお上任せにせず成熟した「市民」一人ひとりがコミュニティーとともに担っていくというものです。

あまりリンクして議論されませんでしたが、これは当時大流行したハーバードのマイケル・サンデル教授の提唱するコミュニタリアニズム(共同体主義)とも大いに合致した政治思想でした。

人びとが政治や公共を他人事としないで、コミュニティーを通じて一緒に生きていく。これは素晴らしい。

でも有権者としてそれを自分の政治的立場の表明や投票行動に表すのならどうすべきだということに対する回答が自らわからず、しばらく悶々としていました。

いくら「新しい公共」が素晴らしい概念だといっても鳩山さんを支持する気にもなれません。小沢一郎についていきたい気持ちがある他方で信じられないところもある(それとはまったく別に、西松とか虚偽記載の起訴はありえないほど非道い話だ)。

かといって自民党に目を転じてみても、いくら高校の先輩とはいえ谷垣さんにこの乱世の舵取りを任せる気にはならない。みんなの党も面白い党ではあるけれども、渡辺喜美も亀井静香とはちがった意味で「とても魅力的だけど、所詮はトリックスター」だという印象を打破してくれる決定的な何かが欠けている気がする。

その中での3.11です。

菅前首相の対応や、首相としての評価はまた改めて記す機会があるかも知れませんが、政治は完全に変容しました。

政治家、いや多くの人間の本質が顕わになりました。
危機に臨むぎりぎりのところに置かれたときの対応や発言を見る中で私は二人の政治家に好感を抱きました。

一人は細野豪志原発事故担当大臣です。彼の名を聞くといまだに山本モナとの不倫騒動しか思い浮かばない人もいるかも知れませんが、もうそろそろ忘れてやってくさい。なかなか気骨のある政治家です。前々からそういう評判は聞いていたのですが、TBSラジオ Digでのビデオジャーナリスト神保哲生さんとのやりとりを聴いて、「この人信用できるな」と確信しました。まだ若いのですぐに首相どうこうという話はないでしょうが、応援したい政治家です。

そしてもう一人の政治家はもともと好感を抱いていたのですが、その著書を読んで「日本改造計画」以来の興奮を覚えてしまった人物です。

そう、河野太郎氏。

もともと彼の原発関連の歯に衣着せぬ発言は気持ちいいと思っていたし、Twitterでもフォローしていましたが、iPhone, iPadでよめる電子書籍「これからの日本の政治の話をしよう」。本書はもともと河野氏が記した「私が自民党を立て直す」に加筆修正したものです。

一言で印象をいうと信頼できる政治家だ、ということです。

本書でははじめにざっくりと彼の思うところを記し、後はひたすら今日本が抱える課題に対しての政策提言を中心に展開されていきます。

河野さんのことをあまり知らない方のために書くと、彼はどちらかというと小さな政府志向を持っており(ただし年金はきちんとすべしという立場)、市場の力を信じています。

こういう考え方に嫌悪を抱く方もいることは承知しますが、政治家の発言を読むときには政治家の主張に対する好き嫌いの他にその政治家が信頼できる人物であるかどうかということを見極めることも大事なのだと思います。

政治家が信頼できるかできないかを見極めることもポイントは簡単です。その政治家が本当に日本をよくしたいのか、それとも次の国政選挙で当選したい気持ちの方が強いのかを見極めればいいだけです。

「大きな政府」がいいのか「小さな政府」がいいのかは正直いって誰も正解はわかりません。それぞれに納得させられるような意見はあるでしょう。

でもそういった意見をいうときに支持母体が見えてくるとゲンナリしてしまいます。逆に自分とまったく逆の意見でも、その政治家が心から信じていることなら一定の敬意を払って自分の意見の参考にしてみようかとも思えます。

具体的にいうと、河野さんはまず小泉改革は正解だったという立場を明確に表明しています。それどころかもっと徹底させるべきだったと。

2008年のリーマンショック以降、世界経済は停滞し日本経済も強烈にその煽りを受けましたが、その頃から色々な人が小泉政権の批判をし始めました。発想はとても幼稚でリーマン=市場原理主義=新自由主義=小泉政権、リーマンショック=新自由主義の限界&崩壊、その後の不況=小泉政権の負の遺産。

こういうわかりやすい図式を利用して様々な人がポジショントーク的に小泉政権を批判し始め、それをマスコミが無批判に乗っかってしまっていつしか「格差の拡大は小泉改革のせい」という言説が当たり前のように流布されるようになってしまいました。

ここではあえてその検証はしませんが、少なくとも格差が拡大して貧困層が増えることはよくないということからか、あれだけ人気のあった小泉政権を賞賛しづらい空気が醸成されてしまっています。

小泉改革を支持するだけで「お前は格差の拡大を容認するのか!弱者は切り捨てか!」という的外れでヒステリックな意見を相手にする面倒臭さを避けて。

でも実際問題はそんな単純なものではないんですよね。反小泉派のいうことがすべての間違っていると断定することはできませんが、同じように小泉改革を否定することもできない。

でも弱者切り捨てと思われるのが怖くてその議論を避けようとする政治家が多すぎるという印象があります。

それに対して河野氏はきちんと自説を主張します。これは信用できるという印象を私は受けました。

後期高齢者医療制度についてもそうです。この制度をメディアはこぞって「姥捨て山」というようにいって叩きましたが、河野氏は真っ向からこの制度を擁護しています。

高度経済成長期の政治は「富(=利益)の分配」をどうするかが大切でしたが、今の日本の政治は「不利益の分配」をどうするか、というとても厳しい選択を迫られています。

その中「いや、まだ無駄を削減すれば富は生じ、それを分配することは可能だ」という立場をとる政治家が多すぎます。

耳触りはいいですが、ありえません。今の日本の人口構成や成長ステージを考えると「無駄を削減しながら、成長戦略をとり、さらに不利益も分配しながらなんとか再生を果たす」しかないと少なくとも私は考えます。

でも誰もそれを口にしようとはしません。そこまではっきりとダメだしされたら楽しくないですから。でも河野氏はきちんとそれを口にしているんですよね。これ、いくら強い地盤を持っていて看板やカバンもしっかりしているからって中々できることではありません。その証拠に他にそこまではっきりいう政治家を知りません。

だから正誤はさておき、自分の信念をはっきりと表明できる河野氏に私は信頼をおきます。

++

と、河野氏を持ち上げて来ましたが、別に盲目的に彼を支持するわけではありません。かなりの部分までは彼の政策提言に我が意を得ているのですが、外交だけは腹落ちしませんでした。

具体的にいうと少し逃げているかなという印象が拭えませんでした。とはいえ外交は本当に難しいです。今日本の外交が抱えている根本的な問題は根が深すぎて誰も根本的な解決策を提示できないでいるのかも知れません(ただし1993年当時としては小沢一郎の「日本改造計画」はひとつの提案をしていたように思えます)。

そういう意味では、かなり期待する河野太郎氏を持ってしても外交の解は見つからないのかという絶望感と、取り敢えず山積する問題の前に外交は棚上げするという小泉純一郎的リアリズムに対する賞賛の中で揺れているという感じです。

++

今もってなお政治報道は小沢一郎氏を中心に動いているという感は否めません。野田内閣が発足してから政局報道は一服したかのようにも思えますが、それはおそらくマスコミがハニームーンを気取っているだけのことでしょう。しばらくしたらまた下らない政局報道が再燃し、小沢一郎がその中心に立つでしょう。

でもそれはもう時代遅れです。マスコミも小沢一郎の賞味期限を考え始めているかもしれません。でも賞味期限という発想自体が視聴率至上主義に毒された考えです。

真面目に考えてみてください。小沢一郎の時代は終わってます。これからは河野太郎の時代です。

小沢氏と同じくらい河野氏も反発を受けていますが、私の相場観ではこれからは一郎の時代ではなく、太郎の時代です。


「太郎の時代」。

おお、なんと耳触りがいいのか知らん。

まあ、そういうことですので、どうかひとつ宜しく。








2011-06-09

自然との共存を考える時代・・だからこそガツガツ。




妻は時々私の顔をシゲシゲと見つめながら、「これが本当にあの太郎さんと同じ人かしら」という。

20代の私は、いやひょっとして30代の始めの頃まで私はガツガツしており前のめりの生き方をしていました。ギラギラしていたと言ってもいいかも知れません。その当時の私のことを引き気味に見ていた妻は、すっかりLove&Peaceとなった現在の私をみてついつい呟いてしまうのでしょう。

そう、時代はLove&Peace。ギラギラするのはカッコ悪い。立身出世や金儲けのことを考えるよりも地球環境や隣人のことを考えることの方が断然素晴らしい。

私は本気でそう思っています。そしてそういう生き方を模索しているつもりでもいます。

でも今日、Podcastでロックシンガーの白井貴子さんが話しているのを聴いて、ちょっと真逆のことを考えてしまいました。

白井さんといえば、80年代に女性ロッカーの先駆けとして活躍された方です。

ただバブル経済が加熱していく中、商業主義がエスカレートしていくショービズ界に嫌気を覚え渡英されました。

帰国後、白井さんはロックシンガーとしての活動を続けながら、自然との共存を大切にして活躍されています。

Podcastの中で白井さんは、数字ばかりを追い求める生き方に限界と疑問を感じたというようなことを仰言っていました。

御意。まったくその通りでしょう。そしてその感覚はまさに今の時代の気分そのものでしょう。

でも、本当にそれだけでいいんでしょうかね。

白井さんは時代を疾走されました。拝金主義の醜い時代を結果を残しながら駆け抜けてそういう結論にいたったのは尊敬すべきことだと思います。

でも自分を追い込んで向上させる努力もせずにLove&Peaceばかりを語るのはどうでしょう。

杞憂かも知れませんが、私には少なからぬ人がLove&Peaceという美名の下に逃げを打っているようにも感じられます。

「競争社会の先に明るい未来はないんだから、争いのないLove&Peaceだよね」みたいに。

でも私たちが呑気にLove&Peaceなんて言っていられるのは、先達が強烈な向上心を持って努力にしてくれたからですよね。確かにその方向性が若干よからぬ方を向いて行き過ぎたきらいはあるかも知れません。でも、彼らの不断の努力がなければ私たちは今のこの豊かな社会を享受することはできなかったというのも事実です(そう、今どれだけ不況だといっても、日本は世界的にみたら相当豊かなんです)。

だから、時代がLove&Peaceを求めている今だからこそ言いたい。青年よ、ガツガツと大志を抱け、と。
「一攫千金」という考えには賛同できないかも知れない。でも若者が「立身出世」を目指すことにはむしろ積極的に応援して行きたいと思っています。彼らがそのマインドを失ったら日本に未来がないんじゃないかと思うんです。

だから今、こんな時代だからこそ言いたい。

「そこの若者、ガツガツしようぜ」

2011-04-28

I used to think nuclear energy was acceptable / 私は原子力発電に反対していませんでした。

Dear Friends all over the world,
<英語の後に日本文あります>

After the quake and Tsunami hit Japan, a lot of people are standing up against the nuclear power. And on one level or another you can say I'm one of them. However I need to confess that I wasn't strongly against nuclear power until all this happened. I was rather generous to it. I always thought it is some sort of necessary evil.

I alway thought we need to shift to renewable energy. But I was also told that the cost of nuclear power plant is much cheeper than other options. And I didn't want to give up power produced by it. I didn't want to imagine a world without a fridge, aircon nor iPhone.

And I believed that nuclear power plant is not that dangerous. I was naive enough to beleive what authorities announced. Even after the Chernobyl, I didn't take it seriously. I just thought "Yeah, that's the way of USSR. They used to make fighter jet with vacuum tubes. Outdated technologies. Moreover, they don't care much of peoples' lives. We are fine in Japan".

It must be a terrible prejudice. But that's exactly how I thought at the moment. And now I understand that I was totally wrong.

I hear some people outside Japan saying, " It was a terrible accident. I'm really sorry for the victims. But we don't have quake nor Tsunami here. And we still need nuclear power". I don't blame who think in this manner. It is exactly the same manner I thought. "Japan is different from USSR".

Some people say "The nuclear power plant in Fukushima is totally out-of-dated technology. Ours are different". Yes, that's true. Fukushima ones were designed more than 40 years ago by GE. However there is one thing that is not different from any single nuclear power plant in the world.

Once anything serious happened, there's nothing we can do. There's not a single clue to solve any problem. With regards to this, nothing has changed since the Chernobyl in 1986. And the cost we need to pay for it is enormous. Almost infinite.

And who can guarantee nothing will happen? Terrorism? Meteorite? Or Human error? Who knows? The only thing I can tell you for sure is that once it happened nobody can cover the full cost.

Yes, if nothing happens nuclear power is one of the most cost effective power. But you need to understand that it is effective in exchange of the possibility of ruining your country thoroughly.

The damage we are experiencing is much more than you are imaging. I hope the world will take the lesson of Fukushima seriously.

+++++++++++++

世界中の皆さま

震災が日本を襲って以降、多くの方々が反原発に立ち上がるようになりました。そして私もどちらかというとそういう立場にあります。でも正直いうと震災前までは私はむしろ原子力を許容していました。よくないものだよね、とは思いながら「でも必要悪か」というような気持ちでいました。

再生可能エネルギーに移行していかなければいけないという問題意識を持ってはいたものの、原子力は他のエネルギーよりもはるかに安価だということは聞かされていましたし、その恩恵を放棄するつもりはありませんでした。冷蔵庫や冷暖房、そしてiPhoneのない生活なんて絶対やだと思っていました。

そして原子力はもはやそこまで危険なものでもないという専門家の言葉を鵜呑みにするくらいお人好しでもありました。チェルノブイリの事故が起きた後も「だってソ連でしょ。真空管で戦闘機を作っているくらいのテクノロジーの国だからね。そもそも人命なんて全然気にしてなかったんじゃないの」

ひどい偏見ですね。でも当時はそう思っていたんです。そして今では完全にその考えを撤回しなければいけません。

海外の方で「本当にひどい事故でしたね。被害者にはなんとお悔やみ申し上げていいか。でも地震も津波もない我が国ではの現実的には考えるとやはり当面は原発なしではやっていけませんよね」と仰る方が少なからずいらっしゃいます。私は別にこういう方々を非難しようという気は全然ありません。私もまったく同じような心持ちでしたから。
「日本はソ連とは違うから」

「フクシマの原発は完全に旧式だからね。まあ、あれだけ古いモデルじゃ事故も生じかねないよね」と仰る方もいます。その通りです。フクシマの原発は40年以上も前にはGEによって設計されたものです。でもそのフクシマの原発は世界中のどの原発とも変わらない特徴も持っているのです。

それは一度深刻な自体が生じてしまったら、誰にもいかんともし難いという特徴です。問題解決のための方法論を世界中の誰も持っていないんです。この点においては25年前のチェルノブイリから何一つ進歩していません。そして一度事故が起きた際の代償は計り知れないということも同じです。そのコストは無限ともいえるでしょう。

そして事故が起きることがないなんて言い切れる人はいません。テロもあるし、隕石が落ちてくるかもしれない。人的ミスもありえます。可能性は絶対にあります。その中、唯一私が言い切れるのは、一度事故が起きた発生してしまったらその代償を払い切ることなんて誰にもできないということです。

何も起こらなければ原発は一番コスト効率がいいのかも知れません。でもその効率はあなたの国が徹底的に破壊されることになるかもしれないリスクの上に成り立っているということは理解しておいてください。

今日本人が体験しているダメージは間違いなくあなたの想像を遥かに凌駕しているものでしょう。世界の皆さま、フクシマの教訓をどうぞ真剣に受け止めてください。


what's "my wife's camera"?

2011-03-23

20110323




今日はアネキの誕生日だ。

兄弟。
家族。
コミュニティー。

誕生日、おめでとう。


what's "my wife's camera"?

2011-03-22

20110322



妻が憑かれたような焦燥感に衝き動かされ行動している。
911後、アメリカはベトナム後に残っていたわずかばかりのイノセンスを失った。
311。
愛よ、善意よ、世界を包み込め。

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2011-03-21

20110321




まだ気持ちの整理はつききらない。
でも日常は終わらない。日常は終わらないのか?

友人結婚。
穏やかな天気、祝福するイルカ。
多くの命を飲み込んできた海の上。

what's "my wife's camera"?

2011-03-19

20110319



立ち寄ったマルシェで鳩カフェでご一緒したUさんと遭遇。
福島、相馬市を支援する方とも知り合う。
昼食は高校同級生Tと。結石に苦しむ話を聞く。

もはや若くはない。でも経験と体力のバランスを鑑みると自分たちにしかできないこともあるはず。


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2011-03-18

20110318



11日に一緒に食事をする予定だった従弟夫妻と食事。

what's "my wife's camera"?

2011-03-17

20110317



雪の金沢。
原発関連の情報が錯綜する。

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2011-03-16

20110316



金沢21世紀美術館。
美術館の楽しさを再発見させられる。

what's "my wife's camera"?

2011-03-15

20110315




乙女寿司。
地産地消。
美味。
ここにも震災の影響。

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2011-03-12

20110312



中学高校と大変にお世話になった先生方が3末でまとめて引退される。
その慰労と感謝、そして私たちの卒業20周年を兼ねてちょっとした会を企画していた。

グアムからながら幹事として参加し、多くの人が多くの労力を割いた。その開催日は今日だった。

昨日地震が発生してから幹事は開催か延期かの判断を迫られることになった。関係各所に問い合わせをかけなかがら夜更けまで幹事は連絡を取り合った。諸事情で延期しての開催はかなわないかも知れないという状況の中、決断をくだした。そして会は延期された。

苦渋の決断だったが、間違いではなかった。

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2011-03-11

Change



人間は弱い。
なにもないとなかなか変わることができない。

人間は強い。
なにかあれば強烈に変わることができる。

変わる。強く、つよく。

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2011-03-10

好事魔多し。

やけにのどかなのんびりした日だなあ、と思いながら過ごしているとふと今日が東大の合格発表の日だということに気づきました。

大人になってみると今の時代大学の名前自体には何の意味もないとわかってくるのですが、それでも目標に向かって頑張ってきた受験生にとっては一大事ですし、努力して目標を達成することにはもちろん大きな意味もある。こののどかな日のどこかで悲喜こもごもが生まれているのだろうなあ。

こんなにのんびりしているのに。
のんびりしすぎた!嗚呼、好事魔多し。。。

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2011-03-09

さとなおブログと京大カンニング



電通のさとなおさんのブログに「高校の『情報』の教科書がすごい件」というポストがありました。高校生であるお嬢さんの情報という科目の教科書を見たらすごかったという内容です。一部抜粋すると

+ + + + + + + + + +

メディアの概念や記録メディアの変遷から入り、「メディア・リテラシー」とか「ディスクロージャー」とかいうキーワードを習い、「フィッシング」とか「クッキー」とか「アクセスログ」とかがいきなり冒頭で出てくる。この時点でついていけない大人とか普通にいそうだw

ネットの仕組み、検索条件の工夫(AND OR NOT)、メールのCCやBCC、パワーポイントのスライドの作り方まで習う。そういえばムスメも実習でパワポのプレゼン資料を作っていたな。ネットワークの仕組みのところでは「パケット、プロトコル、TCP/IP、FTP」とかの言葉が並ぶ。これ、上司に読ませろw

学習ノートという教科書準拠ノートもあるが、そこに載っている練習問題とか、たとえば「次の32ビットのデータを8ビットずつに区切って10進法に直し、IPアドレスを導き出せ」みたいな感じ。すげえ。htmlも当然あるぞ。「以下のhtmlのタグの穴埋めをしなさい」みたいな練習問題まである。必修科目なのにタグまで!

+ + + + + + + + + +

いやあ本当にすごいですね。ここでふと例の京大などでおきたカンニングのことを思い出しました。
あのカンニングは当初「あんなに洗練された手口は単独犯ではなく、まず誰かが写メし、そしてそれを受け取って文字おこししてネットに流す人がいたのだろう」ということをしたり顔で言う"専門家"も少なくありませんでした。

でも蓋をあければ単なる気の弱い浪人生の単独犯。つまり天才的な野心家ではなく、どこにでもいる普通の男の子。彼らは生まれたときからインターネットがあり、中学生になる頃にはスマートフォンをいじっていたりするデジタルネイティブ。

私が高校生の時、新しく家で買ったビデオの配線を何も見ずに適当につなげたら母親がエラく驚いたことがあったのですが(実際にやった作業はインプットとアウトプットをつないだだけ)、デジタルネイティブの中にはそれくらいの気軽さでザッカーバーグよろしくサクサクとコードを書いちゃう奴らも少なからずいることでしょう。

そんな彼らにとっては携帯電話を使ったカンニングは私たちの世代が縮小コピーを使ってカンニングしたのと同じくらいわけもないことかも知れないのに、"専門家"でさえその感覚についていけてない。

「覇気がない」とか「野心がない」とか「草食系」だとか、今の若者たちを自分たちのプロトコルで色々評価判断し、彼らのはるかに前を走っているつもりでいる大人もいるかも知れませんが、気づけば自分が三周くらい遅れたところに取り残されているかも知れないですよね。自戒もこめて。





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2011-03-08

BIG Issue



路上でホームレスが雑誌を売っているのを見たことはないでしょうか。
それは「The Big Issue」という雑誌で、ホームレスの自立支援を目的にロンドンで始まったプログラムであり、ホームレス自らが販売し売り上げの53%が販売者に入るというものです。

グアムにくる前からホームレスが雑誌を売る姿は見ていましたが、そのプログラム自体については不案内でした。しかしグアムにいる間にその詳細を知りました。

今日、一人のホームレスがBig Issueを販売する姿を目にしました。アカデミー作品賞受賞映画「英国王のスピーチ」の主演俳優コリン・ファース(アカデミー主演男優賞)が表紙の号の販売です。

グアムに来る前に私が見たことのあったBig Issueの販売者はどれもいわゆる典型的浮浪者然として雰囲気の人々で、雑誌を売るというよりも「恵んでもらえたら雑誌あげます」くらいの様子でした。

しかし今日横浜駅で見た彼はまったく違いました。年の頃なら30代後半くらいでしょうか。彼は辻説法よろしく大きな声を張り上げながらセールスをしていたのです。

残念ながら急いでいたのであまり詳しくはその内容までは聞くことはできなかったのですが、「英国王のスピーチ」とか「アカデミー賞受賞」とかいう単語を織り交ぜながら大声でのセールストークです。正直いうとBig Issueが何か知らなかったら狂信的な宗教の街頭活動だと思ってしまってもおかしくないくらいの勢いです。

今私はグアムに住んでいるのですが、キリスト教の島ということもあり、ホームレスに対する施しというような活動もよく行われています。

しかし私は個人的にはホームレスに対する施しというのにはあまり乗れません。新自由主義的と言われるかも知れませんが、やはりどこかで「働かざるもの食うべからず」という意識があります。もちろんホームレスがホームレスになるに至るまでは社会的歪みが原因になっているということもありうるということは理解しています。でも雨宮処凛氏や赤木智弘氏を支持する人で自らの限界まで努力をしていないように思える人が少なくないようにも感じられ、普通に働いている人が死ぬ思いで色々な苦難を乗り切っているのに甘えるな、といいたくなるような気持ちに正直なります。

だから施しには興味がありません。するなら自立支援です。
そしてその自立支援をコンセプトとしているBig Issueの販売で、まさに努力して自立しようとしている横浜駅の彼を見て何とも言えない感動に包まれました。

財布から300円を取り出し、一部コリン・ファースを丸めてかばんに突っ込みました。彼なら絶対やっていけると確信しながら。

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2011-03-07

オレがいないと回らない。



私は比較的転職経験の多い方です。
最初に勤めた会社を離れた時かなり慰留されたこともあり、その後の会社を離れるにあたってあまり慰留されないと「あれ、オレって必要とされている人材じゃなかったのかな」と思い、面倒くさくなくていいという気持ち半分と必要とされていないのかなという寂しさと半々で複雑な思いがしたものでした。

でも実際は私が会社を辞めても、体調を崩して入院をしても、会社は変わることなく続いていくわけです。

もちろんプロ意識をもって業務の遂行に当たることは大切ですが、でも「オレが休みを取ったらまわらない」というような会社は存外少ないものです。仮にあったとしたらその体制には問題があるということでしょう。

またもし自分が本当に必要とされる人材だったら、事前にきちっと手続きを取った上で有給の範囲以内で休みを取ってもクビになったり干されたりすることはないでしょう。

アタマでそうはわかってはいても、それでも割り切ってその休みを取るのは難しいものです。
でも、現在小世帯ながらスタッフを預かる立場から言わせていただくと間違いなく休みをとっても大丈夫です。きちんと休みをとっても、十分なインプットをして業務に戻ってくれる人なら多少留守中バタついても仕方がないと思えるものです。

かくいう私もなかなか休みを取れない体質です。社会人になって始めて、今日から二週間業務を離れて休暇を取ります。


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2011-03-05

ハレとケ。



慎ましやかを旨とできればと思う。でもインプットが少なすぎると明らかにアウトプットは減る。

東京という特殊な街で育つと、普段自分の生活がいかにインプットに満ち溢れているかを自覚することは難しい。
そこを離れたとき、インプットへの渇望とシンプルライフへの憧憬との間で葛藤する。

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2011-03-03

2011-03-02

編集者。



学生時代、編集者という職業があることは知っていたとは思いますが、それがどういう職業かはきちんとわかっていませんでした。しかし社会に出て編集者という仕事を知り、クリエイターとしての自分の資質を見極めるにつれ実は私はクリエーターよりも編集者の方が向いているんじゃないかという気もしていました。

でもすでに社会に出ていた身としては「ああ学生時代、編集者という仕事を知っていればなあ」程度にしか思っていませんでした。でも編集者ってなんでしょう。大手出版社に勤めていなければ編集者ってできないのでしょうか。編集者というのはポジションではなくて、ある仕事をやっている人のことを指すんですよね。もしその仕事が自分に向いていると思うなら、その仕事のエッセンスは違う形でも実現できるはずですよね。

何も見城さんや小黒さん、山田五郎さんのようになることが編集者ということじゃない。野球が好きで自分に向いているスポーツだと思うならプロ野球選手にならなくても、一生草野球をしてもいい。次世代を担う子供たちを世話し、何かを伝えることが自分の使命だと思ったら会社員を続けながら町内会の役員になったり、ボーイスカウトに入って彼らと接点を持ち続けてもいい。

私がこの先編集者としてエディットすることになる人はひとりしかいないかも知れない。
でも素晴らしい逸材と出会え、影ながら支え何かを紡ぎだしていく作業は存外私に向いているのかも知れない。


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2011-02-24

軍人さんファッション




Podcastを聴いているとパーソナリティーの小島慶子さんがたわいもない話の流れの中で「ミリタリーファッションもまだ流行っていますし」というような発言をしていました。それに少し違和感を感じてしまったのですよね。

小島さんは歯に衣着せぬ物言いで人気ですが、とても聡明な方で社会問題にもきちんと向き合うという印象があります。そして彼女の過去の発言から戦争はなんとしてでも避けるべきだという気持ちを持っているように感じていました。

その彼女が無批判に「ミリタリーファッション」という言葉を使うのが不思議でした。たとえば「人種差別ファッション」というものや「幼児買春ファッション」というものが世の中に存在するとしたら、彼女は「ミリタリーファッション」を口にするがごとく無邪気にその言葉を口にしないと思うんですよね。

以前、ミリタリーファッションのブームについて思うことはすでに書いたのでここでは詳しくは書きませんが、私は別にミリタリーファッションそのものを否定する気はないんです。

そして日本人が一斉にトレンドに飛びつくことはいささか滑稽だと思いながらも、国民のオシャレ度がかなり高いことは世界的にCoolだと心から思っていたりします。

でも英語圏の人が"military fashion"という言葉を聞いたらそれは日本人が「軍隊ファッション」「軍人ファッション」という言葉を聞いたときと同じような印象を受けるということには自覚的であるべきですよね。

やはり英語のできず、平和ボケした日本人にとって「ミリタリーファッション」という言葉はどうしても漂白された響きがあり、モードの重要な部分が致命的に抜け落ちてしまっています。

というわけで私は声を大にして言いたい。

今後女性誌は「ミリタリーファッション」という言葉を使うのをやめ、すべて「軍人さんファッション」という言葉を変えるべきだと。そちらの方がよっぽどエッジが立っていてモードだと。

ま、絶対に誰も変えないだろうけど。




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2011-02-22

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」



今日、用事があり寄ったところで岩井俊二監督の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のDVDがありました。

以前から評判は聞いていたのですが、昨年見ていた「モテキ」で同作品にオマージュを捧げていた回があり気になっていたので借りようと思いました。すると「すみません。こちらは販売だけなんですよ」と言われてしまいました。

恐る恐る値段を尋ねてみると「50セントです」との返事。Buy!往復のガソリン代よりも安いです。

というわけで観てみました。これは胸キュンだ。

そのキュンとくるレベルはソフィア・コッポラの「ヴァージン・スーサイズ」レベル。

私にとって岩井俊二氏は「映画監督」というよりも「映像作家」というイメージが強い方で、その期待を裏切らず美しかったり心をざわつかせたりする映像はやはり秀逸。

特になずな(奥菜恵)がプールサイドで横たわるシーンをフランソワ・オゾン監督が「スイミング・プール」を撮る前に完全にやってのけていたというのには感服です。

また今やワイルドな大河俳優となった山崎裕太さんの演技は秀逸でした。「あっぱれさんま大先生」の面影をそのまま残しながらも、12歳とは思えない素晴らしい演技にはうならされます。

そして一応触れておきたいのがトリッキーなプロットです。まあ20年近く前の作品なのでネタばれもなにもないかとは思うのですが、本作では話の途中で設定が変わります。

私は事前になんの前知識もなく観たのですが、これはもともと「Ifもしも」というオムニバスドラマシリーズの一つだったということです。

これは話の途中で分岐点が表れ、そのどちらを選ぶかによってどのようにストーリーが変わっていくを描くというものでした。だから本作も途中から話が二つに分かれます。

私は何の前知識もなく観ていたので話が分岐した直後は「えっ」と一瞬面食らいましたが、分岐したことによって「これはどう回収されるのか」というようないい緊張感が生まれたので、この変則的な設定は私のように白紙の状態で望む人にも結果的にはありでした。

そしてやはり触れておかなければならないのは、なずな役の奥菜恵さん。当時14歳の彼女の演技は山崎裕太さんとは比べるべくもない程の大根棒読み演技なのですが、しかし彼女の存在感が素晴らしい。彼女なくしては本作はこのような胸キュン映画にはならなかったでしょう。

とにかく胸キュンノスタルジー派は必見です。






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2011-02-20

ジムで考えたこと。




今日ジムのテレビでNikeのテレビCFが流れていました。様々なスポーツにおける「どうだ!」的シーンをテンポよく畳み掛けるように流すWieden + Kennedy社のお家芸的かっこいいコマーシャルです。まあ20年前に見ていたら間違いなくNikeへのロイヤリティーを高めていたでしょう。

競技者としてのスポーツをする気がまったくなくなってしまった今でもなんだか根源的プリミティブなところに訴えかけてくるものがあるのですよね。

そう思いながら漕いでいたエアロバイクから降りてストレッチをしていると、ジムのトレーナーが地元の格闘家と一緒に入ってきました。

アメリカのジムではトレーナーがジム内でパーソナルトレーナーとしてアルバイトをすることを認めているところは少なからずあります。あまり時給は高くないけれども、トレーナーとして認められてお客さんがつけば収入を上げながらキャリアをつけることができるという寸法です。

格闘家がグローブを付けトレーナーがミットを付けミット打ちを始めました。
私はボクシングとか格闘にはあまり明るくはないのですが、ミット打ちにおいて受けのトレーナーの役割は相当大きいと聞きます。

自身も格闘技のバックグラウンドがあるからこそか、ミット受けの重要性を知っているトレーナの表情は真剣です。

その真剣な表情をみて「いいなあ」と思ってしまいました。何かのスポーツや競技に真剣に打ち込んでいる人は皆美しいのですが、それを支える人たちも多くの場合かなり強い情熱と真剣さを持っています。そしてそこにはどこか胸打つ美しさがあるんですよね。

スポーツの世界では今石川遼、斉藤祐樹などと若くて才能のある人が頭角を表してきて、それに伴いスポーツにさほど詳しくない人も新しくスポーツを見るようになってきました。

どういう入り口であれ、スポーツの素晴らしさを知る人が増えるのは素晴らしいと思いますが、もしその選手が好きでその競技に興味を持ったのなら、たまには彼らを支える人たちの気持ちに思いを馳せてもらえたらいいなあ、とつい思ってしまいます。



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2011-02-19

w7 心のベストテン第一位は?




今週心が一番動いたのは何といっても新しいシェフが来てくれたこと。文句なしの第一位。

同時に車がないと身動きの取れないグアム、諸々の手続きなどで四六時中一緒で色々なところに連れまわさなければいけないというのは疲れることもありますが、未来に対するワクワク感が大きく勝っています。

これからが楽しみです。


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2011-02-18

Happy Wedding



明日、うちの店としては始めての婚礼のパーティーが入ります。
普段は予約を受け付けない業態ですので、そういうパーティーは受け付けていなかったのですが、知り合いに頼まれたということと開店と同時の開始ということでオペレーション的にもうまくいきそうだということでお受けすることにしました。

先方はカジュアルにやるので気兼ねない形がいいから選んだ、と仰っていたのですが一生に一回の特別な席、できるだけのこができればと思いギリギリまで思案しています。

今この瞬間にも花嫁は「明日結婚式か」と特別な感慨を抱いているでしょう。その後の会食については考えていないかも知れませんが、それはむしろ不手際がなくて当たり前だと思っているからでしょう。こちらの緊張感も高まります。

そこでふと思いました。毎日何席もの婚礼をこなしている業者はどういうような心持ちなのでしょうかと。もちろん少しでもいいものにしようと一生懸命がんばっていることでしょう。しかし同時に「ああ、今日は手間隙かかるお客さんが多いな」とか「こんな少人数だったら特に気合入れなくても楽勝か」とか当然思ったりもするはずです。

片や一生に一度の大イベント、片や毎日こなさなければいけない日々の業務。当然ある程度のミスマッチはあるはずです。これは時にはアンハッピーな結末を招くこともあるんじゃないかなあ、と思ったわけです。

そう思ってはっとしました。私の店とて人事ではありません。たしかにカジュアルな店なので一生に一度の思い出、という形のお食事を提供することはほとんどないかも知れません。でも久しぶりにメインランドから帰ってきた家族を迎えた束の間食事ということは少なからずありますし、「この子が誕生日はどうしてもここがいいっていうから来たのよ」という家族揃ってバースデーパーティーもよくあります。あるいは「ここの店、なかなかいいんだよね」といって家族と一緒に来たことのあるティーンエージャーがガールフレンドを始めてのデートに誘う場所として利用されることもあるでしょう。

うーん、これは程度の差こそあれ、結婚式と変わらないなあ。一期一会。
今一度襟を正してビジネスを見つめなおさなければいけないかも知れません。



what's "my wife's camera"?

2011-02-17

20110217



本日ははりきりすぎて少し疲れました。

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2011-02-16

喜びと期待と覚悟と。



今日新しい料理長が日本から来ました。
年齢は若いですが、確かな技術を持っておりそして何より強いモチベーションを持っている青年です。

景気がなかなかよくならない中、新しく日本から人を呼び寄せることはそれなりに大変ではあるのですが、彼と一緒に働くことによって新たな展開が拓けてくるのではないかと楽しみです。

そしてそれは同時に私自身にとってとても大きな挑戦でもあります。今まではレストラン経営といっても従業員はローカルばかりでした。飲食店における従業員は社員といっても日本のそれとは若干異なります。

一言でいえばアルバイトに近いという感じでしょうか。アルバイトというのは決していい加減とかそういう意味ではなく、企業に対するコミットメントレベルです。従業員は皆まじめに働いてくれていますし、中には素晴らしい従業員もいます。しかしそれは日本におけるアルバイトでも一緒です。ただなんていうのでしょうか。その会社をよくしていこうという主体性はどうしても低いのです。

もちろん彼らも会社がうまくいって自分の給料が上がった方が嬉しい。でも昇進して責任あるポジションについて会社のマネージメントに携わりたいという人はそんなに多くはありません。自分が今やっている仕事でできるだけ給料を多くもらえたらいいなあと思う人が大半です。

でも今日来てくれた料理長は違います。六本木の素晴らしい日本食店で働いていたキャリアを投げ打ってきたわけです。小さな子供3人を抱えて家族で不慣れな土地でチャレンジしてみようと思ったわけです。覚悟が違います。

そしてそのような覚悟を持ってやってきた彼に対して当然こちらも相応の覚悟が要求されます。これは彼にとっても私にとっても大きな挑戦です。

大きなプレッシャーもかかりますし、失敗したら多くのものを失うでしょう。でも同時にとても楽しみな挑戦でもあります。

しばらくは大変かも知れませんが、前向きになれるというのはいつでも素晴らしいことです。


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2011-02-14

St. Valentine



いつもより少しだけ値の張るワインを買った。
ちゃんと美味しいワインだった。
とても幸せな気持ちになれた。

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2011-02-13

ミリタリーのある風景。



本日のランチ、店はかなり混んでいたのですが、その中一人の中年の白人の婦人に呼び止められました。とりたてて裕福そうではないものの品はよい彼女は私に「あそこのミリタリーの人たちのお会計は私がもちたいのだけれども」と言ってきました。

みんながみんな知り合いのような狭い島、「あのテーブルの支払いはこっちに廻して」なんて話はよくあるのですが、今回はちょっと様子が違います。

その婦人とミリタリーの人たちは挨拶を交わしていたわけでもなく、なにせ彼らは15人以上の大集団で来ていたのですから。

「私が払ったってことは絶対に言わないで。支払いはクレジットカードで 払うから大丈夫だから」と。

ま、断る理由もないので「承りました」とその申し出を受けました。

後になり会計の際、彼女はいいました。「私には4人の子供がいるのだけれども、そのうち3人が今ミリタリーにいるのよ」。
そういって彼女は288ドル分を支払い、出て行きました。

バレンタインを翌日に控えた日のできごとだった。

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2011-02-12

W6 心のベストテン第一位は?



今週の心のベストテン第一位は先日もBlogで紹介した「市民と武装 - アメリカ合衆国における戦争と銃規制」(小熊英二著)です。

詳しくは先日の書評を読んで頂きたいのですが、この本は「なぜアメリカ人はいつまで経ってもも銃規制をしないのだ」という長年の疑問にひとつの回答を与えてくれます。

先日のTusconの乱射事件の直後、アメリカでは銃規制を求める声が高まるどころか銃の販売数が増えました

他国の問題ながら、根は深い問題。これを機にアメリカ史をもう一度勉強してみようかしら。

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2011-02-10

大相撲八百長とサンデル教授




昨日のTBSラジオ「Dig」で大相撲の八百長について特集されていました。

基本的には主張は私がちょっと前にBlogで書いたのと同じく大相撲伝統擁護論に寄ったもので(一応中立は心掛けていましたが、出演者全員が擁護派だったので、全体的にはそういう論調に)、意を得たりという感じも強かったのですが、まずは面白いと思った発言をご紹介。

「そもそも行司は部屋に所属しているのだし(知らなかった!)、審判部の親方もそれぞれ部屋に属しているのだから、それで西洋のスポーツ的中立を求める方が無理だ」というようなことを仰っていたのはノンフィクションライターの高橋秀実氏。御意。

この他にも色々と発言がでます。
「相撲の立会いは行司の掛け声で始まるものではありません。お互いが間合いを計って始めるのです。つまり相手のことを慮(おもんばか)る気持ちは相撲の根底にあります」
「一年中同じ相手と対戦します。当然お互いのことよく知ったもの同士ですから、7勝7敗で千秋楽を迎えた相手が負け越したら十両転落だったら『子供も生まれたばかりだし可哀相だな』という気持ちは生じてしまうものです」
とか。

逆にリスナーからの投稿で、
「幕内力士の談合的注射(=八百長)で、どれだけの十両力士が煮え湯を飲まされ、失望し廃業していったか」という意見もありました。

これらを聞いて「おお、サンデルじゃないか!」と思ったのです。

マイケル・サンデルとは「ハーバード白熱教室」で昨年ブームをおこしたハーバード大学の教授。「トロッコ問題」とかのわかりやすい例題とディスカッションを喚起する授業手腕で一躍日本でも有名になりましたが、彼はいわゆるコミュニタリアン(共同体主義者)の論客で、その政治思想の授業をしていたわけですよね。

簡単にいうと、合理的な利益ばかりを追求する功利主義者の考えも個人の自由に至上の重きを置くリバタリアンの主張もどうしても腹落ちしない局面が出てくる。その間を埋めるのが「共同体的何か」ではないかという思想。

そして小泉改革の負の側面がでてきたり、リーマンショックで市場経済のマイナス面が見えたりしたし、無縁孤独社会が問題となっていた2010年の日本には、共同体に価値を見出すこの思想が一定以上響いたとサンデル人気を分析する人は少なからずいます。

そこで話を戻すと、「大相撲」こそサンデルの提唱する「共同体的何か」を持ち合わせていると思ったのですよね。

古典的自由主義のリバタリアンだったら、八百長ってのは絶対にないですよね。個人の自由が保障されていなければいけないわけですし、その結果の果実も不可侵なわけですから。

次に「最大多数の最大幸福」を標榜する功利主義的観点から立つとどうでしょうか。これは恐らく八百長に対してニュートラルなのではないかと思うわけです。まず八百長によって十両転落を免れて喜ぶ力士が一人いる。それは同時に幕内昇進を阻まれた力士が一人いるというわけですよね。つまりイーブン。もちろん新しい活きのいい力士の上がるハードルが高まるという大相撲活性上のマイナスもありますが、力を落としてきた人気力士が十両転落し引退に追い込まれるというリスクが減ることはプラスといえるわけです。

それでは「共同体主義」的にいうとどうなるのでしょう。まずは共同体主義というものを咀嚼するとそれはトップダウン的なシステムにもボトムアップ的な権利の主張にも任せられないということなんですね。

だからこそ宮台真司氏がよくいうところの「エートス」を共有する中間共同体の存在が大事になるということです。そこに「共同体的何か」が介在するはずだという考えです。

これを相撲に置き換えると、「毎回ガチンコでリバタリアン的にやったって怪我ばかり増えて、みんな力士生命を縮めるだけだぞ。本気を出すのは本当の勝負どころだけでいいじゃないか」ということになり、「お客さんは強い力士が勝つところがみたいんだ。顔の知っている幕内力士を観に来ているんだ。だからある程度彼らに長らく活躍してもらうということはお客様へのサービスにもなり、ひいてはそれが収入と言う形で相撲協会に還元されるのだからそれでいいじゃないか。それが嫌だったら、お客さんが観たいと思うような圧倒的強さを身に着けろ。でも安心していいぞ、この共同体にいたら雨風はしのがせてやるし、飯もたらふく食わせてやるから」ということです。

上記の意見に反論も色々あるでしょうが、それを正面切って否定できる人はいるんでしょうかね。

もちろん先に挙げたように注射のため幕内に上がれず廃業して悔しい思いをした力士もいるでしょう。でもそれは共同体の二重性で、大相撲という共同体の中にさらに「幕内」と「十両」という二つの利益の相反する部分のある共同体があるわけですから発生しうる問題だとも言えますけど、同時に「大相撲」ならびにその発展という観点でみれば同じ船に乗ったもの同士ですよね。そういう共同体には結びつきには一定以上の機能はあるはずです。

ネット難民、ワーキングプア、年金問題、無縁社会など現在日本が抱える問題は色々ありますが、大相撲という組織は少なくとも衣食住は保障しますし、働いて結果さえ出したら相当の給料は保証されている。さらに退職金基金はしっかりしているし、年寄株を取得できれば部屋を継ぐこともできます。

習慣にいささか独自性はありますが、少なくとも昭和以降は現行に近い制度でかなり長い間機能し、そして国民を喜ばせていました。

これをサンデル教授のいう「共同体」と言わずになんというのでしょうか。

というわけで今後相撲協会はどうすればいいのでしょう。まあ公益法人を目指したいというのですから、賭博とか暴力団と結びつく形の八百長はまずいですよね。それならば経営幹部には大相撲出身ではない経営のプロを入れた上で「金銭の授受が発生する八百長は厳禁。発見し次第即刻解雇」とし、いっそのこと「大相撲には『八百長』はないが、日本古来の『慮り』や『あうん』はある」と宣言するのはどうでしょう。

そして「『大相撲』は地域共同体が崩壊しかけている日本に新たに『共同体』の形を提言し、未来へ夢を与える組織だ」と再定義してしまうとか。

ちょうど今度休場するのですから、「Dig」でもいっていたように新燃岳の被災地まで行って瓦礫を取り除いたり、火山灰の払いなどに協力し、そして横綱の土俵入りを見せて見舞うなんてなかなかいいんじゃないかと思います。

あんまり神経質に四角四面になるよりも、それくらい開き直った方がかえって受け入れられやすいと思うんですけどね。どうでしょう。


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2011-02-09

【書評】「市民と武装 - アメリカにおける戦争と銃規制ー」(小熊英二著)




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「市民と武装-アメリカにおける戦争と銃規制-」(小熊英二著/慶應義塾大学出版会)
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大分前に友だちに勧められて読んでいたのだが、Tucsonの乱射事件を機に本棚から取り出して再読すると印象より前に抱いた印象よりはるかに面白かったので書評を。

アメリカの銃規制の話をすると必ずでてくるのが合衆国憲法の修正第2条。これは国民が州民兵として武装する権利を憲法で保障するものだ。

銃規制反対派は建前上はこの修正第2条をかざして反対するということだ。しかし21世紀の現在州民兵として武装するという概念を我々日本人が感覚的に理解することは難しい。その歴史的背景をわかりやすく説明してくれているのが本書だ。

著者は冒頭で建国時のアメリカは開拓共同体としての側面が強かったので、「武装は権利というよりも、共同体の防衛に不可欠な義務だった」という。その証拠に「同時期にマサチューセッツでは、非武装の市民には課税することを決めていた」という例を挙げる。

これだけでもそれなりに面白いが、著者は次章で「無制限戦の開放」として独立戦争時のイギリス軍と戦い方について述べていく。ここがかなり興味深い。

イギリス軍は王侯の傭兵によって構成されていた。傭兵ということは金で雇われたものであり、強いモチベーションはない。彼らはきちんと軍服に身を包み、マスケット銃と呼ばれる滑空銃を使い横一列に隊列して戦う。そして王侯同士の戦争のときは相手の面子を保ちながら、ある程度適当なところで勝敗を決めていた。

しかしアメリカの建国の父であった自由市民にとってそういった軍隊は絶対王政の象徴であり、自分たちの自由を勝ち取るためには倒さなければいけない相手だった。だから強いモチベーションをもって自由市民は彼らに立ち向かっていった。そして彼らは立ち向かっていく手段として幼いときから狩りなどで使い方を習熟していたライフルを使用していた。

ライフルというのは銃身にらせん状の溝が刻まれ弾道が安定しているため滑空銃よりも射程距離が3倍も長く、「遮蔽物に身を隠しながら狙撃」することが可能であった。そのことによりアメリカの自由市民は殲滅戦を戦い抜き独立を勝ち得た。

だからこそアメリカ人にとって銃武装の権利はアイデンティティー的にも重要であり、武装権の擁護を主張している団体のNRA(全米ライフル協会)もその団体名に「銃」ではなく「ライフル」が入っているという。

この話だけでも面白いのだが、その他「絶対王政とアメリカ独立軍の戦争観」とか「独立戦争におけるマイノリティー」とか面白いテーマも論じられている。

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また表題の論文の他に「普遍という名のナショナリズム-アメリカ合衆国の文化多元主義と国家統合」という論文も掲載されている。こちらは20世紀初頭にアメリカでおきたアメリカナイゼーション運動について論じたものだ。

アメリカにおける同化の思想をアングロサクソンの生活様式に合わせるべきだとする「アングロ・コンフォーミティ」と、多文化が混ざり合うことによって新しい文化の形が生まれるとする「メルティング・ポット」と、多文化が共存並立する「文化多元主義」にわけ論じ、黎明期のアメリカ指導者たちがどういう形でアメリカを理想の国家に作り上げようとしたかを論じている。

そういった議論が真剣になされているのを読むと、当時のアメリカ人がいかに強く建国の理想を掲げ実現しようとしていたのかが伺え、同時にそれから100年も経たぬうちに随分アメリカは理想から離れてしまったものだとも実感する。

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本書の2稿を読むとアメリカ史をもう一度学び直したくなってくる。そして本書を読んだ後に学ぶアメリカ史には確実に新しい発見があるだろう。


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