2010-12-18

【書評】「セゾン文化は何を夢みた」(永江 朗 著)




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セゾン文化は何を夢みた」(永江朗著/朝日新聞出版社)
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かつて大人と子供の間には明確な線引きがありました。そして横浜の片田舎に育った私がはじめて強烈に大人のカルチャーを意識させられたのが六本木のWAVEでした。

音楽といえば歌謡曲がせいぜいアメリカンロック/ポップスくらいしか知らなかった中学生の私が、学校の近くにあったというだけの理由で迷い込んだそのレコード屋は私の知っていたそれとはまったく別のものでした。

店内には見知ったアイドルや演歌のレコードはまったくなく、アメリカンロックどころか聞いたことのないような世界各国の音楽が並び、壁には演劇のチラシが並べてある。さらに地下にある「シネ・ヴィヴァン」ではいつも読んでいた「ロードショー」(ハリウッド映画雑誌)では出てこないような聞いたことのない映画が上映されていました。とんでもなく大人な世界に迷い込んでしまったような気持ちになりました。

セゾングループが私に「大人文化」を感じさせてくれたのはWAVEだけではありません。ウッディーアレンがでてきた西武百貨店のコマーシャルは家族でいったことのあった高島屋とはまったく別の雰囲気を醸し出し、渋谷にLOFTができたときは興奮のあまりしばらく通ってしまいました。

とはいえ私自身はセゾン文化にどっぷりつかった世代とは到底いえず、むしろ辛うじてかすった程度の世代です。デパートにしても池袋西武は行ったことがなく、渋谷のA館、B館どまりでした。

しかしセゾン文化は明らかに私にとって、他のなにものとも違うどこか特別な静かな輝きのあるものでした。決して眩しいという程うるさくはなくそれでも確かな存在感のある大人の輝き、それが私にとってのセゾン文化でした。

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著者の永江氏は大学卒業とともにセゾングループにもぐりこみ、社員としてその栄華盛衰を目撃してきたライターです。

本書は永江氏によるセゾン文化にディープに関わった人々へのインタビューによって構成されています。文化事業部長の紀国憲一氏、デザイナーの小池一子氏など関係者7人の証言集です。

そのなか本書の特筆すべきところはまずはなんといっても全編に渡る脚注の数々です。ページの半分以上をしめることもある注は田中康夫の「なんクリ」の彷彿させなくもないのですが、それでも若き日の私が雑誌などで目にしながらも意味がわからなかった「大人の世界」を網羅的に説明してくれているという点で非常に魅力的です。

しかしそれ以上に本書を特徴付けるのが全編に渡って感じ取れる堤清二の存在です。

知らない方のために説明すると、清二は西武グループの創始者堤康次郎の息子に生まれながらも、共産党に入党したり、辻井喬というペンネームで小説家として活躍するという少し変わった経歴を持った人です。ゆくゆくは西武グループの総帥となることを目されながらも、結局は西武百貨店のセゾングループだけを任せられることになりました。

私が中学生の頃何かの機会に清二のことを知り母に尋ねると、「実業家の家に生まれながらも経営よりも文学などの方により興味のある変わり者」とあまり肯定的に彼を語らず、むしろ異母弟の義明を賞賛するような口調でした。だからバブル崩壊とともにセゾングループが破綻した際は経営責任は清二にあると当然のように思ってしまいました。

そんな清二に対する印象が少し変わったのは彼が辻井喬名義で書いた「父の肖像」を読んでからでした。

その自伝的小説からは私が勝手に思い描いていたふわふわした印象の清二はどこにもおらず、相当骨太で堅固な思想をもっている方かも知れないと思ったのです。

そのインテリでもあり、アーティストでもある清二の百貨店経営哲学はやはり凡百のものではなく、極めて思想性の高いものであり、それがバブル前夜からの上昇気流に乗り独特の文化を形成したことが様々な関係者へのインタビューの合間から本書ではそれとなく伝わってくるのです。

そして最終章の堤清二自身へのインタビューで本書は文字どおりのクライマックスを迎えます。著者自身の緊張と意気込みが感じられ、読んでいるこちらまで緊張してきます。そしてそれはあたかもミステリーのラストで犯人がすべてを告白するのを聞いているかのようなスリリングさです。

清二がどういう経営哲学に基づきセゾングループを経営し、文化事業部とは彼にとってどういうものだったのかを、静かながらも痛烈な義明への批判も交えながらゆっくりと語るのこの部分は間違いなく本書の最高の部分です。

しかしそのような素晴らしい箇所があるにも関わらず本書を手放しで賞賛するわけにはいきません。それはノンフィクション作家としての著者の力量に疑問を感じるからです。

一言でいえば本書はノンフィクションとしては著者の自我が透けてみえすぎています。もちろん著者の永江にとりセゾン文化やセゾングループで働いた日々は特別な意味を持ち、思い入れも強いのでしょう。

しかしその気持ちが勝るがあまり冷静な筆致からは程遠い、鼻につく文章になってしまっています。そしてその根底に「セゾン文化はよかったよなあ」という懐古主義と「すごい人たちに囲まれて過ごしたオレ」とい矮小な自意識が見え隠れしてしまっているのです。

ノンフィクションとしてはうるさいくらい「私」という語が使われているのはそのわかりやすい証拠でしょう。筆者が憧憬するセゾン文化の中核にある清二へのインタビューの第7章でそのうるささは頂点に達します。

近年清二が基本的に「辻井喬」という名前を使っているからという理由で「ここ(第7章)では辻井喬と書く」としているのは蛇足です。それまでの流れどおりただ「堤」と表記した方が流れはよかったでしょう。にも関わらずあえて「辻井喬」と記すのは、著者が清二を経営者としてではなくアーティスト/思想家として語りたいという思いの表れでしょうし、「辻井と同じ土俵に立っているオレ」という自意識の表象でもあるでしょう。また

同じ章の中で「堤清二」という表現と「堤清二/辻井喬」という表記と並立させています。もちろんそれは著者が清二の中に潜む二面性を表したいからに違いないのでしょうが、そのような面倒くさい表記をしなければ清二の二面性を表ることができないとすれば、それは著者の力量不足によるものでしょう。

その力量不足はこの章の構成にも見られます。最大の見せ場は先述のとおり、清二が経営哲学を始めセゾングループをハンドルしていた当時何を考えていたかを語る場面です。

にも関わらずこの最大の見せ場の後にだらだらと著名人の名前がたくさんでてくるだけの大したことのない文章が続き、余韻の切れ味を悪くしてしまっています。

極めつけは著者が自らが考えていたセゾングループ像を清二にぶつけるとき、自身の発言をも「鉤括弧」でくくってしまっていることです。もしそのことによって臨場感を出そうとしているのならその演出は完全に失敗しています。うるさい自意識だけが鼻につき折角のインタビューの面白さを失速させてしまっています。

テーマも非常に面白く、貴重なインタビューも多いだけに著者の力量不足による空回りが惜しい一冊です。

とはいえ一言で駄作と切り捨てるにはあまりにも寂しくもあります。セゾン文化の風を受けながらある時代を過ごしたり、堤清二という人物に何某かの興味を抱いている人でしたら読んでみても決して損はないでしょう。


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