2010-12-10

センパイ-コウハイ。




まあ、誰しもなんらかのセンパイ、コウハイ関係の思い出はあるでしょう。
憧れのセンパイがいたとか、センパイ風吹かせる上級生が鬱陶しかったとか。

もちろん私にもあります。私の通っていた学校は中学高校と一貫の上、多くの部活が中学生と高校生が一緒に活動していました。数ヶ月前まで小学生だった中学一年生にとって高校生はオジサン以外の何ものにも見えません。

だから高校生は皆モノ凄く怖いと思っていました。しかし卒業してから私が中学一年生のときの高校生に会うと記憶にあったよりも身長が低かったり、意外と引っ込み思案な人がいたり。

そうして酒を酌み交わすと却ってこちらがおっかながられたりすることもあります。時間が立てばセンパイコウハイ関係なんてそんなものなのかも知れません。

でも中には変わっちゃいけないというか変わって欲しくないセンパイコウハイ関係もあります。

たとえば私が所属していた運動部のOB会で集まって飲み食いしたとき「おし、じゃあ昭和卒のOBは1万円、平成卒のOBは3千円な」となったりしていました。

今から6,7年前の話ですから平成卒のOBでも40を超えている人もいるわけで、場合によってはメンバーの中で一番の高給取りもいたかも知れません。昭和卒の方でも何かと入用で、普通に飲み食いしたら5000円で済んだのに倍を払わなければいけないのは正直言ってしんどいという人もいたでしょう。

でもそういうのは関係ないんです。社会の中での地位とか立場とかはすべて全部うっちゃってセンパイはセンパイでコウハイはコウハイ。これはなかなかいいものです。

こういう関係は男性のホモソーシャルな社会にありがちです。特に学生時代の部活とか、上下関係の厳しい会社の部内などの同質性の高い関係により多いかも知れません。そういう関係がどこか心地いいというのはそこに一切の合理性と利害関係がないからなのだと思います。

センパイとはたった一年早く生まれたというだけでエラそうに振舞う非合理的な存在なのですが、その決して逆転することのない関係性というのが悪くないものなのです。一端その組織の組織の外にでれば得意先とか役職とか社会的地位とか様々のしがらみに縛られます。そしてその力学は時にはひっくり返ることさえあります。

しかし同質なホモソーシャルな世界のセンパイ・コウハイ関係は一生センパイ・コウハイのままです。もちろん時が経って仲良くなってフラットな関係になることもあるでしょう。それでもセンパイ・コウハイという関係自体は変わらない。そしてそのゆるぎない関係性に身をゆだねるのは母胎回帰したかのように心地よさがあるんです。

そういう集団としての関係もありますが、他方で個人間の関係もあります。なんと言うのでしょう「あの人にはいつまでたってもセンパイであって欲しい」というか「手の届かない憧れの人であって欲しい」というか。

しかし自分が未熟なときに抱いた幻想であればあるほど、そういう幻想は危ういものであることも多いわけで、幻想が脆くも費えてそれを乗り越えていくイニシエーションの物語というのも文学ではしばしば見受けられます。しかしそうはわかっていながらも「いつまでたっても目標であり続けて欲しい」と思うセンパイは存在してしまうわけです。

そして当たり前のことではあるのですが、自分自身が誰かにとってコウハイであったのと同じように、誰かも私のコウハイなのです。言葉を返せば私も誰かのセンパイなのです。

これは困ったことです。年端もいかない少年が歳の差だけで私のことを「センパイ」と思ってしまっているかも知れない。過度な幻想を抱いてしまっているかも知れない。参りますね。

そういうとき私たちはどうすればいいのでしょう。馬脚をあらわさないよう、できるだけひっそりムーンウォークでもしながらコウハイの舞台の枠から退場していくのがいいのでしょうか。それとも「オレだって超ショッパイ人生送ってるぜ」と現実をカミングアウトした方がいいのでしょうか。

色々なケースがあるでしょうが、私はそれでもあえてセンパイ風吹かせ続けられればなと思ってしまいます。
「おう、なんか困ったことがあったらいつでも相談しにこい」

そういう男のホモソーシャルな世界観ってときに理解されないんですよねえ。
「すぐそうやってカッコつけたがるんだから、バッカみたい」
いやいや、そこはカッコつけなければいけないところですから。歌舞伎じゃなくても切らなきゃいけない伊達や酔狂はあるのです。





what's "my wife's camera"?

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