2010-11-22

【書評】「ヘヴン」(川上未映子著)



*********************************************
「ヘヴン」(川上未映子著/講談社)
*********************************************

川上未映子は神を殺した。

「ヘヴン」は恐ろしい作品だ。それは単なるいじめに関する物語ではない。今回の評はその恐ろしさについて記したい。だからいわゆる「ネタバレ」などは気にせずどんどん書く。内容を知りたくない人はこの評を読む必要はないが、「ヘヴン」自体は是非手に取ることを勧めたい。

簡単にあらすじから。

+++++
十四歳の主人公の「僕」は斜視で、中学で日常的にいじめを受けている男子。「僕」はあるきっかけで女子の中で「汚い、臭い」といじめを受けている「コジマ」と文通をするようになり、ときどき会っては心を通わすようになる。凄惨ないじめはとどまるところを知らぬが、「コジマ」はそれを「すべて意味のあること」と引き受けようとし「僕」に同志としての連帯と同調を求める。ある日、いじめによる怪我をみせに病院にいった「僕」は斜視が簡単な手術で治ることを知る。それを「コジマ」に告げると二人の関係にはひびが入る。「僕」がなんとか二人の関係を修復させたいと思っていた矢先に、「僕」と「コジマ」の関係がいじめっこグループにばれ、さらなる事件につながり物語はクライマックスを迎える。
+++++

さてまずは著者の川上未映子について。「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞し一躍有名になった作家。

彼女の小説は大阪弁をはじめとする独特の言語感覚が特徴的だ。気になる作家ではあったが、あの文体の方が先に来てしまって彼女の本来の価値が今ひとつ計りかねるというようなところがあった。

しかし本作は彼女が恐らくはじめて変化をつけずド直球で勝負した長編小説。そしてその破壊力はかなりのものだ。

あらすじにも書いたし、よく引き合いに出されるが本書では「いじめ」を取り上げている。「いじめ」が描かれる理由は色々あろうがいずれにせよ小説などの創作においていじめがテーマになる場合、その表現は目を覆いたくなるような凄惨なものでなくてはならない。さもなくばいじめの先にある苦悩や人間の本質を描くことなど到底できないからだ。

そういう意味では本作では虫唾が走るようないじめがきちっと書き込まれている。そしてそのいじめの「加害者」と「被害者」の意識レベルの差も見事に表されている。

しかし本書は必ずしも「いじめ」だけを題材にした小説ではない。もちろん「いじめ」は中心に置かれているが同時に「善悪とは」という哲学的な問いかけもなされている。

あまり指摘されていないようだが、本書では主人公の「僕」の他に二人の重要人物がでてくる。一人はいうまでもなく「コジマ」だが、もうひとりはあらすじには名前は登場してこないが「百瀬」といういじめっ子グループの一員だ。

「僕」へのいじめの中心には二ノ宮という男子がいるのだが、「百瀬」はいじめグループの中でどこかクールで超然とした雰囲気を持つキャラクターとして描かれている。

あるとき「僕」は病院の待合室でたまたま「百瀬」に遭遇し、高ぶる感情を抑えきれなくなり思わず彼に詰め寄る。そこで「百瀬」は「僕」の詰問にことごとく反論する。

***
「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」

「放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ」

「君のことをロンパリと呼んでるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であるとかそういったことは関係ないんだよ。君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けてる決定的な要因じゃないんだよ」

「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」

「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」

「僕の考えに納得する必要なんて全然ないよ。気に入らなきゃ自分でなんとかすればいいじゃないか」

「なあ、世界はさ、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ」

***

「百瀬」は答えていく。自分がいじめている相手から一対一で詰問されて応えるにしては異様な冷静さだ。そこで読者ははじめて気づく。「百瀬はジョーカーなんだ」と。

ジョーカーとはもちろん映画「ダークナイト」のジョーカーのこと。

「ダークナイト」でのジョーカーを「血も涙もない残酷な冷血」と描写する人もいるが、おそらくそんな単純なキャラクターではないだろう。ジョーカーは絶対的な善とか絶対的な悪なんてものは果たして存在するのかといテーゼを人々に突き詰めるキャラクターなのだ。そしてそれは色々なところで指摘されるようキリスト教的価値観に対するニーチェ的挑戦である。

「百瀬」はジョーカーだったのだ。善悪という価値判断の世界を超越したひとつの現実世界の象徴なのだ。

このことは本書を解くのに、そして川上という作家を考えるのにおいてとても大切な点だ。川上は哲学に傾倒していたと公言しているが、日本人の小説家でキリスト教的善悪観をニーチェ的コンテクスト上で否定し、これほど見事に小説を構成する作家はなかなかいない。それは同時に「いじめ」というとても根深い問題を善悪という二元論から切り離して考えなけばいけないという川上からの警鐘でもある。

その役割を担った「百瀬」は独特な存在感を持ったキャラクターに仕上がっている。それでも「百瀬」は「ダークナイト」のジョーカーほどの輝きを放たない。なぜなら本書の狂言回しは「百瀬」ひとりではないからだ。「百瀬」との対立軸上の対称に存在するキャラクターがいるのだ。それが「コジマ」だ。

先述のとおり「コジマ」も「僕」同様いじめられっこだ。「僕」が斜視でいじめられているなら「コジマ」は不潔と悪臭で嫌われている。しかし「コジマ」は自分が服や体を洗わないのは蒸発した父親を忘れないようにしているだけだという。そして「コジマ」と「僕」は汚くしているという事実と斜視という事実で仲間としてつながっていると主張する。

「コジマ」はこの主張を教条主義的に、原理主義的に貫こうとする。そしてそれを貫くことによっていじめを乗り越えられると信じている。その証拠に物語が進んでもいじめが改善されないと次は自らを保つことに加え断食に近いことをすることによって困難を乗り越えようとする。

いうまでもなくこれはキリスト教における信仰により贖罪を得ようとする行為に他ならない。その証拠に「コジマ」はいう

「そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの」と。

また断食にまで至り「コジマ」はなんともいえない強さを増していく。信仰の力だ。そして信仰の先にあるのが「ヘヴン」なのだ。

繰り返しになるが本書は単なるいじめの物語ではない。いじめにより「僕」が死をも考えるほどぎりぎりの状態に追い詰められる。ぎりぎりの状態まで追い込まれたとき、つまり生を突き詰めたときに人間が拠るべきは宗教的普遍なのか実存なのかを問うてる物語なのだ。それを神を信じる「コジマ」と実存を象徴する「百瀬」という二人の狂言回しが引っ張っているのだ。

そして本書で川上は明白に結論を出している。

ラストで受難に耐え続けていた「コジマ」の自我は崩壊し、「僕」は純化されたものの象徴だった斜視を捨てるのだ。そうして川上はニーチェばりに高らかに神の死を宣言するのだ。

しかし川上の巧みさはこれだけでは物語を終わらせない。

斜視を捨てた「僕」は何を得たのか。それは立体的な視野だった。物語は立体的な視野を得た「僕」がいじめから抜け出すことを暗示している。つまり「僕」は斜視という肉体的特徴を正すことによっていじめから抜け出すのではなく、立体的な視野を得ることによって初めてていじめに向き合えるのだ。こういう形で小説としてもきちっといじめという題材に決着をつる技量は見事だ。

それでも最後「僕」の目からは涙がとめどなく溢れる。彼が捨てたのは斜視だけではなかった。彼はそれと同時にやはり純化された何かを失ってしまったのだ。そうすることによって今後いじめにうまく立ち向かうことができるかも知れない。しかし損なわれた「ヘヴン」は永遠に取り戻すことができないこともやはり「僕」は気づいていたのだ。


what's "my wife's camera"?

No comments:

Post a Comment