2010-11-21

神様が必要なわけ。




先日風の強かった日、店に行くため駐車場をおりるとちょっと先でレッドブルの空き缶がからから音を立てて転がっていました。拾いにいってゴミ捨て場までいって帰ってきてもたかだか30メートルそこそこでしょうか。

とっとと拾いにいけばいいのですあ、先日5Kランをしているときに足のかかとを痛めてしまい、その距離でも正直ちょっと億劫でした。

「別に誰も見ていないし、店の目の前でもないし、足を怪我しているのだから無理してまで取りにいかなくてもいいか」という気持ちがもたげました。それでも「いかんいかん私が知らん顔をしていては従業員に示しがつかない」と思って足を引きずり気味にその空き缶を拾いに行って捨てました。

当然のことをしたといわれればそれまでなんですけど、正直自分の中で「よく弱い心に負けないでがんばった、オレ」という気持ちになりました。でも誰にもその行為は見られていないし、別に誰も褒めてくれない。もちろん褒められたくて拾っているわけではないんですけど、少なくとも自分の弱い心に負けてそのまま空き缶を放置する可能性はありました。

「ま、いいっか、大したことじゃないし、誰もみていないし」
そういう風に自分を甘やかしてやりすごしていたかも知れません。

そして実際こういう小さな善行って人が見ているかいないかで行われるか行われないかが存外変わってくると思うんですよね。

「誰もみていないから吸殻このまま捨てちゃえ」とか「あれ、ここに誰かカバンを置き忘れているみたいだけど、面倒くさいから私もそのままにしておこう」とか。

やった方がいい、やっちゃダメだとわかっているけれども別に大したことないからついつい自分を甘やかす。他人が見ているのなら体面を気にして普通に行うかも知れない善行でも人がいないとやらない。

こういうとき「神様がみている」とか「お天道様がみている」って考え方はやっぱりいいなと思うんです。というのも結局そういう善行って因果応報というか、自分に帰ってくるはずですから。もっとも卑近なことをいえば実際に誰か影から目撃しているかも知れませんし、そうじゃなくてもそういういい生活習慣が人生に悪いわけはありません。

本来の意味での「情けは人のためならず」。

人は基本的に弱い存在。でも神様がみていると思うことによって少しでもよく振舞えるかも知れない。ならばやはり神様はいないよりもいた方がいい。


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