2010-11-19

いじめについて真面目に考えてみる。




TBSラジオの「Dig」で「いじめ」特集。何気なくPodcastを聴いていました。普段はカンニング竹山氏がメインパーソナリティーをつとめる月曜Digに興味を抱くことは少ないのですが、日本の学校のいじめの現状で「教師が率先していじめる」というものがあるということをゲストの人がいったときに、竹山氏が怒りを爆発させました。もちろん学校の先生がいじめに加担するには制度的問題もあるのですが、それを一蹴した上で竹山氏は吼えました。

「これはラジオの生放送なのでいじめられっこが聴いている可能性がある。でも非道い現状をあげつらえているだけで、何の解決の結論も出してあげられないと彼らに救いがなくなってしまう。一番大切なのはいじめに苦しんで救いを求めてこのラジオを聴いている人なんだ。彼らに絶望を与えてはいけない」といった風に。

これにはちょっとぐっときました。確かにいじめの問題は教育制度から家庭問題までが複雑に絡み合って一筋縄に解決できることではないかも知れません。それを分析することも必要ですが「一番大切なのは今いじめに会っているリスナーを救うことだ」という視座は絶対に必要です。

そしてすぐに色々なことに対する結論はでないかも知れませんが、しかしそうやって本気で怒ってくれる大人がいることによって救われたいじめられっこも少なからずいたと思います。竹山株上昇。

この一言で番組に引き込まれ続けて聴いていると教育評論家の尾木直樹氏なる人物登場。この人の話は面白かった。
いきなり群馬県で自殺が生じたクラスで学級崩壊が起きていたことにふれて

「学級崩壊というのは担任が子供たちからいじめられている状況なので、学校の校長はその現状を把握したら即座に担任の先生を更迭すべきです。そうすれば問題は一日で解決します。それをしなかった校長の過失と管理責任は極めて大きい」
ときました。過激ですがなかなか面白い論なので聴いていると

「担任が一番のいじめられっこになっているのに、その担任が他にいじめられている子供を救えるわけがないじゃないですか」と。うむむ、確かに。

さらに尾木氏の論は独創的でした。
彼曰く「ある心理学者の調査によると、二十歳をすぎるといじめられっ子よりもいじめっ子の自殺率が高い」とのこと。
これは「いじめ」というのはそもそも他人に対する虐待行為でそれを見て楽しいという思うことなわけで、それは一種の精神異常だといいます。その異常を抱えたまま社会に出て行くと社会に馴染めなくなると。

だからいじめられっこの親もさることながらいじめっ子の親も自分の子供のことを心配しなければいけない。
しかしながら彼が30年やっているいじめ相談では日々たくさんのいじめられっ子からの相談が入るのに、いじめっ子の親から相談を受けたのは僅か2件しかないという実情を憂えています。

諸外国ではいじめっ子の親からの相談はバンバン入るのに日本では全然入らないのは恥ずかしいことだといいます。加害者の親は「相手にも悪いところがある」とか「うちの子ばかりを悪者にしないで公平に見て欲しい」とするようです。

尾木氏はそれは日本人の人権意識の低さの表れで、2010年現在の民主主義の国としては「超恥ずかしいこと」というのです。いやあ、この人真面目そうな語り口だけれども、なかなか過激で面白い。

さて諸外国と日本の話が出たので個人的な話をひとつ。

以前友人の脚本家が担当した映画を観ているといじめっ子が出ていました。そのいじめっ子はアメリカからの帰国子女という設定だったのですが、その登場人物のいじめの仕方がいかにも陰湿で日本的だったので「ちょっとあの登場人物はアメリカ帰りっぽくないんじゃないか」と彼にいいました。

彼自身ドイツに住んでいたこともあり海外生活があるので私の意見にはガンとして与しませんでしたが、私が幼少期をアメリカで過ごした経験からはちょっと違和感がありました(ちなみにアメリカ帰国子女という設定を除けば相当面白い人物に仕上がっていましたが)。

確かに古今東西いじめは存在するというのは事実なんじゃないかと思います。でも日本のいじめって少なくともアメリカのそれに比べると陰湿な印象があるんですよね。

なんていうんでしょうか、アメリカはよくもわるくも単純でマッチョな国なんで影でみんなで「あいつハブにしようぜ」みたいなことはほとんどない印象でした。せいぜいみんなの前で「おまえ男らしくなくてキモいんだよ。もっとシャキっとしろ。パコッ」というイメージ。

映画とかみていてもナードとジョックの関係は日本ほどひどくないですよね。確かにスクールヒエラルキーは存在するし、ジョックは自分の都合でナードを「うっせー、いいからお前はあっちいってろ」的なことを言ったりしますが、ジョックスが皆を先導してひとりのナードを精神的に追い込んでいくという印象はあまりありません。やはりマッチョな国柄なので「弱いものいじめは男らしくない」という意識があるのだと思います。

なぜ私が日米の事情についてそう考察するかというとそれは私自身が日本に帰ってきたときにいじめにあったからです。

ドン臭いデブで日本語にも問題があった私はわかりやすいいじめの対象だったのでしょう。私は近所でいじめに合いました。
具体的にいうと放課後に一緒に遊ぶ近所の数人、彼らは所属していたソフトボールチームも一緒だったのですが明らかないじめに合いました。

具体的にはよく仲間はずれにされたり、モノを隠されたり、隠されたグローブに小便をかけられたり。最初は自分がいじめられるなどということはゆめゆめ考えもしないので中々自覚できなかったのですが、わかったときは本当に不条理を感じました。

「こいつらこんなことをして楽しいのか」と本当に嫌な気分になりました。しかもそういう被害者意識ができるとそのコミュニティー以外でも、具体的にいうと学校の中でも、ちょっとしたことがあると被害者意識がもたげてくるのです。

幸い私はもともとは陽気でいじめられっ子タイプじゃないこともあり、学校生活で普通に過ごすようになると次第にその「放課後近所いじめ」もなくなっていきました。しかし今思い出すだけでも危険な経験をしました。というのは振り返って考えてみると、いじめの主犯は「ちょっとからかってやろうぜ」程度の気持ちで、まわりは別に対して楽しくもないのになんとなく乗っかっているという状況がいじめられる方を追い込むからです。

まあ何はともあれそういうバックグラウンドもあり、私はいじめが嫌いです。というか見ていると日本人の嫌なところが全部出ているような気がして心から胸糞が悪くなります。事実高校時代同級生のあるグループが一人をパシらせているのをみて気持ち悪くなって彼らをどやしたこともありますし、私自身が授業をサボったり寝ていたりすることはあっても学級崩壊を意図しようとする行動には加担しませんでした。

そういうわけで私は自分のことを完全に「アンチいじめマン」だと思っていました。
しかしある時妻に「あなた絶対いじめっこだったでしょう」と言われて驚きました。それは私が妻をからかった後かなにかに彼女が少しふくれて言った他愛もない言葉なのですが、同時に少し考えもしました。

確かに私はいわゆる特定の生徒をいたぶるようないじめはしたことはありませんが、後輩からは「怖い先輩」と思われていました。まあ怒鳴ったりもしていたのですが、同時に後輩をからかって遊んだりもしていました。

若干いいわけじみたことをいうと、私の通っていた中学高校はバンカラな男子校で封建的な上下関係が成立していたわけです。特に運動部では先輩のいうことは絶対というようなところがあり、私自身もその伝統の継承者としてがんばっていたのでした。

だから合宿に行き中学生が疲れて早々と寝てしまうと(部活も中学高校一貫だったのです)、彼らのまぶたの上にマジックペンで瞳を書き入れたり、同じ合宿所に泊まっているテニスサークルの女子大生たちを示し、後輩に「おい、あのお姉さんから枝毛もらってこい」と指令したりしていました。

もちろん同じことを私たちも先輩からやらされましたし、私としては今思い返しても「はは、懐かしいね」程度の思い出なのですが、大人になった今の感覚なら、その後輩たちの親御さんから「これはいじめです!」と言われたら少なくとも論理的には反論はできないかも知れません。

それを突き詰めると「いじめは客観的な基準にもとづいて定義付けられるのではなく、被害者がいじめられていると思えば成立する」ということなのでしょうが、この定義にも疑問が残らなくもありません。

というのも高校時代の二つの印象に残る思い出があるからです。

その思い出を書こうとしたのですが、いささか長くなりすぎましたので続きはまた明日。
(つづく)


what's "my wife's camera"?

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