2010-11-01

「カワイイ」考。



電通のCMプランナーの澤本嘉光さんがTOKYO FMのラジオ番組で「今の若い人には『自分に関係があるかないか』という価値判断があるので、まず『自分に関係のあるものだ』と思わせなければいけない」という内容のことを話していました。だから「関係のある」と思わせることができたものは大ヒットし、「関係がない」と思われたらいいものでも大失敗すると。そして小島よしおの「そんなの関係ねえ」はそういう世相をも反映している興味深いものだと。

これを聞いてすぐに「デジタルだなあ」と思ってしまいました。ゼロかイチか。
そう考えたときすぐに別の言葉が頭に浮かびました。
それは「カワイイ」です。「カワイイ」という言葉がすべての肯定的なコンテクストで使われるようになってもう10年近く経つでしょうか。そして「すべてのものを『カワイイ』という言葉で表現するのはボキャブラリーの貧困化だ」と非難されてからもそれくらい経つでしょう。

社会学者の中には「カワイイ」を「そんなの関係ねえ」という言葉とあわせて分析して「RSSやTwitterなどのように無数の情報が流れ行く中で瞬時に取捨選択しなければならないインターネット時代の弊害」という風に分析する人もいるかも知れません。

そういう批判のいいたいこともわかるのですが、どうも個人的にはなぜだか「カワイイ」という言葉が決して嫌いではないのです。

そこで「カワイイ」という言葉について考えてみました。いまさらいうまでもないですが「カワイイ」はオールジャンルの肯定を表す言葉で洋服にもステーショナリーにも携帯電話にも使います。

おそらく「カワイイ」否定論者は洋服なら「この色今年のトレンドでいいよね」とか「夏っぽい雰囲気がキミにはぴったりだよ」とかいうべきだと思っているのだろうし、ステーショナリーなら「使いやすそうなのに小さくていいね」といった方がいいと言うでしょう。

この批判って、文芸評論における印象批評に対する批判に似てるんです。つまり批評は実証的、客観的であるべきだという。印象批評に対する批判はそれなりの説得力があり私自身が批評を試みるとき頭の隅におくことでもあるのですけれども、同時にそれはどこか「実証的な方がインテリっぽくていいんじゃね?」的な自尊心が見え隠れする気もしてしまいます。そして構造だとか記号的分析に終始して突き詰めて考えていくと批評はどれも同じようになってしまう。それはつまり感動は解析できるという考え方になってしまうんです。

でも私は個人的には感動は解析しきれないものだと思っています。もちろん感動を言葉にしようという努力はとても大切だとは思うのですが、その言葉では拾いきれない個人的なところこそが感動の本質だとも思うのです。

それに対して「カワイイ」という言葉にはインテリジェンスのかけらもありません。その代わりコミットメントがあるんです。フルセンテンスでいうと「私はこれをカワイイと思う」。コミットメントはもちろん一人称から発せられるわけで、感動というのはその個人的なところ以外からは生まれないと思うんです。だから「カワイイ」という形容がちょっとアタマわるそうでも嫌いになれない。

そこまで考えて「カワイイ」に似た言葉を思いだしました。記憶する限りでは80年代頃から使われ、今でもまだ使われている表現ですが「アリ」と「ナシ」です。

「かつおにマヨネーズって意外と『アリ』だよね」とか「このシーンでこのBGMはどう考えても『ナシ』でしょ」という「アリ」「ナシ」です。

この言葉も基本的にはゼロかイチを表す言葉ですよね。でも「カワイイ」とは決定的な違いがある気がします。それはフルセンテンスでいうと「これは世間一般的な水準(もしくは仲間内の水準)でみて『アリ』でしょう」というのが「アリ」「ナシ」プロトコルなのではないかと思います。

これはあくまで判断の基準をコミュニティーに求めて、自分で引き受けていないんです。つまりコミットしていない。それに比べてちゃんと自分の立場を明白にしてコミットする「カワイイ」という言葉はひょっとしたらボキャブラリーの退化などではなく、コミュニティーにもはや縛られることさえできない今の日本人の最先端のリアリティーなのかも知れません。

what's "my wife's camera"?

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