2010-11-30

さらば、バブルよもう一度。




最近、世の中暗い話題ばかりですよね。政治も迷走しているし、司法も行政もどうやら信用できない。

大変な問題が山積みです。でもこれらの問題って実はほとんど機能今日始まった問題じゃない。戦後ずっとあったのに隠れてきた問題ですよね。民主党の政治運営はボロボロですが、それはそもそも自民党政治がとっくに機能不全を起こしていたからでありますし、検察の問題も社会保険庁の問題も今までたまたま露呈しなかっただけでしょう。

じゃあ何で今になって問題が浮かび上がってきたかというとふたつの理由があると考えられると思います。

一つはインターネットの台頭ですね。これにより上杉隆氏のいうところの官報複合体とは異なるアルタネティブメディアが登場して色々な問題が浮き彫りになりました。

たとえば検察問題。今までは記者クラブメディアは検察から情報がもらえなくなることを恐れて彼らが流すリーク情報をそのまま垂れ流してきて、検察に都合のいい世論形成をする後押しをしていたけれども、最近はネットを通じて少数のきちんと取材するジャーナリストの意見も拾われてきているということですね。

そしてもうひとつが景気の問題です。

人間意外といい加減なもので、おかしいと思うことがあっても経済的に充足していれば多少のことには目をつぶってしまう。特に市民革命を経験していない日本人はどうしても「お上の事には間違いはございますまいから」というような意識があるので、権力の監視とかそういう意識が甘い。

つまり戦後、高度経済成長、バブルなどがあり基本的には経済は昇り基調だったので、社会問題が相当棚上げにされてきたということですね。

逆にいうと何か問題があっても「景気さえよくなれば解決する」という意識が日本人には強いように思えるのです。

今でこそ聞くことがなくなりましたが、バブルがはじけてからも相当の期間、2000年すぎくらいまで「もう一度バブル来ないかなあ」というような言葉をしばしば聞きました。

この言葉は古典的景気循環論に基づいて考えてしまっている言葉であって、デフレ時代にはまったく好況と不況は10年周期でかわるなどということは起きないわけです。

ましてバブル経済とは銀行の担保主義と土地神話の上に成り立った過剰流動性の結果なわけですから、それが再来するなんてことはありえない。

でもなんとなく「またあんな景気のいい時代きたらいいなあ」と他力本願的に人々は思っていたんですね。

しかしそれから10年近く経っても景気はよくなるどころか悪くなる一方。途中ちょっとネットバブル的なことはありましたが、デフレが続いていることもあり人々の生活は不安になる一方ですよね。

そしてその間に政治を始め、司法、行政など社会の悪いところがどんどん露呈しだしました。そこに来て初めて人々は「ひょっとして日本やばいんじゃない」と自覚するようになった気がします。

そう、日本はやばいんです。問題は山積してます。そして黙っていたら悪くなる一方でよくならないんです。バブルなんて冗談のようなものはやってきません。

でもそれに日本人が気づいたことはなかなかいいことなんじゃないかと思います。結局、お上とかそういうものに頼らず、国民一人ひとりが社会や政治に参加していくことによってしか日本はよくならないんですよね。

そろそろ私たちもきちんとバブルの幻影にさようならして、みんなで協力しあって社会をよりよくするように頑張っていきましょう。


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2010-11-27

王さんと広島カープと親父と。



文芸春秋の王さんのインタビュー記事が面白かったです。
最近でこそサバサバした王さんという実像も出るようになってきていますが、王さんといえばどこか神格化された印象がありました。太陽のような長嶋さんに対して日本刀を振って一本足打法を完成させたストイックな王さんという風に。

その王さんがサバサバと自身の人生や長嶋さんに対してどういう思いを持っていたかについて語っています。中でも国籍の問題で国体に出られなかったことに関するくだりがなかなか王さんらしくていいんです。

いわく甲子園にでられなかったのなら悔しかったろうけれども、国体だったので大して悔しくなかったと。しかしインタビュアーの松下茂典氏が王さんに自著『回想』の中で「今までの四十年の人生で、私が一番傷ついたのは、この時だ」というくだりがあると指摘すると「そんなのあったかなあ」おかしいなあというような様子になるんです。きっと根っからの楽天家なんだろうなあ。だからこそ色々な辛いことを乗り越えて大成してきたのでしょうね。

私が始めて王さんのことを意識したのは日本に帰国したばかりの1979年。知り合いのおばさんの家でのことだ。テレビに王さんが映るとおばさんは「この人はホームランをたくさん打つ人なのよ」と私に教えてくれた。すると果たしてその打席で王さんは後楽園球場のライトスタンドに軽々とボールを運んでしまいました。

当時は王さんに限らず巨人の人気は絶大でした。長嶋さんはすでに引退していましたが、原っぱで子供たちが野球するときはやはり背番号3のサードの人気は特別のものがありました。

しかしなぜだか私は巨人ファンにはならず広島ファンになりました。79年には山本浩二、衣笠、高橋慶彦、大野、山根、北別府などの名選手が揃っていてカープが優勝したということもありますし、たまたまNY時代から知っている家族の知り合いに広島出身の方がいたということもあります。

とはいうものの普通に考えれば巨人ファンになるのが自然だったでしょう。ましてや親父も巨人ファン。当然「巨人はいいぞ」というようなことをそれとなく言ってきたわけですが、私は頑として「カープ」といって聞きませんでした。

当時の私が何を考えていたかよく覚えていませんが、おそらく「親父に懐柔されないぞ」というように思っていたと思います。
しかし恐らく親父にしてみれば懐柔などというような大仰なことは考えておらず「なんでまたカープなんだ、わが息子ながら訳わかんねえなあ」と思っていたことでしょう。

私自身にはまだ経験はありませんが、おそらく全国で子育てをしている親御さんは日々「わが子ながら訳わかんねえなあ」ということの連続なのでしょうね。

文芸春秋の王さんの記事を読みながら30年前の親父の気持ちをちょっと慮ってみたりしました。


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2010-11-26

本当にごめんね、Rちゃん。



Rちゃん、いつもブログの感想聞かせてくれてありがとね。
アクセスのスタッツをみて「おお、これだけの人が読んでくれたんだ」と思うのももちろん嬉しいのだけれども、やっぱり生の感想は格別だよね。しかもそれが世辞交じりだったりすると素直に木に登れちゃう。

今日も色々言ってくれてありがとう。すました顔をしていたかも知れないけれども、すごく嬉しかったよ。そしてRちゃんが「今度私の写真も載せて」って言ったとき、「もちろん」とふたつ返事で答えてRちゃんと妻のツーショットを撮ったよね。

にもかかわらず今日はその写真を使わなかった。っていうかトリミングしてRちゃんの左手のピースサインしか残らなかった。ひどいよね。ごめんね。今度ちゃんとRちゃんメインの写真も撮るからね。

でも今日だけは勘弁してね。今日はMy Wife's Birthdayなんだ。
だからRちゃんメインの写真は次回にってことで許してね。

そしてHappy Birthday, n.

t.

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2010-11-25

落語のはなし。



先日聴いたPodacastで落語家の春風亭昇太師匠が「トリ」について面白いことを言っていました。

「トリ」というのは紅白の「大トリ」とかのあの「トリ」です。最後の演者のことですね。
落語の寄席でも最後に出てくる人を「トリ」というわけですが、なぜ一番すごい人が「トリ」を飾るのか、という話。

さてここで落語に不案内な方のために少し補足説明をしますと、落語を見に行くとき噺家の名前はチラシに載っているのですが演目は書いてないんですね。それもそのはず、なぜなら演目は噺家が当日のお客さんの反応をみて決めるからなんです。

この辺りのことについても昇太師匠は話をしているのですが、まず噺家はから入る。多くの場合、噺家は二つか三つくらいの演目をカードとして持って高座にあがり、枕を放しながら客層や反応を見てその日の演目を決めるものなのです。

しかも寄席の場合、「トリ」が出る前にすでに何人かの噺家が高座を済ませている。当然被ってはいけないし、人情噺ばかりが多くなってもいけない。「トリ」を務める噺家さんは入りの時間も皆よりも遅いから後から来てその日に話された演目を寄席の「ネタ帳」を見る。そしてその日一日の流れと客層を読んでネタを決める寸法というわけなのです。

となれば、当然後に出てくれば出てくるほど多くのカードを持っていなければいけないわけで、技量も要求されてくる。だからこそ「トリ」を務めるのは大変なわけで、「トリ」を飾るのは必然大物でなければならないということのようです。

なるほど。もちろん興行的な面で人気の噺家さんの登場を引っ張るということもあるのでしょうが、同時にいわれてみれば力量も大切に思えてきました。

となると気になるのは立川流の一門会。彼らは事前にネタ合わせをしているのでしょうかね。一門会で談志以外の人がいきなり芝浜をぶつけてくるなんてことがあれば面白いんですけどね。


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2010-11-24

男の三十代。



昨日の誕生日に何人かの仲のいい同級生からメッセージをもらいました。折りしも以前ブログに書いたとおり、「いたいけな秋」的問題意識があったので、38歳というのは人生においてどういう歳なんだろうと、有名人のケーススタディーをしながら考えてみました。

対象にしてみたのはいずれも早咲きの天才たちばかりで、ビジネス界からスティーブ・ジョブスと孫正義。エンターテイメント界からマイケル・ジャクソンジョン・レノン

まあ、詳しいBioはリンクのWikiを見てもらいたいのですが、彼らの三十代というのに共通点が見いだされてとても面白かったのです。

マイケルはご存知のとおり10歳の頃にはスーパースターですし、ジョンも22歳でビートルズでデビューして以来スーパースターまっしぐら。一般的にビジネス界で成功するには時間がかかりますが、スティーブは25歳にはアップルを公開させ億万長者になってます。孫さんも22歳で1億円稼いでいますし、24歳の時にはソフトバンクを設立しているわけです。

つまりみんな30歳を迎える頃には世間的にだろうが、業界的にだろうが大スターなわけですよ。

ところが彼らの年表を追いかけると三十代前半はまず地味なことが多い。スティーブはアップルを追い出された時期で、ピクサーとかでちょろちょろやっていたけれども、今皆さんの知っている破竹の勢いはないし、ジョンはヨーコにべったりの状態で反戦活動にいそしんでいるくらいです。孫さんもビジネス的には大きな達成はこの時期にはみられません。

マイケルだけは一人世界的スーパースターではあり続けるのですが、三十代前半まではいいものの次第に雲ゆきが怪しくなってきます。音楽的な評価が一時落ち、音楽以外での話題が増えていきます。

他の人の三十代後半はどうでしょう。スティーブの三十代後半はわりかし静かに進みます。ただし四十代に入ると爆発します。41歳でアップルに復活し、社内で戦い、43歳でiMacでアップルの復活を世界に印象づけて以降の活躍は今さらいう必要もないでしょう。

孫さんのブレイクはもう少し早く、37歳の年にソフトバンクを店頭公開させ、39歳の年にはヤフーを設立し世間的にも有名になってきます。

ジョンの三十代後半は専業主夫として子育てに専念し、40歳になり音楽活動を復活させようと思った矢先に残念ながら凶弾に倒れます。

マイケルは失速が遅かった分だけ、三十代後半からはいまひとつです。ヒットも飛ばすものの音楽以外でのスキャンダルが増え、児童虐待疑惑などの不運にも見舞われ四十代は本人もあまり納得はいっていなかったのかも知れません。50歳になりThis is itツアーで復活を予感させた矢先に急逝してしまったのは残念です。

というわけで四人のスーパースターを見ると、わりと三十代前半というのは共通して比較的結果の出にくい時期のようです。だけれども本当に実力のある人はそれでも三十代後半から四十にかけて徐々に実力を発揮し、そして浮上していく可能性があるという図式が見え隠れしている気がします。

これらは非凡な天才たちのケースですが、これをあえて私たち一般人に当てはめて考えてみました。

二十代は社会人としてどんどん色々なものを吸収して実力をつけて伸び盛りの時期といえるかも知れません。でも三十代に入ると部下もできたりしてプレーヤーとしては一端踊り場に入る。人によってはこの時期に結婚したり子供が生まれたりする人もいるかも知れません。

そうなるとテンションを保つことが難しくなることも考えられます。
「ま、うまくすると部長くらいにはなれるかも知れないし、今までの経験とスキルがあればこのままの生活くらいはなんとかなるかな」とか考えて。

有名人にあてはめるなら「とりあえず金も名声もあるし、最近の客はわかってないっていうか反応もイマイチだし、なんだか情熱もわかないから後はテキトーに小遣い稼ぎくらいでいいか」といってところかも知れません。

しかしそこでそういう風に消化試合モードに入らないで気張っていくと、四十代に入って大きく化けることもあるかも知れないということなんじゃないかというのが、四人の天才の三十代を考察した結果の見立てなわけです。

つまり三十代後半というのは意外とキャリアにおいて大切な時期かも知れないと。
あたりを見回すと歳の近い友だちはよくも悪くも落ち着いてしまっているようにも感じられます。
四十代で飛躍するためにはここでひとつもう一度バカになって暴れることも大切なのかも知れません。

そんなことを思った38歳と一日の今日でした。


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2010-11-23

ゆるやかなつながり。




昨年Twitterが流行り始めた頃、よく「人々は人間関係におけるコミットメントを避けるようになってき、Twitterのようなゆるやかなつながりだけを求めるようになってきている」というような批評をする人たちがいました。

そういうような批評をする人は大抵ろくにTwitterを使ったことのないか使ってもそのメディアとしての革新性に気づくことのできないデジタルアンシャンレジウムだろうと思い、そういう批判はすべて無視していました。

Twitterの魅力というかすごさは偏在する島宇宙が自由に形を変えながら連携して発展させていくということであって、それが既存メディアをも含めた権力への強力なカウンターとなりうる、フラットな時代(市民革命の成就)の本格到来を予感させるというものであるところにあるわけですから。

とはいえそういうことは棚上げすればやはりTwitterがゆるやかなつながりであるというのは一面の真実ではあります。TwitterだけではなくFacebookなどのSNSがなければ一生のうちで二度と会うことのないような中学校の同級生や海外に移住していしまったような友だちともまたつながることはありますものね。

でね、今日は小難しいことをいうつもりはまったくないんです。島宇宙とか権力とかカウンターとかそういうものはむしろすべてうっちゃって言いたいのです。

「ゆるやかなつながりもいいよね」

今日、誕生日を迎えました。
妻と二人暮らしなので妻には祝ってもらいましたが、それ以外にもTwitter,Facebook,メールなどで色々な方からおめでとうメッセージをもらいました。

これがね、正直なところかなりうれしかった。今までもメッセージを頂くことはありましたし嬉しいこともありました。でもなんだか今年はちょっと嬉しさが違ったんですよね。

それは私自身がまじめにブログを書き始め発信をし続けていることと関係するかも知れませんし、TwitterがFacebookやGreeなどと連携していて広がっていることも関係しているのかも知れません。

はたまた私が年を重ね、人々からのおめでとうを素直に受け止められるようになっただけかも知れません。とにかくみんなからのメッセージが本当に嬉しかったのです。

中には本当に大切な人からのメッセージもありましたし、知り合って数日しか経っていないアーティストからのメッセージもありました。でもどれに対してもすべて等しく嬉しい感謝の気持ちでいっぱいになりました。

だからいまだにTwitterやSNSなどにアレルギー反応を示してウダウダ言い続けている人に私は言わせてもらいたいのです。

「いいじゃん、ゆるやかなつながりで」

そして最後に井上陽水と奥田民生の「ありがとう」から引いて言わせてください。


つながってる人も、そうじゃない人も
「みんな、みんな、ありがとう!!」



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2010-11-22

【書評】「ヘヴン」(川上未映子著)



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「ヘヴン」(川上未映子著/講談社)
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川上未映子は神を殺した。

「ヘヴン」は恐ろしい作品だ。それは単なるいじめに関する物語ではない。今回の評はその恐ろしさについて記したい。だからいわゆる「ネタバレ」などは気にせずどんどん書く。内容を知りたくない人はこの評を読む必要はないが、「ヘヴン」自体は是非手に取ることを勧めたい。

簡単にあらすじから。

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十四歳の主人公の「僕」は斜視で、中学で日常的にいじめを受けている男子。「僕」はあるきっかけで女子の中で「汚い、臭い」といじめを受けている「コジマ」と文通をするようになり、ときどき会っては心を通わすようになる。凄惨ないじめはとどまるところを知らぬが、「コジマ」はそれを「すべて意味のあること」と引き受けようとし「僕」に同志としての連帯と同調を求める。ある日、いじめによる怪我をみせに病院にいった「僕」は斜視が簡単な手術で治ることを知る。それを「コジマ」に告げると二人の関係にはひびが入る。「僕」がなんとか二人の関係を修復させたいと思っていた矢先に、「僕」と「コジマ」の関係がいじめっこグループにばれ、さらなる事件につながり物語はクライマックスを迎える。
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さてまずは著者の川上未映子について。「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞し一躍有名になった作家。

彼女の小説は大阪弁をはじめとする独特の言語感覚が特徴的だ。気になる作家ではあったが、あの文体の方が先に来てしまって彼女の本来の価値が今ひとつ計りかねるというようなところがあった。

しかし本作は彼女が恐らくはじめて変化をつけずド直球で勝負した長編小説。そしてその破壊力はかなりのものだ。

あらすじにも書いたし、よく引き合いに出されるが本書では「いじめ」を取り上げている。「いじめ」が描かれる理由は色々あろうがいずれにせよ小説などの創作においていじめがテーマになる場合、その表現は目を覆いたくなるような凄惨なものでなくてはならない。さもなくばいじめの先にある苦悩や人間の本質を描くことなど到底できないからだ。

そういう意味では本作では虫唾が走るようないじめがきちっと書き込まれている。そしてそのいじめの「加害者」と「被害者」の意識レベルの差も見事に表されている。

しかし本書は必ずしも「いじめ」だけを題材にした小説ではない。もちろん「いじめ」は中心に置かれているが同時に「善悪とは」という哲学的な問いかけもなされている。

あまり指摘されていないようだが、本書では主人公の「僕」の他に二人の重要人物がでてくる。一人はいうまでもなく「コジマ」だが、もうひとりはあらすじには名前は登場してこないが「百瀬」といういじめっ子グループの一員だ。

「僕」へのいじめの中心には二ノ宮という男子がいるのだが、「百瀬」はいじめグループの中でどこかクールで超然とした雰囲気を持つキャラクターとして描かれている。

あるとき「僕」は病院の待合室でたまたま「百瀬」に遭遇し、高ぶる感情を抑えきれなくなり思わず彼に詰め寄る。そこで「百瀬」は「僕」の詰問にことごとく反論する。

***
「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」

「放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ」

「君のことをロンパリと呼んでるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であるとかそういったことは関係ないんだよ。君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けてる決定的な要因じゃないんだよ」

「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」

「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」

「僕の考えに納得する必要なんて全然ないよ。気に入らなきゃ自分でなんとかすればいいじゃないか」

「なあ、世界はさ、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ」

***

「百瀬」は答えていく。自分がいじめている相手から一対一で詰問されて応えるにしては異様な冷静さだ。そこで読者ははじめて気づく。「百瀬はジョーカーなんだ」と。

ジョーカーとはもちろん映画「ダークナイト」のジョーカーのこと。

「ダークナイト」でのジョーカーを「血も涙もない残酷な冷血」と描写する人もいるが、おそらくそんな単純なキャラクターではないだろう。ジョーカーは絶対的な善とか絶対的な悪なんてものは果たして存在するのかといテーゼを人々に突き詰めるキャラクターなのだ。そしてそれは色々なところで指摘されるようキリスト教的価値観に対するニーチェ的挑戦である。

「百瀬」はジョーカーだったのだ。善悪という価値判断の世界を超越したひとつの現実世界の象徴なのだ。

このことは本書を解くのに、そして川上という作家を考えるのにおいてとても大切な点だ。川上は哲学に傾倒していたと公言しているが、日本人の小説家でキリスト教的善悪観をニーチェ的コンテクスト上で否定し、これほど見事に小説を構成する作家はなかなかいない。それは同時に「いじめ」というとても根深い問題を善悪という二元論から切り離して考えなけばいけないという川上からの警鐘でもある。

その役割を担った「百瀬」は独特な存在感を持ったキャラクターに仕上がっている。それでも「百瀬」は「ダークナイト」のジョーカーほどの輝きを放たない。なぜなら本書の狂言回しは「百瀬」ひとりではないからだ。「百瀬」との対立軸上の対称に存在するキャラクターがいるのだ。それが「コジマ」だ。

先述のとおり「コジマ」も「僕」同様いじめられっこだ。「僕」が斜視でいじめられているなら「コジマ」は不潔と悪臭で嫌われている。しかし「コジマ」は自分が服や体を洗わないのは蒸発した父親を忘れないようにしているだけだという。そして「コジマ」と「僕」は汚くしているという事実と斜視という事実で仲間としてつながっていると主張する。

「コジマ」はこの主張を教条主義的に、原理主義的に貫こうとする。そしてそれを貫くことによっていじめを乗り越えられると信じている。その証拠に物語が進んでもいじめが改善されないと次は自らを保つことに加え断食に近いことをすることによって困難を乗り越えようとする。

いうまでもなくこれはキリスト教における信仰により贖罪を得ようとする行為に他ならない。その証拠に「コジマ」はいう

「そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの」と。

また断食にまで至り「コジマ」はなんともいえない強さを増していく。信仰の力だ。そして信仰の先にあるのが「ヘヴン」なのだ。

繰り返しになるが本書は単なるいじめの物語ではない。いじめにより「僕」が死をも考えるほどぎりぎりの状態に追い詰められる。ぎりぎりの状態まで追い込まれたとき、つまり生を突き詰めたときに人間が拠るべきは宗教的普遍なのか実存なのかを問うてる物語なのだ。それを神を信じる「コジマ」と実存を象徴する「百瀬」という二人の狂言回しが引っ張っているのだ。

そして本書で川上は明白に結論を出している。

ラストで受難に耐え続けていた「コジマ」の自我は崩壊し、「僕」は純化されたものの象徴だった斜視を捨てるのだ。そうして川上はニーチェばりに高らかに神の死を宣言するのだ。

しかし川上の巧みさはこれだけでは物語を終わらせない。

斜視を捨てた「僕」は何を得たのか。それは立体的な視野だった。物語は立体的な視野を得た「僕」がいじめから抜け出すことを暗示している。つまり「僕」は斜視という肉体的特徴を正すことによっていじめから抜け出すのではなく、立体的な視野を得ることによって初めてていじめに向き合えるのだ。こういう形で小説としてもきちっといじめという題材に決着をつる技量は見事だ。

それでも最後「僕」の目からは涙がとめどなく溢れる。彼が捨てたのは斜視だけではなかった。彼はそれと同時にやはり純化された何かを失ってしまったのだ。そうすることによって今後いじめにうまく立ち向かうことができるかも知れない。しかし損なわれた「ヘヴン」は永遠に取り戻すことができないこともやはり「僕」は気づいていたのだ。


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2010-11-21

神様が必要なわけ。




先日風の強かった日、店に行くため駐車場をおりるとちょっと先でレッドブルの空き缶がからから音を立てて転がっていました。拾いにいってゴミ捨て場までいって帰ってきてもたかだか30メートルそこそこでしょうか。

とっとと拾いにいけばいいのですあ、先日5Kランをしているときに足のかかとを痛めてしまい、その距離でも正直ちょっと億劫でした。

「別に誰も見ていないし、店の目の前でもないし、足を怪我しているのだから無理してまで取りにいかなくてもいいか」という気持ちがもたげました。それでも「いかんいかん私が知らん顔をしていては従業員に示しがつかない」と思って足を引きずり気味にその空き缶を拾いに行って捨てました。

当然のことをしたといわれればそれまでなんですけど、正直自分の中で「よく弱い心に負けないでがんばった、オレ」という気持ちになりました。でも誰にもその行為は見られていないし、別に誰も褒めてくれない。もちろん褒められたくて拾っているわけではないんですけど、少なくとも自分の弱い心に負けてそのまま空き缶を放置する可能性はありました。

「ま、いいっか、大したことじゃないし、誰もみていないし」
そういう風に自分を甘やかしてやりすごしていたかも知れません。

そして実際こういう小さな善行って人が見ているかいないかで行われるか行われないかが存外変わってくると思うんですよね。

「誰もみていないから吸殻このまま捨てちゃえ」とか「あれ、ここに誰かカバンを置き忘れているみたいだけど、面倒くさいから私もそのままにしておこう」とか。

やった方がいい、やっちゃダメだとわかっているけれども別に大したことないからついつい自分を甘やかす。他人が見ているのなら体面を気にして普通に行うかも知れない善行でも人がいないとやらない。

こういうとき「神様がみている」とか「お天道様がみている」って考え方はやっぱりいいなと思うんです。というのも結局そういう善行って因果応報というか、自分に帰ってくるはずですから。もっとも卑近なことをいえば実際に誰か影から目撃しているかも知れませんし、そうじゃなくてもそういういい生活習慣が人生に悪いわけはありません。

本来の意味での「情けは人のためならず」。

人は基本的に弱い存在。でも神様がみていると思うことによって少しでもよく振舞えるかも知れない。ならばやはり神様はいないよりもいた方がいい。


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2010-11-20

「いじめられた」と思えばそれで「いじめ」は成立するのか。




さていじめ問題、昨日からのつづきです。

高校時代経験したふたつの事件から、「被害者がいじめられたと思えばそれはいじめとして成立している」といういじめの定義に対して心から賛同しきれないという話です。

ある日の授業が終わった後、仲のいい友人で体のデカいTが別の友だちから「おい、ブタぁ、部活いくぞ!」と呼ばれ「おう、すぐに行くから先いってて」といい支度をしていました。するとその友人T(要はデブです)のもとに授業を終えたばかりの先生が慌てた顔をして近づいてきて「おい、T大丈夫か?いじめられているのか」と聞いてきたという話です。

この話はT本人から笑い話として聞いたのですが、たしかに「いじめられたかは被害者の意識次第」という定義ですと、仲のいい友だち同士のふざけ合ったあだ名のつけ方にさえ先生はびくびくしなければいけません(ちなみにTと「ブタ」と言ったKとはテニスのダブルスのパートナー)。高校時代とかってバカなあだ名つけて楽しんだりするもんですよね。長髪にしていた奴は「お前、ジョン・ボンジョビみてえな髪型だな」と言われたのがきっかけで似ても似つかないのに「ジョン」と呼ばれていたし、失敗パーマをかけてきた友人は「なんだそのサザエさんみたいな髪型は」と笑われしばらく「サザエさん」と呼ばれていたりしました。

もちろん呼ばれた方は「やめろよ、その呼び方」とか言ったりしますがそれもじゃれ合いのうち。そういうものにさえ神経質になって生きていかなければいけないのはちょっといかがかというか、そういうホモソーシャルなじゃれ合いこそが学校生活の楽しいところじゃないかと思うのです。それは強者の論理なのかなあ。

それからもう一つの事件はもう少し深刻なものです。
昨日の投稿が思ったよりも反響があったので、事実関係にできるだけ間違いないように詳しく書きます。

ある日の昼休みある友人Xが友だちに話があり彼の席にいきました。Xは通路に立ちその友だちと話していたのですが、話しだすと通路の反対側の机に軽く寄りかかるような体制になりました。その席に座っていた同級生Aはちょうど弁当を食べていたので「おい、邪魔だからどけよ」というようなことをいいました。すると寄りかかっていたXは「ちょっと待ってすぐ終わるから」といって話をつづけました。ふたたびAが「どけよ」といってもXが「うるせえなあ、すぐ終わるから待ってろよ」といった具合に軽くいなすと、弁当を食べていたAがいきなり箸をナイフのように持ち、Xの顔面めがけて突き刺していきました。

幸い箸は目を数センチはずれ、血はでたものの大事には至りませんでしたが目に刺さっていれば間違いなく失明という大変な事件でした。一部始終を近くで見ていた私から見るとどうみても箸を刺したAの行動はあきらかに発作的な唐突さで、正気の行動にはとうてい見えませんでした。

しかしこれには実は裏というか背景があったようで、Aには「いじめの被害にあっている」という被害妄想があったようなのです。彼は親とともに学校側に「いじめにあっている」とクレームをつけていたようなのでした。

あまり軽率なことはいえないかも知れませんが、同級生のひとりとしてみるとAがいじめられていたようには全く思えず、また彼自身とりわけいじめの対象になるようなタイプではない奴に思えました。学校側も事態を深刻に受け止め調査をしたようですが、特に何も散見されずほとほと困っていたようです。しかしいじめの定義が「被害者がいじめられていると思う」ということなら彼はいじめられていたことになります。

ここでポイントは二つあります。ひとつは周囲の誰が見てもいじめられているように思えない状況でも、「いじめられている」と本人が思えばいじめになってしまうならいじめは防ぎようがなく発生してしまうということです。
もしこのAのケースで「Aがいじめられていると思っているからAはいじめられていた」と認定されたとしましょう。AがXを箸で刺した一件は大騒ぎにはなりましたが、大きな騒動にはなりませんでした。つまり学校内の騒ぎで収まり刑事事件にはなりませんでした。

しかし今大人になった感覚でみるとあれは傷害罪が適用されてもおかしくはありません。Xも悪いところがなかったとは言えなくはありませんが、Aのことをいじめていた事実はありませんし、少なくともあわゆく失明させられるというようなとはまったくしていないと思います。

でももしそれが「いじめが原因」「AはXにいじめられていたと常日頃から思っていたので、少しのことをきっかけに過剰防衛した」ということになって失明事件になってもAが何も問われないのではあまりにおかしいと思います。

二つ目の問題はいじめの定義に対する問題からは少し離れてしまいますが被害妄想の問題です。昨日も私の小学校時代の体験として書きましたが、一度いじめを受けると周囲の些細な行動が自分に対するいじめなのではないかと被害妄想が膨らんでいくのです。Aのケースではいじめがあったようには到底思えませんでしたが、彼がいじめられてしまったと思い込んでしまったことによって被害妄想が膨らんでしまったのは看過できません。

もし自分がいじめられていると常日頃感じていたら、本当に上記のような他愛ないような日常のどこでも起きているような事柄にも過剰反応して却って大きな事件が生じ得ないとは限らないのです。

現場に居合わせたものとしてはAとXの件の非はほぼすべてAにあったと思います。Xは当時は学年一の札付きというように思われていたので、当時の父兄の間でこの件がどのように理解されていたかわかりませんが、少なくともXが突発的な非常に激しい暴力をうける理由はまったくなかったと断言できます。

ですが、AとXの関係の他で被害妄想をこじらせてしまったAに対するケアはやはり何かしら必要だったのかも知れないと思うわけです。そのケアの主体が学校なのか家庭なのかはわかりません。でもあのような狂気の沙汰としか思えない事件が起きたという事実は重く受け止められるべきでしょう。

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色々書いてきましたが、私とていじめ問題に対してなんの提言はできません。私が今さらいじめを苦に思い悩むということはあまり考えられないでしょう。そうなると目下子供のいない私よりもいじめの現場に近い生徒や先生、そしてお子さんのいらっしゃる方々にとっての方がいじめはずっと深刻な問題でしょう。

そういう方々に対して私が軽率に申し上げられるようなことはないのですが、それでも昨日申し上げたように「二十歳をすぎるといじめられっ子よりもいじめっ子の自殺率の方が高い」、いじめっ子の親こそ自分の子供の行動に気を配るべきだという考えは将来親になるかも知れない身としては肝に銘じておきたいと思っています。

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いじめは本当に胸糞悪いです。
とくに日本で多く見られる集団無視とかのいじめは本当に頭にきます。

子供は残酷です。異物があるとすぐにいたぶります。
でも少なくとも親が異物をいたぶる自分の子供を保護するのではなく、厳しく叱責する社会がくればと心から思います。

嗚呼、いじめの問題は本当に難しいですね。
とりあえず読みかけの川上未映子の「ヘヴン」でもきちんと読み終えて、またあらためて考えてみたいと思います。


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2010-11-19

いじめについて真面目に考えてみる。




TBSラジオの「Dig」で「いじめ」特集。何気なくPodcastを聴いていました。普段はカンニング竹山氏がメインパーソナリティーをつとめる月曜Digに興味を抱くことは少ないのですが、日本の学校のいじめの現状で「教師が率先していじめる」というものがあるということをゲストの人がいったときに、竹山氏が怒りを爆発させました。もちろん学校の先生がいじめに加担するには制度的問題もあるのですが、それを一蹴した上で竹山氏は吼えました。

「これはラジオの生放送なのでいじめられっこが聴いている可能性がある。でも非道い現状をあげつらえているだけで、何の解決の結論も出してあげられないと彼らに救いがなくなってしまう。一番大切なのはいじめに苦しんで救いを求めてこのラジオを聴いている人なんだ。彼らに絶望を与えてはいけない」といった風に。

これにはちょっとぐっときました。確かにいじめの問題は教育制度から家庭問題までが複雑に絡み合って一筋縄に解決できることではないかも知れません。それを分析することも必要ですが「一番大切なのは今いじめに会っているリスナーを救うことだ」という視座は絶対に必要です。

そしてすぐに色々なことに対する結論はでないかも知れませんが、しかしそうやって本気で怒ってくれる大人がいることによって救われたいじめられっこも少なからずいたと思います。竹山株上昇。

この一言で番組に引き込まれ続けて聴いていると教育評論家の尾木直樹氏なる人物登場。この人の話は面白かった。
いきなり群馬県で自殺が生じたクラスで学級崩壊が起きていたことにふれて

「学級崩壊というのは担任が子供たちからいじめられている状況なので、学校の校長はその現状を把握したら即座に担任の先生を更迭すべきです。そうすれば問題は一日で解決します。それをしなかった校長の過失と管理責任は極めて大きい」
ときました。過激ですがなかなか面白い論なので聴いていると

「担任が一番のいじめられっこになっているのに、その担任が他にいじめられている子供を救えるわけがないじゃないですか」と。うむむ、確かに。

さらに尾木氏の論は独創的でした。
彼曰く「ある心理学者の調査によると、二十歳をすぎるといじめられっ子よりもいじめっ子の自殺率が高い」とのこと。
これは「いじめ」というのはそもそも他人に対する虐待行為でそれを見て楽しいという思うことなわけで、それは一種の精神異常だといいます。その異常を抱えたまま社会に出て行くと社会に馴染めなくなると。

だからいじめられっこの親もさることながらいじめっ子の親も自分の子供のことを心配しなければいけない。
しかしながら彼が30年やっているいじめ相談では日々たくさんのいじめられっ子からの相談が入るのに、いじめっ子の親から相談を受けたのは僅か2件しかないという実情を憂えています。

諸外国ではいじめっ子の親からの相談はバンバン入るのに日本では全然入らないのは恥ずかしいことだといいます。加害者の親は「相手にも悪いところがある」とか「うちの子ばかりを悪者にしないで公平に見て欲しい」とするようです。

尾木氏はそれは日本人の人権意識の低さの表れで、2010年現在の民主主義の国としては「超恥ずかしいこと」というのです。いやあ、この人真面目そうな語り口だけれども、なかなか過激で面白い。

さて諸外国と日本の話が出たので個人的な話をひとつ。

以前友人の脚本家が担当した映画を観ているといじめっ子が出ていました。そのいじめっ子はアメリカからの帰国子女という設定だったのですが、その登場人物のいじめの仕方がいかにも陰湿で日本的だったので「ちょっとあの登場人物はアメリカ帰りっぽくないんじゃないか」と彼にいいました。

彼自身ドイツに住んでいたこともあり海外生活があるので私の意見にはガンとして与しませんでしたが、私が幼少期をアメリカで過ごした経験からはちょっと違和感がありました(ちなみにアメリカ帰国子女という設定を除けば相当面白い人物に仕上がっていましたが)。

確かに古今東西いじめは存在するというのは事実なんじゃないかと思います。でも日本のいじめって少なくともアメリカのそれに比べると陰湿な印象があるんですよね。

なんていうんでしょうか、アメリカはよくもわるくも単純でマッチョな国なんで影でみんなで「あいつハブにしようぜ」みたいなことはほとんどない印象でした。せいぜいみんなの前で「おまえ男らしくなくてキモいんだよ。もっとシャキっとしろ。パコッ」というイメージ。

映画とかみていてもナードとジョックの関係は日本ほどひどくないですよね。確かにスクールヒエラルキーは存在するし、ジョックは自分の都合でナードを「うっせー、いいからお前はあっちいってろ」的なことを言ったりしますが、ジョックスが皆を先導してひとりのナードを精神的に追い込んでいくという印象はあまりありません。やはりマッチョな国柄なので「弱いものいじめは男らしくない」という意識があるのだと思います。

なぜ私が日米の事情についてそう考察するかというとそれは私自身が日本に帰ってきたときにいじめにあったからです。

ドン臭いデブで日本語にも問題があった私はわかりやすいいじめの対象だったのでしょう。私は近所でいじめに合いました。
具体的にいうと放課後に一緒に遊ぶ近所の数人、彼らは所属していたソフトボールチームも一緒だったのですが明らかないじめに合いました。

具体的にはよく仲間はずれにされたり、モノを隠されたり、隠されたグローブに小便をかけられたり。最初は自分がいじめられるなどということはゆめゆめ考えもしないので中々自覚できなかったのですが、わかったときは本当に不条理を感じました。

「こいつらこんなことをして楽しいのか」と本当に嫌な気分になりました。しかもそういう被害者意識ができるとそのコミュニティー以外でも、具体的にいうと学校の中でも、ちょっとしたことがあると被害者意識がもたげてくるのです。

幸い私はもともとは陽気でいじめられっ子タイプじゃないこともあり、学校生活で普通に過ごすようになると次第にその「放課後近所いじめ」もなくなっていきました。しかし今思い出すだけでも危険な経験をしました。というのは振り返って考えてみると、いじめの主犯は「ちょっとからかってやろうぜ」程度の気持ちで、まわりは別に対して楽しくもないのになんとなく乗っかっているという状況がいじめられる方を追い込むからです。

まあ何はともあれそういうバックグラウンドもあり、私はいじめが嫌いです。というか見ていると日本人の嫌なところが全部出ているような気がして心から胸糞が悪くなります。事実高校時代同級生のあるグループが一人をパシらせているのをみて気持ち悪くなって彼らをどやしたこともありますし、私自身が授業をサボったり寝ていたりすることはあっても学級崩壊を意図しようとする行動には加担しませんでした。

そういうわけで私は自分のことを完全に「アンチいじめマン」だと思っていました。
しかしある時妻に「あなた絶対いじめっこだったでしょう」と言われて驚きました。それは私が妻をからかった後かなにかに彼女が少しふくれて言った他愛もない言葉なのですが、同時に少し考えもしました。

確かに私はいわゆる特定の生徒をいたぶるようないじめはしたことはありませんが、後輩からは「怖い先輩」と思われていました。まあ怒鳴ったりもしていたのですが、同時に後輩をからかって遊んだりもしていました。

若干いいわけじみたことをいうと、私の通っていた中学高校はバンカラな男子校で封建的な上下関係が成立していたわけです。特に運動部では先輩のいうことは絶対というようなところがあり、私自身もその伝統の継承者としてがんばっていたのでした。

だから合宿に行き中学生が疲れて早々と寝てしまうと(部活も中学高校一貫だったのです)、彼らのまぶたの上にマジックペンで瞳を書き入れたり、同じ合宿所に泊まっているテニスサークルの女子大生たちを示し、後輩に「おい、あのお姉さんから枝毛もらってこい」と指令したりしていました。

もちろん同じことを私たちも先輩からやらされましたし、私としては今思い返しても「はは、懐かしいね」程度の思い出なのですが、大人になった今の感覚なら、その後輩たちの親御さんから「これはいじめです!」と言われたら少なくとも論理的には反論はできないかも知れません。

それを突き詰めると「いじめは客観的な基準にもとづいて定義付けられるのではなく、被害者がいじめられていると思えば成立する」ということなのでしょうが、この定義にも疑問が残らなくもありません。

というのも高校時代の二つの印象に残る思い出があるからです。

その思い出を書こうとしたのですが、いささか長くなりすぎましたので続きはまた明日。
(つづく)


what's "my wife's camera"?

2010-11-18

「おめでとう」という名のラブレター。




アートとはなんだろう。
「アートがわかりゃカッコいいんじゃねえか」と色気づき始めた頃から常に疑問に思ってきた。
確かにファインアートといわれるものは何となくいい。少なくとも技術的にすごそうだということはなんとなくわかる。しかしコンセプシャルアートなどのモダンアートを見ているとわけがわからなくなってくる。

よくわからない真ッピンクに塗られた壁とかトイレの便器と脱ぎ捨てられたパンツのオブジェとか、それらを意味深なしたり顔で鑑賞しなければいけないのかと思うとちょっとアートも面倒くさくなる。

しかし次第にモダンアートも変わってきたのだろうか、それとも私自身が年を取ってしまい小難しく考えるのが面倒になったのか段々モダンアートの素晴らしさにも気づくようになる。

それらの大きな特徴のひとつは写真やネットで見ても絶対に真価がわからないということ。これは私の現代アートに対するひとつの回答だが、「体験(experience)」こそがモダンアートのひとつの大きなテーマだ。もちろん一枚の風景画を見るということも圧倒的な「体験」になりうる。作者が作品の裏にこめた膨大な背景や制作意図を知るのもとても大切だ。

しかしテレビに始まり、インターネットの出現以降世の中に溢れ返る情報量が圧倒的に多くなってしまった現在、本物をみて体験することがアートを味わう最高の贅沢だと思うようになった。それゆえに本物をみて初めて味わえるアートこそを珠玉と思うようになった。作者はすでにデジタルでの複製可能性を熟知し、その上でそれを凌駕して人々の心を揺り動かそうと挑戦しているのだ。

*****

もともと音楽的才能は親譲りの卓越したものがあった。嗅覚には動物的鋭さがあった。そして美しいものを捉える独自の感覚、英語でいうところのeye for beautyは色々な人に今でも指摘される。

美に対する独自の強い執着があるゆえ、写真家として一定以上の水準に達するのはむしろ必然だ。しかしそこからどこへ行く、どこへ行きたい。

写真の技術はこれから勉強をすればする程、いくらでも巧くなることもできるかも知れない。
「美しい写真」はアートだろうか。デジカメ全盛の昨今、「美しい写真」「キレイな写真」はネット上で驚くほどたくさん見つけることができる。

その頂上付近に名を連ねるだけでも十分なチャレンジだ。技術的に研磨を重ね、その"eye"をフルに活用しなければいけない。そして誰もが美しいと思える写真を撮ることは素晴らしい達成だ。

しかしその時君の音感に踊る耳はどこにいるのだろう。くんくん何でも嗅ぎ取る鼻は退屈をもてあましていないだろうか。そして何より色々なことを考えては心を痛めるその頭と心は出番をまって手持ち無沙汰ではないだろうか。

誰にも切り取れないような美しい瞬間を切り取るという20世紀のすべての偉大な写真家が挑んできた課題に挑戦するのはエキサイティングだ。

他方、写真とは何かと考えに考え、それを余人には再現できない自らの五感だけを頼りに再定義し形にすることができたらそれはひとつの奇跡だ。

君が今後どちらの道を選ぼうとするのかはわからない。

でも君の作品が"Creative Hands"に入選し、今晩色々な作品やその作家たちとオープニングレセプションで出会えたことは、先月の直島訪島と並んで今後の君の作家としての方向付けに少なからぬ影響を与えていくのだろうと思う。

"Congratulations"

今晩、数多の人が何度となくこの言葉を君にかけてくれた。
今後君がどのような道を歩もうとしても、環境と状況の許す限り、できることもできないこともあるだろうが、私は君を全面的にバックアップしていく。

今日は本当におめでとう。

what's "my wife's camera"?

2010-11-17

スティーブを少し案ずる。




広告の仕事をしていたとき、色々な広告を見ながら「それは広告主の都合で消費者には関係ないのに」と思うような表現を目にすることがしばしばありました。

たとえば「業界初!驚異の新技術」というように謳っているのですが、あまり有難そうに見えないという種の広告です。

便利になったり安くなったり体験したことのないワクワクが得られたりするのだったらそういう技術も意味はありますが、単に技術的にスゴイというだけでは消費者にとってはほとんど意味がありません。

広告からは離れますが「ガラパゴス」と言われる日本の携帯電話の機能やアプリにもそういう企業側の事情が見え隠れするものが多いという印象があります。具体的にいうと「ゴルフで残りヤードがわかる機能付きのケイタイ」とか。

まあ中にはそういうものを有り難く思う人もいるかも知れませんが、ほとんどの人にとってはいらない機能ですよね。ゴルファーでさえホールごとに何かを入力してまで残りヤードを知る手間暇をかけたい人はどれだけいるのでしょうという疑問が湧いてしまいます。

これは開発側の思考方法に問題があるからなんではないかと思うわけです。技術者が何か新しい技術を開発する。その技術とにらめっこしながら「これで何か斬新なことができないでしょうか」「こんなのどうでしょう?」「それをこうしたらもっと受けるんじゃない?」などと開発マーケティングチームで喧々諤々して製品を作る。その場合の失敗例が「技術的にはスゴイがあまり喜ばれない製品」なのではないかと思うわけです。

そしてその対極を突っ走っていたのがアップル。よく言われるのはアップルは大した技術は持っていないし斬新な技術的成果はないということです。それでもマッキントッシュから始まりiMac、iPod、iPhone、iPadとアップルは市場に新しい価値をどんどん提供してきました。

これにはやはりスティーブ・ジョブスの力が大きいと思います。よく知られている話ですが彼はアップル社内では面倒くさいワンマンとされておりあまり評判がよくないようです。部下の苦労を知らないでギャアギャアいうだけというような。でもこれが少なくとも今のところは功を奏してきました。

私は2007年に初代iPhoneの発表会の映像を見たときにシビれてしまいました。その時最新でカッコいいとされていたBlackberryなどのスマートフォンを並べ「画面が小さくて見にくいし、キーボードがボコボコしていたデザインがカッコ悪い上に誰もこんな小さなキーボードで字を打ちたくない」とボロクソにこき下ろした上であのiPhoneが出てきたわけです。

アプリもダウンロードできるという斬新性もあり色々なデータが簡単に手持ちのPC/Macと同期できる。その上値段が信じられないくらいリーズナブル(もちろんATT&Tとの契約が前提というカラクリはありましたが)。

技術者がある一生懸命開発したものを「こんなのカッコ悪すぎ」といったり、購買が死ぬ気で原材料調達をしても「こんな高くちゃ売れない」とか一蹴にふしたら、そりゃスティーブも嫌われるでしょう。しかしそういうことをやってきたからガラパゴスとはまったく別の消費者にとって魅力的な製品を提供し続けることができたのでしょう。

それがスティーブのそしてアップルの魅力だと思ってきました。

が、昨日発表されたビートルズの全楽曲がitunesで買えることになったというニュースの告知はいかにもアップルらしくない。

簡単にいうと前日に「明日いつもと同じ一日が、忘れられない一日になる」というティーザーを流していたのです。これで世界中のアップルファンは「何事が起こるんだ」と指定の時刻をカウントダウンしながら発表を心待ちにしていました。

しかし発表の少し前から「どうやらビートルズのことらしい」という情報が確定しはじめると、Twitterの#appleのハッシュタグは失望と罵詈雑言でほぼ埋め尽くされました。

まああのティーザーで期待感を煽ったので注目を集めることができたという意味では普通の企業の広告戦略としては悪くないのかも知れません。

でもアップルは世界中のウォッチャーが彼らのことを研究し尽くしている中、時に誰もがあっと驚く経験を提供することでアップルたりえたわけです。人々の期待をはるかに下回る失望を与えてしまったらそれはアップルの存在意義にも関わる大きな問題です。

アップル社はビートルズのApple Corpと長年訴訟を抱えていましたし、音楽関係者の中でビートルズの権利問題をすべてクリアするというのは奇跡に難しいわけですから、個人的な趣味とあいまってスティーブの感慨もひとしおだったのでしょう。

しかしそういうのはすべて音楽業界の事情だったり、アップルないしスティーブの思い入れで消費者には関係のない話です。確かにビートルズは史上最高のポップミュージシャンですし、私にとっての音楽体験の原点でもっとも大切なアーティストのひとりです。

でもそれでも2010年の現在ビートルズで必要以上の大騒ぎをするのはやはり消費者不在です。50歳の人でさえ10歳のときにはビートルズは解散しているわけですから。

英語で件のティーザーは"Tomorrow is just another day. That you'll never forget"であり、これはビートルズ解散直後のポールのアルバムに入っていた"another day"という曲を受けているという人もいますが、もしそれが理由でそういうコピーになったのだとしたらそれこそ本末顛倒です。

まあ今回はたまたま勇み足でああなってしまったのかも知れませんが、それにしてもああいうキャンペーンをGoさせるとはちょっとスティーブが心配です。


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2010-11-16

結婚四年目の驚愕。





昨日も書きましたが、妻が日本に帰っており昨日の夜まで一週間一人暮らしをしていました。
結婚してからこういう状況が生じたのは今回で三回目。

現在の私の暮らしでは通勤時間もほとんどありませんし、働いている時間以外はほぼすべて妻と一緒の生活。結婚生活に不満はまったくないのですが、それでもそういう生活に不慣れな最初の頃はいささか息苦しく思うこともありました。

だから一週間くらいひとりで過ごす時間はなにをするわけでなくともちょっとした開放感がありました。
そして一週間後くらいにまた再開する頃には程よくリフレッシュができ、また二人の生活を楽しめるという具合でした。

しかし今回は開放感よりも寂しさの方が募りました。すぐに「早くもどってこないかなあ」と思い彼女が戻ってくるのを指折り楽しみにしていました。

果たして昨日の夜空港まで迎えに行ったとき、彼女が感極まって涙したこともありなんだかとても感動的な再会となりました。

これはただのノロケと言われればそれまでなんですけれど、結婚丸四年も過ぎお互いがよりお互いを必要とするようになることってなかなか素敵なことだなあと思ったのです。そしてそういう風に思わせてくれた妻にあらためて感謝です。


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2010-11-15

パンツにアイロン。




この一週間妻が日本に帰国していて、家のことはすべて自分でやらなければいけませんでした。
そして今日、洗濯をし洗い終わったものを洗濯機から取り出しているときに思い出しました。

「そういえば知り合いで旦那のパンツにまでアイロンをかけている人がいるなあ」と。

だからというわけではありませんが、私も洗いあがったパンツにアイロンをかけそのまま履いてしまおうと思いました。そうすれば干さなくて済むし無駄な洗濯物も出さなくて済むし。

そしてパンツにアイロンを掛けはじめて気づきました。

「パンツはアイロンをかけるものじゃない」と。

私のパンツはボクサータイプ。説明するのが面倒くさいのでリンクを貼ると大体こういうものです。

これって立体縫製になっているんですよね。前部と後部の縫製が違う。つまりそのまま重ね合わせてアイロンをかけるとおかしなアイロン跡がついてしまう。

だからもしアイロンをかけるならパンツの足を通す部分にアイロン台を入れ、片生地ずつ回しながらかけていかなければいけない。

しかしパンツなんていくらパリっとさせたところで、履けば一瞬で皺くちゃ。しかも誰に見せるというわけでもないし。そう考えるとアイロンをかける合理性なんてありません。

件の友人の旦那さんがボクサータイプのショーツを履いているか、トランクスを履いているかは私の知るところではありませんが、もし奥様にパンツにまでアイロンをかけさせている人がいるとしたら、即刻「そんなことしなくていいから」というべきです。

家庭内の和平は小さなところからコツコツと築いていきましょう。


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2010-11-14

がんばれオッサン!!




大根仁さんがラジオで斉藤和義さんの「いたいけな秋」を紹介していました。

斉藤和義さんといえばmusicians' musicianというイメージがあり、よくわからないけれど彼の音楽をチェックするのが玄人好みっぽくていいんだろうなというような捻くれた自尊心で彼の音楽はいつも気になっていました。

しかしスチャダラのBOSEを迎えて作った「いたいけな秋」はストレートに刺さりました。
曲はシンプルなんだけれども(斉藤和義の音というよりも最近のスチャダラが好むハードロック調の音という印象です)、コンセプトというか歌詞が中年オトコにはグサっとくる。

まず表題の「いたいけな秋」の「秋」は人生は20年区切りに春夏秋冬に分けた場合の区分。つまり「秋」というのは四十代から始まる季節のこと。私ももうすぐそこに手が届くのでまさに「いたいけ世代」。

つまり人生も晩年に差し掛かり始めたとき自分が何をなすことができているか、他の人はどういうことをなしてきたかを謳っている曲なんです。

具体的にいった方がわかりやすいと思うので歌詞を引用すると、

> 『イマジン』を書いた時 あの人はまだ30
> 『地獄の黙示録』の頃 巨匠は40
> 『未来世紀』を夢想した時 奇才は45
> 『アドルフに告ぐ』連載開始 先生は55
> 『天国への階段』を上ったのは27
> 『ウッドストック』でギター燃やしたのは25
> 『ジャンピング ジャック フラッシュ』 あのリフも25
> 『サージェント ペパーズ ロンリーハーツ クラブバンド』27

> 『ターミネーター』は30『タクシードライバー』が34
> 『ET』はなんと35『無責任野郎』は36『ナウシカ』は43『七人のサムライ』が44
> 『北の国から』は46 『ふぞろいの?』が49

という感じで。

さらには色々なアーティストが亡くなった年齢も引いている。

> "ブライアンジョーンズ"27 "ジミヘンドリックス"27
> "カートコバーン"27 "ジャニスジョップリン"27 "ジョンレノン"40

これは私たち中年ビギナーにはズドンとくる。
偉人たちが何歳で何をなしたかというようなことは若いことに考えることが多い。

「あのロッカーは何歳であのアルバム作ったんだよなあ」とか「あのアーティストがあの作品を作ったときは何歳だったとか」。もっと卑近なところでいうと「オヤジは何歳のときにはこの家買って住宅ローン組んでいたんだよなあ」とか。

そして自分と照らし合わせてカウントダウンしてみたり、焦ってみたり。

でもそういうことを斉藤和義とBOSEという40過ぎのオッサンが改めて自らに問うていることにこの作品は刺さってくるわけです。
「アイツらは特別な天才だから」とあきらめずに「自分はやることをやっているのか」「本当にこれでいいのか」と問い続けるところに。

つまりこの歌は「お前はまだちゃんとファイティングポーズをとり続けてるかい?」とロックならではのストレートさで容赦なく尋ねてくるんです。そして私たちはそれに戸惑い狼狽してしまうのです。なぜならそれは私を含めた多くの人が様々な言い訳を駆使して避けている話題だからなんです。

うまくいけば人生を消化試合としてこなすこともできる私たちオッサンも、たまには逃げずにきちんと人生を正面から見つめなければいけないということなんでしょう。

でもいつも闘ってばかりではモタない、と息切れしそうなときは、Unicornの「オッサンマーチ」でも聴いて肩の力を抜くことも必要なのかも知れませんが。



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2010-11-13

失敗&反省。



PICのハーフマラソン明け、一回だけVibram5で走りました。ハーフ明けということもあり、少し足が痛かった部分もあったのですが、特に問題はなかったので今朝のTriple Jの5Kで履いて皆の前で華々しくデビューさせようと思いました。

しかしこれが大失敗。

というのもまだ完全に履きこなせていないので、本来なら自分のペースでゆっくりと走らなかったらいけなかったのに、レースの雰囲気に飲まれてハイペースで走ってしまったのです。

その結果きちんとつま先での着地ができず、踵からもついてしまいレースの後半では踵が痛くて足を引きずる展開になってしまいました。

完全に失敗です。
足が癒えたら、今度はまわりのことを考えずにしばらくはゆっくり自分のペースで走ろっと。

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2010-11-12

2010年ヒット商品ランキング。



日経トレンディーのPodcastを聴いていたら、早くも2010年度のヒットランキングが発表されていました。

このランキング、日本にいるときは「へえ」くらいにしか思っておらずあまり気に留めていませんでしたが、海外にでると少し受け止め方が違ってきました。ひとつには日本でどのようなものが流行っているのかを知るとてもいい材料となることです。

そしてもうひとつにはそもそもヒットランキングというもの自体が極めてアジア的だとあらためて思い知ったということです。

よく言われることですが、欧米では個人主義なので国民全員がいっせいに「これがいい」と購入に走ることはあまりないという印象です。しかし日本を始め、韓国や台湾などの東アジアの情報感度の高い国はこの傾向があるという気がします。まあ、そういうトレンドに走る国民性を「自我がない」と批判される方もいるかも知れませんが、それは同時にマーケティングが高度に発達する原因にもなるわけで、善悪で語るよりも国民性として面白がったほうがいいのかもしれません。

というわけで、ヒット商品ランキングベスト30位の雑感を。

1位   食べるラー油
    → これに日本中が走ったのはまさにアジア的。個人的には桃屋のものなら自家製のもので対抗できると思いますが、鳩カフェで食べたペンギンさんのものは本当に美味で脱帽。

2位   3D映画
    → 「アバター」はそれなりに面白い映画体験だったが、3D映画が定着するかは疑問。良質のドラマなら3Dの必要もないですし。

3位   「iPhone4」
    → まあ、2007年の1月にiPhone初号機の発表を見て「これこそがオレが欲しかったものだ!」と大興奮した身からすれば、iPhone4の登場はただのバージョンアップ程度のインパクト。

4位   「ローソン プレミアムロールケーキ」
    → 実物はもちろん知らず。でもなぜだか「まるごとバナナ」を思い出した。

5位   「iPad」
    → iPhone同様、これの真の意価値人口に膾炙するまではちょっと時間がかかるでしょう。私も「紙」による読書体験は特別だと思っていた時期はありますが、今はその考えを翻します。でも我慢して二号機が出るまで買わないんだから。

6位   「ポケットドルツ」
    → OLメインターゲットのランチ後歯磨きマーケットに特化した電動歯ブラシ。ふうん。

7位   「低価格LED電球」
    → これは素直にありがたい。

8位   「チンしてこんがり魚焼きパック」
    → これ興味あったんだよなあ、マクロビを始めるまでは。でも妻がマクロビを始めたと同時に電子レンジを捨てたのでもはや我が家には関係のない製品。でも一人暮らしの男性や老人に重宝されているのを聞くとやはりなかなかの商品だといえるでしょう。

9位   「ハリナックス」
    → コクヨの針なしホッチキスの進化系。知る限り針なしホッチキスは7,8年前からあるのですが、ようやく時代がついてきたのでしょう。伝票とレシートをくっつけることくらいにしかホチキスを使わないうちの店でも近々これは導入予定。できることからやらなくちゃ。

10位   「1杯でしじみ70個分のちから」
    → なんか似たような商品が少し前からあった気がするんだけど、シェアで「あさげ」を抜いたというのはスゴイよな。


以下11位から30位はかいつまんで。

11位 平城遷都1300年祭
12位 アタック ネオ&トップ ナノックス
13位 ルルド マッサージクッション
14位 Pocket WiFi
15位 怪盗ロワイヤル
16位 鮮度の一滴
17位 エアマルチプライアー
18位 ジガゾーパズル
19位 NEXシリーズ
20位 共同購入クーポン
21位 フリクションボールノック
22位 キリン 午後の紅茶 エスプレッソティー
23位 バンド1本でやせる! 巻くだけダイエット
24位 Big America
25位 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
26位 香る防虫剤
27位 JANJAN ソース焼きそば
28位 角ハイボール缶
29位 ミルミル
30位 アナログトイ

14位のポケットWiFi、グアムでも同様のサービスが始まった。サービスの利用者がどこまで伸びるかにちょっと注目してます。

19位のNEXシリーズ。たしかに一眼使うとミラーのありなしに関わらず、それなりにそれっぽい写真は撮れるけど、ほとんどの人が結局はカメラの構造を理解しないでその長所を生かしきれない。ミラーレスだって安い買い物じゃないんだからもっと勉強宇した方が価値がでると思うんだよなあ。

23位の「巻くだけダイエット」。いつになったらみんなはダイエットの基本は「消費カロリーを摂取カロリーよりも上回らせる」ことに尽きるという単純な事実に気づくのだろう。食うのを自制して、運動しろ!

25位、「もしドラ」。これは昨日書評を書いたからそれを参考されたし。

30位、「アナログトイ」。1984年のロス五輪の年にコカコーラから売られていた空回りが快調なヨーヨーと、1982年マクドナルドで売られていた剣玉「マックボール」が私のアナログトイの原点。腕に覚えはあります。今のガキども。かかってきやがれ。

そして28位の「ハイボール缶」。
実は今日このブログを書きたかったのは昨年から続くこのハイボールブームについて触れたかったから。

ご存知の方も多いかも知れませんが、若者のアルコール離れが叫ばれて久しいです。特にハードリカー離れは著しい。これは何も日本に限った現象ではなく世界的なものなんです。

とくに日本ではハードリカーはまったくといっていいほど売れず、1992年のバーボンブームを最後にハードリカーはまったく売れなくなってしまうんです。途中ワインブームや焼酎ブームはありますが、ハードリカーはだめ。

その中で日本のプレーヤーで一人ハードリカーを売ろうと気を吐いていたのがサントリーです。
1995年には森高千里を広告に起用してキャッチーなコマーシャルソングで「サントリージン」を売り出したのを記憶されている方もいるかも知れませんが(♪ジン、ジン、ジン、紅茶とジンでイギリス人♪ジン、ジン、ジン、コーラとジンでアメリカ人♪というあれです)、やはりサントリーはずっとウィスキーにアイデンティティーを置き、どれだけ「ウィスキーはもはや売れない」と言われても膨大なマーケティングバジェットを使って宣伝してきたか知れません。

それはやはりサントリーが寿屋時代から創業者の鳥井信治郎氏がウィスキーにこだわって「山崎」を作ってきたという社史にも関係あるとは思うのですが、はたから見ると「ウィスキーに金を突っ込むのは無駄だろう」と思えるようなときでさえずっと投資してきました。

その努力がついに実って昨年のヒット商品ベスト30位以内に「ハイボール」が入り、そして今年の「角ハイボール缶」です。これは一人のウィスキーラバー、そしてハードリカーウォッチャーとしては感無量です。
サントリーの努力にスタンディングオベーションをせざるをえません。

私はたまたま以前ハードリカーの広告に携わったことがあるので(自ら志願してのことですが)、ちょっとその辺りの事情がわかっていますが、恐らくヒット商品の上位にいる商品はどれにも開発者の不断の努力と尽きざる情熱が影にはあるのでしょう。

そんなことを考えてウィスキーを啜りながらこのランキング表を見ると、また一味違った味わいが楽しめるのです。


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2010-11-11

【書評】「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(岩崎夏海著)



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もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(岩崎夏海著/ダイヤモンド社)
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さて「書評」と銘打っていますが、本書私読んでません。Audiobookで聞きました。
現在オーディオブックを提供するFebe社がPodcastの新刊JPリスナーを対象に行っている半額返金キャンペーンをやっていたので、前々からなんとなく気になってはいたものの中々読む気にはなれなかった本書を購入しました。

今回「もしドラ」に関する書評はとてもサクっと行います。そしてその後にAudiobookについてお話をしたいと思います。

ではまず「もしドラ」について。ご存知の方も多いとは思いますが、出版不況の中150万部売れた超ベストセラー小説。
ある都立女子高生が野球部の女子マネージャーをすることになり、その勉強のためP.F.ドラッカーの「マネジメント」を読み、本来はビジネスに利用されるべきその手法を用いて野球部を甲子園に導こうとするものです。

まず始めに述べておきたいのは作者の岩崎夏海氏は男性であるということです。
これは私自身の偏見も露呈することになるのですが、個人的にはスポーツ小説はそのスポーツのことをきちんと理解していない人が書いているというだけで私は興ざめしてしまいます(もちろん女性作家が必ずしも理解していないということではなく「サクリファイス」を書かれた近藤史恵さんの文章は素晴らしいです)。本書も最初は著者名を聞いて私は女性の作家だと思っていました。企画自体は興味深いのですが、その作家にどこまで野球に対する造詣があるのかな、という偏見は正直ありました。

しかし読み進めて行くと「おっ、この女性作家存外わかってんじゃねえか」という気持ちになり、そしてAudiobookの巻末で著者自らが話しているのを聞き男性だと知りたまげたという経緯があります。

本来ならそのような偏見を持たずに作品に没頭すべきなのかも知れませんが、「野球もろくにやったことのねえ女が書いた高校野球小説だろ」と思って本書を手に取らない方がいるとしたらそれは杞憂です。

さてここで簡単に著者について触れると岩崎氏の本業は放送作家で、秋元康氏の門下にいる方のようです。後でAudiobookについてお話しするときにこのバックグラウンドも少し関係してくるので気に留めておいておいてください。

さて大事な内容について話しますと、一言で言えば完全な企画の勝利です。
この本を考えるとき三つの要素が重要になると考えます。

一つは「企画」、それから「構成」と「内容」。正直いいましょう、内容的には大人が読むレベルの小説の水準ではありません。突っ込みどころも満載だし(「女子マネージャー」というロールのみなみが野球部を「マネジメント」する正統性が付与されていないまま物語が進むのが最大の違和感)、そもそも内容自体がマンガレベルだ(ここでいうマンガは日本にある数々の素晴らしいマンガ作品のことではなく、揶揄としてのタームです)。

でもそれでも本作は十分に力強いのです。人によっては「荒唐無稽で大したことない話を、企画力だけで仕上げちゃったんだろ」という人もいるかも知れません。しかしそれは間違いです。そこには本書の構成力の見事さが落ちてしまっているからです。

本書の小説としてのストラクチャーは公式にあてはめて解析するなら百点満点です。 【ネタバレ注意】読者の少なからぬ人が一番共感を生むキャラクターを殺してしまうところも鑑みると嫌気がさすほど完璧です。

つまり本書は大したことない内容を企画力で形にした、と読むのではなく、卓越した企画をプロの計算され尽くした構成力で水準以上の作品に仕上げたと読むのが正解です。

そうでなければ150万部も売れるわけがありません。

というわけで本書の書評部分はこれまで。

続いてAudiobookという形態について少し述べたいと思います。
皆さんの中でAudiobookを利用されている方はさほど多くはないのではないでしょうか。しかしAudiobookはかなり使えるツールです。

それは一つには私がグアムに住んでおり、ほぼすべての移動が車になってしまったため読書時間が激減してしまったという個人的な事情もあります。でもそれ以外でも「チェックはしておきたいけど、読むなら後回し」という本は読書好きな方なら結構あるんじゃないですか。話題だし内容に興味はあるけれども、どうしても読みたい本というわけでもないというような本。

私にとって「もしドラ」はまさにそういう本でした。こういう本はAudiobookでやっつけるのが一番というのが私の結論です。

正直言って「もしドラ」でどういう漢字使いがされていて、カナの送り方がどうで、改行や余白がどうだなんてまったく気になりません。読書にはそういう体験もあるでしょうが、割り切った体験があってもいいと思います。

また耳から聴く利点もあります。たとえば東京に住んでいてあなたは通勤に45分かけているとしましょう。でもその内訳をみると駅までが徒歩6分、そこで1分間電車を待って、20分電車に乗って、乗り換えに3分歩いて、2分地下鉄を待って、12分地下鉄に乗って、2分かけて地上に出て、3分かけてビルについて、1分かけてエレベーターを使ってデスクに着くとします。
その間、本を読むことができるのはせいぜい途切れ途切れの30分。それがAudiobookだと45分間、ぶっ通しで聴くことができるのです。

さらに言うと私は英語の本でもこれを活用しています。前述の通り本を読む時間は就寝前くらいしかないのですが、英語の本を読もうとするとあっという間に寝てしまってなかなか本が進まない。それがAudiobookなら運転している間でもどんどん物語りは前に進んでいきます。

というわけでAudiobookをうまく利用することを皆さまにオススメしたいです。

ここで話をふたたび「もしドラ」に戻してます。
私が本書がAudiobookになると聞いたとき、AKB48の仲谷さんがナレーションを務めると聞いて嫌な気持ちになりました。グアムに住んでいるゆえ、AKB48のどなたの顔も存じ上げないのですが彼女たちが私たちの世代でいうところのおニャン子に匹敵する以上の人気があるということは伝え聞いていました。

Audiobookはそういう飛び道具を使わなくても十分有用なのに、そういう売り方をすると却って本来の価値が損なわれ正しいユーザーを獲得することができないと思ったからです。

そういうわけで私は制作者の意図に疑問を感じました。
しかしそこには私の早合点もあったということもちゃんと報告しておきます。

Audiobookのあとがきを聴けばわかるのですが、著者の岩崎氏は以前にAKB48と仕事をしていた間柄で、彼の指名によって仲谷さんが単独ナレーションをしたということでした。そして事実仲谷さんのキャラクターの演じわけは見事で、違和感なく最後まで楽しむことができました。

というわけで、好演の仲谷さんに何の罪もないのですが、それでも日本のAudiobookには改善されるべき点があります。それは値段です。新刊の値段はアメリカのものとさして変わりません。やはり長期にわたりナレーターを拘束して収録するわけですからコストはかかります。これについて文句をいうつもりはありません。

しかし旧刊のものの値段の日米差が激しすぎる。私はAudiobook事情に長けてはおりませんが、普通に考えればこれは出版社の取次店に対する配慮でしょう。電子書籍時代に本格的に突入した今、取次店は衰退産業だということは日の目を見るよりも明白です。

そろそろ日本の出版社もここから自由になってもらわないと、損をするのは私たち日本人です。


what's "my wife's camera"?

2010-11-10

立川教洗脳ブギウギ。



妻と話していて何かの話で嫉妬の話題になった。
そこで私は立川談春の「赤めだか」で触れられたいた談志が「嫉妬」について語っていた一説を妻に話した。

それは談春が弟弟子である才能豊かな志らくに嫉妬を感じていたときに談志(イエモト)が談春に突然話したことだった。

**** 引用 ****

「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」
と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩(やから)の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」

**** 引用了 ****

このことを妻に話すと彼女は「嫉妬って人間の七つの業の中で一番罪深いものだっていうものね」といった。

そこで私はすかさず
「談志がいうには『落語は人間の業の肯定である』ってことなんだよね」

すると妻
「へえ、今まで落語に興味はなかったけど、そう聞くとなんだか興味が湧いてきた」

その流れを受けさらにすかさず、彼女のiPhoneに談春の「文七元結」をダウンロード。

検査のためひとり日本に帰った彼女は道中かの名作人情噺を聞いてくれたかしら。これを機に落語に興味をもってくれたら楽しいんだけどね。


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2010-11-09

【書評】「Born to Run」(Christopher McDougall)




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Born to Run: A Hidden Tribe, Superathletes, and the Greatest Race the World Has Never Seen」(Christopher McDougall/Knopf)
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いつものフォーマットで偉そうに「書評」と銘打っていますが困りました。
この本は私にとても大きな影響を与えたので、どこまでどういう形でこの本を読んだ(実際はほとんどAudiobookで聴いたのですが)感想というかインパクトが伝わるか自信がありません。

でもとりあえずは出会いから。

まず本書を知ったのはラジオ番組「小島慶子キラ☆キラ」で水道橋博士が激プッシュしていたから。

聴いていただければわかるのですが、博士が生涯のベスト10に入るという本なれば少しでも走ることに興味のある人なら読んでみようかなというのはむしろ自然な流れなわけで、私はすぐにKindle for iPhoneとAudiobookでダウンロードしました。

ただ博士がプッシュするくらいですから、もちろん日本語でもNHK出版から出版されてます
さっと内容から説明しますと、足を痛めて走ることができなくなった著者のChristopher McDugallが超長距離を走ることができるメキシコのTarahumara族の存在を知るところから始まります。

彼らは日常的に100km以上走ることのできるメキシコの山岳部に住む民族で、過去に100km超のウルトラマラソンに二回参加し、全米のトップランナーを押しのけ優勝している民族なのです。

本書はCaballo Blanco(白い馬)というなぞのランナーを通じてTarahumara族に出会い、人間が延々と獲物を追って走り続けることによって仕留めるという学説を通じ人間は走るために生まれてきたと確信し、そしてCaballo Blancoを通じてTarahumara族のランナーと全米のウルトラマラソンのトップランナーが一緒にレースする機会をルポする小説仕立ての物語です。

書評めいたことを書くのなら、導入の掴みの部分も十分に強いし、それぞれのランナーのキャラクターも十二分に立っている。人間は走るために生まれてきたとする学説の解説と説得力も興味深く、そして物語の推進力になっている。さらにはラストに向かうレースの記述はクライマックス的な興奮を十分に高めてくれる。つまり、ルポとも小説ともつかない本書は十二分に面白い。

と、にべもなく総括してしまいましたが、それは本書がとても個人的に私に刺さって通常の書評が無意味になってしまったからなんです。

具体的にいうと本書を通じてベアフットランニングに出会いました。最近ブログこのブログでも書いてきたVibram Fivefingersと運命的な出会いを果たしたのも本書を読んでいる最中でした。その上、先日マクロビオティックの勉強をしている妻からいきなり「あなたのランニングの『師匠さん』ってTarahumara族だっけ?」と聞かれました。そう、マクロビ的にみてもTarahumara族は極端に心臓病の少ない彼らは興味深い研究対象らしく、その食生活は本書でも少し触れられています。以前も書いたように私も妻の影響で大分マクロビ寄りの食生活になっており、それを是としているのでここでも「つながっている」感があります。

ここであらためてなぜ本書がそこまで私に響いたのかを考えてみたいと思います。

まずタイトルの「Born to Run」は人間はそもそも走るために生まれてきたという意味ですが、若干のネタバレ覚悟でいうとそれは「人間は短距離走は遅いけれども持久走は他の動物と比しても優れており、人間は動物を延々と走って追い込んで猟をしていた」という学説に乗っかっているのです。

ここで私が今年の春に鳩カフェに参加したときに知り合った北海道の農家の方が「鹿を1,2頭仕留めると四人家族が一年間食べていくのに十分」ということを仰ってのが思い出されました。

ということは100人の集落で移動していたとしても週一頭の鹿を仕留めることができれば十分皆を食べさせることができるということです。つまり100人の集落の選りすぐりのハンター4,5人で週に一回数十キロ走る猟にでかければ他の集落のメンバーを食べさせることができるのです。このペースというのはとても自然なもののように感じられました。なんていうのでしょう、無理がないというか自然の生態系を壊さないというか。

私は2004年の4月に田舎時間という農業体験プログラムに参加して以来、農業ということをひとつの行動規範として考えるようになりました。

それは苗植えや収穫の忙しい時期は週休二日などと呑気なことなどいっていられず、家族総出で助け合って生きていかなければならないとか、晴耕雨読とかそういうことなのです。

なんていうんでしょう、どんなに人間社会が複雑になっても人間も動物であることを忘れてはいけないというか。

この本を読んでふたたびそのことを強く感じさせられたのですよね。ハイテクな靴に頼らなくても走れるようにするとか、不必要に他の動物を殺めなくても穀物を中心に十分に生きていけるとか。

本書は人間は走るために生まれた、ということをひとつの大きなテーマとしていますが、同時に注意深く読めば人間はなんのために生まれ、どのように生きるべきなのかということに関しても非常に興味深い示唆を与えてくれています。

自然界の一員として我々人間はどのように生きるべきなのかを、ひとっ走りしながらあらためて考えたい気持ちにしてくれた一冊です。


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2010-11-08

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~不安に回答編~




昨日のハーフマラソンの後、夜うちの店にI夫妻とK夫妻が遊びに来てくれました。

両夫妻とも私のようなヘッポコランナーとは異なり、I夫はハーフマラソンで総合2位、I妻は5kmで総合優勝、K夫妻ともに部門別で3位以内入賞というリアルランナーです。

しかし相手がどれだけの手練れであっても、お気に入りのアイテムは自慢したくなるのが人の常。
というわけでハーフマラソンにして20分以上のタイムの遅れのある私が、四人のアスリートを前にVibram5の素晴らしさについて偉そうに講釈を垂れてしまいました。

実はI妻には以前にも説明したことがあったので興味をもってくれていましたが、それ以外の皆の反応は基本的には「ありえへん」というもの。

ソールがないので衝撃を吸収しないということもありますし、ホールドがほぼなくグリップもないので怖いという感想でした。

実はそこがポイントなんですね。
「ホールド」「グリップ」という概念は要は足首を固定して守るというもの。バスケットボールやバレーボールではハイカット、ミドルカットのシューズがよく使われますが、それは激しい動きの中で足首を捻挫しないようにするためです。

ランニングの場合はそこまで激しく不自然な動きをすることがないので基本的にはローカットではありますが、それでもやはりホールド性はあります。

でも考えてみると人間裸足のときに捻挫することはほとんどないんですよね。靴を履きソールによって段差ができ、足底面に柔軟性がない状態で無理な負荷をかけるからグキっと捻挫してしまうわけです。

しかしVibram5にはまずソールによる段差がない、それから足底面に柔軟性があるので一気にグキッとイッてしまうことも少ない。そのあたりはこのビデオを観てもらうとイメージが掴みやすいと思うのですが、1:34あたりで松ぼっくりを踏むシーンがでてきますが、もし普通のシューズで走行中に踏んでしまったら足首がイッてしまうかも知れませんよね。

もちろんほぼ裸足なわけで足首は守られていないので、足首の柔軟性とかそのまわりの筋力とかシューズ走行に馴れすぎてしまった人にとっては新たに鍛えなければいけない部分も出てくるかも知れません。しかし慣れてしまえばグリップのなさというか、ホールド感の危うさということはまったく気になりません。

さてここまで書いてきて少しでもベアフットランに興味をお持ちになった方へ。
もしあなたが気合の入ったリアルランナーなら、私ごときにいうことはありません。頑張ってください。
そしてもしあなたが私と同じようなヘラヘラてけてけランナーだとしたら申し上げたい。チャンスです。

本気度が高く、今までも自分を追い込んでそれなりのタイムを出してきた方が気安くフォームの大幅改造ができないのは当然です。私だっていくらこの走法が気に入ったからといって高橋尚子さんなどのトップランナーに向かって「試してみるべきだよ」なんていうことはできません。

しかしテケテケランナーであるあなたは私同様失うものはないんです。本気度の高い人と話すと中にはベアフットランニングを色物のように一笑する人もいますが、あなたにはそんな不要なプライドもないんです。

というわけでヘラヘラてけてけランナーにはチャンスです。。まだ初めて数週間の実感ベースですが、怪我は絶対に少なくなりそうですし(ランナーの怪我は存外多い)心肺器官は圧倒的に疲れない。5kmとかでは圧倒される相手にフルマラソンやそれ以上のウルトラマラソンで勝負できるかも知れないのです。

私自身はウルトラの世界にまで足を踏み入れるつもりは今のところありませんが、それでもいつか東京マラソンは走りたい。その時裸足、とまではいかなくともVibram5や地下足袋で走れたらいいなあなどと一人夢想してしまうわけです。

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~出会い編~
ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~走り方編~
ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~練習走行編~
ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~初装着編~


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2010-11-07

ハーフマラソン完走。備忘録も兼ね。



今日はVibram Fivefingersの話はいったんお休みしてリアルのランニングの話です。今朝PICのハーフマラソンを走ってきました。

できれば2時間切れればなと思っていたのですが、結果は2:04:54。
でも昨年が2時間20分、春のハーフが開始後5分で足首の骨にヒビが入ってしまってリタイアということを考えると、怪我なく終了しただけでもOKというところでしょうか。

さすがにVibram Fivefingersはレースまでに試す機会が一度しかなかったので今回は履かずに普通のランニングシューズで参加したのですが、それでも3,4km地点まではつま先走りでいき自分なりにフォームを作ってそのペースで21kmを走りきりました。

まあタイム自体は正直こんなものでしょうけれども、若干消化不良のところもありました。というのも走り終わってから心肺機能の疲労がまったくなかったのです。だからもっと自分を追い込めたのではないかという気がしてしまいました。

しかし逆に足はラスト3,4kmくらいから右足中指や左膝が痛み出すなど少しずつ悲鳴を上げ始め、あれ以上無理をしてもいけなかったというのが実際ファンランナーとしては理性的な判断だったのでしょうが。

何はともあれとても楽しめました。このレースはハーフマラソンの他5km走、10km走もあり、レース後には簡単な表彰パーティー兼プレゼント抽選会もあり、グアムの仲間たちと楽しい時間を過ごすことができました。

そうした多くの仲間や朝早くから応援してくれた友人、そして誰よりもここ数日食事も気遣ってくれ、昨日はレース中の栄養補給のためにシリアルバーを手作りで作ってくれ、ろくに寝もせず朝から重たい機材を持ってみんなの写真を撮ってくれた妻に感謝です。

本当にみんなありがとう。

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2010-11-06

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~初装着編~



日本への一時帰国のあと、PICのハーフマラソンまで二週間しかありませんでした。
しかし私はどうしてもつま先走行をマスターしたく、練習中はふくらはぎが持つ限り極力つま先走行をしていました。

お陰で気づけばふくらはぎの筋肉は相当発達してきました。しかし同時に疲労もたまります。
一週間練習した後、直前の一週間はランニングの練習を水曜日までにして金曜日にヨガで体調を整えてから日曜日のハーフに備えようという計画を立てました。

順調に調整は進み水曜日のランニングをすませて後は体を休ませようと思っていた矢先にVibram Fivefingers KSOが届いたのです。

どうしよう。せっかくここまで順調に調整してきたのに、馴れないものを履いて故障したら元も子もない。冷静に考えればここは我慢してハーフ明けにデビューさせるのが賢明な判断。

でもそんなことできるわけがない。履いてみたいもの。
というわけで木曜日に4km程度のコースで試運転をしてきました。

まず始めに。Vibram5の本質とはまったく関係ないのですが意外と履きにくい。というのも足の指が自分の意思どおり動かないからです。昔人に足の指を触ってもらって「何指触ってるかわかる?」というような遊びをしたことはありませんか。足の指は意外と自分が思っている感覚とは違うんですよね。だから一つのポケットに二本指が入ってしまったりする。ま、履いていくうちに馴れてくるものではありますが。

そして装着感。これは地下足袋に似てます。っていうか地下足袋よりつま先部分と踵部分が若干厚い他はソール部分はほぼ同じだと言ってしまってもいいでしょう。

そしていざランニング。しばらく普通のシューズでつま先走りをしていたせいか、何の違和感もなく走ることができました。もちろん若干衝撃はランニングシューズよりはありますが、基本的それはふくらはぎで吸収されるので気になりません。また足の裏の感覚があるので足の小指の付け根から親指の先にかけて体重を移動していく感覚がよくわかります。

かなり快調に走ることができたので「もう少し早く届けばハーフもこれで走れたのに」と思ったのですが、後半になって少し異変が起きました。それは左右の親指に何かがあたるような痛さを感じてきたのです。

結論からいうとこれは靴の縫製の縫い目でした。実はVibram5を紹介してもらったFrankからも「縫い目が当たって痛いから、そこはテープを張ったほうがいい」と言われていました。

結果軽い血豆ができたのですが、同時に馴れればわざわざテープを張らなくても大丈夫かなという印象です。

というわけで無事Vibram5デビューを果たしたのですが、走り終わった後の感想も。
やはりふくらはぎに相当きます。それまでのトレーニングですでに疲労が蓄積されていたせいかも知れませんが、Vibram5で走った後は思っていた以上にふくらはぎに負担がかかっていました。前述したとおり、ソールがほとんどない分だけ衝撃をもろに受けてそれをすべてふくらはぎで吸収するからなんでしょうね。
とはいえVibram5、相当気に入ってしまいました。

明日はいよいよPICのハーフですが、さすがに明日はまだVibram5では走れないので来年3月のハーフに向けてトレーニングをすることにします。

ハーフ明けいつトレーニングを再開できるかわかりませんが、再開し次第またレポートします。
それまで!
(つづく)


ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~出会い編~
ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~走り方編~
ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~練習走行編~


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2010-11-05

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~練習走行編~



というわけで私は普通のランニングシューズを履いてベアフットランのフォームで走りにでかけました。

その日は家から出て都合5-6kmのコース。とにかくつま先から着くことと足を体の真下に着地させること、それから上体を前傾させずにできるだけ起こすことに努めました。

走っている最中に気づいたことはまずふたつ。ひとつはやはり体が弾んでしまって頭が上下してしまうということ。西洋スポーツ科学では頭の位置は極力動かさずにすーっと走れた方がいいとされていますが、つま先で走るとなかなかそういうわけにはいきません。

次に思ったのは「なんかオレちょこちょこ走ってるなあ」ということです。通常走るとき足を前に出しますが、前回書いた通り足を体より前に出してしまうと踵から着地せざるをえないので、自然体の真下に足を着地させることになる。すると歩幅は当然小さくなる。そして自分の印象としてはなんかちょこちょこ走ってるなあという感じになるのです。

もう少し走ると別の感想が出てきました。ひとつはふくらはぎに相当の負担がかかるということです。やはり踵をつかないとなると衝撃はすべてふくらはぎで吸収することになります。かなりの負荷がふくらはぎにかかります。"Born to Run"で「この走り方は相当筋力が要求される。でも筋力は鍛えることはできるが、関節は鍛えることはできない」というような記述がされていたのを思い出す。それは裏を返せばかなりの筋力が要求されるということです。確かにふくらはぎの筋肉には相当くる。

そしてもうひとつの印象はある意味逆のもの。走っている間ふくらはぎにくる衝撃は気になるのだけれども、ある程度走っても心肺機能はまったく疲れない。始めはそれは私が新しい走り方をしているためゆっくり走っているので、心肺機能に負担がかかるまでもないからだと思っていました。しかし別の機会にもう一度走ってみて普段走るよりも結果的にはタイムがいいのに全く心肺機能的には問題がないということに気づきました。

ここからは本に書いてあったわけでもなく、科学的根拠があるわけでもなく私自身の印象論なので正しいのかどうかはわかりませんが私なりの解釈を。
これは十代の時に読んだ記事の受け売りなので今もそうかどうかはわかりませんが、水泳で短距離の選手は通常シックスビートで泳ぐということです。つまり右腕と左腕をひと掻きする間に左右の足は六回バタバタしているということです。でも長距離を泳ぐ選手はフォービート、もしくはツービートで泳ぐとのことでした。

いわくクロールにおける推進力は腕によるものが大きく、キックは浮力確保とわずかの推進力だけであるわりには大きな筋肉は酸素の消費量も大きいので長距離の場合はキックを極力使わないで腕の推進力に頼ると。

つま先で走るとき、ふくらはぎ以外の足の筋肉をつかっている印象がほとんどないんです。というのも走るとき筋肉を使っているなあと意識されるのは足を前に出すときなんです。もちろん意識的に蹴り上げれば足を後ろに出すときも筋肉は使うのですが、少なくとも私のようにダラダラ走るランナーはそんなに蹴り上げません。

ということは足を前に出さないでちょろちょろ走っている限りはそんなに大腿筋は使わない、つまり酸素は使われず心肺にこないということです。これは超長距離を走る人には大切かも知れません。

そういうわけで走っていたのですが、3kmくらい走ったらふくらはぎが辛くなってきたので普通の走法に切り替えることにしました。つまりかかとから着地したわけですが、そのときの衝撃の大きさに驚きました。

普段いかに大きな衝撃を受けながら走っているかということです。"Born to Run"でもつま先走法は圧倒的に怪我が少ないと書いてありましたがなんだかわかる気がします。

さらに思い出したのが「Number Do」の「大人のRun」特集での有森裕子と中田英寿の対談でした。そこで有森さんは腰はできるだけ動かさないほうがいいといっていました。このつま先走りをすると腰が動かないんです。

裏を返せば普段はオーバーストライドで走ってしまっていることがあるということなんですよね。だから足や腰に大きな負担がかかってしまう。事実左足の付け根を少し痛めていたのですが、この走り方をしている間はそれがまったくきになりませんでした。

というわけでこのつま先走行に大きな期待を感じ、Vibram Fivefingersの到着を待っていたののですが、同時に本で読んだ知識だけで自分の走り方が正しいのかという確証もありませんでした。

そこでYoutubeでVibram Fivefingersやbarefoot runなどのキーワードを入れて検索すると次から次へと映像がでてきました。"Born to Run"の作者であるChristopher McDougallの動画Fivefingersを紹介するビデオベアフットランニングを研究しているハーバードの教授の解説など色々な動画が見つかりました。

結果実際のベアフットランはつま先というよりも前部で着地するという感じでした。具体的にいうと足の小指の付け根あたりで地面に接触し始め、親指の拇指球にむけて着地していくという感じです。

Youtubeをみているうちに気持ちが高揚してきました。
あとはVibram Fivefingersの到着を待つだけです。
(つづく)

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~出会い編~
ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~走り方編~


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2010-11-04

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~走り方編~



Vibram Fivefingers KSOを注文したまではいいですが、グアムの場合はいつブツが届くかは全くわかりません。

すでに運命を感じてしまっている私はじっとしていられません。というわけで、Fivefingersが届く前から普通のランニングシューズでFivefingers走りにチャレンジすることにしました。

そう、Fivefingersは裸足に極めて近いソールのほとんどない靴(?)なので、シューズを履いて走るのと同じように走ると怪我をしてしまいます。そのためベアフットランと同じような走り方をしなければいけないのです。

そのことについて"born to run"では面白いことが書いてありました。この本ではタイトルのとおり人間は走るために生まれてきたと主張しています。短距離は速くはないけれども、疲れ知らずで延々と獲物を走りながら追い込むことによって猟をしてきたという学説に乗っかっています。

つまり人間は長距離走ができるように設計されており、それは有史以来ほとんど裸足で行われてきてシューズを履いて走るようになってからの方が圧倒的に短いので、人間の体には裸足で走るフォームの方がいいという主張をしているのです。

この主張には妙な説得力を感じてしまいました。そしてそこに記されていた走り方はこんな感じでした。

まずシューズを履いている人は踵から着地しますが、それは本来裸足で走るならそんな走り方は踵に対する衝撃が大きすぎるのでありえないということです。これは私がビーチを裸足で走ったときに犯してしまった間違いでした。ビーチでさえちょっと水で砂が固まっていたら踵からの着地走法は痛くてとてもじゃないけれども持ちません。

かわりにつま先で着地するということでした。そして着地する場所は体の前方ではなく真下というイメージです。考えてみれば当たり前なのですが、靴を履かずに裸足で走る場合は足が地面に対して斜めに着地してしまっては足の裏の皮が剥けてしまいます。だから地面を垂直に蹴るような走り方が要求されます。

このことは別の意味でも実用的だという気がしました。人が、特に古代の人が走るのはかならずしも舗装された道ではありません。そうすると小石やら何かの破片だか踏んだら怪我をしてしまうようなものがたくさん落ちています。でも同じ全体重をかけてそれを踏むにしても垂直に踏むのと斜めから踏むのでは足に対する影響が違います。包丁で考えてみればわかりやすいのですが、よく研がれた包丁でも垂直に指を押し当てる分にはなかなか指は切れません。でもちょっとでも引くとあっという間に指先から血が出てきます。それと一緒です。つまり皮膚を破らないためにも体の真下での垂直着地は合理的なのです。

そこでつま先を体の真下に下ろすように走る走法をを普通のシューズで実践してみたのです。

(つづく)

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~出会い編~

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2010-11-03

ランニング革命?最も原始的にして最も尖端のギアVibram Fivefingers ~出会い編~



十月の上旬乳がん撲滅のために主催された5kランに参加しゴール後休んでいると、知り合いのチャモロ人のおじさんFrankが近づいてきました。その足元を見ると五指靴下のようなものを履いています。何それと聞くと得意げに「いいだろ、ハワイで買ったんだ」と自慢してきました。

ちょっとハイテクっぽいデザインではありましたが、五指靴下はそこまで珍しいものでもないので適当に相槌を打っているとどうやら彼はその靴下もどきだけで5km走ったということでした。

俄然興味が湧いてきました。私は以前からベアフットラン、つまり裸足で走ることに漠然とした興味を持っていました。なんだか自然っぽいし、足裏のツボも刺激されてよさそうだなというようなぼんやりした理由で。そしてグアムに住んでいるメリットを生かして実際何度かビーチで裸足で走ってみたこともあります。しかしビーチでさえ痛い。とてもではないですが普通の道で裸足で走るなんて考えられません。やはりアフリカの人は違うんだとアベベのことを遠く思っていました。

でもその五指靴下シューズを使えば裸足で走れるかも知れない、なんとなくそんな予感がして心がざわめいていました。それでもそれはグアムでは買えないといわれたのでいつか日本で出会う機会があれば履いてみたいな程度に思いその場を離れました。

その日寝る前私は"Born to Run"という本をAudiobookで聴いていました。この本については改めて書評を書くと思うので簡単にしか触れませんが、メキシコの山岳部に住むTarahumara族という超長距離を日常的に走る民族について書いた小説仕立てのルポです。独特の薄っぺらなサンダルを履きながらも超人的な長距離走能力を持つ彼らにアメリカの選りすぐりのトップランナーが挑むという話です。

私は今週末PIC主催のハーフマラソンを走ることになっていたので少しずつトレーニングを始めており、そして私にとってはハーフでさえ超長距離なので、このAudiobookを聴きながらモチベーションを上げていたところでした。

その日寝る前にAudiobookを聴いていると、一人ひとりTarahumara族とのレースに参加するランナーが紹介されていました。その中Barefoot Tedという一人のランナーが紹介されると私は思わずベッドから体を起こしてしまいました。彼が履いている靴の名前に聞き覚えがあったからです。そう、昼間にFrankに自慢された五指靴下もどきです。

私はあわてて検索を開始しました。そしてBarefoot Tedが履いていたその靴こそがFrankに自慢された五指靴下もどき、Vibram Fivefingerだったのです。

わかりやすく運命を感じてしまった私はその日から色々と調べ始め、「この靴はちゃんと足を採寸しないといけないんだ」とFrankに言われたのを思い出し足を定規ではかり、そしてebayでもっとも安く信頼できそうな業者を探して注文したのです。

そのVibram Fivefingers KSOが今日届いたのです。

(つづく)


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2010-11-02

RIP Brownie




電話にでた妻が悲痛な叫びを上げる。洗面所にいた私は耳をそばだてる。妻の実家で飼っていた犬が16歳の生涯を終えてしまった。

日本から国際電話をかけてきた義父が説明する様子を聞きながら妻は顔をぐちゃぐちゃにして嗚咽する。

私はその顔に向かってシャッターを切りたい衝動に駆られた。そしてもし私がフォトグラファーならば迷わずそうすべきだった。

+++++

妻の作品がグアム大学が主催するグアムならびに近隣諸島のアーティストを対象とした展覧会"Creative Hands"に選ばれた。

+++++

シャッターを切れなかった私はかわりに彼女の背後にまわり、そっと肩を抱いた。
我が家にふたりもフォトグラファーはいらないことを私は悟っていた。


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2010-11-01

「カワイイ」考。



電通のCMプランナーの澤本嘉光さんがTOKYO FMのラジオ番組で「今の若い人には『自分に関係があるかないか』という価値判断があるので、まず『自分に関係のあるものだ』と思わせなければいけない」という内容のことを話していました。だから「関係のある」と思わせることができたものは大ヒットし、「関係がない」と思われたらいいものでも大失敗すると。そして小島よしおの「そんなの関係ねえ」はそういう世相をも反映している興味深いものだと。

これを聞いてすぐに「デジタルだなあ」と思ってしまいました。ゼロかイチか。
そう考えたときすぐに別の言葉が頭に浮かびました。
それは「カワイイ」です。「カワイイ」という言葉がすべての肯定的なコンテクストで使われるようになってもう10年近く経つでしょうか。そして「すべてのものを『カワイイ』という言葉で表現するのはボキャブラリーの貧困化だ」と非難されてからもそれくらい経つでしょう。

社会学者の中には「カワイイ」を「そんなの関係ねえ」という言葉とあわせて分析して「RSSやTwitterなどのように無数の情報が流れ行く中で瞬時に取捨選択しなければならないインターネット時代の弊害」という風に分析する人もいるかも知れません。

そういう批判のいいたいこともわかるのですが、どうも個人的にはなぜだか「カワイイ」という言葉が決して嫌いではないのです。

そこで「カワイイ」という言葉について考えてみました。いまさらいうまでもないですが「カワイイ」はオールジャンルの肯定を表す言葉で洋服にもステーショナリーにも携帯電話にも使います。

おそらく「カワイイ」否定論者は洋服なら「この色今年のトレンドでいいよね」とか「夏っぽい雰囲気がキミにはぴったりだよ」とかいうべきだと思っているのだろうし、ステーショナリーなら「使いやすそうなのに小さくていいね」といった方がいいと言うでしょう。

この批判って、文芸評論における印象批評に対する批判に似てるんです。つまり批評は実証的、客観的であるべきだという。印象批評に対する批判はそれなりの説得力があり私自身が批評を試みるとき頭の隅におくことでもあるのですけれども、同時にそれはどこか「実証的な方がインテリっぽくていいんじゃね?」的な自尊心が見え隠れする気もしてしまいます。そして構造だとか記号的分析に終始して突き詰めて考えていくと批評はどれも同じようになってしまう。それはつまり感動は解析できるという考え方になってしまうんです。

でも私は個人的には感動は解析しきれないものだと思っています。もちろん感動を言葉にしようという努力はとても大切だとは思うのですが、その言葉では拾いきれない個人的なところこそが感動の本質だとも思うのです。

それに対して「カワイイ」という言葉にはインテリジェンスのかけらもありません。その代わりコミットメントがあるんです。フルセンテンスでいうと「私はこれをカワイイと思う」。コミットメントはもちろん一人称から発せられるわけで、感動というのはその個人的なところ以外からは生まれないと思うんです。だから「カワイイ」という形容がちょっとアタマわるそうでも嫌いになれない。

そこまで考えて「カワイイ」に似た言葉を思いだしました。記憶する限りでは80年代頃から使われ、今でもまだ使われている表現ですが「アリ」と「ナシ」です。

「かつおにマヨネーズって意外と『アリ』だよね」とか「このシーンでこのBGMはどう考えても『ナシ』でしょ」という「アリ」「ナシ」です。

この言葉も基本的にはゼロかイチを表す言葉ですよね。でも「カワイイ」とは決定的な違いがある気がします。それはフルセンテンスでいうと「これは世間一般的な水準(もしくは仲間内の水準)でみて『アリ』でしょう」というのが「アリ」「ナシ」プロトコルなのではないかと思います。

これはあくまで判断の基準をコミュニティーに求めて、自分で引き受けていないんです。つまりコミットしていない。それに比べてちゃんと自分の立場を明白にしてコミットする「カワイイ」という言葉はひょっとしたらボキャブラリーの退化などではなく、コミュニティーにもはや縛られることさえできない今の日本人の最先端のリアリティーなのかも知れません。

what's "my wife's camera"?