2010-10-26

【書評】「少年譜」(伊集院静著)




*********************************************
「少年譜」(伊集院静著/朝日出版社)
*********************************************

友人の中で編集者を除いて間違いなく一番本を読んでいる男Jが最近いった「この年になってようやく小説の味わい方がわかってきた気がして、大切にするべきは筋でもテーマでも心の動きでも人物の造形でもなくて、心に残る文章だろうと」。

そう、小説は心に残る文章があるか、文章が心に残るかが大切なのだ。

たしか昔林真理子氏が「コピーライティングは100ある言いたいことをひとつのコピーに集約させる作業で、小説はひとつのことを言いたいために何百ページも書く作業だ」というような内容のことを言っていた気がする。そういうような小説を書くにはもちろん文章に強さがなければならない。

しかし昨今の出版事情はそれとは別の潮流上にある。一言でいえば長編主義。短編小説は売れないから面白い長編小説を重宝するのだ。

私はこの潮流を必ずしも快く思っていない。もちろん長編小説でも素晴らしいものはいくらでもあるが、昨今の長編至上主義は読者の小説リテラシーの貧困化に一端があると思うからだ。

長編小説が好まれるのは十中八九、そのプロットの面白さによる。言い換えればプロット主義だ。もちろんプロットも小説を構成するとても大切な要素のひとつだ。しかし、冒頭で記したようにやはり小説の味わいは文章抜きには語れない。

それがプロット偏重になることによって小説を楽しむ素晴らしさが見失われてしまうのが惜しいのだ。
敢えて名指しをすると今をときめく東野圭吾とか伊坂幸太郎は完全にプロットだけの作家だ。もちろん流行作家としてそういう作家がいてもいい。でもそういう作品しか売れないことによって、小説文化は脆弱になっていく。

伊集院静もその被害者だった。

無頼で有名な伊集院は「酒を身躯で呑む」というような表現をするが同様小説も彼は「身躯で書くこと」しかできない。つまり身を削ってしか文章が書けないのだ。

その代わり、見事に文章が身躯とシンクロできた時は彼の文章は美しさを放つ。それが彼の魅力なのだ。そして容易に想像つくと思うが、そういうスタイルは圧倒的に短編に向く。

しかしもちろん人気作家といっても出版界の事情から無縁ではいられない。長編を求められるのだ。もちろん力のある作家だから時にはいい長編も書く。しかしそれはプロットで勝負するタイプのものではなく、短編をいくつも積み重ねてひとつの作品に仕上げたものが多い。つまり無理して仕上げたものだ。

本作「少年譜」は伊集院が少年を描いた七つの短編の作品集だ。これがいい。
彼の魅力がいかんなくでている。

想像するに伊集院は求められる長編に疲れてこれらを書いたのだろう。結果、プロットをドラマチックにする一切の装飾がないミニマルの作品の集まりとなっている。

特に表題の「少年譜」の無駄の無さは美しく、織田作之助の「夫婦善哉」を彷彿させる。

伊集院は当たり外れの多い作家で何度も失望もさせられたが、こういう作品が書ける限りはまだまだ彼に失望させられてもいいと思えてしまう。

そして長編もいいが、短編の魅力に今一度多くの人に気づいてもらえればなあと思ってしまう。

















what's "my wife's camera"?

No comments:

Post a Comment