2010-10-23

ラジオのはなし、あるいは無血市民革命。




最近ラジオが元気なようです。
エッジの聞いたカルチャー誌「Quick Japan」でも特集されたり、朝日ニュースターでも特集されたり。

テレビの制作費がなくなって芸人をだすものばかりになってしまったとか、ラジオは自由度が高く過激なことがわりといえるとか色々な理由はあるでしょうが、ラジオを聴いたことがなかった十代、二十代前半の若者までもがラジオに回帰している一番の理由はやはりPodcastでしょう。

そのPodcast、今でこそコンテンツは大分増えてきましたが始めのうちは各局試行錯誤していました。もちろん著作権の問題があって音楽が流せないという問題も大きいんですけれども、ビジネス環境の厳しい中タダでコンテンツを垂れ流してしまっていいのかという問題も大いにあったようです。

ただ結果的にいうと人気番組をどんどんPodcast配信していったラジオ番組に勢いがでてきました。
これは実はラジオだけの問題じゃなくて、インターネット時代のもっと大きなトレンドなんです。

日本では特に「お上が施す」っていう意識がとても強いんです。言葉を換えればある種の権威主義。たとえば教育の現場でも先生が生徒に教える「これは重要だから覚えておきなさい」と。これが基本形ですよね。でももちろんそれが世界のスタンダードというわけでもなく、中にはよりディスカッションに重きを置く教育を施す国もありますから、相対的にみれば日本の教育は「上から下に施す」という色彩が強いということになります。

政治もそうですね。普通選挙が導入されて85年も経つのにどこか政治というと「遠くの偉い人(もしくは悪い人)がやっている」という意識が強くてなかなかコミットしようとする人は少ないですよね。本来は政治は直接的に自分の生活に関わってくるのに。

そういう意識は「日本では市民革命がおこらなかったからだ」という風にいう人もいるかも知れませんが、ここではその原因ではなくてとりあえずおいておいて、事実として日本人は統治する側もされる側も「お上」意識が高いというのは間違いないと思います。

そしてそういうお上意識は放送でもみられるんですよね。テレビなどの放送は市場競争の原理に晒された自由なものだと思っている人も多いかも知れませんが、放送法というものがあって「国民にはこういう放送を提供するのが好ましい」としてコントロールしようとする放送行政というものがあるんですよね。その結果、免許剥奪とかが怖くて放送局も総務省にあまりたてつくことができないわけです。

ところがインターネットはまったく「お上」的世界観とそぐわないわけです。
USTがあれば個人でもバンバン世界に向かって動画で発信できるわけですから。

そしてデジタルネイティブといわれる今の若い世代は圧倒的にそういうものになれてしまっています。30代以上でもITリテラシーの高い人もそうです。簡単にいうとIT技術がヒエラルキー的クラスを崩してすべてがフラット化してきてるんです。

一番わかりやすい例がTwitter。たとえばソフトバンクの孫社長のタイムラインでは学生を含めた若者が孫さんにいいたいことを言っています。中にはネチケットの問題以前に人間同士のコミュニケーションとして礼を失していると思うものもあるにはありますが、多くは孫さんにとっても悪くないコミュニケーションだと思います。ソフトバンクといえば日本でもっとも大きな人気企業のひとつですから、孫さんの立場は一昔前でいえばJALの社長とかそれ以上の財界の重鎮ですよね。そうなるとなかなか現場やエンドユーザーの肌感覚が伝わってこない。でもTwitterならそれがダイレクトにくる。JALの社長が様々な権威主義とか取り巻きに阻まれて現場の真の声を聞くことができずああなってしまったのとは対照的です。

ここでふたたび放送に話を戻すと、放送は免許制の許認可事業だから総務省を頂点とした権威主義の権化みたいな世界なんです。そしてその権威の発露は行政指導という形で現れるのですが、その根拠は法律なんですね。官僚というのは国家公務員試験を通っただけですから、当然権威の正当性というものはありません。しかし国民に選ばれた政治家が定めた法律にはある。だから官僚は時に法律を金科玉条のように扱うんです。

でも放送法なんてインターネットが出現するはるか前に定められたもので当然今のフラット化の流れについていっていません。もちろん政治かも官僚もバカじゃないですから一生懸命「放送と通信の融合」というようなこと討議していますけど、リアルの世界はもっと先にいってしまっています。

もちろん民間の放送局でもそれをわかっている人はいる。だからラジオが前時代の媒体にならないように一生懸命インターネットと融合させようと頑張っている。でも放送法のしばりがあるから、簡単に放送をネットで流せない。そこでRadikoというネット放送を「試験的」に流す。ラジコはラジオの放送をそのままネットで流すサービスで、実際は「放送と通信の融合」を試すサービスであるにも関わらず、体面的には「都市部でラジオの電波の入りにくい人のためのサービス」なんていう苦しいいいわけをせざるをえない。

どもRadikoの結果ラジオのコンテンツで面白いものは評価され、ラジオに若干人が戻りました。当たり前です。ネットの時代は発信者の権威で人々は判断するのではなく、コンテンツの内容で評価するわけですから。それが面白かったらそれがテレビであろうがミニコミ誌であろうがラジオであろうがPodcastであろうがかまわないという新しい時代の人がどんどん増えてきているわけですから。

そういう人にとっては総務省とか経産省とか文科省とか従来の権威による区分はとっくに関係なくなっている。それなのに日本のコンテンツプロバイダーだけがまだそのスピード感についていけてないのが現実です。

もちろん情報がフラットになるとそれなりのリテラシーが必要になってきます。よく指摘されるようにどうしょうもないような言説もネット上ではたくさん流布していますし、アクセス数というのが時にはあらたな「権威」になったりする可能性もあります。

でも最早、大本営発表で国民を動かすことは不可能なんです。昨今の記者クラブの騒動や検察の問題は単に日本のガバナンスが緩んでいるということじゃなくて、ネット社会の中でのいわば必然的な流れなんですよね。

そういう意味では日本の権威が初めて崩れようとしています。それはある意味革命ですね。日本で初めておきた革命。しかも無血革命。これはすごいことです。

しかしながら多くの人がまだこのことに気が付いていません。
というのも現存する最大手のメディアであるテレビ局がこの流れに気づいていない、もしくは気づかないフリをして抗おうとしているからです。

でもこの流れは不可逆です。
だから私たちはスーパーフラットな新しい社会とそのスピード感にいち早くなれるしかないのです。









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