2010-10-29

中国にみた日本。




最近中国関連の話題が多いですね。
尖閣諸島の件もありますが、それを抜きにしても中国の話題は毎日なにかしら耳にします。
上海万博の入場者数がすごいとか、中国のアップルストアへの来場者数が新記録だとか景気のいい話が多く聞こえてきます。
どうやら様々なグローバル企業のみならず、通信社などのメディアも東京から中国にアジアのヘッドクォーターを移しているようです。

もちろん東京がバッシングからパッシングときてナッシングとなってしまうことには不安も寂寥感もあるのですが、同時に中国のこの勢いも見ていて楽しいんですよね。

というのも私たちが今中国を見る目は80年代に世界が日本を見ていた目に似ているのではないかと思うからです。

もちろん当時の日本と今の中国とでは本質的に違うところはあるのですが、飛ぶ鳥落とす勢いであるとか、世界中がビジネスチャンスを狙っていたりそのためにその国の言語(つまり日本語なり中国語)を学ぼうとしていたりとか、欧米人には理解しがたい文化や風習を少しでも理解しようと研究がなされているところなどはかなり似ていますよね。

日本がライジングサンといわれた当時私は当事者である日本人であったし、ものごとをよくわかっていない中高生だったので「日本ってなんかスゴイぜ」というような高揚感にだけ包まれ、きちんと状況を俯瞰できていなかったのですが、今の中国の状況は当時よりも俯瞰してみることができます。

もちろん中国の勢いは本物ですし、ポテンシャルを考えれば軍事的脅威も併せて世界が畏怖するのもわかります。しかし歴史に見るまでもなく、その勢いは必ず止まるわけです。その原因の萌芽はすでに色々なところで見られ、賃金の上昇、沿岸部と内陸部の経済格差、元の切り上げ圧力、一人っ子政策による歪な人口構成、民主化の問題など将来の爆弾となりうるような問題がいくらでもあります。日本のバブル崩壊のように予期せぬ時限爆弾が突然爆発することもありえます。

だから中国も大したことはないから気にするな、ということが言いたいのではもちろんなくやはり今の中国はスゴイわけですが、それでもそれはやはり歴史のひとつの流れでしかないわけです。

同じような流れをすでに体験している私たち日本人は逆に中国の次のステージを一歩先に経験できる、ということもできますよね。そのステージは残念ながら二桁の経済成長というような景気のいいものではなく、先進国の様々な問題を抱え込んだ低成長、安定成長のものかも知れませんが、それでも新しいステージの先進国になるということは可能です。

たとえば日本はかなり急激に高齢化し、解決しなければならない様々な高齢化問題を抱えています。しかし裏を返せば高齢化社会の介護福祉先進国になるチャンスでもあるわけです。必要は発明の母と申しますし、深刻な問題に直面しなければイノベーションもないわけですから。
そしてよく言われるように中国も20年後くらいから急激に高齢化します。中国の場合は人口の規模も大きいので問題はより深刻になる可能性もあります。そのとき日本が高齢化問題先進国になれていたのなら、再び日本には大きなリーダーシップを発揮する機会が訪れるはずです。

ジャパンアズナンバーワンと言われていた時代でさえ、今日本が抱えている様々な問題は指摘されていました。しかしとにかく勢いがあったので、そういう問題は先送りして目をつぶってきました。恐らく今の中国も一緒でしょう。

今の中国は本当にスゴイ勢いですが、かならずどこかで歪が生じます。日本人は中国に過度な畏怖を抱くだけでなく、その歪が噴出したときに一気呵成するくらいの強かさを備えるべきではないでしょうか。




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2010-10-26

【書評】「少年譜」(伊集院静著)




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「少年譜」(伊集院静著/朝日出版社)
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友人の中で編集者を除いて間違いなく一番本を読んでいる男Jが最近いった「この年になってようやく小説の味わい方がわかってきた気がして、大切にするべきは筋でもテーマでも心の動きでも人物の造形でもなくて、心に残る文章だろうと」。

そう、小説は心に残る文章があるか、文章が心に残るかが大切なのだ。

たしか昔林真理子氏が「コピーライティングは100ある言いたいことをひとつのコピーに集約させる作業で、小説はひとつのことを言いたいために何百ページも書く作業だ」というような内容のことを言っていた気がする。そういうような小説を書くにはもちろん文章に強さがなければならない。

しかし昨今の出版事情はそれとは別の潮流上にある。一言でいえば長編主義。短編小説は売れないから面白い長編小説を重宝するのだ。

私はこの潮流を必ずしも快く思っていない。もちろん長編小説でも素晴らしいものはいくらでもあるが、昨今の長編至上主義は読者の小説リテラシーの貧困化に一端があると思うからだ。

長編小説が好まれるのは十中八九、そのプロットの面白さによる。言い換えればプロット主義だ。もちろんプロットも小説を構成するとても大切な要素のひとつだ。しかし、冒頭で記したようにやはり小説の味わいは文章抜きには語れない。

それがプロット偏重になることによって小説を楽しむ素晴らしさが見失われてしまうのが惜しいのだ。
敢えて名指しをすると今をときめく東野圭吾とか伊坂幸太郎は完全にプロットだけの作家だ。もちろん流行作家としてそういう作家がいてもいい。でもそういう作品しか売れないことによって、小説文化は脆弱になっていく。

伊集院静もその被害者だった。

無頼で有名な伊集院は「酒を身躯で呑む」というような表現をするが同様小説も彼は「身躯で書くこと」しかできない。つまり身を削ってしか文章が書けないのだ。

その代わり、見事に文章が身躯とシンクロできた時は彼の文章は美しさを放つ。それが彼の魅力なのだ。そして容易に想像つくと思うが、そういうスタイルは圧倒的に短編に向く。

しかしもちろん人気作家といっても出版界の事情から無縁ではいられない。長編を求められるのだ。もちろん力のある作家だから時にはいい長編も書く。しかしそれはプロットで勝負するタイプのものではなく、短編をいくつも積み重ねてひとつの作品に仕上げたものが多い。つまり無理して仕上げたものだ。

本作「少年譜」は伊集院が少年を描いた七つの短編の作品集だ。これがいい。
彼の魅力がいかんなくでている。

想像するに伊集院は求められる長編に疲れてこれらを書いたのだろう。結果、プロットをドラマチックにする一切の装飾がないミニマルの作品の集まりとなっている。

特に表題の「少年譜」の無駄の無さは美しく、織田作之助の「夫婦善哉」を彷彿させる。

伊集院は当たり外れの多い作家で何度も失望もさせられたが、こういう作品が書ける限りはまだまだ彼に失望させられてもいいと思えてしまう。

そして長編もいいが、短編の魅力に今一度多くの人に気づいてもらえればなあと思ってしまう。

















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2010-10-25

ebay。



少し前までネットショッピングは色々言われてきました。
いわく「セキュリティーが問題」だとか「当たりはずれがあるのが楽しい」とか。
でも今やネットショッピングはそんなような能書きをつけなくてもいい当たり前のものになってきました。
世界で最大の本屋はいうまでもなくamazonだし、最大のミュージックストアはitunesです。
こういうテクノロジーの発達は誰にとってもとても便利なものだとは思うのですが、グアムのような離れ島にいるとそのありがたさは人一倍身にしみるものです。

グアムにいらしたことがあればわかるとは思いますがグアムには基本的にはなんでもあり。
住宅周りのものからオフィス周り、自動車関連、オーディオ関連、IT関連、生活に必要なものは大抵は揃うでしょう。
ただしそれはものを選ばなければの話。

足ることを知るのはもちろん大切だとは思うのですが、時にはものを選びたくなるのも人情です。
そしてそういうときにネットショッピングは本当にありがたいんです。

音楽、映画、テレビなどはダウンロードでほとんどのものは入手できますし、英語の本ならKindleやiBookでかなり買えます。日本語の本も少しずつですがダウンロードできるものが増えてきました。

リアルなものでも送料や関税を払う覚悟さえあれば、農産物以外はほとんどのものを日本からも取り寄せることができます。

でもなんといっても便利なのはebay。日本ではまだyahooオークションの方が断然ポピュラーでしょうが、なんといってもグアムはアメリカ圏なのでebayが便利。ドル決済もできるし、送料も国内扱いで安くなるものが多い。業者と思われる出店者から買えばトラブルもほとんどないですし。

そういうわけでebayで買いました、妻の欲しがっていた圧力鍋。
いいよね、この顔。



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2010-10-24

官僚が教育改革ができないわけ。




ピーター・バラカンさんのラジオ番組のPodcastで田原総一朗さんが出演され、日本の教育の問題点について語っていました。

教師が生徒に教えるだけでディスカッションが少ないとか、教育委員会と文科省の歪つな関係とかを語った上で「結局文科省の官僚が教育の現場を知らないからだ」と糾弾されていました。

なるほど、そのとおりでしょう。
そのことは多くの人が指摘していると思うのですが、官僚が教育改革ができない大きな理由であまり語られていないことがもうひとつあると思うんです。

それは「人は誰しも自己否定はしたくない」ということです。

前にも書いたと思いますが、官僚を官僚たらしめる正当性というのは結局彼らが超難関の国家公務員試験の一種に合格しているという事実だけです。

そしてそれに受かるというのは実際かなり大変なことです。ちょっとステレオタイプかも知れませんが、合格者の多くは小さい頃から同級生の中では群を抜いて優秀な成績を収め、進学校に進み、東大に入学しているような人です。

今はどうか知りませんが、少なくとも私の学生時代は東大の優秀な文系学生にとっては官僚になるというのが王道でした。一般企業に就職することを「民間に行く」というとてもいやらしい表現があったくらいですから。

なにはともあれ、キャリア官僚はとてもとても優秀な人ばかりなのです。そしてその「優秀さ」は田原さんをはじめ、多くの方々が「前近代的」とか「クリエイティビティーに欠ける」という教育の中での優秀さだったわけです。

つまり官僚にとって「日本の教育はだめだ」と言われることは「お前らの優秀さはダメな制度の中でのものだ」と言われているようなもので、制度そのものに大きなメスを入れるのは一種の自己否定につながるんですよね。これは官僚じゃなくてもつらい。

だから無意識に「今の制度のままでも正しく努力すれば俺たちみたいに優秀になれるはずだ」という気持ちが働いてしまってなかなか抜本的な問題解決ができないんじゃないかなあと思うんです。

やっぱり同じ東大卒でも藤原和博さんみたいに「民間」で鍛え上げた人の血ももっともっと教育現場と制度改革のディスカッションの場に入れなきゃだめですね。




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2010-10-23

ラジオのはなし、あるいは無血市民革命。




最近ラジオが元気なようです。
エッジの聞いたカルチャー誌「Quick Japan」でも特集されたり、朝日ニュースターでも特集されたり。

テレビの制作費がなくなって芸人をだすものばかりになってしまったとか、ラジオは自由度が高く過激なことがわりといえるとか色々な理由はあるでしょうが、ラジオを聴いたことがなかった十代、二十代前半の若者までもがラジオに回帰している一番の理由はやはりPodcastでしょう。

そのPodcast、今でこそコンテンツは大分増えてきましたが始めのうちは各局試行錯誤していました。もちろん著作権の問題があって音楽が流せないという問題も大きいんですけれども、ビジネス環境の厳しい中タダでコンテンツを垂れ流してしまっていいのかという問題も大いにあったようです。

ただ結果的にいうと人気番組をどんどんPodcast配信していったラジオ番組に勢いがでてきました。
これは実はラジオだけの問題じゃなくて、インターネット時代のもっと大きなトレンドなんです。

日本では特に「お上が施す」っていう意識がとても強いんです。言葉を換えればある種の権威主義。たとえば教育の現場でも先生が生徒に教える「これは重要だから覚えておきなさい」と。これが基本形ですよね。でももちろんそれが世界のスタンダードというわけでもなく、中にはよりディスカッションに重きを置く教育を施す国もありますから、相対的にみれば日本の教育は「上から下に施す」という色彩が強いということになります。

政治もそうですね。普通選挙が導入されて85年も経つのにどこか政治というと「遠くの偉い人(もしくは悪い人)がやっている」という意識が強くてなかなかコミットしようとする人は少ないですよね。本来は政治は直接的に自分の生活に関わってくるのに。

そういう意識は「日本では市民革命がおこらなかったからだ」という風にいう人もいるかも知れませんが、ここではその原因ではなくてとりあえずおいておいて、事実として日本人は統治する側もされる側も「お上」意識が高いというのは間違いないと思います。

そしてそういうお上意識は放送でもみられるんですよね。テレビなどの放送は市場競争の原理に晒された自由なものだと思っている人も多いかも知れませんが、放送法というものがあって「国民にはこういう放送を提供するのが好ましい」としてコントロールしようとする放送行政というものがあるんですよね。その結果、免許剥奪とかが怖くて放送局も総務省にあまりたてつくことができないわけです。

ところがインターネットはまったく「お上」的世界観とそぐわないわけです。
USTがあれば個人でもバンバン世界に向かって動画で発信できるわけですから。

そしてデジタルネイティブといわれる今の若い世代は圧倒的にそういうものになれてしまっています。30代以上でもITリテラシーの高い人もそうです。簡単にいうとIT技術がヒエラルキー的クラスを崩してすべてがフラット化してきてるんです。

一番わかりやすい例がTwitter。たとえばソフトバンクの孫社長のタイムラインでは学生を含めた若者が孫さんにいいたいことを言っています。中にはネチケットの問題以前に人間同士のコミュニケーションとして礼を失していると思うものもあるにはありますが、多くは孫さんにとっても悪くないコミュニケーションだと思います。ソフトバンクといえば日本でもっとも大きな人気企業のひとつですから、孫さんの立場は一昔前でいえばJALの社長とかそれ以上の財界の重鎮ですよね。そうなるとなかなか現場やエンドユーザーの肌感覚が伝わってこない。でもTwitterならそれがダイレクトにくる。JALの社長が様々な権威主義とか取り巻きに阻まれて現場の真の声を聞くことができずああなってしまったのとは対照的です。

ここでふたたび放送に話を戻すと、放送は免許制の許認可事業だから総務省を頂点とした権威主義の権化みたいな世界なんです。そしてその権威の発露は行政指導という形で現れるのですが、その根拠は法律なんですね。官僚というのは国家公務員試験を通っただけですから、当然権威の正当性というものはありません。しかし国民に選ばれた政治家が定めた法律にはある。だから官僚は時に法律を金科玉条のように扱うんです。

でも放送法なんてインターネットが出現するはるか前に定められたもので当然今のフラット化の流れについていっていません。もちろん政治かも官僚もバカじゃないですから一生懸命「放送と通信の融合」というようなこと討議していますけど、リアルの世界はもっと先にいってしまっています。

もちろん民間の放送局でもそれをわかっている人はいる。だからラジオが前時代の媒体にならないように一生懸命インターネットと融合させようと頑張っている。でも放送法のしばりがあるから、簡単に放送をネットで流せない。そこでRadikoというネット放送を「試験的」に流す。ラジコはラジオの放送をそのままネットで流すサービスで、実際は「放送と通信の融合」を試すサービスであるにも関わらず、体面的には「都市部でラジオの電波の入りにくい人のためのサービス」なんていう苦しいいいわけをせざるをえない。

どもRadikoの結果ラジオのコンテンツで面白いものは評価され、ラジオに若干人が戻りました。当たり前です。ネットの時代は発信者の権威で人々は判断するのではなく、コンテンツの内容で評価するわけですから。それが面白かったらそれがテレビであろうがミニコミ誌であろうがラジオであろうがPodcastであろうがかまわないという新しい時代の人がどんどん増えてきているわけですから。

そういう人にとっては総務省とか経産省とか文科省とか従来の権威による区分はとっくに関係なくなっている。それなのに日本のコンテンツプロバイダーだけがまだそのスピード感についていけてないのが現実です。

もちろん情報がフラットになるとそれなりのリテラシーが必要になってきます。よく指摘されるようにどうしょうもないような言説もネット上ではたくさん流布していますし、アクセス数というのが時にはあらたな「権威」になったりする可能性もあります。

でも最早、大本営発表で国民を動かすことは不可能なんです。昨今の記者クラブの騒動や検察の問題は単に日本のガバナンスが緩んでいるということじゃなくて、ネット社会の中でのいわば必然的な流れなんですよね。

そういう意味では日本の権威が初めて崩れようとしています。それはある意味革命ですね。日本で初めておきた革命。しかも無血革命。これはすごいことです。

しかしながら多くの人がまだこのことに気が付いていません。
というのも現存する最大手のメディアであるテレビ局がこの流れに気づいていない、もしくは気づかないフリをして抗おうとしているからです。

でもこの流れは不可逆です。
だから私たちはスーパーフラットな新しい社会とそのスピード感にいち早くなれるしかないのです。









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2010-10-22

【書評】「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著)




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それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著/朝日出版社)
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たとえば尖閣諸島の問題でこじれにこじれて日本と中国が戦争に突入するということになったとしましょう。
そうしたら後世の教科書はそのことをどのように書くのでしょうかね。

「2010年9月、日本政府が尖閣諸島に不法接近した中国籍の漁船の船長を逮捕したことにより日中関係の緊張が高まり、20xx年△〇□事件を機に両国は戦争に突入した」というような感じでしょうか。

これを読んだ学生はどういう印象を受けるでしょう。
「日本政府はもっとうまい対応ができたのではないか」と思う人もいれば「勝手に領土に入り込んできた中国はとんでもない」という風に思う人もいるでしょう。「どんなことがあっても戦争は避けなければいけないのに」と悲嘆する人もいるかも知れません。

だけど、現実問題は実はもっともっと複雑ですよね。昨今色々な報道がされていますが、そもそも日本も中国も台湾も尖閣諸島を自らの領土とずっと主張してきたけれども、周恩来が大人の対応で日本の実効支配を認めた歴史があるとか、中国にとって釣島問題は日本との問題という以上に台湾との関係が大きい問題だとか。

さらにタイミング的なことをいうと日本は政権運営にまだ馴れていない民主党政権であり、その上代表戦の直後に起こった事件であるとか、国土交通省と外務省とでうまくバランスをとっていかなければいけないのに、事件が起きた日の国土交通大臣が事件処理の段階では外務大臣になっていたとか、村木厚生労働省局長の冤罪事件のあった直後だったから逮捕後も検察の判断とすることによって検察が政権に貸しをつくることができたとかそういうさまざまな状況がありました。

中国側でも未曾有の経済発展の傍ら大卒の就職率が6割程度しかないという深刻な雇用問題や経済格差による社会不安があったり、胡錦濤体制のガバナンスが効かなくなってきて軍部の台頭が著しいとか、せっかく中国から外交的シグナルをだしても日本政府が官僚との間に隔たりがあり中国外交プロトコルのリテラシーが低いためきちんと読み取ってもらえなかったり、沈静化に躍起になってもさらにリテラシーの低い日本のマスメディアが扇情的な報道で対立を煽ったりする現実があったりします。

経済的にはのっぴきならない相互依存関係にあるわけですから、当然衝突を避けようとする幾多の努力が行われているわけですが、それでも戦争になってしまうということもありえなくもありません。おそらくそれが戦争というものなのでしょう。

私たちはともすれば20世紀の戦争の多くは帝国主義的コンテクスト上にあって、戦争というのは一般的な外交ツールだったと思いがちですが、きっと過去の戦争も多かれ少なかれ様々な葛藤とか、避けがたい状況とかが重なった末に突入せざるを得なかったこともあっただろうというのは考えてみれば当たり前の話です。

++++

本書、「それでも日本人は戦争を選んだ」は東大の加藤陽子教授が、神奈川県屈指の進学校栄光学園で行った特別講義をまとめたものです。

タイトルからはじめはなんとなく感傷的な甘ったるいヒューマニズムよりの本かと想像していたのですが、読んでみたら全然違いました。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争の五つの戦争に突入せざるを得なかった理由を当時の社会状況や地勢状況をもとにさまざまな定量的、定性的データを使ってかなりクールに説明しているんです。そしてそれがむちゃくちゃ面白い。

特に当時の新聞記事やさまざまな人の日記にみる当時の社会情勢は私が勝手に思い込んでいたものとは大きく違ってある意味衝撃的でした。

そしてこの本は基本的には講義の文字おこしなので読みやすい。かなり難しいこともいっていて下手をすれば眠くなってしまいかねない内容なのですが、すっと入っていくことができました。

私自身日本史を専攻しなかったこともあり、恥ずかしいほど日本の歴史を知らないので本書と出会えたことが幸せでした。日本史を専攻していた人でも、多方面で国際関係が緊張感を増しいつどこで戦争がおきてしまうかわからないような時代になってしまった今、本書を読みどうして人は戦争の愚をおかしてしまうのかを考えてみるのは決して損にならないでしょう。

おすすめです。
最後にひとつだけ付け加えさせていただくと・・・


・・・栄光の生徒はアタマがいいなあ。


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2010-10-21

【備忘録】魂を抜かれたかぼちゃ。



草間彌生は知っていた。
港に巨大なかぼちゃがあれば誰もが写真を撮るということを。
右から左から、上から下から、ヨコからタテから、
魂がからっぽになるまで写真を撮られ続けるということを。

だから彼女は始めからかぼちゃから魂を抜いていおいた。
他人に空っぽにさせられる煩わしさからかぼちゃを守るために。

それでも人々は写真を撮った。
右から左から、上から下から、ヨコからタテから、
来る日も来る日もかぼちゃは撮られ続けた。

でもかぼちゃは平気だった。
抜かれる魂ははじめからないのだから。

今日も人々は空の写真を撮り続けている。
右から左から、上から下から、ヨコからタテから。

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2010-10-19

【備忘録】アートってなんだろう。



アートってなんだろう。
それはもちろん作家の現状に対するひとつの答えなんだろうけれども、それは肯定であることも否定であることもカウンターであることも提案であることもあるかも知れない。

陶芸家、中野純はつぶやく。
「当り前のように全てを押し流していく日常の中で、常識や既成の価値観に対して『本当にそれでいいの?』と異議を唱えること、(一瞬でも)解放すること、少なくともハッとさせたりドキッとさせること、フッと肩の力を抜かせること」
なるほど。

作家は創造する。
文脈を踏まえ、そして文脈から逃れようとして。
オリジナルを求めて、そして独りよがりを恐れて。

他人に評価されなくてもいい、自分が作りたいものをつくるべきだ。
ゴッホだって生前はまったく評価されなかった。
でもゴッホは誰よりも評価をもとめていた。

他人に理屈抜きの感動を与えたく、自分はコンセプトの迷宮に迷い込む。

アート。
アートってなんだろう。

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2010-10-18

my wife's another camera。



昨日から日本に来ている。
所用をたしたり、友だちの個展に顔を出したり、久しぶりに国内旅行をしたりする予定で。

荷物も移動も多いので、今回の帰国は私が普段使っている妻の「初号機」nikon D60ではなく、LeicaのコンデジD-lux3。これもまた妻のカメラ。

it's still my wife's camera。

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2010-10-17

スポーツは結果じゃなくてプロセスが大事。



スポーツは結果じゃないという人がいる。プロセスの方が大事だと。

でも私はその意見に与しない。

なぜならほとんどの場合において、勝者は敗者よりも過程においてもより多く努力し、より自分を追い込んでいるからだ。

そしてスポーツの結果はとても残酷ではあるけれども、実社会の結果はそれ以上に残酷だからだ。スポーツに打ち込む若い世代は結果を真摯に引き受ける経験をしてもいいと思う。

そこにエクスキューズを残す必要はない。

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2010-10-15

guam through our eyes。



このブログをやっているとよく妻に怒られる。
「なんであんな変な顔ばかり載せるのよ」と。

しかしすましている顔だけではなく、崩れた顔にも美しさやかわいらしさはあると思う。でも彼女はなかなかそれを理解しようとしない。というわけで今日は度直球で私が美しいと思う彼女の顔。

彼女がフォトグラファーとして参加した"Guam Through Our Eyes"の出版記念パーティー。
満足してもらえるかしら。

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2010-10-11

podcsast my love - エンターテインメント篇。



昨日に続いてPodcast。今日はやわらかめにエンターテイメント篇。
といってもかなり偏りはありますが。

まずは小島慶子キラ☆キラ。30代の女性でありながら異例の大抜擢でTBSラジオの昼帯を持つことになって以来飛ぶ鳥落とす勢いの小島慶子の番組。
日替わりのパートナー(びびる大木、神足裕司、宇多丸、ピエール瀧、水道橋博士)に加え、日替わりスペシャリスト(生島淳、上杉隆、西寺豪太、吉田豪、町山智浩)によるサウンドコラムも登場。
メンバーからもわかるように結構サブカル寄り。しかも元局アナ(今夏よりフリー)とは思えない小島慶子の暴走振りも名物化してきています。毎日これを聞くのが最早生活のペースになっています。

続いてはライムスター宇多丸のWeekend Shuffle
ヒップホップ界の超大御所、Rymesterのメンバーとは思えない程の卑屈さを見せる宇多丸さんの冠番組。アイドル評論家や映画評論家としても活躍する宇多丸さんを中心とした中2病テイストの番組。中でも出色は宇多丸さんの映画評コーナーの「シネマハスラー」。毎週一本の映画をサイコロで選び宇多丸さんが評論するのですが、彼の確固たる評論のメソッドに従って「いいものはいい。悪いものは悪い。っていうかひどいものはケチョケチョ」にいうところが気持ちいいんです。宇田丸さんはこのコーナーで去年のギャラクシー賞のDJパーソナリティー賞を受賞しています。

AMラジオが続いたので、次はFM。Power Your Morning
J-Wave平日朝の番組、別所哲也がナビゲートするTokyo Morning Radioのコーナー。一週間にわたり同一のゲストの話を聞くもの。

続いては東京FM、Saturday Waiting Bar AVANTI
元麻布にある架空のイタリアンレストラン"AVANTI"の土曜夕方のウェイティングバーで繰り広げられる「東京一の日常会話」を盗み聞きするという体の長寿ラジオ番組。学生時代この番組に出会い、どれだけ会話のネタを提供してもらったことか。

もう一本東京FMいきましょうか。The Lifestyle MUSEUM。ピーター・バラカンさんと東京FMアナウンサー村田睦さんが一人のゲストを迎えて話を聞く番組。ゲストになかなか興味深い人を迎えることが多いのが魅力。

次はちょっと毛色を変えて。
実は私、結構好きなんです、落語。というわけでお台場寄席
フジテレビがお台場で開く寄席の音源を配信したもの。若手の音源が多いのですが、たまに大物のものも。

とまあ、ちょっと偏ってしまいましたが、この他にも伊集院光や爆笑問題、くりぃむしちゅーなどの人気ラジオ番組もPodcastになっています。そのあたりのランキングはこちらのホームページをご覧いただければ参考になると思います。

日本にいると情報が溢れかえっていて、わざわざPodcastを聴こうという気にはならないかも知れませんが、たまには情報をとりに行くのもいいですよ。

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2010-10-10

podcast my love - ニュース・情報・時事編。



昨日は「徹底的に英語漬けになるのが大事」みたいなエラそうなことを書きましたが、やはり海外にでると日本語は恋しいもの。というわけで海外在住の日本人は色々な形で日本語に触れようと努力します。

その代表的なのはNHKの国際放送。少し前まではリアルタイムで日本語の放送を見聞するにはこれしかなかったかも知れません。また家族など知り合いにテレビ番組をビデオなりDVDなりに録ってもらって送ってもらうということをする人もかなりいました。

最近になるとインターネットの普及によりもう少し選択肢が増えたようです。Youtubeとかニコニコ動画などで日本語のコンテンツを楽しむ人も多いですし、日本の放送がリアルタイムで楽しめる法的にはグレーゾーンにあるんじゃないかというサービスもいくつかあります。

しかしそういった中で私が一番重宝しているのがPodcast(ポッドキャスト)。Podcastって皆さんどれだけ知っているんでしょうかね。一部ではかなり浸透しているので、それなりに定着しているのかなあと思ってグアムにいる日本人に聞いてみると大抵皆さん知らないんですよね。

Podcastはブログの映像、音声版と位置づけられているようですが、実際のイメージはダウンロードできるインターネットラジオという感じです。

コンテンツは色々あって個人が配信しているものもあるんですが、やはり番組としてのクオリティーが高いものはラジオ番組の一部を配信しているものです。
これに相当依存しちゃっています。というのもこれはこちらでのライフスタイルとも関係あるんです。

私はもともと活字中毒の気があって隙あらば本を開くというような生活を行っていたのですが、グアムではなかなかそういう風にはいかない。移動はほぼすべて車でするので本を読む暇がない。日本にいた頃、読書をいかに電車などでの移動時でしていたかを改めて思い知らされました。

これがPodcastだとiPhoneに落とすことができる。好きな番組が自動的にiTuneにダウンロードされ、朝SyncするとそれがiPhoneに入っているので特別なことをしなくてもいい。

これなら運転をしているときでも、ジョギングをしているときでも、買い物をしているときでも、つまりiPodを使うようなシチュエーションすべてで聞くことができる。私は貧乏性なので、そういう時間で情報をインプットしたり面白い話を聞けたりすると得した気分になるんです。

というわけで今日はいくつかオススメのPodcast番組をご紹介。といってもあまりにもオススメの番組があるので、今日はまず「ニュース、情報、時事」関連のPodcastのご紹介から。


1) 伊藤洋一のRound Up World Now
 ラジオNikkeiの金曜夜の番組。土曜日に配信される。経済評論家の伊藤洋一が一週間の主なニュースを解説。基本的なスタンスがマーケットよりなので、基本的にとても波長が合う。これさえ聞いていれば知らなきゃいけないニュースは大体抑えられる。

2) ニュース探求ラジオ"Dig"
TBSラジオの月曜日から金曜日の夜に放送されている帯番組。人気番組"アクセス"の後番組。翌未明には配信される。毎日日替わりのパーソナリティー(月:カンニング竹山、火:神保哲生、水:藤木TDC、木:荻上チキ、金:大根仁)が硬軟織り交ざった話題のテーマをひとつ取り上げ、それを文字通り掘っていく番組。個人的には火曜日のビデオジャーナリスト神保さんと金曜日の映像作家大根さんの曜日が好み。

3) 週刊日経トレンディー
ご存知週刊誌「日経トレンディー」のPodcast版。これを聴けばニュースなどの硬い話題とは一味違った日本の消費の空気感がつかめる。下手をすれば日本で呆っとしているおじさんよりもトレンドについて知ったかができるようになる。

4) 文化系トークラジオ"Life"
毎月最終日曜日深夜に通常の放送枠終了後に3時間ほど生で行われる番組。番組のメインパーソナリティーである社会学者の鈴木謙介と多彩な「文化系」サブパーソナリティーが一つのテーマを色々な角度から掘って、議論していく。社会学系の話題とサブカル系の話題が多く、なかなか面白い。心のどこかにオタクが潜んでいる私の好物的番組のひとつ。

5) Wall street journal This morning

文字通りwall street journalが毎朝配信する30分のニュース番組。アメリカならびに世界のニュースをチェックしたい人には最適な番組のひとつ。放送は英語。

6) NPR Podcast
NPRというのはNational Public Radioの略でアメリカの国営放送のこと。一口にNPRのPodcastといってもニュース、政治、健康、スポーツ、エンターテインメントなど様々な番組が用意されている。そしてどれも質が高い。番組配信数も多いので楽しんで英語の勉強をしたい人には最適な番組のひとつ。

というわけで明日は「娯楽、エンターテインメント」編です。


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2010-10-09

海外在住者、英語上達の罠。



私がグアムに来てから5年になります。妻も日本人なので家ではもちろん日本語でしゃべっていますが、外に出たらほとんど英語です。

当然、面倒くさいですよね。でも最近あまり面倒くさいと考えることなくしゃべるようになってきたんです。そしてこれは私が特別だということじゃなくて、外国語圏に住んでいる人の多くに見られる現象だという気がします。

といっても、それは「英語でものを考えるようになったんだ」というような英語を真面目に勉強している人が抱く幻想とは少し違う感覚です。本当に面倒なことは放棄してしまえという感覚なんですね。

私はグアムに来る前英語はそこそこできる方かなと自惚れていました。でも日常的に英語を使うようになると存外だめなとこも多いんです。私がこちらで初めてわからなかくて困った単語が"ashtray"でした。灰皿のことです。これって「でる単」とかに載っていないんですよ。仕事でプレゼンするときにも使わないですし。

その他にも電話口でいきなり"can you hold(電話口の常套句『少々お待ちください』)"って独特の節をつけていわれると何をいわれたのかわからなくて、何度も聞き返しちゃったり。

そうなると「この単語の使い方正しいかな」とか考え出しちゃって、英語を使うのが怖くなってくるんです。「この場合の『クルマ』は"car"と"vehicle"のどちらが正しいんだろう」なんて具合に。
それでも英語を使い続けなければいけないですよね、生きていくには。その結果どうなるかというと、段々「どうでもいいや」という気持ちになって何も考えずに英語をしゃべるようになってくるんです。

「それはお前が英語が得意だからだろ」と思う方もいるかも知れませんが、この現象は英語の得手不得手関係なくみんなにおきている気がします。片言に毛が生えたくらいの英語しかしゃべれない人も何も考えずに英語をしゃべるようになってくるんです。あまりにも何も考えないため、無意識に日本語が会話に混じってくることがある人もいるほどです。

これって英語をぺらぺら話せるようになる第一歩だと思います。何も考えない。だからつっかえない。
そもそも単語ひとつとったって英語と日本語で完全に意味が一致する単語なんてあまりありません。いちいち頭の中で「この単語であってるっけ」って考えていたら、まごまごしてしまいます。そんなことより間違えてもいいから好きに話して、向こうに意味が通じていなかったり、怪訝な顔をされたらいい直せばいいわけです。こちらは外国人なのですから、先方がこちらの話を聞きたいと思っている限りは彼らはかなり寛容に理解してくれようとします。

というわけでまずなんとか何も考えずにしゃべる、という域に達したいところです。じゃあどうやったらそうなるんだ、と問われれば残念ながら「とにかくしゃべらなければいけない状況に身をおく」しかないという気がします。外国人に対して「うるせえ、お前だって日本語しゃべれないくせにエラそうな顔すんな」という太々しいメンタリティーがあってもいいかも知れません。

さてここからが問題です。
何も考えずにしゃべれるようになったからといって英語が上達したというわけでもないんです。
すでに書きましたが、何も考えずにしゃべるというのは英語力の有無に関わらず長年海外に住んでいればわりとおこる現象なんですね。

何も考えないでしゃべる→不便はあってもさほど生きていくことに苦痛を感じない、これが英語圏に何十年も住んでいながら大して英語がしゃべれるようになっていない人のお決まりのパターンだという気がします。

せっかく「何も考えずにしゃべる」という最大級の壁を突破しても、そこから一ミクロンも英語が進歩しない人がいるんです。これはもったいない。特にだまっていても英語に接する機会が多い海外組にとっては英語上達の絶好の機会を逸することになりますよね。

じゃあどうすればいいか。
この答えはわりとはっきりしてるんじゃないかという気がします。
それは地道な努力をするしかないということです。残念ながら。

できるだけ多くの英語を読む。できるだけ多くの英語を聞く。わからない単語は辞書で引く。意味はわかるけど、自分が使ったことのない表現を誰かがしたら頭の中でそれを暗誦する。DVDは日本語字幕じゃなく英語字幕で見る。そして「簡単に驚くほど英語が上達!!」という安易な勉強法の広告に食いつかない、などなど。

こうしてれば確実に英語力はついていきます。

日本人なのだから、まず一番大事にすべきは日本語だと思います。
でもやっぱり実際問題英語ができるとかなり便利です。私の英語もまだまだですが、皆さん一緒にがんばっていきましょう。


what's "my wife's camera"?

2010-10-08

老人と海とブランドバック。



妻と話をしていて、何かのきっかけでひとりで過ごす老後という話題になったので
「一人で過ごすなら、海辺で毎日酒でもちびりと呑りながら釣りをして、疲れたら本を読んだり昼寝したりという生活っていうのができたらわりと平気だと思うけど、女の人にとってのそういう生活ってなんだろうね」と尋ねてました。

すると妻は「多くの女性、特に専業主婦はご主人の社会的地位とか年収とかで評価されることが多いから男の人より承認が必要なのよ。だからやっぱりいいバッグを持っているとか、いいレストランに食事をしにいくことができるとか、海外旅行ができるとかそういうことが大切なのよ」と。

そこで私が
「いやいや、老後の話をしているわけであって、そういうのが一段落がついた後の余生の過ごし方のことをいっているんだよ」というと、「それは同じよ。やっぱり女の人はいつまで経ってもそういうものが必要なのよ」と断言されてしまった。

別に誰もがそんな世俗的な承認欲求をいつまでも持っているわけでもないでしょうと最初思ったのですが、次の瞬間「いや待てよ」とも思ったのです。

「世俗的な生活」の対になるような言葉が「仙人のような生活」だとしたら、仙人のような女性ってどんな女性だろうって思いました。これが思い浮かばなかったのです。インドの苦行僧(サドゥー)にしても女性をイメージできない(もっともこれは宗教上の理由からでしょうが)。

たしかに日本には尼僧がいるといっても瀬戸内寂聴とかは見事に煩悩を捨ててないし。
やはり女性はいつまでたっても一般的に姦しく集まってぺちゃくちゃとよしなき噂話をして、その中で比較優位を保つのがすきなのでしょうか。

いや、これは私がいったことではないのですよ。妻の意見ですから。為念。

what's "my wife's camera"?

2010-10-07

パチンコブギウギ。



パチンコの斜陽がどうやら深刻なようですね。

今晩のTBSラジオ"dig"によとパチンコの産業規模はピーク時の30兆円から21兆円に、人口は3000万人から1700万人に減っているようです。

景気の後退とか最近の射倖性の制限とか衰退の理由は色々言われているんですけど、あまり指摘されない理由もあると思うんですよね。

それはパチンコで金儲けをしようと別に考えているわけじゃないお客さんを最早取り込めない時代になってしまったということです。

昔はやることないからぷらぷらパチンコ屋に行くという人が結構いたんじゃないかと思います。もちろん勝つに越したことはなかったでしょうが、千円2千円入れてぼーっとする。場合によってはマンガか何か読みながら。部屋に一人でいるのは寂しいし。そしてたまにフィーバーすると高揚してお小遣いを手にしてでていく。出なかったら出なかったで大して口惜しくなくても「駅前のパチンコ屋、まじ最近でないよ」などと仲間に愚痴てみたり。

でも一発台が出現し、スロットが隆盛して射倖性が高まり短時間勝負になる。勝つも負けるも短時間。軍資金(タマ)もいる。

そうするとやっぱり気軽じゃなくなる。千円2千円でちょっと夢がみられるならいいけど、毎回2,3万円のタマを仕込んでいかないといけなくなると、ぷらぷらというわけにもいかない。

じゃあ、そういうぷらぷら組は何をしているのでしょう。もちろん家でDSとかXboxとかやっている人もいるでしょうね。興奮という意味ではパチンコに負けずとも劣らないものがあるし、時間もつぶれる。
でも真のぷらぷらモノは時間つぶしをするだめだけに外にでるわけじゃないわけで、犬も歩けば何かに当たるんじゃないかというありえない淡い期待をもって部屋をでる。

そういう人は今パチンコ屋の変わりにどこにいくんでしょう。私が出した仮説は「まん喫」。
まん喫にいけば千円もあればとりあえず時間はかなり潰せる。ネットも使えるからネットゲームを楽しむこともできる。そしてとにかく外に出歩いてなにかに当たらないかなあという期待感も少しは満たせる。

その証拠にまん喫の市場規模はこの10年で10倍に膨らんでるんです。なあんていっても、まだ全体をみても1200億円くらいの規模なんでパチンコの落ち込み分に比べれば屁みたいなもんですけどね。

what's "my wife's camera"?

2010-10-06

社会学者。



what's "my wife's camera"?

時々社会学者が「宇宙戦艦ヤマト」だとか「ドラえもん」だとか「仮面ライダー」だとか「うる星やつら」などについて時代背景を引き合いに出しながらとくとくと解説したりするんですけど、そういう話ってなるほどっていう面白さがあって「社会学者ってスゲぇなあ」などと心から思ったりします

でも同時に「社会学者ってなんてわかってないんだ」と思ってしまうこともあるんです。それは彼らが経済問題を語るときです。ひょっとしたら社会学者のなかには「弱者の味方をするのがインテリとしての正しいアティチュードでしょう」というような不文律があるのかも知れませんが、それが却ってとんでもない歪なことを彼らに言わせたりすることがあるように感じられるんです。まあ、私が大っ嫌いなベーシックインカムとか。

基本的には社会的弱者を救済するのはもちろん必要だとは思います。でも勢い余って弱者をまったく出さない「結果の平等」を訴える人があまりにも多くてびっくりしてしまいます。

彼らの中にはいまだにインテリはマルクスという亡霊が巣食っているのでしょうか、経営者は従業員を搾取するとでも思っているように思えるときがあるんですよね。でもその経営者像というのはどうかと思います。

世の中のどれだけの経営者が社会のことを考えてがんばったり、従業員のために死ぬ気で努力しているかということを一度真剣に考えて欲しいです。

確かに世の中にはブラック企業もあるでしょう。でもほとんどの経営者は真面目です。そしてこの厳しい不況の中でなんとか生き抜こうと必死でがんばっています。生き残らないと従業員が路頭に迷うし、関係各会社にも大きな迷惑をかけてしまいます。そうならないように従業員や取引先に少しずつ負担を掛けてしまうこともあるかも知れません。

もちろんどんなに大変なときでも法律に抵触することはしちゃいけないです。でも法律に抵触していなくとも「同義的理由」とか「社会的責任」とかいう言葉をむやみに振りかざすのは本当にやめて欲しいんですよね。

なぜ彼らはそういう風な主張をしがちなんでしょうかね。実はこれは考えるまでもないことだと思うんですが、それは彼らが多くのことを机上の論理で考えてしまうからでしょう。もちろんまじめな社会学者が膨大なフィールドワークをしていることは知っています。でもその結果、労働者の窮状は目に付いても経営の厳しさはなかなか理解しきれないのではないでしょうか。

そこで考えました。社会学者インターン制度を。社会学者は教授になる前、准教授時代でしょうか、最低2年間の民間企業でのインターンを義務付けると。

インターンといっても先輩社員にちょこちょこ付いていくのではなく、いきなり営業課長くらいのポストに就かされるんです。上司の部長日々は「お前の課の営業成績はどうなってるんだ」と詰めるタイプがいいですね。そして部下にはまったくやる気のない給料泥棒みたいな奴がいるのが理想的です。まあ、つまりよくありふれた普通の会社です。

または起業させるというのもいいかも知れません。ただしこの場合は2年という定期じゃなくて「従業員を3人以上雇うまで」という条件がいいですね。もっともこっち制度を採ると社会学者が日本からいなくなってしまう可能性もありますが。なかなか三人以上雇えなくていつまで経っても教授になれないでいるか、どんどん従業員が増えてビジネスが面白くなって転向してしまうかどちらかでしょうから。

いずれにせよ、日本人の就労人口の多くは民間企業で働いているわけですから、本当に「社会」のことを知りたかったら会社勤めをするのが一番手っ取り早いと思うんだけどなあ。

2010-10-05

とてもとても個人的な映画"The Social Network"



what is "my wife's camera"?

昨日のポストで映画「The Social Network」の評を書いたのですけど、その中で「映画の本筋とは別のところで心を揺さぶられた」というようなことを書きました。今日はそのことについて書きましょう。

映画の筋は昨日のポストをみて頂くとしていきなり本論に入りますけれど、主人公のマークがFacebookを立ち上げ、それがNapsterの創始者ショーン・ファニング(余談ですが、映画ではジャスティン・ティンバーレイクがこの役をやっています。実物とはかけ離れているのですが、なかなかいい味だしてます)認められてどんどん昇り調子になっていく展開があるんですね。

もともとはオタク二人で始めたビジネスだったのに、気づけば大学内でちょっとしたセレブになってインターンを大々的に募集するイベントをしたり、ショーンと一緒に西海岸の最先端のクラブでモデルたちと一緒に飲みながらどんどんビジネスの可能性が広がってきて高揚感に包まれていったりするんです。

この展開を見て、私自身も高揚してしまったんです。
学生時代とかの若かった頃の感情を思い出して興奮してしまったんです。

もちろんマークは天才で、私はただの若者でした。でも映画の前半では「まだ何もなしえていない」という点においてはマークと同じ若者でした。そして「まだ何もなしえていない」ということは若者にとって「これから何事でもなしうる」ということと同義でもあります。

そして恥ずかしながら私は自分が常ならぬ存在になれるんじゃないかと信じ込んでいました。羨望をうける成功者になるはずだと思い込んでいました。だから何か少しでもいいことがあったり、人があまり経験しない華やかなことを経験したりすると高揚し、自分には特別なことができるかも知れないと思っていたのです。

まあ、これは別に私に限らず多くの若者が見る夢かも知れません。だから、マークが昇りつめていくシーンをみて高揚したとしても「枯れ掛けのおじさんが昔を思い出して興奮してるだけ」と片付ける人もいるかも知れません。

でも私が揺さぶられたのは興奮そのものではありませんでした。それは興奮してしまった、という事実だったのです。

立身出世の物語に興奮するというのはよくあることだとは思うのですが、私が今から五年前にグアムに来たのはそういう価値観と完全に訣別したからこそだったはずでした。

証券会社と広告代理店という華やかだけれどもどこかインチキくささを感じさせる職業に従事し、その職業の素晴らしさや虚しさを自分なりに理解し昇華した上で、「家族」とか「足ることを知る」価値の素晴らしさに気づき母に請われるままに東京の真ん中からグアムという田舎島に来たのです。

そして私は心からそれでいいと思っていました。それは別に資本主義を否定してのことではありません。今でも誰かと議論をすれば「お前ネオリベだな」と言われるかも知れません。広告という仕事は今でも好きで、自分にとても合っていると思います。

グアムに来たからといって毎日椰子の木の下でピニャコラーダを飲みながらウクレレを弾くという生活ができるわけでもありません。むしろ年間で二日しか休みのない店を切り盛りし、仕事もプライベートもあまり隔てのない24時間を過ごすような生活です。その割には所得も高いわけではなく、まとまった休みも取れなければお金もないということで妻にはいつも迷惑をかけてしまっています。

でもそれでもいいと思っていました。足ることを知りながら、家族が近い形で協力し合っていくことがいいと思っていました。だから時折「どうやったら一攫千金を得られるか、いつもアンテナを張り巡らしている」というタイプの人に会うと、正直言って下品で心の貧しい人だなあと思うようになっていたのです。

そして「オレは『カネ、カネ』という俗世間から一歩上にいったんだ」というちょっと思い上がった気持ちになっていました、正直言うと。さまざまなところで限界をみせている資本主義の次のステージにひとりいるような気にでもなっていたのでしょうね。

そんな状況がしばらく続いた後での"the social network" でした。マークのステップアップに対する同調でした。興奮でした。

これはちょっと堪えました。それは必ずしも「オレはまだまだ解脱できていないんだな」という種の動揺だけではありません。同時に「ひょっとしたらこういうものに対する高揚ってオレが理性で押さえつけていただけで、そういう本能的な競争意識というものが生来自分には備わっていて、それを希求する方がより自分らしく生きるということなのかな」という自問が生じてしまったのですね。

これは動揺します。
つまり最近の自分はいい人ぶって自らを騙しているから、本来の自分の長所までも殺してしまっているのではないか、という自問が生じてしまったのです。

私は今グアムで商売をやっていますが、5年後、10年後にはどこにいるかもわかりません。そうなったら経済的にどうなっているのかももっとわからない状況にいます。

そういう状況の中で、自分が自分を偽って生きているかも知れない、お前きれいごとだけを並べてこれから家族を本当に養っていくつもりなのか、という問いを突きつけられるのはやはり動揺します。

そしてこの映画は結果としてそういう問いかけを私にしてきたのですね。
だからこの映画は私にとって個人的に特別な意味をもってしまいました。

といっても昨日観たばかり。その問いかけについて私に明確な答えがあるわけではありません。それこそ映画やマンガみたいに急に道が拓けてハッピーエンドになるっていうような都合のいい話はあるわけないんですよね。

だから私はこれから一生懸命自分なりの回答を探していきます。
いつかここでその答えを堂々と発表できる日がくることを祈りながら。

2010-10-04

【映画評】"The Social Network"



what's "my wife's camera"

映画の評価の方法って色々あると思うのですが、どれだけ人々の心を揺さぶったかというのも大きな指標になります。揺さぶるといっても不安にさせるということだけでなく、嬉しい方向や哀しい方向や恐怖の方向でも人々の感情を揺さぶることができればある意味では成功したといっていいでしょうね。

そういう意味では「the social network」は私に対してかなりの成功を収めました。最近観た映画の中では一番心がざわめきました。といっても私が揺さぶられたのはこの映画の本筋からはいささか離れたところにある個人的感情からでした。

しかしいくら個人的なものとはいえ、デキの悪い映画に感情をゆすぶられるはずもありません。そして本作もまごうことなき秀作です。

話の筋自体はいたって単純です。ハーバードの天才プログラマーが知り合いのアイディアを盗みFacebookを友人と一緒につくり、訴訟されるという話。途中友人との仲違いやナップスターの創立者との出会いなど様々なこともおきますが、基本的には訴訟がどうなるかという話です。

しかしこんな単純な話でありながらスピード感たっぷりに最初から最後まで観客を退屈させずに楽しませることができたのはまさに監督のデヴィット・フィンチャーの手腕だと思います。

先ほども書きましたが、物語自体は実話をベースにしているということを除けばかなり平板です。その物語に緊張感を持たせるためにフィンチャーはさまざまな対比構造を盛り込んでいるのです。

いきなり出てくるのがナードジョックスの対立です。主人公のマークはいわゆるナード、つまりオタクです。彼が女の子にフラれて男しかいないむさ苦しい部屋でパソコンに向かっているとき、ジョックスと呼ばれるスクールヒエラルキーの頂点に立つメジャー系の男の子たちはキレイどころの女の子たちを集めて華やかなパーティーに興じているというところから映画は始まります。

ナードが一発逆転してジョックスの鼻を明かすというのはアメリカ映画の定番中の定番。演出的にも明確に対比されているので観客は自然とその構造を意識して緊張感をもつわけです。でもこの映画はそうじゃないんですね。その対立自体に大きな意味はないんです。確かに結果的にマークがアイディアを盗み訴訟沙汰になる相手は典型的ジョックスなのですが、ナード対ジョックスという構造自体は物語の推進力にまったくなっていないんです。

この映画はこういう小さな対比がたくさんでてきます。東海岸と西海岸、エスタブリッシュとIT長者、現在と回想、双子の兄と弟、勤勉とマネーゲーム、まじめと享楽。どれも巧みに映画の中に盛り込まれています。でもどれも物語の決定的な構成要素ではなく、むしろこれらすべての対比構造を集合させて基本的には大して起伏のない話を面白く見せているんです。そのためそれらの対立構造については一切の価値判断がなされません。

ジョックスが鼻持ちならないと言ってるわけではありませんし、マネーゲームはよくなく、汗水垂らして働くべきだともいってません。ただ淡々と対比させていくんです。その結果観る人によってはIT長者は下品だとか思うかも知れません。でも監督は事実を描くだけなので、押し付けがましくない。抑揚が利いていて素晴らしい演出です。

そこでちょっと言及しておきたいことがあるんですけれど、対比構造のひとつに行動規範というものがでてきます。マークを訴えるエスタブリッシュの双子のジョックスが出てくるのですが、彼らは名門の出で当然優等生然とした振る舞いをします。それに比べてマークはプログラミングのことしか考えてなく、服装もだらしなくて大学の懲罰委員会でも弁護士との話し合いでもひどい態度をとるんです。

これを受けて「Facebookなんてインターネット上のコミュニティーを築き上げるものは、人間同士のリアルのコミュニケーションをとることのできないパラノイアだ」というコンテクストでマークのことを解説するインターネット性悪説的批評家がいるんですが、これは明らかに的外れな批判ですね。

映画でははっきりと言及はしていませんが、おそらくフィンチャーはマークのことをアスペルガー症候群として描いているように思えます。アスペルガー症候群は発達障害で、これを持っている人は人の気持ちがわからないことが多々あり、コミュニケーション能力がひどく低いことがあるんです。映画上のマークはちょうどそういう感じなんです。

実際のマーク・ザッカーバーグにこの症状があるのかは知りませんが、映画上でそういう人物に描いていることによって物語は時に緊迫し、時にコミカルになっています。このキャラクターがフィンチャーの発明だったら大したものですし、そうでないとしてもとても効果的に描けています。

そういう見事な演出を積み重ねて物語りは進んでいきます。ただやはり物語のラストはとても地味なんですね。
そこをどう描くか。これはとても難しかったのではないかと思います。

若干のネタバレになりますが(といっても物語上は何の支障もありません)、ラストは猛スピードで進む、もはや自分ひとりではコントロールしきれないものの中心にたってしまった史上最年少の億万長者であるマークが、損なわれてしまった何かを取り戻そうと、それが決して叶わないということを知りながら無気力にパソコンに向かい続けるという形で終わります。
ロストジェネレーションの文学にも通ずる静かで美しいエンディングです。

そう、冒頭でこの映画は個人的な映画だと申し上げたんですけど、そういうの抜きにしても素晴らしい映画です。

さて次にどこがどう個人的にはまったのかということを書こうとしたのですが、ちょっと長くなってしまったのでそれは明日に回すとしましょう。

2010-10-03

2010-10-02

尖閣諸島。




添谷先生

ご無沙汰しております。

時事通信「週刊e-world」への寄稿拝読いたしました。
「忌憚のない意見を」という言葉を真に受けメールいたします。

まず拙いなりに先生の論旨を要約させていただくと

「尖閣諸島の一件に対し、日本は中国の『時代錯誤的』な『権力政治ゲーム』に
 過剰反応することなく、『自由で開かれた国際秩序』を守る(もしくは再構築す)
 べく、日米同盟を基軸に多国間で協調しながら安全保障体制を確立しなくては
 ならない」

ということになるのではないかと思います。この趣旨については基本的には全面的に
賛同するのですが同時に気になるところもありました。

具体的にいうと「『自由で開かれた国際秩序』と中国」と小見出しがつけられたパラ
グラフでした。

現在の中国は「自由で開かれた国際秩序」を最大限に利用し、破竹にも近い
勢いで成長を続けています。ですから彼らが現在の秩序(すなわち「ルール」)を
大幅に組み替えようと考えているとは思いません。

しかし同時に中国もさまざまな問題を抱えており必ずしも満帆ともいえません。
内には沿岸部と内陸部の経済格差、賃金上昇、そして潜在的には高齢化問題が
あります。
外には経済面だけとってもインドの台頭、ベトナムの低賃金による攻勢、さらには
国際的な元の切り上げ圧力があり課題は山積みです。

その中、中国が国際秩序の中において少しでもいいポジション取りをしようと考える
のはむしろ当然のように思えます。

折りしも先生のご指摘のとおり「パックス・アメリカーナ」は色々な意味で陰りを
見せており、少しくらいの無茶はまかり通りそうな状況とあらば、どこまで許されるかを
試してみようかと思うのも善悪の価値判断さえ停止させてしまえば必ずしも不合理とは
思えません。

そのような状況の中近くに、内ゲバに興じ無防備にアホ面を曝け出している国があった
ので、とりあえず横っ面を引っぱたいて様子をみてみようか、と中国が思ったのではないか
という気がしています。

もし日本がそこで猛烈に歯向かい、国際社会がそれに同調したのなら「こっちが手を振り
回してたところにお前の頬があったから当たってしまったじゃねえか、これからは気をつけろ」
くらいに嘯いてなし崩し的に事態を収束させていたかもしれません。

しかし日本が想像以上に愚鈍な対応しかできなかったため「もう少しやったらどう反応する
だろう?」と考えたような気がします。具体的にいうとそれがフジタの社員の拘束の件だったり
レアアースの件です。

ここで「どう反応するだろう?」の主語はもちろん「日本」ではなく、アメリカを中心とした
「国際社会」です。国際社会の秩序におけるより優位なポジショニングを確保するために、
じりじりゴリゴリやってどこまでいけるのかという様子見をしているように思えて仕方がありません。

この手口がオールドファッションであるということはもちろん認めます。こういう手法に安易に
乗っかってはいけないというのも、まさにその通りだと思います。

しかし同時に「パックス・アメリカーナ」が機能しなくなった現在、それらはそれなりに有効な
手段とも思え、また中国の手際が極めていいとも思ってしまうわけです。

つまり中国はかなり現実的に世界情勢を見極め、少しでも自分に有利なポジショニングをとれる
よう戦略的に行動しており、あわよくばルールを自分に都合のいいように少し変えてしまおうとさえ
思っているように感じられます。

このような状況の下、日本はどのような対応をすればいいのか、先生にお話を伺いできればと
思います。

彼らの手口は見事です。事件のタイミングもいやらしいですし、NYタイムズなどにレアアースの
ことをリークして世論の反応をみながら商務省では否認して逃げ道を確保しておくところも、日本が
船長を解放したことを受けてプロトコル上フジタの社員を開放し、小沢支持をした細野密使に土産を
持たせながらも一人は残してカードは確保しておきつつ、五中全会の前には一応の決着をつける。
ある程度は後講釈かもしれませんが、とにかく何もかも手際が見事です。

中国は国際世論の反応をみながらじりじりゴリゴリポジション取りをする努力を巧みにしています。
しかもアメリカを始めとする世界はそれに抗する元気がありません。

このことを看過できないのは、中国が単なるポジション取りにとどまらず、微妙にルールも都合の
いいように変更しようと思えるところです。

少なくともロシアは千島列島に大統領を訪問させるという形で、とりあえずはそれに乗っかってきた
ように思えます(このタイミングが鈴木宗男氏の収監確定と因果関係があるのかも気にはなります)。

先生がおっしゃるとおり、中国が「自由で開かれた世界秩序」の不安定要因になるとは思います。
しかしあえて先生がおっしゃっていないことで私見を申し上げると、私には中国の様々な行動が
単なる時代錯誤的な権力ゲームの結果ではなく、冷静に国際社会における自らのポジショニングや
ストレングスを熟知した上でのそろばんずくの行動に思えるのです。

もし隣の大国が戦略的意図を持ってちょっかいを出してくるのなら、日本は国家としてどのような
アクションをとればいいのでしょうか。

それは「自由で開かれた国際秩序」を「多国間」で守り抜こう、というハイレベルの概念の話では
なく、もっと具体的なアクションプランの話です。日本固有の領土とされるところにちょっかいを出され
たときにどういう措置をとればいいのかとかという具体的な話です。

拘束すべきは船長だけなのか、それとも船員全員なのか、どのタイミングでどうぢう処遇を出すのが
正しかったのか。記録映像のリークを国際メディアにすべきだったか否か、政権はどの程度コミット
すべきだったか否か。

あまりにも難しく、私の中で結論はでません。そのあたり先生はどのようにお考えかご意見をお聞かせ
頂ければ幸甚です。

2010-10-01

文体練習。



ミリタリーファッション

今年はミリタリールックが流行ってるらしいですね。といっても私がファッションについてなにか語るということはもちろんできません。でもちょっと気になることがあります。

ファッションというのは一種のモードの表出であるわけです。そして多くの場合モードというのは既存の価値観に対するカウンターなんです。つまりある分野の先端をいく人々から現状(status quo)に対する提案ですね。

それを踏まえた上でトレンドとしてのミリタリーファッションというものをちょっと考えてみたいと思います。
まあミリタリーファッションというのは強烈な記号というかメッセージ性のあるものですよね。それを何も考えないでトップメゾンのデザイナーが引用するということは考えらるのはむしろ不自然です。つまりそこには何らかの意味があるということです。かといって今の時代彼らが戦争礼賛に走っているとも思えませんよね。むしろモードの世界は反戦ムードですから。

じゃあ一体どういうことなんでしょうね。ちょっと考えてみましょうか。
なんでも今回のミリタリーブームというのは19世紀の軍服をソフトに進化させたものだということです。つまり20世紀はなかったことにしている。ということはそれは資本主義の時代であった20世紀を全否定した考え方だと考えることもできますよね。

じゃあ19世紀はどういう時代だったでしょうか。18世紀末にはフランス革命もアメリカ独立革命も起きてますから市民革命を通過しています。と同時にスターリンがまだ登場していないですから社会主義にも希望があった時代でもあります。言い換えれば民主主義の未来が明るかった時代だったともいえますね。

それでは軍服という記号についてはどう考えればいいんでしょうか。当然軍服といえば軍隊の征服ですが、軍隊が象徴するものは色々あります。戦争ということもあるかも知れませんし、ナショナリズムということかも知れません。しかし同時に規律とか秩序の象徴とも考えられますね。

これらのことから考えてみると今おきているミリタリーファッションブームは、「もう一度、規律をもって新しい民主主義を築き直すべき時代が来ている」というメッセージだと考えることもできますよね。

こういう風にモードを小難しく考えることもできます。でも同時にモードというものは消費されるものでもあるわけですから、いちいち「このファッションの意味するところは」なんてしち面倒くさいことを考えずに着たいものを着ればいいと思うんです。基本的には。

ただもやっぱりミリタリーファッションを着るとなったら少しくらいは気を使った方がいいとは思うんです。今この瞬間も世界中のさまざまなところで戦争はリアルにおきてますよね。その中で「今年はミリタリーがトレンドなんだってぇ」と無自覚、無批判にミリタリーファッションに興じるのはやはりいくらなんでも鈍感すぎるんじゃないかと思うわけです。

世界の人にとって軍隊とか戦争って日本人が考えるよりも遥かに身近です。そして身近ということはそれらに対して具体的なイメージがもたれているということです。国のために戦う若者として敬意を示す人もいるかもしれませんし、近親者を戦争で亡くして軍隊を憎悪している人もいるかも知れません。いずれにせよミリタリーファッションを見た受け手がなんらかの意味をそこに見て取るという可能性が強いということを理解することは大切です。

日本は幸い長年平和を享受してきました。そのことは幸せなことですし誇るべきだとも思います。でも同時にやはりどこか平和ボケしてしまってるんですよね。

繰り返しになっちゃうんですけど基本的にはファッションなんて好きなように楽しめばいいと思っています。
でもミリタリーファッションをまとうということは無意識のうちに強烈なメッセージを他人に与えてしまうということはわかっていた方がいいとは思うんです。そのメッセージはたとえば「正社員はみんな火炙りの刑!!」とか「外国人はいますぐ日本から出て行け!!」とか書いてあるTシャツを着ているのと同じくらい強いメッセージを発している人なんだ、と他人に思われてしまうことさえ自覚していればいいとは思うんですけどね。