2010-09-24

幸せの総量。



「人生を平らにならせば、人の運不運とか幸せの総量は誰でも一緒だ」という言葉をよくきく。
そしてその通りだと思うこともなくもない。

でも幸せだとか幸運だとかいうものは主観的なものであるわけで、この言葉の運だとか幸せだとかいうのは何を基準にしてのことだろう。

もし主観的な個人の判断による禍福ということなら、話はちょっと厄介だ。なにごとでも前向きに捉えて何か不幸があっても「長い目で見れば却っていいレッスンになった」とか「世の中にはもっともっと不幸な人がいるし、そういう人に比べればむしろ幸せだ」といタイプの人がいる。逆に大したことがなくても世の中の不幸をすべて背負い込んだ顔をし、どんなにいいことがあってもその幸せを喜べないタイプの人がいる。

幸せの総量というものが主観的な幸不幸で決まるなら、前向きな人のところへは「おっ、こいつまだまだ不幸せに感じてないからもう少し厳しい現実を突きつけないと」ということになり、後ろ向きな人に対しては「えっ、これでも幸せに感じないならもっといいことをもたらしてあげないと」となる。

しかし前向きな人と後ろ向きな人なら、やはり前向きの人のところにより運は吸い寄せられるだろう。
ということは「人の運とか幸せの総量は人生をならせば皆一緒だ」ということは嘘になる。

つまり運や幸せというものは残酷なまでに不平等である。"幸せ界"にも勝者と敗者があるということになる。
これが不公平なことなのかどうかはわからない。でもどうせ勝者と敗者があるのなら、わざわざ敗者になることはない。商社を目指しますか。

まずは前向きに生きるとところから始めるということでいいのかしら。

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