2010-09-11

【書評】「乙女の密告」(赤染晶子著)



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乙女の密告」(赤染晶子著/新潮社) 第143回芥川賞受賞作
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「アンネの日記」の構造を骨格に、「外大生のスピーチコンテスト」という舞台装置を借り、「乙女」という宇宙に属している主人公が自分自身を発見していく様子を戯画化しながら描く意欲作。

おっと、三行で要約が済んでしまった。
まあ、そういう作品です。この作品意欲作であることを認めるにやぶさかでありませんし、光ったり呻らせられたりするところがあるのは間違いないでしょう。

でも私は正直言うとこの作品が芥川賞選考委員の中でなぜそこまでの高評価を受けたか今ひとつピンときません。一言でいうと入り込めませんでした。

私の中ではその理由はわりと明確です。要約の中の「『アンネの日記』の構造」と「『外大生のスピーチコンテスト』の舞台装置」については何の文句もありません。素直に関心しました。しかし問題は「『乙女』という宇宙」であり、「戯画化」という手法でした。

まあ、この二つは別々の問題というよりはむしろ一つの問題といえるのですが。

まず「乙女」問題。この小説、執拗に「乙女」という単語ができてきます。これ実はこの小説独自のタームなんです。
「乙女チックな世界観をいだきながらも、女性として成熟する前の時期特有の生々しさ、いやらしさを持った女子、ならびにその集合によって形成される島宇宙」というような意味です。集団としての暴力性のメタファーでもあります。

種明かしをしてしまうと、この小説は主人公のみか子がその島宇宙から自力で抜け出していくイニシエーションの物語といえます。まあそういうテーマはありでしょう。

でもその「乙女」というターム、概念の説明が中途半端なんです。基本的に私は説明的な作品は嫌いなのですが、この作品ではちょっとわかりにくい。そのわりには矢鱈めったら「乙女」という単語が出てくる。作者としては計算づくの「乙女」の濫発なんでしょうが、個人的にはとても稚拙に見えました。そのくせわかりにくいわけですから。

このことは「戯画化」ということとも関係してるんです。
ちょっと話はずれますが、映画監督、脚本家の三宅隆太さんが「フィクション・ライン」という概念の話をしていたのを聞いたことがあります。

多くの映画や創作品はフィクションなわけで、それぞれに世界観がある。フィクションとしての世界観というのはトーン&マナーだけではなく、作品の前提となるルールといものもあります。

たとえばコメディー映画で主人公が驚いてカツラがポンと浮くことは考えられますよね。そういうのを見て誰も変だとは思わない。でも同じことが人種差別を扱っているシリアスなヒューマンドラマで起きたら明らかに違和感を覚えます。

つまり観ている人が「この映画ならここまではアリだよね」とすんなり受け入れられるラインといのがあるということです。もちろん上記の例は極端だからわかりやすいかも知れないけれどもフィクション色の強い作品は大体独自のラインがある。

SFバトルもので宇宙で大きな爆発音がしても「宇宙は空気がねえんだから、爆発音するわけねえじゃねえか」という見方はあまりしない。もし宇宙で音がするはずがないという知識があったとしても「とりあえずこの映画ではこれはアリなのね」という風に自然と自分でラインを設定する。そのラインこそを「フィクション・ライン」と呼ぶわけです。

このフィクション・ライン、ある程度特殊な設定であれば物語の初期で明確にしてあげなければ観客が混同してしまいます。「ああ、この作品はここまではアリなのね」とわかっていればすんなり感情移入できるものでも、唐突にそのラインが変わってしまったら当然観客は戸惑う。

「ハリー・ポッター」で蘇生の呪文というものがあっても誰も驚かないかも知れませんが、「グラントリノ」で最後イーストウッドがタオの呪文によって生き返ってハッピーエンドになってしまったら誰でもあっけに取られる。まあそういうことです、「フィクション・ライン」とは。

さて話を「乙女の密告」に戻すと、この作品はフィクション・ラインの定め方が雑なんですよね。
この作品にはバッハマンという常に女の子の人形を持ち歩いている変わり者のドイツ人教授とか、風呂に入るときもストップウォッチを首から掛けている麗子様というスピーチコンテストの女王として君臨しているキャラクターがでてくるんです。

こういうキャラクターがでてくると、「作者は戯画化して話を進めたいんだな」と自分なりのラインを設定をしてしまいます。でも主人公みか子の独白は割りと古典的な純文学ラインなわけです。しかもわりとくどくどとした独白。フィクション・ラインがわからなくなってきます。

このことは「乙女」の問題でも同様で、「乙女」というのは一般概念であるのだから、作中で新しい概念を与えたいのなら丁寧に作品上でのラインを設定しなければいけないのに、「あるある」的な事実を羅列しているだけのために却って読者の混乱を招くわけです。

で、ここからは完全に私の想像なんですけれども、作者の赤染さんは勝手に頭の中で映像化しながら作品を書いたんじゃないかなあと思うわけです。さらに進めると、「下妻物語」や「嫌われ松子の一生」などで有名な中島哲也監督に撮ってもらうようなイメージでいるんじゃないかなと妄想します。

ちょっとファンタジックな世界。シリアスな物語をユーモアとアイロニーをこめてファンタジーの中に押し込める映像世界。
そういうイメージを持ちながら書いたんじゃないかと思えるんですよ。そう考えると確かに中島監督だったらそれなりの作品にできる原作だという気がしてきます。

でも映像作品と小説は違います。
小説家ならまず小説として完成度を高めないといけません。彼女の小説をそのまま脚本にしたらひょっとしたら面白い映画が撮れるかもしれません。

でもそれは大いに映像の力を借りてのことです。やはり小説家なら映像の力を借りず、言葉の力だけで世界観を構築しないといけないと思うんです。文字と比べると映像って圧倒的に情報量が多いんですよね。頭で映像のイメージを描くのは悪いことではないとは思うんですが、それを文字上で再構築するのはそれなりのチャレンジなんじゃないかと思います。

そして赤染さんは少なくとも私に対してはそれに失敗しました。頭の中で描いた映像が堅固だったため、フィクション・ラインの構築が雑だったためだからではないかと思います。

「乙女の密告」。とても高いポテンシャルは秘めているものの、作者の小説家としての技量が作家としての野望についていけず、非常に惜しい着地の作品。少なくとも私はのめり込めませんでした。

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