2010-09-09

伊集院。


週刊現代の伊集院静のエッセー「真っ白な壁」を読んだ。

友人から強くすすめられたからであるのだが、迷わずに読んだのは長年伊集院のファンだったからだ。

伊集院を最初に読むきっかけとなったのは学生時代仲のいい教授にすすめられてだった。ちょうど「受け月」で直木賞を受賞した後だった。

伊集院静のことはその前から知っていた。作家としてではなくワイドショー的に知っていた。夏目雅子の結婚相手としてだ。

「伊集院さんのどこに惹かれたのですか?」テレビのインタビューで聞かれ「隣でものを書いているのを見て『ユウウツ』の『鬱』の字を何も見ないで書いているのを見てステキだなと思いました」と夏目雅子が答えているのを聞いた小学校6年生の私は翌日には「鬱」の字が書けるようになっていた。そしてそれが伊集院静との出会いだった。

「受け月」の後、古本屋へ行き文庫本になっている伊集院の本を探した。そして「あの子のカーネーション」というエッセー集にであった。週刊文春で連載していた「二日酔い主義」の単行本化だ。そして私は伊集院ファンになった。

といっても今となっては伊集院のことを知っている人の方が少ないかも知れない。

簡単にいうと、元CFディレクターであり、作詞家であり、酒飲みで、ホンモノの博打打であり、喧嘩っ早い無頼の直木賞作家である。

そして女性に尋常じゃなくモテた人だった。
かつて夏目雅子と夫連れ添い、今は篠ひろ子と結婚している。

作家としては非常に当たり外れが大きい。さらにいうと長編小説はあまり巧くない。若い女性の描き方はときに悲惨だ。だから彼が作家としては時に高い評価を受けないことにも不満はない。

それでも私が彼のことを追わずにはいられなかったのは、彼の美しい日本語と無頼の人柄の裏から滲み出る彼の優しさだった。とくにはみ出してしまったものをすべて受け入れる優しさだった。

だから非道い作品があっても、新作がでると毒を食らわばの心でついつい買ってしまう。

山口瞳の後を受け伊集院が毎年4月1日に新社会人に向ける文章が最近ただの年寄りのボヤキになっていることに嘆息し、そして「ツキコの月」が思いの他面白いのに期待をしてしまう。

そういうことを繰り返していく。でもそれでいいのだ。伊集院の文章を読むということは伊集院という人を読むということなのだから。

伊集院に技巧的欠点を指摘するのは清原に配球の読みの甘さを指摘するのと同じくらいつまらない。
サントリーの広告がつまらないものならば、それは伊集院の文筆家としての衰えではなく、単に彼が若者に対していいたいことは最早なくなってきたということなのだ。

世の中には巧い作家は増えてきている。設計図勝負というか。でも私はそういう作家にあまり興味を抱かない。
むしろ肉体で書く人に惹かれる。

とはいえもしこれを読んで伊集院に興味をもった人がいたとしても正直あえては現代の記事は勧めない。そこにあまり伊集院は感じられない。

むしろ夏目雅子ということで興味をもったのならまずは闘病生活の一齣を描いた短編集「乳房」(同短編集に収録されている「クレープ」も珠玉)、それから彼女との出会いがモチーフになっている「潮流」がおすすめ。
伊集院という男に興味を持ったのならエッセー集「あの子のカーネーション」、さらにその先の作家としての伊集院に興味を持ったのなら「受け月」、それでいけそうだったら長編の「海峡」三部作(「海峡」「春雷」「岬へ」)へいってみるのも悪くないかもしれない。

しかし今こうやって思い返しながら書いてみても伊集院が他人におすすめすべき作家かどうかは確信が持てない。
ただやはり私にとってはとても個人的な作家なのだ。今夜は久しぶりに「あの子のカーネーション」でも読み返してみようかしら。

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