2010-12-31

年末シュバーサナ。



ヨガのポーズの一つに「シュバーサナ」というものがあります。「屍のポーズ」という意味のようですが、とにかく仰向けにまっすぐに横たわって大きく深く呼吸をしながら静かに寝ているだけです。

私自身ヨガについて語れる程にはよく知らないのですが、私がやったことのあるヨガでは一通り色々なポーズを行った後、徐々にゆるやかなポーズになっていき、そして最後にシュバーサナをして終わります。

****

今年も一年また色々ありました。明るいニュースも、暗いニュースも。
それでも大掃除を済ませ、店に出て、パーティーに顔を出してちょっとお酒を飲んでいれば、新年はまたやってきます。

いやあ、新年を発明した人はえらいなあ。誰にでも平等に新年はやってくる。今年が素晴らしい人にも、つらいものだった人にも明日になれば新しい年がやってくる。

新生。

ヨガの最後にシュバーサナを行う意味については調べたことはないのですが、勝手に一度「屍」になって死ぬことによって再生するということなのかなあと感じていました。

新たに生まれ変わるには小さく死ななければいけない。

そして大晦日に感じる静寂は私にシュバーサナを連想させるのです。

中にはカウントダウンパーティーで賑々しく新年を迎える人もいるかも知れませんが、紅白が終わりゆく年くる年が始まるとどこか厳かな空気が流れてくる(今もそうなのかしら)。除夜の鐘が撞かれ、静寂は深まり煩悩がひとつずつ打ち消されていきます。

そして私たちはその年が去るのとともに一度静かに死にます。よかったことを抱え、悪かったことは置き去り新しい年を迎えます。

新生。

また新しい一年を迎えるためのシュバーサナ。

*****

スタッフが帰り、いつものように誰もいなくなった店の中。
いつもと変わらず店の点検を済ませ、いつものように帰り支度をする。
いつものように電気をすべて消し出口の前に立つ。

そしていつもと違い、出る前に翻り真っ暗な店内に向かって一礼する。
年に一度の私だけの儀式。

そして2010年は死んでいく。

what's "my wife's camera"?

2010-12-30

二人きりの忘年会。



仕事から帰るのが少し遅かったが、どうしても一杯飲みたくなり妻に「忘年会やるぞ」と告げ、「年末年忘れ特番」と称し二人だけで軽く一杯呑りました。

テレビやラジオでは一年を振り返る番組で溢れているのに、不思議と今まで改まって個人的に一年を振り返ってみたことがなかったので、2010年が自分にとって、妻にとってそして二人にとってどういう一年だったかを振り返るという経験はとても新鮮でした。

ある程度大きいお子さんがいらっしゃるご家庭ではあるいは一年を振り返るというようなことをやられる方もいらっしゃるかも知れませんが二人きりでもなかなかいいものです。

家庭内忘年会を恒例にするのも悪くないかも知れません。

what's "my wife's camera"?

2010-12-29

私の2010年。




なかば備忘録ではありますが、2010年が私にとってどういう年であったかを色々なジャンルの印象に残ったものを挙げることによって記録したいと思います。


1)私の2010年の小説:「ヘヴン」(川上未映子著)
といっても本書自体は2009年の作品です。たまたま私がこの本を読んだのが今年だったということで'10年にノミネート。本書は素晴らしい作品であるのですが、それと同時に私が初めて自分なりの書評ができた作品だったということで選出しました。

2)私の2010年の映画:「The Social Network」(David Fincher監督作)
本作の日本公開は2011年だと思いますが、グアムでは2010年公開。映画評自体も本Blogで書いたのですが、それ以上に個人的な意味のある映画だったので選出。

3) 私の2010年のインターネット:「www.videonews.com
今、私が最も尊敬するジャーナリスト神保哲生氏と、不世出の天才である高校の先輩でありながら何故だかそこまで尊敬できない愛すべき社会学者宮台真司氏が10年に及び続けてきたニュース解説動画サイト。十年の歴史がありながらも恥ずかしながらも今年になって初めて知り、月額500円の会費を払いながらも、それを補ってあまりあるほど素晴らしいサイト。このサイトの素晴らしさを語りだすと止まらなくなってしまうのですが、とにかく私はたった月額500円で正しいニュースの見方、ジャーナリズムのあり方、サンデル教授に代表される政治思想の深遠、社会学的事柄の考え方、及びそれらすべてを総合して世の中をどう見ればいいのかを示唆してくれるサイト。

上記のようなテーマに興味があり、大学を卒業された方の中で在学中に「役に立った」とか「できればもう一度聴きなおしたいな」と思える授業がどれだけあったでしょうか。体育会に所属して不真面目だった私にとってはせいぜい二つか三つ。Videonews.comは毎週のニュース解説(45分~60分程度)に加え、その週のトピックスを徹底的に掘り下げるコーナーが90分程度かそれ以上用意されている。

国立大学の授業料が入学金を4年で頭割りして60万円として考えると、再教育の機会を求める社会人が自分の好きなときに
視聴できるサイトを年間6000円で視られることを考えるとこのサイトの素晴らしさは自明です。万人向けではないとは自覚しながらも、強くおススメのサイトです。

4)私の2010年のギア:Vibram Fivefingers

こちらは裸足に極めて近い状態で走るための靴です。詳しくは以前Blogでも紹介しているので割愛。

5)私の2010年の食事:マクロビオティック

これは私の今年の最大のトピックスの一つでしょうね。むしろ嫌悪していた「マクロビ」に傾倒し、そしてそのことによって健康になっていく過程、これも過去のBlogを是非見て頂ければ。

6)私の2010年の旅行:直島

今年は直島へ行ってきました。瀬戸内国際芸術祭が開催されるというので、色々な予定の都合をつけて瀬戸内海の小さな島へ行ってきました。これは私にとっても、そしてアーティストとして歩み始めた妻としても素晴らしい経験でした。その詳細についてはまたいつか他の機会でご報告できることを祈って。

7)私の2010年のハプニング:リアル鳩カフェ参加

これ、冗談で応募したら本当に当選してしまいました。現職の総理の隣に座って一時間以上もディスカッションをさせて頂くという稀有な経験をさせて頂いたことを機に、政治に対して現代政治思想というマスコミがまったく報じないことにまで意識が及ぶことができたという意味で(もちろんvideonews.comの力は借りていますが)、この体験はやはり特筆しなければいけないでしょう。

8)私の2010年の大きなおまけ:"my wife's camera"

本Blog、始めたのは2009年の10月だったと思いますが、途中ほとんど更新していなかった時期がありました。それを経て、今年の7月以降Upが遅れることはあっても一日たりとも欠かさず毎日Upしています。

妻には「あんな変な写真Upして」と怒られることもありますが、それでも毎日撮ったことのない妻の新しい表情を探してシャッターを切り続けることは存外大変なものです。

かつても毎日一枚だけ写真をUpしようとHPを作ったことがありますが、日常の雑事に忙殺されついつい一枚もシャッターを切れない日が月に一日くらいは出ていました。それでも150日以上毎日妻の写真を撮ることによって記録できたものは大きいですし、そして見返すことによって彼女に対する感謝と愛おしさもまたひとしおです。

ありがとう。

****

それでは皆さまよいお年を。


what's "my wife's camera"?

2010-12-26

ふえる家族。



グアムに遊びに来ていた妻の両親が今朝日本へと戻っていきました。

滞在中妻が張り切っていたこともあり、それなりに疲れもたまったけれども、なかなか楽しい時間でした。

結婚をすると家族が増えるといいますが、もともとどこ吹く他人なわけですから結婚をしたからすぐに「家族」というような感情が生まれるわけでもありません。

でも結婚して色々な形で接していくうちに少しずつではありますが、段々義父母に対しても家族というような感情が芽生えてくるというか強くなってくるのがわかります。

今回の滞在でそういう感情がいっそう強くなったように感じられました。

いつも話すことですが、歳をとってから新しい感情を知るということはやはりとても楽しいものです。

what's "my wife's camera"?

2010-12-23

大丈夫だよ。



自分なりに筋を通すことはなかなか大変なことです。言いたいことをきちっというとそれが何倍にもなって跳ね返ってくることもありますし。それでもそれをも「引き受ける」「覚悟」でいけたらと思うものです。

++++

学生時代所属していたゼミのMLでちょっとした議論がありました。

それに参加する際、私は先輩に対してもかなり失礼と思われかねない挑発的なことを書きました。
とはいえそこは社会人、一応DMで「失礼があったらすみません」的にフォローを入れるとその先輩Aさんは「むしろキミが乗っかってくるのを待ってたくらいだよ」と言ってくれました。

それを機にAさんと時々メールでやり取りをするようになりました。Aさんは私よりも3期上の先輩で、ML上で議論にあがった議題の専門家でもあります。だから私のような新橋系街角評論家とは異なり話に深みと説得力がありとにかく面白い。そのAさんとメールをやり取りしているうちについつい甘えて色々な話を聞いてしまいました。

忙しい方だとわかっているので、あまり個人的に質問して迷惑をかけてはいけないとは思いつつもついついメールを出してしまう。「遠慮無用、いつでもメールして」という世辞を間に受けメールを出し、「思考様式が似ている」といわれ調子に乗りメールしてしまうのです。

そしてその往復書簡が本当に心地よいのです。学生時代の先輩ですから後輩として甘えて色々聞けますし、何よりもAさんが明晰な頭脳を持っている上に自分のエクスパーティーを惜しみなく披露してくれるので本当に面白い。

私はAさんとの往復書簡を自分だけの極上の贅沢として一人満喫しています。

でもこの特権を享受できるのも、もとはといえば他のOG/OBから疎んじられるのを「覚悟」の上で自分の意見をさらけ出したからなわけです。

虎穴にいらずんば虎子を得ず。いくつになっても恥と汗を掻く気持ちは忘れたくないものです。



what's "my wife's camera"?

2010-12-21

【書評】「告白」(湊かなえ著)



*********************************************
「告白」(湊かなえ著/双葉文庫)
*********************************************

個人的には本書を批評するのはとても難しいです。できれば一言で「とても面白いよ」で済ませてしまいたいくらいです。

その理由は本書自身にあるというよりも、むしろそれを取り巻く環境にあるのかも知れません。

++++

まず簡単に本作を説明すると、ミステリー作家湊かなえのデビュー作にして代表作。売り上げ200万部を突破したメガヒットで、映画化もコミック化もされている作品。2009年の本屋大賞も受賞しています。

内容は一言でいうと子供を生徒に殺された中学生教師の復讐譚です。六章五人による独白形式で構成されています。

相当の話題作だったので読もうかどうか迷っていました。あるいは中島哲也監督作の映画版を観ようかなど色々考えていました。本屋大賞の受賞作ですし、もし日本に住んでいたらずっと前に読んでいたかも知れません。

しかし何となく食指が動かず読まないでいたら、知人がグアムに来たときに置いていってくれたので読むことにしました。

先述のとおりとても面白い本でした。すらすら読めました。でも本書の印象は事前に漠然と想い抱いていたものとはまったく異なっていました。

++++

超ベストセラーだけあって、本書の断片的情報は黙っていても少しは入っていました。聞こえてくる感想は「救いがない」とか「最悪の読後感」とか「どこまでも深い人間の心の闇」とかその種の言葉でした。

となるとどこまでドロドロした人間の業の深部まで踏み込んだ作品なのかと当然思ってしまいます。本書を開くにあたり、襟をただしちょっと気合を入れざるをえませんでした。

しかし蓋をあけてみればとんだ肩透かしでした。それは本書が面白くない、小説として問題があるということを言っているのではありません。むしろ技術的にはデビュー作とは思えない程の高水準ですし、繰り返し言っているとおり、なかなか吸引力のある面白い作品です。

でも全然人間の闇にも切り込んでいないし、絶望的な気分にもさせてくれません。むしろ「うまく設計したなあ」と感心させられました。

つまり本作はもともと人間の心の奥深くに入っていくための作品ではなく、様々な心理の吐露は本作をミステリーとして説得力を持たせるための部品でしかないのです。

著者はその部品作りはきちんとやっていると思います。欲をいえば主犯格の男の子の真の動機がステレオタイプで陳腐だとか、もう一人の犯人のお母さんの日記がちょっとご都合主義だということはあります(ただし日記の内容自体はなかなかいい)。

でもこの手のミステリーにおいてそういう粗は別に指摘する必要はありません。なぜならこれは心を掘るために書かれた作品ではないからです。そしてそういう粗はありながらも、それらは本作の部品としてはきちっと機能しているからです。

しかし多くの人が登場人物の心理に引っ掛かって恐ろしがったりしている状況に却って恐ろしさを感じたりするのです。

200万部超売れているということは普段あまり本を読まないリテラシーの低い人も読んでいるということではありますが、そういう人でも普段テレビなり映画なり見ているはずです。それでもあのラストを「救いがない」というのは普段どれだけ毒にも薬にもならない予定調和のものだけに接しているのか、ということです。

予定調和のエンターテイメントのカタルシスを否定するつもりはありませんが、それにしても本作の受け止められ方にどうしても違和感を感じ得ないのです。

もう一度いいますと湊かなえの「告白」はぐいぐい読ませる面白さがありますし、デビュー作とは思えない程技術的にもしっかりしています。「面白い?」と聞かれれば「面白いよ」と答えるでしょうし、お金を出して読んで損をさせられる本ではありません。

でもそれはミステリーとしての面白さです。たとえるならとてもよくできたお化け屋敷です。お化け屋敷に入ってギャーギャー叫ぶのは悪くありませんし、顔面蒼白になって出口にたどり着いて「もう二度とお化け屋敷なんて入らない」というのも正しい楽しみ方でしょう。

しかしお化け屋敷から出た後に「お化けはこれだけ恐ろしいものなんだ」と語っている人がいたらどうでしょう。

本書はお化け屋敷としてはおススメです。でも読み終わってから真剣にカブリもののお化けについてああでもない、こうでもないと語る愚を犯すことだけは避けて欲しいものです。


what's "my wife's camera"?

2010-12-18

【書評】「セゾン文化は何を夢みた」(永江 朗 著)




*********************************************
セゾン文化は何を夢みた」(永江朗著/朝日新聞出版社)
*********************************************

かつて大人と子供の間には明確な線引きがありました。そして横浜の片田舎に育った私がはじめて強烈に大人のカルチャーを意識させられたのが六本木のWAVEでした。

音楽といえば歌謡曲がせいぜいアメリカンロック/ポップスくらいしか知らなかった中学生の私が、学校の近くにあったというだけの理由で迷い込んだそのレコード屋は私の知っていたそれとはまったく別のものでした。

店内には見知ったアイドルや演歌のレコードはまったくなく、アメリカンロックどころか聞いたことのないような世界各国の音楽が並び、壁には演劇のチラシが並べてある。さらに地下にある「シネ・ヴィヴァン」ではいつも読んでいた「ロードショー」(ハリウッド映画雑誌)では出てこないような聞いたことのない映画が上映されていました。とんでもなく大人な世界に迷い込んでしまったような気持ちになりました。

セゾングループが私に「大人文化」を感じさせてくれたのはWAVEだけではありません。ウッディーアレンがでてきた西武百貨店のコマーシャルは家族でいったことのあった高島屋とはまったく別の雰囲気を醸し出し、渋谷にLOFTができたときは興奮のあまりしばらく通ってしまいました。

とはいえ私自身はセゾン文化にどっぷりつかった世代とは到底いえず、むしろ辛うじてかすった程度の世代です。デパートにしても池袋西武は行ったことがなく、渋谷のA館、B館どまりでした。

しかしセゾン文化は明らかに私にとって、他のなにものとも違うどこか特別な静かな輝きのあるものでした。決して眩しいという程うるさくはなくそれでも確かな存在感のある大人の輝き、それが私にとってのセゾン文化でした。

++++

著者の永江氏は大学卒業とともにセゾングループにもぐりこみ、社員としてその栄華盛衰を目撃してきたライターです。

本書は永江氏によるセゾン文化にディープに関わった人々へのインタビューによって構成されています。文化事業部長の紀国憲一氏、デザイナーの小池一子氏など関係者7人の証言集です。

そのなか本書の特筆すべきところはまずはなんといっても全編に渡る脚注の数々です。ページの半分以上をしめることもある注は田中康夫の「なんクリ」の彷彿させなくもないのですが、それでも若き日の私が雑誌などで目にしながらも意味がわからなかった「大人の世界」を網羅的に説明してくれているという点で非常に魅力的です。

しかしそれ以上に本書を特徴付けるのが全編に渡って感じ取れる堤清二の存在です。

知らない方のために説明すると、清二は西武グループの創始者堤康次郎の息子に生まれながらも、共産党に入党したり、辻井喬というペンネームで小説家として活躍するという少し変わった経歴を持った人です。ゆくゆくは西武グループの総帥となることを目されながらも、結局は西武百貨店のセゾングループだけを任せられることになりました。

私が中学生の頃何かの機会に清二のことを知り母に尋ねると、「実業家の家に生まれながらも経営よりも文学などの方により興味のある変わり者」とあまり肯定的に彼を語らず、むしろ異母弟の義明を賞賛するような口調でした。だからバブル崩壊とともにセゾングループが破綻した際は経営責任は清二にあると当然のように思ってしまいました。

そんな清二に対する印象が少し変わったのは彼が辻井喬名義で書いた「父の肖像」を読んでからでした。

その自伝的小説からは私が勝手に思い描いていたふわふわした印象の清二はどこにもおらず、相当骨太で堅固な思想をもっている方かも知れないと思ったのです。

そのインテリでもあり、アーティストでもある清二の百貨店経営哲学はやはり凡百のものではなく、極めて思想性の高いものであり、それがバブル前夜からの上昇気流に乗り独特の文化を形成したことが様々な関係者へのインタビューの合間から本書ではそれとなく伝わってくるのです。

そして最終章の堤清二自身へのインタビューで本書は文字どおりのクライマックスを迎えます。著者自身の緊張と意気込みが感じられ、読んでいるこちらまで緊張してきます。そしてそれはあたかもミステリーのラストで犯人がすべてを告白するのを聞いているかのようなスリリングさです。

清二がどういう経営哲学に基づきセゾングループを経営し、文化事業部とは彼にとってどういうものだったのかを、静かながらも痛烈な義明への批判も交えながらゆっくりと語るのこの部分は間違いなく本書の最高の部分です。

しかしそのような素晴らしい箇所があるにも関わらず本書を手放しで賞賛するわけにはいきません。それはノンフィクション作家としての著者の力量に疑問を感じるからです。

一言でいえば本書はノンフィクションとしては著者の自我が透けてみえすぎています。もちろん著者の永江にとりセゾン文化やセゾングループで働いた日々は特別な意味を持ち、思い入れも強いのでしょう。

しかしその気持ちが勝るがあまり冷静な筆致からは程遠い、鼻につく文章になってしまっています。そしてその根底に「セゾン文化はよかったよなあ」という懐古主義と「すごい人たちに囲まれて過ごしたオレ」とい矮小な自意識が見え隠れしてしまっているのです。

ノンフィクションとしてはうるさいくらい「私」という語が使われているのはそのわかりやすい証拠でしょう。筆者が憧憬するセゾン文化の中核にある清二へのインタビューの第7章でそのうるささは頂点に達します。

近年清二が基本的に「辻井喬」という名前を使っているからという理由で「ここ(第7章)では辻井喬と書く」としているのは蛇足です。それまでの流れどおりただ「堤」と表記した方が流れはよかったでしょう。にも関わらずあえて「辻井喬」と記すのは、著者が清二を経営者としてではなくアーティスト/思想家として語りたいという思いの表れでしょうし、「辻井と同じ土俵に立っているオレ」という自意識の表象でもあるでしょう。また

同じ章の中で「堤清二」という表現と「堤清二/辻井喬」という表記と並立させています。もちろんそれは著者が清二の中に潜む二面性を表したいからに違いないのでしょうが、そのような面倒くさい表記をしなければ清二の二面性を表ることができないとすれば、それは著者の力量不足によるものでしょう。

その力量不足はこの章の構成にも見られます。最大の見せ場は先述のとおり、清二が経営哲学を始めセゾングループをハンドルしていた当時何を考えていたかを語る場面です。

にも関わらずこの最大の見せ場の後にだらだらと著名人の名前がたくさんでてくるだけの大したことのない文章が続き、余韻の切れ味を悪くしてしまっています。

極めつけは著者が自らが考えていたセゾングループ像を清二にぶつけるとき、自身の発言をも「鉤括弧」でくくってしまっていることです。もしそのことによって臨場感を出そうとしているのならその演出は完全に失敗しています。うるさい自意識だけが鼻につき折角のインタビューの面白さを失速させてしまっています。

テーマも非常に面白く、貴重なインタビューも多いだけに著者の力量不足による空回りが惜しい一冊です。

とはいえ一言で駄作と切り捨てるにはあまりにも寂しくもあります。セゾン文化の風を受けながらある時代を過ごしたり、堤清二という人物に何某かの興味を抱いている人でしたら読んでみても決して損はないでしょう。


what's "my wife's camera"?

2010-12-16

伊勢谷友介のインタビューを聞いて。



小さい頃、なんで政治家という人種がそんなにエライ/エラそうなのかがわからなかった。

「日本を動かしているからエラいのよ」母親はいった。ふーん、幼かった私は答えた。

 少し経って勉強するようになって政治家とは法律を決める人だということを知った。ますますなんでエライのかわからなくなった。弁護士は法律で戦う人でお金をたくさんもらうということは何となくと理解できた。法律という専門の武器を持って戦う人には特別の報酬が払われるということには合点がいった。

でもなんで法律を作る人があんなにエラそうなの?

誰も教えてくれなかった。

でももし今の私がタイムマシーンに乗って少年の日の私に出会えるのなら、ひょっとしたら説明ができるかも知れない。

+++++

「たろう君は野球が好きだよね?もし野球がスリーアウトで交代じゃなくてファイブアウト、つまり5回アウト取らないと交代できなかったらどうなると思う?」

「そんなのヘンだよ。野球はスリーアウトで交代だよ」

「うん、そうだよね。でももしファイブアウトまで交代できないとしたら、どうなるかなあ」

「うーん、いつまで経っても攻撃が終わらなくて、守ってる人はいやんになっちゃうよ」

「そうだよね。攻撃がいつまでも続いて点がいっぱい入っちゃうよね」

「ピッチャーも疲れちゃう」

「でもたろう君バッターでしょ?ピッチャーが疲れた方が打てるんじゃない」

「うーん、でもやっぱりなんかおかしい気がする」

「でもお客さんの中にはホームランを観たい人がたくさんいるでしょう。それだったらピッチャーが疲れた方がいいじゃない」

「ぼくもホームラン打ちたい」

「ほら、やっぱりファイブアウトの方がいいんじゃない?」

「うーん。。。」

「たろう君」

「なに?」

「野球でスリーアウトで交代かファイブアウトで交代か、ルールがどちらかになるかってかなり大きな問題だよね」

「うん」

「実はね、ぼくたちの社会にとっての『法律』って野球にとっての『ルール』と同じなんだ。

 世の中にはみんながよりよく暮らせるようにたくさんの法律がある。でも時にはその法律も変えなきゃいけないことがあるんだ。たとえば野球でピッチャーが両方のチームに一人ずつしかいなかったらスリーアウトだと大変すぎるってこともありうる。だったらツーアウトで交代っていう風にルールを変えないと試合が却ってつまらなくなってしまうかも知れないということがあるのと同じように、世の中の変化と一緒に法律も変えなきゃいけないんだ。

 そしてその法律を作るのが政治家なんだよね。だから、ものすごく影響力がある。もしたろう君がピッチャーで交代がファイブアウトになるかツーアウトになるかだったら全然違うよね?そのルールを決める人に「スリーアウトのままでいいじゃん。もしどうしても変えなきゃいけないならツーアウトにしてくださいよ」ってお願いしたくなるよね。

 お願いする方とお願いされる方だとどうしてもお願いされる方がエラそうになってくる。
 『お願いしますよ』ってへえこらしてくる人がたくさんいるから政治家はどうしてもエラそうになっちゃうんだよね」

***

少年たろう君は納得してくれるだろうか。

+++++++

立法に携わる政治家という職業は立派なものだと思います。
だから私たちも責任を持って選出しなければいけないでしょう。

でも、彼らが作るのは所詮ルールだけです。

ボールを投げるのも、打つのも私たち国民です。
政治家に「オフサイド」というルールを決めることはできても、パスを回すこともシュートを打つこともできません。

日本の政治は確かに混迷しています。明確なビジョンを打ち出して立ち直してもらわなければ日本はますますひどいことになるかも知れません。

でも忘れてはいけないのは、彼らにできるのは所詮ルールを作ることだけです。そのルールで足を引っ張られたりすることもあるかも知れませんが、少なくともボールを投げ、打ち、シュートを放ち、タックルをし、フィールドを駆け抜けるのは我々国民だということだけは忘れてはいけないでしょう。

++++++

東京FMの番組での伊勢谷友介さんのインタビューを聞きながら、ふとそんなことを考えたのでした。


what's "my wife's camera"?

2010-12-15

エロマンガと報道の自由。



今日東京都議会で「青少年健全育成条例改正案」が成立しました。ちょっと前に「非実在青少年」ということで話題になっていたあれの続きです。

一部ネット上では相当話題になっているトピックですが、東京ローカルの条例ですし日本全体でどこまでも話題になっているのか温度がわからないので簡単におさらい。

ことの発端は今年の2月に東京都が議会に「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の改正をだしたことです。その中で「非実在青少年」という概念が謳われ「リアルな未成年者じゃなくても、漫画の中でも18歳以下はセックスとかしちゃダメ」ということを法律で規制しようとしたのです。(当時の報道はこちらから

漫画家や出版社などを始め各方面から「表現の自由」の観点からものすごい反発がおきたのですが、結局は一端継続審議となった後に6月の第二回定例都議会で否決されました。

この「否決」された、という事実とりあえず大事です。否決の理由は「表現があいまいで拡大解釈の恐れがある」などでした。

ところが11月30日さらに別の改正案第156号議案「東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例」が提出され、これが今日議会を通ってしまったわけです。

改正案のポイントは「非実在青少年」というタームを外し、「漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現すること」という表現が入っていることが特徴です。

++++++

このことについて細かい議論をしようと思うときりがなくなってしまうので、今日はとても素朴な観点から。

まず私はこの条例の改正案を聞いたとき瞬時に「こりゃありえねえな」と思いました。でも次の瞬間になんで「ありえねえ」と思ったんだろと思ったわけです。

もし私に子供がいたとしたら行き過ぎた性、暴力描写をあえて見せたいとは思わないでしょう。私の非実在子供達が極端な表現や描写に接しないことを望むかも知れません。しかしだからといって都がそこに介入してくることに直感的な気持ち悪さを感じてしまったのです。

その気持ち悪さはビデオニュース.ドットコムの保坂展人氏の解説を聞いていたら腹落ちしました。

これはかなり複雑な問題でもあるのですが、簡単にいうと「治安維持という名の権力の暴走」に対する危惧です。

「子供たちにどぎつい性描写を見せてもいいと思っていますか?」と聞かれたら誰でも「嫌です」というでしょうけれども、すでに「有害図書」という名ですでにゾーニングされている中、どうして6月に否決されたものをどうして11月に早再提出したのでしょうか。

簡単にいうと以下の3つのタームに集約されます。「出世」「メンツ」「権力」です。

詳しいことは本編を観て欲しいのですが、要は鹿児島の志布志事件で大失点を犯した警察官僚が「出世」のため失地回復を狙おうと国会で廃案になった「児童ポルノ法改正案」のリベンジとして東京都で「非実在青少年」とかを持ち出したにも関わらず否決されてしまった。当局からでた法案が「継続審議」どころか「否決」されるのは極めて異例であり「メンツ」が潰されたので何としてでも年内に法案を可決させたい、というのが一つのベースです。

つまり警察官僚の出世とかメンツの問題でこの法案を通したいわけです。でもこの問題はすでに「有害図書」という形で規制されていますし、実情としては出版社がそれなりに自主規制をしています。そうした中、特に問題とされるようなマンガなどと色々な犯罪の因果関係もないままに規制しようとしているのは警察が権力を拡大させようとしているとしか思えません。

そもそも青少年保護育成行政といのは2004年までは「生活文化局」の管轄にあったのが2005年に「青少年治安対策本部」ができて警察官僚が関与するようになってきたといいます。つまり役所内の権力闘争です。

これが単に権力闘争で終わっているうちはいいのですが、一端法律や条令という形でアーキテクチャができてしまうとその後法律の立案者の意図とは関係なく暴走する可能性があるのが問題なんです。

つまり件の本部長は「これを通せばまた出世街道に乗れるかも!」程度にしか思っていなくとも、将来それが戦前の治安維持法的言論統制の根拠になりかねない危険性をはらんでいるということです。

これが私が直感的に「ありえねえだろ」と思ったひとつの理由です。

++

「ひとつの理由」と書いたからにはもうひとつ別の理由があるわけで、むしろそちらが主眼なのに前置きが長くなりすぎてしまったのですが、それでもここでしつこく「権力」の恐ろしさについてもうひとつだけ書かせてください。

これは先述したとおり、東京都議会での話です。

ご存知の通り、東京都知事は石原慎太郎氏、副知事には猪瀬直樹氏がいます。若い方でご存知ない方もいるかも知れませんが、彼らはいずれも素晴らしい作家でした。

石原慎太郎氏の「太陽の季節」は聞いたところですと若者のバイブル的だった時代もあったといいますし、今でも芥川賞の選考委員を務めています(もっとも彼の選考評は最早老人の昔日賛歌以外には聞こえないのですが)。猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」もノンフィクションとして一世を風靡しました。

そういう名も実力もあるふたりの作家で、ともに権力の過度の介入には突っ張っていたような人が権力の頂点に立った瞬間このような法案をみすみす通してしまったことは正直かなり残念です。

石原慎太郎氏に関してはとてもエネルギッシュな人であることは認めながらも、すでに時代に乗ることさえ諦めわがままだけを肥大させたような方なので諦めるとしても、猪瀬直樹氏の発言をTwitterをまとめたサイトで読んだときは驚きました。

筋が全然通っていなく苦しいの一言に尽きます。このことは裏を返せが猪瀬氏にまだ作家としての良心があり、様々ないえないような事情を抱えながら苦しんでいるというように解釈してあげることも不可能ではありませんが、少なくともノンフィクション作家としての猪瀬直樹は終わったと言わざるをえないでしょう。

権力とはげに恐ろしやです。

++++

さてここからがむしろ本題。

石原都知事は世界の先進国の中でここまで変態性欲のエロが野放図になっているのは日本だけで恥ずべきだ、というようなことを言っていました。

また条例自体が「青少年に対し、性的感情を刺激し、残虐性を助長し、又は自殺若しくは犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」としています。

だからこの条例を出すというロジックがそもそもおかしくないですか。

18歳以下の青少年といったら高校生もいれば小学生もいるので一概には語れませんが、男の子だったら中学、高校くらいになったら性欲は芽生えてきますよね。しかも強烈な形で。

その性欲と愛情をうまく結びつけるようになるまではいささかの期間が必要かも知れませんが、それでもたとえば16,7歳の男の子にとって大人が「妙齢」と考えるような24,5歳の女性は「オバサン」なわけで、むしろできることなら同世代の好きなコとそういう関係になりたい。

もちろん高校生同士がセックスするのがいいとは軽率には言えませんが、少なくとも元男子高校生の立場からするとそれはとても自然な感情だと思います。少なくとも変態性欲では絶対ありません。

女子高生の感情まではわかりませんが、もし女の子も心底純粋な気持ちでそう思うことがあるとしましょう。

そうはいっても中々高校生同士でそういう関係にまでは至らないかも知れません(至るかも知れませんが。。)。ならばそのファンタジーの一つの結実としてのマンガ表現をどうして「変態性欲」ということがいえるでしょうか。これが「健全な成長を阻害」しますかねえ。

まったくしないと個人的には思います。ではなぜ中学生、高校生を性の対象にすることに嫌悪感を覚えるのでしょうか。
それはいい歳した大人で小中学生や高校生にしか性的興味を持てない人がいるからだと個人的には思うのです。

つまり未成年者を性の対象にした作品が問題になるとすれば、それはその対象と同世代の異性ではなくそれに欲情する大人が少なからずいることが問題だと思うわけです。

そもそもエロマンガがビジネスとして成り立つのはそれを好んで読む大人がたくさんいるからであり、中高生がそのビジネスを支えているとは思えません。

私は心理学者でもありませんしエロマンガ読者について詳しいわけではありませんが、欧米に比べてロリコンとまではいかなくとも未成熟な女性を好む大人が多いのはひとつの病理だと個人的には感じます。

ステレオタイプの分析といわれる知れませんが、自分に対して自信が持てないため対等な立場の女性とはコミュニケーションが取れず、辛うじて優位を保てるかも知れない弱者にしか性愛さえ抱けない大人がたくさんいる社会の方こそ問題にすべきだと思うのです。

その原因は家庭にあるのか、コミュニティーにあるのか、教育にあるのか、経済環境にあるのかはわかりませんが、エロマンガを取り締まる時間とカネと労力があるのなら、自立しきれない大人をたくさん排出する社会をどうにかすべきだと思うのです。

今回の法律は近親相姦も俎上に上げています。私自身にも姉がいますが、高校時代「妹がいたらいいなあ」というのは大抵女兄妹のいない奴らのファンタジーで、女兄妹のいる奴はそろって「女兄妹にはなんの性的ものは感じない」といっていました。つまりリアルの高校生にとってマンガの兄妹間の近親相姦描写は何も誘発しません。ましてや母親との近親相姦なぞといったらほとんどすべての男子高校生が「お袋と?うぇ、キモいこと想像させんなよ」という感じでしょう。

やはりもしそういうことが性的に何かを刺激するとしたら、それは自立しきれない大人が「兄」という絶対的に揺らぎようのない優位に憧れるヘタレか無報酬の愛で自分を包んでくれる母性を求めるマザコンのどちらかでしょう。

私の断定がいささかマッチョに過ぎるかも知れないという自覚はあります。でもそれを差し引いてもそういうマンガが中高生を近親相姦に走らせたり、幼女犯罪に走らせたりするとは思いにくいのです。

むしろ幼女犯罪は宮崎勤を挙げるまでもなく、病理を抱えたまま大人になった人がそういったマンガを読んだ場合に引き起こされる可能性が高いのではないかとさえ思えるのです。

つまり極論すると極端な表現のマンガの読者として規制すべきは青少年よりもむしろ病理を抱えた大人ではないかと思うのです。そして実際は規制することよりも病理を抱えた大人を作りださない社会作りが大切だと思うと私が思っているというのは先に述べた通りですがいかがでしょうか。

+++

さて今回のこの条例の通過について読売の社説と日経の春秋でまったく逆のことを書かれています。「新聞ってどこも大して書いてあること変わらないでしょ」と思っている人は読み比べると面白いかも知れません。

読売新聞
日経新聞





what's "my wife's camera"?

2010-12-14

スタア誕生。



Inetnon Gef Pa’goというグアムの文化プログラムがあります。これはパフォーミングアートを通じて原住民のチャモロ文化と言語の保全を目的としたプログラムなので、今年10周年を迎えました。

パフォーミングアートといってもほとんどが昔ながら伝わる舞踏のようなものです。グアムのホテルでもポリネシアンショーのようなものを見ることはあると思いますが、それらのほとんどは文字通りポリネシアのものを取り入れたものでグアムの伝統的チャモロ舞踊ではありません。チャモロダンスはポリネシアのものと似ている部分もあるのですが、櫂をよく使いより海洋文化の影響を強く感じます。

彼らのパフォーマンスは色々なお祭りやイベント、ワークショップなどで見ることができるので私もこれまでも何度かみていました。パフォーマンスをするのは中学生くらいの子が中心ですが、皆かなりトレーニングを積んでおりそれなりに見ごたえがあります。

今日はあるカジュアルなクリスマスパーティーがあり、そこで彼らがパフォーマンスをしてくれました。さほど広くない会場で我々のグループのためにやってくれたということもあり、また十周年を意識してか新しい演目もあったのでいつも以上に迫力があり楽しむことができました。

しかし私が今回のパフォーマンスに興奮をした理由はそれだけではありません。私の目は終始一人の青年に奪われていたのです。

彼のことはこれまで見たことがなかったのですが、全体的にあどけなさが残り背も高くないパフォーマーの中ではひときわ長身が目立ち少しワイルドな感じのする青年でした。

新しく入ったのか踊り自体の完成度は低いのですが、とにかく存在感がある。もちろん背が高いことも関係しているのでしょうが、技術的に拙いのに萎縮することもなく誰よりも必死に櫂を振り回す様子には何とも惹かれてしまうのです。

人一倍汗を掻きながらちょっとイッちゃった真剣な表情で舞う姿はどこか危うげでもあるのですが、十分に訓練を積んだ切れ味の鋭い他のパフォーマーよりもなぜかその青年に目を奪われたのでした。

「新しいスタアの誕生だ」私はひとりごちました。

Inetnon Gef Pa'goはあくまでも集団パフォーマンスであるのですが、当然中には人より上手かったり、切れ味がよかったり、手足の動きがキレイだったり、つまりは秀でたパフォーマーがいるわけです。彼らは自然中心的な役割を担わされるようになりスター的存在になります。

これまでも男女で一人ずつ技術が際立ったパフォーマーがいました。特に男の子の中心人物は顔立ちも端正でかわいらしく、動きのキレ味も存在感も一人抜きん出ていました。

しかし今日は彼よりも俄然新人くん(たぶん)に目が向いてしまいました。新人くんがスタアくんと勝負できるのは目下存在感しかありません。事実経験が浅くてまだ色々なダンスを覚え切れていないのか、いくつかの演目は彼は袖でみていました。

それでもその存在感だけでスタアくんに対抗できるのです。スター性というのは後から努力してどうこうなるものではないとよくいいますが、きっと彼がまとっているあの存在感のことをスター性というのだろうなあと一人納得してしまいました。

太平洋の小さな南の島の小さな文化保全プログラムの中での話しですし、そもそも私の見立てが正しいのかさえわかったものでもないのですが、新しいスタアの誕生の予感に一人興奮した師走の夜でした。


what's "my wife's camera"?

2010-12-13

a slice of life with a military.



以前よくうちの店に食事をしに来てくれてた高校生くらいの男の子がいました。

彼はなんていうのでしょう色気があるというかモテオーラのようなものを放っていました。顔は整ってはいるけれどもカッコイイというよりは個性的で、私に対しては物静かで礼儀正しいのですが普段の目つきはどこか悪そうで不敵な印象を与える子でした。

彼は家族でよく食事に来ていたのですが、女の子と二人で食事にくることもありました。最初のうちは何人かとデートしていてそのうち一人の彼女に落ち着いたのですが、いずれの女の子の前でもちょっと冷たいというか「うっせーなぁ」みたいな態度をとり必要以上にだらしない姿勢で椅子に凭れかかっていました。

その彼が軍隊に入りアメリカ本土へ行ったと聞いたのはもう2年以上前だと思います。以前も何度か書きましたがアメリカでは地域や社会階層によっては軍隊に進むというのはわりかし普通の選択肢です。

軍隊に進めばその後大学進学しようと思ったときに学費が免除になる制度があったり、退役後の恩給や福利厚生も充実しているということがそのモチベーションになっています。

特にグアムのように就職しようにも産業がほとんど発達していない場合は選択肢としての存在感も大きくなるのは必然かもしれません。

だから彼が軍隊へ進むと聞いたときは別段驚きもしなかったのですが、正直寂しい気持ちにはなりました。

そう、私は彼がなんとなく好きだったんです。「いるんだよなあ、別にカッコいいわけでもないし、ナメきったふざけた態度を取ってるのに妙に女の子にモテるオトコって」と思いながら彼を眺めているとなんだか愉快な気持ちになるというか。

その彼を今日久しぶりに店で目撃しまして。家族と一緒にランチにきてくれたのです。一足早いクリスマス休暇ようようなもので一週間前にグアムに来て今日のランチを最後にアメリカ本土に発つということでした。

久しぶりに見た彼は体が一回り以上大きくなっていました。「体大きくなったね」私が声をかけるとお父さんは嬉しそうに、そうだろうと満足げでしたが、当の本人は昔と変わらずに何も答えずにはにかむだけでした。

でもそのはにかみの中に「ちょっと親戚のおじさんみたいにいつまでも子供扱いするのカンベンしてくださいよ」というようなものが感じられたような気がします。

それだけの話です。
でも父親は久しぶりに会う成長した息子の姿をどういう気持ちで眺めていたのだろう、とちょっと想像してしまったのです。

what's "my wife's camera"?

2010-12-12

報道陣って?ニュースステーションの功罪。




今日はとてもぼんやりした独り言です。

伊藤リオンが出頭したことで海老蔵"事件"が盛り上がり、目黒警察の前にはたくさんの"報道陣"が張り付いていたようですけれども、"報道陣"って誰のことでしょう。

「報道」と聞くと新聞社、通信社、そしてテレビ局の「記者」を思い浮かべますが、目黒警察の前に張り付いていたのは芸能リポーターなどが中心ではないかと想像します。

というか果たして報道部などのいわゆる「記者」はその場にいたのでしょうか。確かに伊藤某は逮捕されていて刑事事件になっているわけですから「事件」ではある。だからそこに「記者」がいたとしてもおかしくはありません。

テレビの番組表をみてニュース番組に「海老蔵」の文字が出ていたのできっとそこにもいたのでしょう。恐らく駆け出しの記者が取材にいかされるのでしょうか。

そこで考えてしまうわけです。もし私自身がジャーナリスト志望の若者で難関を突破してテレビ局に入社して念願の報道にいけたのに海老蔵事件の取材をしなければいけないとしたらどう思うだろうなあって。

個人的には「報道」という観点でいうと海老蔵事件はニュースバリューはほとんどないと思っています。まあこれは「報道」をどうとらえるかという話にもなってくるわけですが、よく言われる司法、立法、行政にならぶ第四の権力という観点で考えたとき、酒癖の悪いセレブリティーが酔っ払ってトラブルをおこしてボコられたというのはまあどうでもいい話です。新聞でいうならベタ記事どまりというのが妥当なところだと思います。

でもだからといって別にこの事件を取材することが若手の記者にとってまったく無意味だといっているんではないんですよね。地道に聞き込みをして、警察副署長などの関係者から捜査情報を聞き出したりして、ときにはじっと機会を伺いながら待ち続けるというのは恐らく記者としての基本動作としては決して他の取材とさして変わらないのでしょう。

だからデスクも「こんな取材もろくにできないで、大きな取材ができるわけねえだろ」なぞと檄を飛ばすのかも知れません。しかし普通に考えればジャーナリスト志望で志が高ければ高いほどこういう取材はアホくさく思えてしまいます。

じゃあなぜそれでも取材しなければいけないかといえば、それは多くの人が興味を持っているからであり事件の顛末を知りたいからです。でもここでいう「知りたい」というのはやはり報道を語るときに使われる「知る権利」とは明らかに異なるものでしょう。

少なくとも私自身に海老蔵さんの酒癖や殴られた場所の詳細を知る権利はないと思っています。興味があるかないかは別にして。

「でも興味がある人がたくさんいるから報道するんだよ」というのかも知れません。興味がある人がたくさんいるからそれに応えるというのは一つの姿勢かも知れませんが、それは「報道」と呼べるのでしょうか。

ここは難しいところで「事件」の価値をどう評価するかで変わります。「海老蔵さんが傷害事件の当事者になった」というのはあるいは報道するに値するかも知れません。しかしその詳細を「ニュース」として長時間割いて報道する価値はないのではないでしょうか。

ではどこで線引きがされるのかというのは難しい問題だとは思いますが、昨今「長時間割いて報道」という選択肢を選ぶ方に境界線が傾斜しているのではないかという気がしています。

そしてその理由はなぜだろう、と考えると真っ先に思い浮かんでしまうのはニュースショーの存在なわけです。もっと具体的にいってしまうと「ニュースステーション」の成功の功罪です。

それまでの報道番組には「ショー」の要素はありませんでした。しかし久米宏をと登用した「ニュースステーション」は「ショー化」することによって完全にニュース番組を変えてしまいました。

それは必ずしも悪いことばかりではありません。わかりにくいニュースを色々な工夫を凝らすことによってわかりやすく伝えたり、ニュースに関心の低い人にも興味が湧くような形で争点を伝えることをしたという功績はあると思います。

しかしやはりショー化することによって「報道」としてのクオリティーがどこまで担保され続けるのかという問題は発生しました。つまり「事実」を「正確」に伝えるというミッションに加え「視聴者」の興味を引くという要素が加わってしまったので、どうしても全体の印象としては「事実」と「正確」の強度が相対的に弱体化しているように見えるという欠点があるということです。

恐らく「報道」のクオリティーの担保ということは制作サイドもとても気を使っていたところではあるのでしょうが、専門の訓練を受けていなかった外部プロダクションがこの番組を作ったということが強度の弱体化になんらかの影響を及ぼした可能性はあります。それまでの報道番組はテレビ局の報道部の聖域だったのが、この番組は外部プロダクションへの外注によって作られたのです。

いずれにせよ「ニュース」と「トピック」の線引きが曖昧になったり「報道」と「ショー」が一緒くたになったりするのはどうも問題じゃないかと思うわけです。

別に海老蔵事件の話題をテレビで流すことが悪いとは思っていません。興味を持つことが下世話でよくないという気もありません。でもそれは「ニュース」じゃないんだよ、という自覚を人々に促す必要があるとは思うんですよね。

そうしないと若い人が海老蔵事件を報ずることをジャーナリズムだと勘違いしてしまい、権力の監視者としての正しい報道機関が育たないのではないかという危惧を持ってしまいます。

昨今、検察問題が露呈し記者クラブの弊害などもとりざされている中、しかるべき訓練を受けたジャーナリズムの本質を理解した記者の存在はますます必要性を増してくるのではないかと思っているのです。

とまあ、つらつらと書き連ねましたが、そもそも日本でどこまで海老蔵事件が「ニュース番組」で取り上げられ、その取材陣に報道部の記者がどこまで駆り出されているかもわからずに想像だけで書いてしまっているので、我ながらちょっと「ぼんやりしてんなあ」という内容になってしまったのですが。

what's "my wife's camera"?

2010-12-11

愛機。



また例によってラジオ番組のPodcastを聴いていました。するとあるエレクトロニクスメーカーのCD(クリエイティブディレクター)が携帯電話のデザインなどについて語っていました。

いわく「昔はクルマやオーディオなど『愛機』と呼ばれるものが多くあったが、最近はそういうものが減ってきた。代わりに携帯電話が『愛機』のポジションを占めてきているから・・・」そういって広告代理店の人が並べそうなもっともらしいキーワードをいくつか挙げ携帯電話のデザインについて語り始めたのです。

このPodcastを聴いたときは何かをしながらぼんやり聴いていたので発言者のプロファイルはわからなかったのですが、瞬時に「それ、全然違うんじゃないの」と思ってしまいました。

クルマやオーディオを「愛機」と呼ぶのは一種のフェティシズムでハードに対する執着です。たとえばRX-7というクルマに乗っていて愛着を持っていても、RX-7ならなんでもいいというわけではありません。自分が乗っているRX-7がいいのです。つまり個体に対する執着です。

もちろん携帯電話にもそういうところがなくもありません。ケイタイをデコるのは要するにそういうことでしょう。でもそれは変質しつつある携帯電話の本質から見ると間違いなく亜流の議論です。

2010年を「スマートフォン元年」と呼ぶ人もいるようですが、携帯電話がスマートフォン化するということはよりプラットフォームとしての色彩を強めていくということです。つまり端末自体にはデザインとか操作性しか求められない。より大事になってくるのはそのプラットフォームに何を乗せられるかということです。

言葉を換えれば現在の携帯電話にとって大切なのは「デザイン」と「操作性」と「何ができるか」です。そしてスマートフォン化によりどんどん「何ができるか」の部分の比重が大きくなってきています。

私はiPhoneを使っていますが最早端末自体にはあまり執着がありません。今は3Gですが、誰かが「iPhone4があるからあげるよ」といったら喜んでそちらを使います。つまり端末自体は「携帯電話」の本質ではなくなってきており「ガワ(=外箱)」に過ぎなくなってしまったということです。利用者にとってより大切なのはどういうアプリで構成され、どういうデータが入っているかということになってきています。そしてそのコンポーネントやデータは「ガワ」が変わっても簡単に移植させることができます。

スマートフォンを使ったことのない方にわかりやすく説明すると、携帯電話をロボットだとすると端末はロボットの「本体」であり、コンポーネントやデータは「魂」だということです。そして現状では私たちの生活をより快適にしてくれるのに「本体」そのものよりも「魂」の占める比重が大きいのです。

つまり消費者はいざとなったら簡単に「本体=(端末)」は捨てる。でも「魂(コンポーネント、データ)」は死守したい。そういう状況になってきているわけです。それは端末メーカーにとってはしんどいことかも知れませんが、それが現実でありそしてそれを誰よりも理解しているのがメーカー自身であるはずです。

にも関わらず「愛」だとか「不安」だとか「愛機」だとかいかにも広告代理店からプレを受けたような言葉を日本のトップレベルのメーカーのCDがならべてお茶を濁そうとしている現実に危機感を覚えるのです。

私はiPhoneユーザーですが、そのことはAndroidを否定するということではありません。私がiPhoneを支持している理由は三つです。一つ目は現時点で最高の端末だと思うから。二つ目が個人的にSteve Jobsが好きで彼の考え方に賛同するから。そして三つ目が「何ができるか」というアプリケーション面での優位性をできるだけ長く保ってもらいたいからなのです。

三つ目のことを言い換えると「今Appleが圧倒的に多くの素晴らしいアプリケーションを提供しているから、自然素晴らしい新規参入者も集まってくるけれども、もしAndroidが力をつけたらAppleよりもAndroidによりいい開発者が流れていっちゃうかも。そうしたらAppleユーザとしては不便だなあ。ならばAppleにしばらく覇権を握り続けてもらいたいや」ということです。

しかし同時に一日本人として日本のメーカーにも頑張ってもらいたいとは思っています。ガラケーの束縛から解けスマートフォン市場についに参入してきたのは素晴らしいことだと思いますし、世界中が羨望する端末を開発してくれたら面白いなと思っています。

ただそれはメーカーが単独で頑張ってもできる時代ではなくなってきています。デベロッパーやアプリ開発者などを巻き込んだエコシステム(=生態系)で戦わなければいけません。そして正面からそのことに取り組まず言葉遊びに終始して消費者を煙に巻こうという態度では間違いなくAppleと互角に戦うことはできません。

日本のメーカーが画期的なAndroid端末を開発し、Appleが慌てふためき世界中のガジェットギークが競って持ちたがる日が来て、日本全体が活気づいたらいいなと夢想します。それはソニーであっても、シャープであっても、パナソニックであってもかまいません。とにかく逃げずに正面からこのAppleの独壇場に切り込み、日本企業の技術と秩序とジャパンクールのアイディアのすべてを導入し真剣に戦って欲しいのです。そうすれば必ずやいつかまた先頭を走る日本企業もでてくるはずだと信じています。だからレトリックに逃げないで欲しいのです。切に願いますよ、NECさん。


what's "my wife's camera"?

2010-12-10

センパイ-コウハイ。




まあ、誰しもなんらかのセンパイ、コウハイ関係の思い出はあるでしょう。
憧れのセンパイがいたとか、センパイ風吹かせる上級生が鬱陶しかったとか。

もちろん私にもあります。私の通っていた学校は中学高校と一貫の上、多くの部活が中学生と高校生が一緒に活動していました。数ヶ月前まで小学生だった中学一年生にとって高校生はオジサン以外の何ものにも見えません。

だから高校生は皆モノ凄く怖いと思っていました。しかし卒業してから私が中学一年生のときの高校生に会うと記憶にあったよりも身長が低かったり、意外と引っ込み思案な人がいたり。

そうして酒を酌み交わすと却ってこちらがおっかながられたりすることもあります。時間が立てばセンパイコウハイ関係なんてそんなものなのかも知れません。

でも中には変わっちゃいけないというか変わって欲しくないセンパイコウハイ関係もあります。

たとえば私が所属していた運動部のOB会で集まって飲み食いしたとき「おし、じゃあ昭和卒のOBは1万円、平成卒のOBは3千円な」となったりしていました。

今から6,7年前の話ですから平成卒のOBでも40を超えている人もいるわけで、場合によってはメンバーの中で一番の高給取りもいたかも知れません。昭和卒の方でも何かと入用で、普通に飲み食いしたら5000円で済んだのに倍を払わなければいけないのは正直言ってしんどいという人もいたでしょう。

でもそういうのは関係ないんです。社会の中での地位とか立場とかはすべて全部うっちゃってセンパイはセンパイでコウハイはコウハイ。これはなかなかいいものです。

こういう関係は男性のホモソーシャルな社会にありがちです。特に学生時代の部活とか、上下関係の厳しい会社の部内などの同質性の高い関係により多いかも知れません。そういう関係がどこか心地いいというのはそこに一切の合理性と利害関係がないからなのだと思います。

センパイとはたった一年早く生まれたというだけでエラそうに振舞う非合理的な存在なのですが、その決して逆転することのない関係性というのが悪くないものなのです。一端その組織の組織の外にでれば得意先とか役職とか社会的地位とか様々のしがらみに縛られます。そしてその力学は時にはひっくり返ることさえあります。

しかし同質なホモソーシャルな世界のセンパイ・コウハイ関係は一生センパイ・コウハイのままです。もちろん時が経って仲良くなってフラットな関係になることもあるでしょう。それでもセンパイ・コウハイという関係自体は変わらない。そしてそのゆるぎない関係性に身をゆだねるのは母胎回帰したかのように心地よさがあるんです。

そういう集団としての関係もありますが、他方で個人間の関係もあります。なんと言うのでしょう「あの人にはいつまでたってもセンパイであって欲しい」というか「手の届かない憧れの人であって欲しい」というか。

しかし自分が未熟なときに抱いた幻想であればあるほど、そういう幻想は危ういものであることも多いわけで、幻想が脆くも費えてそれを乗り越えていくイニシエーションの物語というのも文学ではしばしば見受けられます。しかしそうはわかっていながらも「いつまでたっても目標であり続けて欲しい」と思うセンパイは存在してしまうわけです。

そして当たり前のことではあるのですが、自分自身が誰かにとってコウハイであったのと同じように、誰かも私のコウハイなのです。言葉を返せば私も誰かのセンパイなのです。

これは困ったことです。年端もいかない少年が歳の差だけで私のことを「センパイ」と思ってしまっているかも知れない。過度な幻想を抱いてしまっているかも知れない。参りますね。

そういうとき私たちはどうすればいいのでしょう。馬脚をあらわさないよう、できるだけひっそりムーンウォークでもしながらコウハイの舞台の枠から退場していくのがいいのでしょうか。それとも「オレだって超ショッパイ人生送ってるぜ」と現実をカミングアウトした方がいいのでしょうか。

色々なケースがあるでしょうが、私はそれでもあえてセンパイ風吹かせ続けられればなと思ってしまいます。
「おう、なんか困ったことがあったらいつでも相談しにこい」

そういう男のホモソーシャルな世界観ってときに理解されないんですよねえ。
「すぐそうやってカッコつけたがるんだから、バッカみたい」
いやいや、そこはカッコつけなければいけないところですから。歌舞伎じゃなくても切らなきゃいけない伊達や酔狂はあるのです。





what's "my wife's camera"?

2010-12-09

被害者ヅラをした平和ボケ。



私はグアムに住んでいます。
グアムにはアメリカ軍の基地があるので、当然基地問題に対する意識は高まります。
でもそれは日本で報じられているような「基地があるとキケン、コワイ」というものとは少し違います。もう少し生活に密着した普通の人々の物語として認識されています。

その肌感覚を理解してもらうのはなかなか難しいとは思うのですが、とりあえずふたつの映画を紹介します。それが「American Teen」と「Hurt Locker」です。

前者はインディアナ州のリアルな若者を一年間追ったドキュメンタリー映画で、その中でNBA(アメリカのプロバスケットボールリーグ)にいくかも知れないスタープレーヤーが父親に「スカウトに引っかからなかったらミリタリー(軍隊)だからな」と言われるシーンがあります。アメリカ圏では軍隊にいくのはとても身近な進路のひとつと考えられています(もちろんそれは恩給とか様々な福利厚生があるからです)。

だから軍隊は怖いものだとか、戦争反対とかいうのとはまったく違った次元で受け入れられています。

後者の"Hurt Locker"は昨年のアカデミー賞で6部門受賞している作品なのでご存知の方も多いと思いますが、イラク戦争に赴いている爆弾処理班のアメリカ兵を描いた映画です。

この映画を見れば兵士の多くが殺戮マシーンの傭兵などのイメージとはほど遠い、戦地に赴かざるをえなくなったフツウの青年だというイメージがつかめると思います。

つまり戦争はアメリカ人にとってはとても身近なものなんです。「それはアメリカ人がブッシュ政権以降自ら戦争することを選んだからだろう」というかも知れませんが、世界中の国の中で日本がここまで戦争や国際紛争から遠ざかっていられたのはそのアメリカの核の傘のもとに収まっていたからというのは今さら言うまでもないでしょう。

ここで日本の安全保障政策について論ずるつもりはないのですが、とにかく戦争は世界各地で普通におきておりそして日本もその世界秩序の一部であるということには自覚的であるべきと思うのです。

なんてことを急にいうのも先日気になるコメントをラジオで聴いたからです。
それは北朝鮮の延坪島ミサイル攻撃をうけてTBEラジオ「Dig」のテーマが「今後の東アジア情勢はどうなるの?」でした。

その中でリスナーからのコメントで「もし南北朝鮮間で戦争が始まったら、日本はどのような被害を受けるのですか」というような質問がありました。質問者のプロファイルもわかりませんし、もちろん質問は(英語的意味の)ナイーヴな恐怖心から無邪気に出たものでしょうが、私はとても違和感を覚えました。そしてこの質問をパーソナリティーもゲストも普通に受け止めそのまま回答していたのに驚きました。

「被害(者)」という言葉の裏には当然「加害(者)」がいるわけです。日本が「被害」を受けるということは日本が罪のない無垢な存在であり、何かしらの「加害者」によって言われもなく損なわれるという意味です。

しかし当然そんなことはありません。日本は東アジアでもっとも大きなアクターの一つであり、東アジアで起きるあらゆる国際情勢に日本は無関係であるはずはありません。むしろ何某かの不安定が生じたとき、日本はむしろその安定を保てなかったことの謗りを受けてもおかしくない立場にいるはずです。事実関係はさておき外交的に東アジアで一定のプレゼンスを保ちたいと考えているのなら、そう考えるのが当然です。

++++++

実現の難しさはさておき、平和憲法というコンセプトは素晴らしいと思います。しかしそのコストは莫大です。もし「引き受ける」覚悟がないのなら、安易に「平和」を振りかざし被害者ヅラをしてはいけません。私たちも世界の一部です。世界の平和の責任の一端を担っています。ましてや東アジアの安全保障は私たち自身の死活問題です。

もしその自覚なく南北朝鮮の問題に対して被害者ヅラをしたのなら、日本人は間違いなく平和ボケした民族として世界に相手にされなくなるか、飲み込まれてしまうかのどちらかでしょう。


what's "my wife's camera"?

2010-12-08

ウィキリークス創設者を殺してはいけない。




ウィキリークスの創設者、ジュリアン・アサンジが性的暴行の容疑でロンドンで逮捕されました。

嘘か本当かは知れませんが、合意上のセックスをしたときにコンドームを使わなかったということが容疑の理由らしいのですが、まあ世界中の誰もがそんなことを真に受けておらず「当局は引っ張れればなんでもよかったんだろ」と思っているでしょう。

そういう意味では今回の逮捕を不当に感じ憤っている人も多いことかと思います。しかし私はまずはひとまずよかったと思っています。それはアサンジが生きて見つかったからです。

アサンジ自身もスペイン紙に彼らのグループが生命の危機を感じることがあると語っていますが、それも誇張ではないでしょう。

記事では彼はアメリカ軍の軍人から彼や家族そして弁護士の命にまで関わる脅しを何百も受けているということでしたが、軍関係者はもとより彼ほど世界中の全政府を敵に回した人はかつていないでしょう。とりあえず彼を暗殺してしまおうという勢力があってもおかしくありません。というかどこかには必ずいると考える方が自然でしょう。

Wikileaksのようなものが一度世の中に出てしまった限り、もうこうした流れをとめることは政府といえでもできません。そういう意味でアサンジを殺しても意味がないと思うかも知れません。

しかしこの流れを止めることができなくとも、アサンジや家族や関係者を数人殺すことによってこの流れをかなりゆるやかなものにすることはできます。

アサンジが逮捕された現在、世界各地でアサンジ支援の運動が広がっているようですが、もし彼が狂信的な極右軍関係者に殺され、彼の息子が交通事故で死に、弁護士が自殺し、他の幹部3人が変死体でみつかったとしましょう。

そうしたら声を大にしてWikileaksを支援し続ける人はどれだけいるでしょうか。同じような内部告発サイトを大々的に運営して政府を敵に回そうとする人がどれだけいるでしょうか。間違いなく変化のスピードはかなり鈍化するでしょう。

だからアサンジの身が物理的に無事であるということはとても大事なのです。

勘違いしないで欲しいのは、私はなにもWikileaks的情報公開が善で情報を隠し操作しようとする政府が悪だというのではありません。Wikileaks的情報公開にも人命の保護や安全保障政策上の問題など改善しなければいけないところはあります。また政府が機密を持つというのは国民を守るという観点からもときには必要です。

ただポイントはWikileaks的情報公開の流れができてしまった以上それはもう不可逆だということです。為政者が強権を発動すれば流れは遅くなるかも知れません。それでも流れ自体をとめることはできません。

一度こうなってしまった以上は新しいアーキテクチャを築き上げるしかないのです。外交も内政も今までとは違った形になってしまうかも知れません。機密文書はすべて暗号化してアクセスした人が必ず同定できる特殊アプリが開発されるかも知れませんし、本当の機密はハードコピーだけで管理するという先祖返りさえおこるかも知れません。極端な場合は外交上の一番肝心なところが口約束だけで交わされ一生外交文書として表にでることがないというケースさえありうるかも知れません。

どのように変わるかはわかりません。しかしとにかくアサンジを殺めることによって時間稼ぎをするという不毛なことだけは絶対に避けて欲しいのです。

ジョン・レノンの命日だからといって陰謀史観に立つわけではありませんが、我々市民が民主主義の主人としてきちんと権力を監視しつづけないと権力が恐ろしい暴走をしかねないということは残念ながら歴史が私たちに指し示しているのです。


追伸:こちらのリンクで英ガーディアン紙のネ申企画、アサンジと読者の生Q&Aが読めます。彼の考えを伺いしることができて面白いです。

what's "my wife's camera"?

2010-12-07

バブル期のクリスマス。



私にはオタクの資質があります。一見するといわゆる"オタク"には見えないかも知れませんが多くのオタクに囲まれて育ってきただけに自分の資質はわかるのです。

その私のオタク心を刺激するのがTBSラジオの「文化系トークラジオLife」。月一回の放送で前回11月28日放送分のテーマが「クリスマス資本論」。

マルクスを引っ張ってきて大げさなタイトルをつけていますが、本編のほとんどは「バブルの頃のクリスマスの消費ってすごかったよね、なんだったんだろう一体」というもの。

色々とバブルに踊らされたクリスマス話がでてきたのですが、それらの話を聴き出演者でもっとも若い25歳の社会学者、古市憲寿氏が

「なんでみんなバブルの頃の話をするときに嬉しそうに話すんだろう」ということと
「一体どこからそんなカネが出てきたんだ」という質問をしていました。

それに対する回答がラジオの中であやふやになっていたので、大きなお世話ですが私が勝手に回答を考えてみました。

+++

このことを考えるのにあたり、まずバブル期のクリスマスの消費の中心に誰がいたかということから考えたいと思います。
当時のクリスマスは今以上に「恋人たちの祭典」というコンテクストで喧伝されていました。

そういうわけで当然ながらクリスマス消費の中心にいたのは独身男女となります。もう具体的にいうと「会社の経費を使える独身社会人男性」と「20代前半の女性」でした。

ここでバブルを知らない世代にイメージをつかんで頂くために二つのタームを挙げたいと思います。

ひとつめが「金あまりニッポン」です。
信じられないかも知れませんが、当時はこの言葉がしょっちゅう色々なところで使われていました。

今にして思えば過剰流動性以外の何ものでもないのですが、当時景気のよかった会社には「税金で持っていかれるくらいならバンバン経費を使え」というスタンスのところも少なくなく、独身男性ならばうまくすれば日常の生活ではほとんど自腹を切らずに済ませ、かなりのものを経費に回していた人もいました。

しかもボーナスも今からは考えられないくらいよかったので、クリスマスという勝負の時にはかなり派手に散財することができました。

これが古市さんの第二の質問に対する答えです。

普段会社の経費をかなり使える人が多く、景気がよかったこともありクリスマスという消費時期に人々は今とは比べ物にならないほど金銭的に余裕があった、ということです。

さてここで気になるのはクリスマスがなぜ「恋人たちの祭典」としてそこまで盛り上がったかということです。ここで二つ目のターム「クリスマスケーキ」がでてきます。

当時は「独身女性とかけて『クリスマスケーキ』ととく」というようなことが言われていました。その心は?「25を過ぎて売れ残ったら、価値が大暴落する」。

現代の感覚からは考えられませんが、当時は女性は若ければ若いほどいいというような考えがあり、独身女性の結婚マーケットでは20代も後半に入ったら「年増」だと考えられていました。

短大がある程度人気があったのは、より若いうちに就職し会社で結婚相手を早くみつけるため、というような考えもあったからです。だから25歳をすぎた女性は結婚をあせり、あたかも12月25日にクリスマスケーキが半額セールされているような投げ売り状態になるという風に言われていたのです。ひどい話ですが本当です。

男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年バブル前夜でしたから、80年代の後半ではまだ女性の社会進出は進んでおらず女性の仕事といえば「一般職」と呼ばれる「お茶くみ」的なものがメインでした。バリキャリ希望などというのは一部の優秀だけどガンバりすぎの変わり者くらいにしか思われていませんでした。

だから現在のように「30過ぎまでは仕事に打ち込んで、結婚はそれからかな」なんて価値観はありえません。

そうなると結婚をしたい女性の勝負は俄然20代前半です。彼女たちはまだ若くて世間知らずの部分があるので自然結婚観も夢見がちのものになります。白馬の王子を待つというか。

その女性たちの願望と、彼女たちにアピールしたい小金を自由に使える独身男性の欲望がぶつかり、そこに消費を喚起したいメディアが油を注ぎスパークしたのがバブル期のクリスマスでした。

ではなぜ人々はその時代を嬉しそうに語るのでしょうか。

当時はもちろん全体的に景気はよかったのですが、実際にバブルをバブル的に享受していたのはごくごく一部の人です。でもメディアが煽った結果、お金がなくても皆それに乗っかりたいわけです。

だから六畳一間で暮らしているお金のない学生も一生懸命バイトをしてクリスマスだけはきらびやかな時を過ごしたいと思うのです。

つまりクリスマスは地味なケの日常に対するハレの舞台なわけです。

祝祭を振り返って人々が楽しそうに語るのはむしろ当たり前なわけでそれは今でも人々が大阪万博のことを語ったり、「97年のフジロックはすごかったよねえ」と参加者がついつい言いたくなってしまうのとなんら変わりがないわけです。

だから人々はバブルを嬉々として語ってしまうのです。

+++

いささか話はそれますが、番組中誰か(日経BPの柳瀬氏だったか)が言っていました。
「バブルを語るバブル世代は安保を語る全共闘世代に似ている」と。

なるほど。なかなかうまい。


what's "my wife's camera"?

2010-12-06

なぜITトレンドについていかなければいけないのか、から転じてイジメ問題ふたたび。



今日は「なぜITトレンドについていかなければいけないのか」という話をビジネスの話を通じてしようと思っていました。

今から15年くらい前でしょうか、PCの普及期には「オレはコンピュータなんてできなくても仕事ができるからいい」と豪語したり「eメールなんてものは無味乾燥で人間的なコミュニケーションじゃない」なんていったりしてIT技術から逃避するおじさんたちが沢山いました。

彼らはそうは言っていたものの恐らくそのうち使わざるを得ない状況に追い込まれ、大変な努力をしてキャッチアップせざるをえなかっという事実や、現在マーケティングや宣伝の仕事をしたいのならSNSやTwitterなどの本質的性質がわからないと話にならないということを具体例を挙げて説明し、好もうが好むまいがこの移り変わりの早いITトレンドにキャッチアップし続けなければいけないというようなことをもう少しくどくどと書こうとしていました。

しかし今日の昼間友人のTweetを見てちょっと書く内容の方向転換をすることにしました。

そのTweetはNYタイムズのネット上でのいじめについて書かれた記事を悲嘆するものでした。

記事は実際にあったFacebookでのなりすましによるイジメの問題を取り上げ、それに対する親の対応、ネットいじめに対する対策、そして自分の子供がネットいじめの加害者だった場合のケーススタディーにも言及しているよく取材された6ページにもおよぶ包括的なものでした。

にべもなく総括すると「これって日本で起きているプロフのなりすましイジメとまったく一緒。世界中イジメはどこも変わらないんだなあ」ということと「サイバーいじめといっても結局は通常のイジメと本質は一緒だよなあ」という感想でした。

しかし一歩踏み込んで考えるともう少し厄介な問題があります。まず38歳の私がこの記事を読むと自然親の立場になって考えてしまうのですが、もし自分に年頃の子供がいてネットいじめの被害にあったと仮定します。このとき自分がとてもネットとかに疎く、ITリテラシーが低かったらどうでしょう。

子供がイジメにあっているというだけで親なら誰しも慌てふためくと思います。しかもそれが自分にとってまったく未知の理解不能のサイバーの世界で行われているとしたら。親の絶望と無力感は察してあまります。

このBlogを読んでいる方はその時点でITリテラシーがある程度以上あるわけですが、中には「パソコンは週に一回開くか開かないか程度。メールはすべてケイタイ」という人も少なくありません。そういう方は普段「うちの息子はケイタイでかちゃかちゃやっているけど何が楽しいのかしら。もう少し表で元気に遊んでくれた方がいいのに」程度にしか思っていないかも知れません。

そういう人にとってSNSとかプロフの世界を理解するのは容易ではありません。特に子育てに奔走され、ネットにアクセスをする機会があまりない方なら尚のことです。

でも実際に自分の子供がイジメにあった。そうするとまずは自責の念に駆られるでしょう。「私が放任せずにちゃんと管理していれば彼を守ってあげられたかも知れない」とか、「彼女のプロフをきちっと見ていればもう少し早くイジメのサインを汲み取ってあげられたかも知れない」とか。まあ実際は子供はそういうコミュニティーへの大人の関与を何よりも嫌うのでリテラシーが高くてもどうかなったとは限りませんが。

しかしいずれにせよそうなると過剰対応してしまうことになりかねません。NYタイムズの記事では警察のサイバー犯罪のスペシャリストのところに駆け込みます。その判断が良かったのか拙かったのかの結論は記事では書かれていません。しかし一つの解決をみたと同時にそれなりの遺恨を残したということも書かれていました。

ここで今一度私の最初の感想に戻りたいのですが、ネットいじめも普通のイジメも本質は一緒です。イジメはときに警察権力を介入させてでも阻止しなければいけないこともありますが、下手にそういうものに頼ると子供がより孤立してしまうこともあります。その匙加減は実際とても難しいと思います。

でもITリテラシーが低いと、その匙加減を間違えやすくなってしまうのではないかと危惧してしまうのです。

そもそもネットいじめはイジメの中でも証拠があがりやすいものだとされています。少なくとも現在は小学生、中学生がネット上でのなりすましをするためにルクセンブルクやスウェーデンのサーバを経由させるようなコはほとんどいないでしょうからIPアドレスをたどれば日常的ないじめなら犯人はかなりの確率で特定できます。

つまりイジメられっこも学校に対してカードを持っているわけです。「本気になって捜査してIPアドレスをたどれば確実にあなたの学校の中から加害者がでますよね」というカードを。このカードを持っているか、いないかの差は大きいのです。実際にこのカードを切ることがなくてもきちんと持っていることを自覚できていれば交渉は有利になります。

たとえばNYタイムズの記事によるとFacebookなりすましイジメの被害にあった親御さんが学校に掛け合っても「それ(Facebook)は課外での活動ですから学校側といたしましては責任を負いかねます」的な対応をされたということでした。

そういう風に言われたときに泣きに入りするか警察にすがるかしかない状況と、もう一声「それでは出るところにでてIPアドレスを割り出してもらいます。警察に依頼すると起訴せざるをえなくなるかも知れませんがよござんすか」といえるカードがあるかないかで学校との交渉は全然変わってきます。IPアドレスから犯人が特定できれば学校は「調査の結果、イジメはありませんでした」などととぼけることはできないわけですから。(NYTの記事ではいじめられた子供の親は起訴の覚悟があるかと実際警察に問われていました)

私自身はまだ親という立場を経験したことはありませんが、もし自分が親であるのなら子供のことを全力で守りたいのではないかと思います。しかしその時、自分に交渉の武器がなかったがために子供に辛い思いをさせてしまったと後になって気づいたとしたらその後悔の程は計り知れません。

++++

繰り返しになりますが、ネットいじめの本質はイジメの本質そのものです。そこでイジメが発生しているからといってネットを糾弾するのは明らかに間違いです。それはたとえばコピー機を使って誹謗中傷のビラを作ってイジメをする人がいるからコピー機はけしからぬものだ、というのと同じです。

ネットというのはもはや社会のインフラとなっています。所与のものと考えた方がいいでしょう。経済活動もそれを抜きにはもはや機能しないというのは冒頭で述べたとおりです。

そういう状況でイジメに対応するには有効なアーキテクチャを構築するしかありません。そして有効なアーキテクチャを構築したり活用したりするにはそれなりのシステムに対する理解が必要です。

++++

今回はたまたまイジメの問題から考えましたが、ネットが便利で社会に入り込めば入り込むほどあらたな問題はどんどん発生してくるでしょう。イジメよりもさらに進んだネット犯罪もあるでしょうし、ウィキリークス的な問題もそこに含まれるかも知れません。

しかしこれからどのような問題が生じようとネット社会は所与と考えざるをえないでしょう。しかも技術的にもプロトコル的にもどんどん進化して形を変えていきます。

もしあなたが自分の家族を守りたいのなら、ビジネス上いくらネットリテラシーが要求されなくてもやはりITトレンドにはキャッチアップし続けなければいけないのかも知れません。


what's "my wife's camera"?

2010-12-05

メールの力。岡山との友情。



中学高校の同級生に陶芸家になった友人がいます。高校時代は同じ塾に通っていたという程度でいつも一緒というわけではなかったのですが、卒業して彼が陶芸家になったということを意気に感じて応援しているうちに生涯を通じての大切な友だちになっていました。

彼は東京と名古屋を中心に個展を開いていたのですが、最近活動の範囲を広げ様々な地方都市で個展を開くようになってきました。

10月には神戸大丸で個展をし、そして11月には岡山天満屋で個展がありました。

神戸の個展は久しぶりに顔を出すことができたのですが、11月の岡山にはさすがにグアムから行くことはできません。

そこで毎年岡山からグアムに遊びに来てくださるグループの知り合いに「友だちが天満屋で個展をやるのでよかったら冷やかしてください」と図々しくもメールを出したのです。

すると果たして彼は個展に顔を出してくれたどころか、個展の最終日に同じグループの方のご自宅に友人の陶芸家をお招きくださり宴を開いてくださったのでした。

+++

その岡山のグループが一昨日からグアムにまたいらっしゃいました。そして一昨日の夜、またいつものように彼らのグループと我々グループが一緒に夕食を楽しむ機会がありました。

これまでも私は数年彼らと一緒に同様の会食に同席していたのですが、今年は少し心持ちが違います。

やはり親友がお世話になったということもあり当然お礼の挨拶から始まりました。彼らとはグループとグループ同士のつながりという側面がこれまではあったのですが、今年はずっと近しく感じられたのです。何というのでしょうか、これまでのどこか組織同士の儀礼的なつながりからとても親密な個人的な関係になったというか。

それはとても気持ちの好い感覚でもあります。四十近くになってまた新たな「つながり」を感じるというのは悪くありません。

そしてその関係はすべて「今度友達が岡山で個展をするのでよかったら冷やかしてください」という一本のメールから始まったのです。

高校時代の友人と岡山の友人がつながり、そして私も岡山の友人をより近しく思える。たった一本の短いメールから。

++++

メールというコミュニケーションの不備を指摘する人はたくさんいます。そしてその指摘が正鵠を射ていることもあります。しかし同時にこういう風に新たなつながりを築いてくれたり、つながりを強化してくれたりもするんですよね。

最早正面きってメール文化を否定する人もいないでしょうけれども、それでも「メールって人間らしくない」と思っている人はいるでしょう。

でも今回私が岡山の方々に抱いた親近感は一本のメールあってこそだと思うのです。


what's "my wife's camera"?

2010-12-04

ソニーは倒れたままなのか。




今の若い人には今ひとつピンと来ないかも知れませんが、一昔前ソニーというのは憧れのブランドでした。簡単にいうと今のAppleみたいに他社を寄せ付けないカッコよさがありました。信じられない人もいるかも知れませんが本当なんです。

もちろん当時から壊れやすいとか批判はありましたが、町場のトランジスタ工場から世界のソニーに登りつめたサクセスストーリー込みでソニーは他のブランドとは違うというイメージがありました。

アメリカ人が「ソニーってアメリカの会社じゃなかったの?」などとトンチンカンなことをいうと誇らしげな気持ちになったものでした。

その"憧れのソニー"に対して「大丈夫か」、とおもわず心配してしまったことが最近ありました。

+++

私の店の一つではソニーのネットワークWalkmanを使って音楽を流しています。
そのWalkmanは日本で買ったもので、店の雰囲気にあうかなと思う音楽を数多く入れてシャッフルさせていつもは流していました。

しかし12月に入ってThanksgivingムードも落ち着いてきたので音楽をクリスマスミュージックに変えようとし思ったのです。
Walkmanの音楽を管理するには管理アプリ、Sonicstageが必要です。AppleでいうところのiTunesといえばよりわかる人もいるかも知れません。

前回Walkmanに音楽を入れてからPCを買い換えていたので、現在使っているものにSonicstageをインストールしようとしました。しかし、作業をすすめていくと「このWindowsの言語設定ではインストールできません」というようなメッセージがでてきます。

何度やっても同じメッセージがでるので違うPCでやっても結果は同じでした。私のPCはアメリカのネット通販で買ったのでWindowsは英語です。

色々と試行錯誤をしたのですが、インストールが適わなかったのでネットで調べたところやはりSonicstageは日本語Windows以外ではインストールができないということでした。

そこでUS版Sonicstageはインストールできないかと思い、ソニーのUSのサイトへ行くと果たしてダウンロードのページがありあました。しかしそこではまず製品の型番から選ばなければいけません。本体の裏側の小さな文字の型番をみたのですが、日本仕様のためかそこには同じ型番がありませんでした。そこで似たようなものを入れて先に進みました。

すると「この製品は中米でしか使えないものですけれどもいいですか」というようなメッセージがでてきました。なんだか面倒くさかったので適当に別の型番を選んでみると今度はすんなりダウンロードできました。

しかし時間をかけてダウンロードをしたはいいものの、今度はSonicstageがミュージックプレーヤーとしてWalkmanを認識しません。ストレージとしては認識しているのですが、どうがんばってもWalkmanに音楽を転送できません。

というわけで私はSonicstageを使ってWalkmanの音楽を変更することができませんでした。

+++++

ソニーが上記のような地域ごとの設定をしているのにはそれなりのわけがあるでしょう。
本体も含めてすべて規格を統一することによるコストカットとデメリットなどを天秤にかけた結果のことでしょう。

ひょっとしたらMoraとの兼ね合いもあるのかもしれませんし、簡単に想像のつくところでは各国の著作権法や流通との問題もあるでしょう。様々な規格を統一するのは難しいことなのかも知れないのかなと忖度してあげることはできます。

しかし、ソニーがライバルと目しているであろうAppleはそれをやりとげています。世界中のiPodの規格は同じはずです。iTunesもすべて同じソフトウェアです。ストアで買い物をしようと思うとやはり先ほど上記であげたような難しい理由があるでしょうから各国ごとに品揃えは違いますし国別のクレジットカードが要求されますが、それはあくまでWeb上での話でアプリケーション自体には差はありません。

消費者にとってどちらが利便性が高いかは明白です。ひょっとしたら規格を統一することによって却って高くついてそれが価格に跳ね返ってしまうという事情があるのかも知れません。だから「値段を抑えることを優先させよう。どうせマルチ言語環境で使うひとの割合なんてそんなに多くないのだから」というマーケティング的プラグマティックな判断をくだしたのかもしれません。

しかしそれは確実にソニーのブランドを損なってしまうと私は断言します。
そもそもインターネット社会というのは国境を弱体化させる社会でもあります。つまり少なくとも商業的には人々にできるだけ国境を感じさせてはいけません。どこにいてもシームレスにストレスなく同じサービスを提供することはとても大切です。

そして実際に国境を越えて飛び回る人にはオピニオンリーダーの比率が少なくありません。彼らに対してアピールできなくてはマスのフォロワーを得るのも難しいでしょう。

でもそれ以上に大きいのは理念的な問題です。かつてソニーは国境をも超えた日本の枠を超えた未来企業なのではないかと思って熱狂したわけです。そのソニーが自ら国境を強化するようなことを平気でやっていることに私たちは絶望するのです。

ある世代の日本人にとってソニーは新しい日本の象徴でした。しかしこのままではAppleに対抗するどころか、会社の存続さえ危ぶまれることになりかねません。

ヒーローでもヒールでもいい。私たちはとにかくソニーが力強く立ち上がる姿がみたいのです。



※追記: 音楽はBeat Jamというサードパーティーのアプリケーションを使い無事転送することができ、うちの店にもクリスマスは訪れました。


what's "my wife's camera"?

2010-12-03

2000-2010 ヒット商品ランキングとiPhone。



日経トレンディーネットのPodcastで「ゼロ年代ヒット商品ベスト10」という企画がありました。2000年から2010年までのヒット商品ベスト30をさらにランク付けていこうというものなので、正確にはゼロ年代プラス2010年なのですが。

2000年といえば「2000年問題」が話題になった年ですし、翌2001年は9.11テロの年。その辺りのものから今年のヒットの中から選りすぐってランキングをつけるのですから、これはなかなか面白いです。
ランキングについては実際Podcastを聴いて頂いたり、日経トレンディーのWebで見て頂いた方が楽しめるでしょうから詳細はここでは記しませんが、ひとつだけ。

実は10位以内にiPhoneが入っていなかったんです。個人的にはこの10年間で一番私の生活を変えた商品はiPhoneでしたし、世の中iPhoneだらけというイメージがあったのでちょっと驚きました。(ちなみに本誌ではベスト30まで、無料で会員登録してみられるWebでは100位まで掲載されているようなので、さすがにそのどこかにはランキングされているとは思いますが)

「なんで入っていないんだろう」当然そう考えました。そして出した結論というのは「iPhoneの普及は日本ではアメリカより2年以上遅れたし、2010年になってようやく『スマートフォン元年』と言われるようになったくらいだから、iPhoneはまだ一般にはオシャレイメージが先行していてその革新性というのは理解されていないのかなあ」というものでした。

それでは私が考えるこの10年間のベスト商品はなんだろうと考えてみました。当然iPhoneに決定すると思いきやこれが違ったのです。

++++

私は昔からPDAなどのガジェットが好きで、10年以上前からシャープのZAURUSソニーのCLIEなどを使ってきたので2007年ににSteve JobsがApple WorldでiPhoneを発表したときは「これこそが究極のガジェットだ」と感動したものでした。

しかしそれから一年経って、iPhone3Gの発表をPodcastで見たときは私は思わず膝を打ってしまい、仲のいい友だちにメールしてしまいました。

それはこういう内容でした。

「iPhoneは私が待ちわびていた理想のガジェットだけれども、Appleの最終兵器はiPhoneではない。Appleが他のエレクトロニクスメーカーの追随を許さない最大の武器は"iTunes"だ」と。

たしかにこのときすでにiPhoneはスーパーヒット商品でした。しかしそれだけですとただのヒット商品を出したメーカーにすぎません。でもiPhoneがスゴイのは自由に進化し続けることができるからです。つまりはアプリをどんどん好きなように入れることができるということです。

今でこそどのスマートフォンもアプリの充実度が大事とされていますが、iPhoneがでるまではそういう発想はありせんでした。ある程度の機能がプリインストールされているか、必要に応じてWeb上のアプリを使う程度でした。

しかしiPhone以降は携帯電話は自分が使いたい機能をすべて詰め込み持ち運べる端末になったのです。電話、アドレス帳、スケジュール帳、計算機、カメラ、ネットアクセスはもちろん地図、時刻表、辞書、ゲーム、動画編集、表計算、プレゼン、とにかくPCでできることはすべてiPhoneでできてしまいます。
そしてそれを可能たらしめるのがiTunesからつながるAppストアなんです。

この流れでもうおわかりでしょうが、私がこの10年間で一番すごいと思っている商品はiTunesなのです。

でもこれはiTunes storeが人々の生活を便利にしてくれるからということだけが理由ではありません。
そこにはAppleの恐ろしい戦略が見えるからです。

iTunes storeでは色々なものを買うことができます。TV番組や映画、アプリやゲーム、電子書籍もそうです。こういう事業を始めること自体はひょっとしたら誰にでもできるかも知れません。しかし何といってもiTunesは世界最大の音楽ソフト販売チャネルなのです。世界中のどのCDショップチェーンよりも音楽を売っています。

iTunesはすでにお客さんをたくさん持った店舗ということですよね。しかもそのお客さんたちはiTunesを通じてショッピングすることに馴れています。つまり買い物の仕方を知っているお客さんがうじょうじょしているいるところで別の商品を本格的に売ろうとしているのです。

そういう意味ではAppleはエレクトロニクスの会社にとどまらず小売にも本格的に手を広げたということになります。

そう考えるとiPhoneというのはひとつのとても便利なガジェットであると同時に、iTunes storeで売られている商品をより魅力的にさせるためのツールでもあるともいえるのです。

だから別にAppleはiPhoneにこだわる必要はありません。iPadでもなんでもいいのです。iTunesを通じてコンテンツが熟れ続ければそれでいいのです。その証拠に最近になってMacでもApp Storeをオープンさせました。

これコンテンツプロバイダーにとっても魅力的です。個人でアプリを制作して販売し大儲けしたという話を聞いたことはありませんか。iTunesならそれも可能です。

たとえばある個人が単純だけれどもとても面白いゲームを開発したとしましょう。それをソフトウェアメーカーに買い取ってもらおうとしたら大変な手間隙になります。買取なのかコミッションなのかから始まって面倒くさい契約手続きがあります。個人だったら足元もみられるでしょうし、そもそもどんなに面白いものができても先方の窓口となる担当者にセンスがなく門前払いされることもありえます。

そういう手間隙がいやだから自分でホームページを立ち上げてもアクセスはそれほど期待できませんし、決済とかセキュリティーの問題も厄介です。それがiTunes storeの簡単な審査さえ通れば30%の販売手数料を取られるだけですべて解決します。

簡単に試算してみましょうか。たとえば大ヒットアプリを開発して、100円のアプリが全世界でiPhoneとiPadを持っている人の100人に1人、1%が買ったとしましょう。すると3000万円以上の収入になります。

そして事実そういう人はいるのです、わずか2ヶ月で25万ドル儲けた人もいるわけです。

となると自然と我こそはという人がiTunesでソフトを売ろうとする。もちろんアプリだけでなく、音楽でもそうですね。その結果玉石混交になるかも知れませんが、iTunesにはソフトがどんどん集まってくる。

利用者は検索をしてレイティングなどを見てから買えばいいわけですから、下手をすれば店舗で買うよりも堅実に買い物ができる。

さらに利用者にとって「音楽はMora、本はAmazonかeBookJapan、ゲームは・・」と考えるよりもすべてiTunesで管理できた方が楽なので過度な値引き競争に参加する必要もない。

これがiTunesなわけですよ。そして間違いなくAppleの経営陣はそこまで考えて戦略を練っているはずです。

世界でもっともクールなエレクトロニクス&コンテンツデストリビューティング(配信)カンパニーの標榜です。

「コンテンツの時代」と言われるようになって久しいですが、まさに世界最大のコンテンツの送り手にほとんどなりかけているのです。自分たちはiTunesという維持コストが限りなくゼロに近い店舗を用意し、そして世界中のトップクリエイターにコンテンツを供給してもらう。

コンテンツプロバイダーにとってiTunesがより魅力的になるように、常に尖端の機器を供給するように頑張る。つまりiTunesを中心に世界のコンテンツビジネスを支配するのです。

そう考えるととても腹落ちしますし、少なくとも私はそういう風に思えてなりません。
だから私はiTunesがこの10年間で最強の商品だと思うわけです。

そう考えると他の会社は大変です。エレクトロニクスの会社であれ、コンテンツの供給であれ敵は強力です。
では日本の会社でAppleに対抗できるところはあるのでしょうか。

実はその件に関して昨日ちょっと絶望的な気持ちになる体験をしてしまいました。
そのことについてはまた明日のBlogで書きましょう。


what's "my wife's camera"?

2010-12-02

「最後の一句」とおちょくり文化




一昨日のBlogで日本人は市民革命を経ておらず「お上」に対して無批判だ、という内容を書いたとき森鴎外の「最後の一句」の一節を引きました。

「お上の事には間違いありますまいから」

これこそが表題の"最後の一句"なのですが、表面上の意味は文字通りです。「お上(政府など)の言う事、やる事はエラいアタマのいい人たちが熟考されてのことでしょうから間違いはないでしょう」ということですよね。

私もこの文字通りのコンテクストでこの句を使ったのですが、もちろん小説の中ではそういう単純な意味では使われていません。

というわけで少し無粋になるかも知れませんが、「最後の一句」をちょっと解説。

簡単にあらすじを説明すると、ある船乗りがちょっと出来心で犯罪を犯し死罪になってしまいます。それをたまたま聞き知った長女16歳の"いち"が独断で兄弟姉妹と一緒に奉行所へいって自分たちの命を引き換えに父親を助けてもらおうと陳情に行きます。

最初は大人の入れ知恵なのではないかと奉行所も思い、子供たちを脅して追い返そうとするのですがいちはなかなかハードボイルドで毅然としていて一向に引こうとしない。

そこで奉行の佐佐が本格的に脅しを入れたときにいうのが件の「最後の一句」。

すごいですよね。16歳の女の子が奉行を前にこの肝の据わった皮肉。
江戸時代には少女でさえこんな批判精神をもったコがいたのに(まあ小説の中の話ではありますが)、現代の私たちは「お上」に対して基本的にいいなりになりすぎてませんか、という気持ちを込めて一昨日はあの一節を引いたのでした。ちょっと語るに落ちてしまったかも知れませんが。ちなみにこの作品、青空文庫で無料で読めます。短い話なのでご興味のある方は是非。

そもそもお上に対する批判精神、もっといえばおちょくり精神というのは本来は日本人の得意とするところだったんですよね。少なくとも江戸時代には川柳や狂歌という形で庶民は武士やお上をおちょくっていました。

もちろん現代人も「菅は首相になってから全然ダメだ」とか「自民ももう終わったよ」とか批判めいたことは言いますが、それはむしろ安全地帯からの愚痴みたいなもので、全然引き受けてないですよね。

江戸時代なら下手をすれば打ち首。それでも言わずにはいられない。しかもかなりユーモアのきいた形で。

でも今の日本人はお上がだらしなくても「仕方がない」って感じですよね。早くカリスマのある有能なリーダーが出てこないかなあと他力本願で。一揆をおこしたり、ええじゃないか運動をおこしたりする気概がない。

じゃあ果たして日本人のおちょくり精神は消えちゃったのかなあと考えました。
いやいやまだ残っていました。そう、ネットの中にです。
よく言われるようにネットの情報は玉石混交で本当にクズみたいなものも少なくない。でも中には本当にユーモアのセンスのあるパンチのある一言をかましてくれるものもあるんですよね。

きっと江戸時代だって同じなんじゃないかと思います。私たちは今21世紀にまで残っている川柳や狂歌だけをみていますから「江戸の人はすげえなあ」と思ってしまいますけど、きっと江戸時代にもどうしょうもない箸にも棒にもかからないような川柳ってあったに違いありません。

なんだか暗い話題の多い世の中なので、せめて明るくお上をおちょくるような気持ちの余裕だけは持ち続けたいですね。


what's "my wife's camera"?

2010-12-01

Radikoのいいとこ、ダメなどこ。



みなさんradikoって聞いたことありますか。
要はインターネットを通じて普通のラジオ放送を聴くサービスです。
今年の3月に試験放送が始まって、今日からエリアを拡大して本格始動を始めました。

このブログでもよくラジオ(正確にはPodcastですが)の話題をしていることからもわかるとおり、私はラジオ好きです。小さい頃極度のテレビっ子だった反動というか、テレビの前から離れられない自分に嫌気がさして社会人になってから一切テレビは持ちませんでした。そのため家にいて本を読んでいるとき以外はラジオをつけるという習慣がついたのです。

当時はFMが中心でしたが、グアムにきて日本語が恋しくなってきた頃くらいにラジオ番組を配信するPodcastをAMがたくさん配信するようになり、今ではPodcastは完全に生活の一部になっています。

というわけでわけで私はラジオには頑張って欲しいと常々思っています。しかしこのRadikoにはいい面とダメな面があるんです。

実はラジオ業界は相当な危機状況にあります。昨日のTBSラジオ「Dig」では「ラジオの将来は?」ということを自らテーマにしてしまう程の状況です。その直接的な理由は広告費の減少です。こちらのサイトをご覧いただければわかるとおり、ラジオの広告収入は8年間で3割以上減っています。

ラジオの広告費がすべてインターネットに流れた等この状況に対する分析は色々ありますが、事実としてあるのは若者を中心としたラジオ離れです。彼らの音楽生活はiPodなどの携帯音楽端末が中心でしょうし、車などに対する欲求も極度に下がっているのでラジオに触れる機会がありません。

私が少年の頃はプロ野球が国民的娯楽であり、しかもテレビが試合終了までカバーしないことが多かったので当たり前のようにラジオを聴いていたものでしたが、今は野球人気もなくなりラジオを聴いたことのない若年層が増えているようです。

しかしラジオは聴かないもののラジオ番組を配信するPodcastは一部の若者の間でとても人気があるのです。つまりコンテンツ自体にはそれなりの力があるのに、それに触れてもらう機会がないため新しいリスナーを獲得できずこのままではジリ貧になってしまうという状況だといえます。

それに危機感を持ったいくつかのラジオ局が局の垣根を越えて出資しあってインターネットでもラジオを視聴できるシステムを作った、これがRadikoができた本当のところの理由です。

これは素晴らしいことだと思うんです。もちろんラジオコンテンツという素晴らしいものを守ろうとみんなで一丸となっているということもありますが、実はもう少し複雑な事情が潜んでいます。それは「通信と放送の融合」の問題です。

一般の人はラジオの番組をカーステから聴こうがインターネット経由で聴こうがあまり違いはないように感じられると思いますが、これが法律上では大違いなのです。日本の放送は放送法というもので色々とややこしい規定があるわけです。

でもこの放送法、無線通信を前提としているんですね。作られた1950年にはネットはおろかテレビのNHKの放送さえ始まっていないような時代ですから。そして無線=電波というのは有限なものだから公共性があり、それを使う事業者は公序良俗に反することなどないよう厳しく監督しなければいけないという意味のある法律です。

ただそれは同時に郵政省(現総務省)が電波使用の免許を与える許認可事業という形になり一種の権益事業になってくるわけです。

そのことが引き起こす問題というのは色々あるのですが、ここではそれはひとまず棚上げにしておきましょう。とにかく放送の免許をもっている事業者は既得権益者といえ、彼らからしてみればインターネットなんてほんの10年前まではとるに足らない新参者だったわけですよ。つまり格下と目していました。

しかしこの十年で状況が激変し、ついに既得権益だとか新参者だとかそういう垣根を越えようという動きがでてきているのが今回のこのRadikoの動きなわけです。もちろんラジオ局としてみればそれだけのっぴきならない状況にまで追い詰められたということなのでしょうけれども、先ほどもいったとおりリスナーにとって放送だとか通信だとかの垣根なんて関係ありません。利用者にとって都合のいい形態で気軽に聴ける方がいいに決まっています。

その動きがようやく形になってきたという意味でRadikoは本当に意味があると思います。

でも同時に気に入らないところもあります。
先ほどRadikoがでてきた経緯を本当のところの理由、なんてもったいぶってイタリックまで使って書きましたが、それは本当の理由とは別の建前があるということでもあります。

その大義名分は「都市部の難聴地域対策」です。大都市で高層ビルの多い地域は電波の入りにくいところがあるから、そういう地域のためにRadikoはあると少なくとも最初のうちは言い張っていたのです。

白々しいにも程がありますよね。

実態は先ほども書いたとおり新しいリスナー獲得のため以外何ものでもないでしょう。
でも放送法の問題に加え、著作権の問題もある。ラジオで曲を流すとき聴衆者の数などに応じてJasrac(日本音楽著作権協会)に楽曲使用料を払わなければいけません。ラジオ局の場合は大体事業収入に一定割合をかける包括契約をしていますが、それがネット番組の使用料とは料金体系が違うということもありJasrac問題はなかなか複雑です。

これはあくまでも推測ですが、Radikoに加盟するラジオ局ならびにRadikoを主導する電通がJasracに対し
「このままではラジオ局の広告収入が減る一方でJasracさんも困るでしょう?Radikoは別にネット放送じゃなくてあくまでも『難聴地域』の補完的役割ということにしておくので包括契約もいい条件にしてくださいよ。ひとつRadikoはネット放送の料金体系は適応されないということで。そうすれば将来的にはリスナーも増えて広告収入もあがりますから」
というようなことを言ったとも考えられます。

そういうようなことが重なって結局RadikoはIPアドレスによって聴ける地域を制限しています。もちろん海外在住の私は聴けません。

しかし私がうんざりしているのは私が聴けないからというわけじゃないんです。著作権の問題だってアーティストを守るためにとても大切ですし、放送と通信の融合もとても大変な法整備が必要となります。

だからすぐに完全解禁をするのは無理だというのはとてもよく理解できます。
でもだからといって「難聴地域」云々なんて白々しい理由をつけているようじゃいつまで経っても日本は変わらない。

今日の本放送にこぎつけるまでとても多くの関係者の多大なる努力があったのは簡単に想像がつきます。技術的にはどうってことないようなものでも、様々な法律や利害関係者の交通整理をするために恐らく政治家や官僚を巻き込んで大変な作業になったことかと思います。

だから「『難聴地域のため』とするのが法的にも利害関係者にも一番差しさわりがないので、とりあえずそういう形で船出をさせておいおい状況をみながら適宜調整していきましょう」と言いたくなる気持ちもわかります。

でもそれはリスクを極力とらないようにする官僚的発想です。時代がこれだけ劇的に変わっているんですから、そういうその場しのぎのことをしているとどんどん継ぎはぎだらけの制度になってしまう。例外条項が延々と続くような。

これを解決できるのは結局強い政治的リーダーシップしかないんですよ。大局をみてリスクをとる覚悟で大きなスキームを変えることができるのは。

それが今回なされなかった。その政治力とはこの場合政治家のそれだけとは限らないのですが、とにかく極めて日本的な落とし方がされてしまいました。

「まあまあ、本当のことはみんなわかってるけどさ、ここで敢えてそれを口にしても誰も幸せにならないよ。ここはさ腹芸じゃないけど、ひとつ穏便に済ませるのがみんなにとって丸く収まる方法なんだから」みたいな。

それじゃいつまで経っても日本は変わりません。そういう日本的なメンタリティーを善悪の価値判断で糾弾するつもりはないのですが、これだけネットも発達して経済もグローバル化してしまったのですからそろそろ正しく筋を通すことを日本人全体が覚えないと(それは必ずしもバカ正直というのとも違うのですが)、いよいよ世界から相手にされなくなってしまうんじゃないかと本気で心配してしまいます。


what's "my wife's camera"?

2010-11-30

さらば、バブルよもう一度。




最近、世の中暗い話題ばかりですよね。政治も迷走しているし、司法も行政もどうやら信用できない。

大変な問題が山積みです。でもこれらの問題って実はほとんど機能今日始まった問題じゃない。戦後ずっとあったのに隠れてきた問題ですよね。民主党の政治運営はボロボロですが、それはそもそも自民党政治がとっくに機能不全を起こしていたからでありますし、検察の問題も社会保険庁の問題も今までたまたま露呈しなかっただけでしょう。

じゃあ何で今になって問題が浮かび上がってきたかというとふたつの理由があると考えられると思います。

一つはインターネットの台頭ですね。これにより上杉隆氏のいうところの官報複合体とは異なるアルタネティブメディアが登場して色々な問題が浮き彫りになりました。

たとえば検察問題。今までは記者クラブメディアは検察から情報がもらえなくなることを恐れて彼らが流すリーク情報をそのまま垂れ流してきて、検察に都合のいい世論形成をする後押しをしていたけれども、最近はネットを通じて少数のきちんと取材するジャーナリストの意見も拾われてきているということですね。

そしてもうひとつが景気の問題です。

人間意外といい加減なもので、おかしいと思うことがあっても経済的に充足していれば多少のことには目をつぶってしまう。特に市民革命を経験していない日本人はどうしても「お上の事には間違いはございますまいから」というような意識があるので、権力の監視とかそういう意識が甘い。

つまり戦後、高度経済成長、バブルなどがあり基本的には経済は昇り基調だったので、社会問題が相当棚上げにされてきたということですね。

逆にいうと何か問題があっても「景気さえよくなれば解決する」という意識が日本人には強いように思えるのです。

今でこそ聞くことがなくなりましたが、バブルがはじけてからも相当の期間、2000年すぎくらいまで「もう一度バブル来ないかなあ」というような言葉をしばしば聞きました。

この言葉は古典的景気循環論に基づいて考えてしまっている言葉であって、デフレ時代にはまったく好況と不況は10年周期でかわるなどということは起きないわけです。

ましてバブル経済とは銀行の担保主義と土地神話の上に成り立った過剰流動性の結果なわけですから、それが再来するなんてことはありえない。

でもなんとなく「またあんな景気のいい時代きたらいいなあ」と他力本願的に人々は思っていたんですね。

しかしそれから10年近く経っても景気はよくなるどころか悪くなる一方。途中ちょっとネットバブル的なことはありましたが、デフレが続いていることもあり人々の生活は不安になる一方ですよね。

そしてその間に政治を始め、司法、行政など社会の悪いところがどんどん露呈しだしました。そこに来て初めて人々は「ひょっとして日本やばいんじゃない」と自覚するようになった気がします。

そう、日本はやばいんです。問題は山積してます。そして黙っていたら悪くなる一方でよくならないんです。バブルなんて冗談のようなものはやってきません。

でもそれに日本人が気づいたことはなかなかいいことなんじゃないかと思います。結局、お上とかそういうものに頼らず、国民一人ひとりが社会や政治に参加していくことによってしか日本はよくならないんですよね。

そろそろ私たちもきちんとバブルの幻影にさようならして、みんなで協力しあって社会をよりよくするように頑張っていきましょう。


what's "my wife's camera"?

2010-11-27

王さんと広島カープと親父と。



文芸春秋の王さんのインタビュー記事が面白かったです。
最近でこそサバサバした王さんという実像も出るようになってきていますが、王さんといえばどこか神格化された印象がありました。太陽のような長嶋さんに対して日本刀を振って一本足打法を完成させたストイックな王さんという風に。

その王さんがサバサバと自身の人生や長嶋さんに対してどういう思いを持っていたかについて語っています。中でも国籍の問題で国体に出られなかったことに関するくだりがなかなか王さんらしくていいんです。

いわく甲子園にでられなかったのなら悔しかったろうけれども、国体だったので大して悔しくなかったと。しかしインタビュアーの松下茂典氏が王さんに自著『回想』の中で「今までの四十年の人生で、私が一番傷ついたのは、この時だ」というくだりがあると指摘すると「そんなのあったかなあ」おかしいなあというような様子になるんです。きっと根っからの楽天家なんだろうなあ。だからこそ色々な辛いことを乗り越えて大成してきたのでしょうね。

私が始めて王さんのことを意識したのは日本に帰国したばかりの1979年。知り合いのおばさんの家でのことだ。テレビに王さんが映るとおばさんは「この人はホームランをたくさん打つ人なのよ」と私に教えてくれた。すると果たしてその打席で王さんは後楽園球場のライトスタンドに軽々とボールを運んでしまいました。

当時は王さんに限らず巨人の人気は絶大でした。長嶋さんはすでに引退していましたが、原っぱで子供たちが野球するときはやはり背番号3のサードの人気は特別のものがありました。

しかしなぜだか私は巨人ファンにはならず広島ファンになりました。79年には山本浩二、衣笠、高橋慶彦、大野、山根、北別府などの名選手が揃っていてカープが優勝したということもありますし、たまたまNY時代から知っている家族の知り合いに広島出身の方がいたということもあります。

とはいうものの普通に考えれば巨人ファンになるのが自然だったでしょう。ましてや親父も巨人ファン。当然「巨人はいいぞ」というようなことをそれとなく言ってきたわけですが、私は頑として「カープ」といって聞きませんでした。

当時の私が何を考えていたかよく覚えていませんが、おそらく「親父に懐柔されないぞ」というように思っていたと思います。
しかし恐らく親父にしてみれば懐柔などというような大仰なことは考えておらず「なんでまたカープなんだ、わが息子ながら訳わかんねえなあ」と思っていたことでしょう。

私自身にはまだ経験はありませんが、おそらく全国で子育てをしている親御さんは日々「わが子ながら訳わかんねえなあ」ということの連続なのでしょうね。

文芸春秋の王さんの記事を読みながら30年前の親父の気持ちをちょっと慮ってみたりしました。


what's "my wife's camera"?

2010-11-26

本当にごめんね、Rちゃん。



Rちゃん、いつもブログの感想聞かせてくれてありがとね。
アクセスのスタッツをみて「おお、これだけの人が読んでくれたんだ」と思うのももちろん嬉しいのだけれども、やっぱり生の感想は格別だよね。しかもそれが世辞交じりだったりすると素直に木に登れちゃう。

今日も色々言ってくれてありがとう。すました顔をしていたかも知れないけれども、すごく嬉しかったよ。そしてRちゃんが「今度私の写真も載せて」って言ったとき、「もちろん」とふたつ返事で答えてRちゃんと妻のツーショットを撮ったよね。

にもかかわらず今日はその写真を使わなかった。っていうかトリミングしてRちゃんの左手のピースサインしか残らなかった。ひどいよね。ごめんね。今度ちゃんとRちゃんメインの写真も撮るからね。

でも今日だけは勘弁してね。今日はMy Wife's Birthdayなんだ。
だからRちゃんメインの写真は次回にってことで許してね。

そしてHappy Birthday, n.

t.

what's "my wife's camera"?

2010-11-25

落語のはなし。



先日聴いたPodacastで落語家の春風亭昇太師匠が「トリ」について面白いことを言っていました。

「トリ」というのは紅白の「大トリ」とかのあの「トリ」です。最後の演者のことですね。
落語の寄席でも最後に出てくる人を「トリ」というわけですが、なぜ一番すごい人が「トリ」を飾るのか、という話。

さてここで落語に不案内な方のために少し補足説明をしますと、落語を見に行くとき噺家の名前はチラシに載っているのですが演目は書いてないんですね。それもそのはず、なぜなら演目は噺家が当日のお客さんの反応をみて決めるからなんです。

この辺りのことについても昇太師匠は話をしているのですが、まず噺家はから入る。多くの場合、噺家は二つか三つくらいの演目をカードとして持って高座にあがり、枕を放しながら客層や反応を見てその日の演目を決めるものなのです。

しかも寄席の場合、「トリ」が出る前にすでに何人かの噺家が高座を済ませている。当然被ってはいけないし、人情噺ばかりが多くなってもいけない。「トリ」を務める噺家さんは入りの時間も皆よりも遅いから後から来てその日に話された演目を寄席の「ネタ帳」を見る。そしてその日一日の流れと客層を読んでネタを決める寸法というわけなのです。

となれば、当然後に出てくれば出てくるほど多くのカードを持っていなければいけないわけで、技量も要求されてくる。だからこそ「トリ」を務めるのは大変なわけで、「トリ」を飾るのは必然大物でなければならないということのようです。

なるほど。もちろん興行的な面で人気の噺家さんの登場を引っ張るということもあるのでしょうが、同時にいわれてみれば力量も大切に思えてきました。

となると気になるのは立川流の一門会。彼らは事前にネタ合わせをしているのでしょうかね。一門会で談志以外の人がいきなり芝浜をぶつけてくるなんてことがあれば面白いんですけどね。


what's "my wife's camera"?

2010-11-24

男の三十代。



昨日の誕生日に何人かの仲のいい同級生からメッセージをもらいました。折りしも以前ブログに書いたとおり、「いたいけな秋」的問題意識があったので、38歳というのは人生においてどういう歳なんだろうと、有名人のケーススタディーをしながら考えてみました。

対象にしてみたのはいずれも早咲きの天才たちばかりで、ビジネス界からスティーブ・ジョブスと孫正義。エンターテイメント界からマイケル・ジャクソンジョン・レノン

まあ、詳しいBioはリンクのWikiを見てもらいたいのですが、彼らの三十代というのに共通点が見いだされてとても面白かったのです。

マイケルはご存知のとおり10歳の頃にはスーパースターですし、ジョンも22歳でビートルズでデビューして以来スーパースターまっしぐら。一般的にビジネス界で成功するには時間がかかりますが、スティーブは25歳にはアップルを公開させ億万長者になってます。孫さんも22歳で1億円稼いでいますし、24歳の時にはソフトバンクを設立しているわけです。

つまりみんな30歳を迎える頃には世間的にだろうが、業界的にだろうが大スターなわけですよ。

ところが彼らの年表を追いかけると三十代前半はまず地味なことが多い。スティーブはアップルを追い出された時期で、ピクサーとかでちょろちょろやっていたけれども、今皆さんの知っている破竹の勢いはないし、ジョンはヨーコにべったりの状態で反戦活動にいそしんでいるくらいです。孫さんもビジネス的には大きな達成はこの時期にはみられません。

マイケルだけは一人世界的スーパースターではあり続けるのですが、三十代前半まではいいものの次第に雲ゆきが怪しくなってきます。音楽的な評価が一時落ち、音楽以外での話題が増えていきます。

他の人の三十代後半はどうでしょう。スティーブの三十代後半はわりかし静かに進みます。ただし四十代に入ると爆発します。41歳でアップルに復活し、社内で戦い、43歳でiMacでアップルの復活を世界に印象づけて以降の活躍は今さらいう必要もないでしょう。

孫さんのブレイクはもう少し早く、37歳の年にソフトバンクを店頭公開させ、39歳の年にはヤフーを設立し世間的にも有名になってきます。

ジョンの三十代後半は専業主夫として子育てに専念し、40歳になり音楽活動を復活させようと思った矢先に残念ながら凶弾に倒れます。

マイケルは失速が遅かった分だけ、三十代後半からはいまひとつです。ヒットも飛ばすものの音楽以外でのスキャンダルが増え、児童虐待疑惑などの不運にも見舞われ四十代は本人もあまり納得はいっていなかったのかも知れません。50歳になりThis is itツアーで復活を予感させた矢先に急逝してしまったのは残念です。

というわけで四人のスーパースターを見ると、わりと三十代前半というのは共通して比較的結果の出にくい時期のようです。だけれども本当に実力のある人はそれでも三十代後半から四十にかけて徐々に実力を発揮し、そして浮上していく可能性があるという図式が見え隠れしている気がします。

これらは非凡な天才たちのケースですが、これをあえて私たち一般人に当てはめて考えてみました。

二十代は社会人としてどんどん色々なものを吸収して実力をつけて伸び盛りの時期といえるかも知れません。でも三十代に入ると部下もできたりしてプレーヤーとしては一端踊り場に入る。人によってはこの時期に結婚したり子供が生まれたりする人もいるかも知れません。

そうなるとテンションを保つことが難しくなることも考えられます。
「ま、うまくすると部長くらいにはなれるかも知れないし、今までの経験とスキルがあればこのままの生活くらいはなんとかなるかな」とか考えて。

有名人にあてはめるなら「とりあえず金も名声もあるし、最近の客はわかってないっていうか反応もイマイチだし、なんだか情熱もわかないから後はテキトーに小遣い稼ぎくらいでいいか」といってところかも知れません。

しかしそこでそういう風に消化試合モードに入らないで気張っていくと、四十代に入って大きく化けることもあるかも知れないということなんじゃないかというのが、四人の天才の三十代を考察した結果の見立てなわけです。

つまり三十代後半というのは意外とキャリアにおいて大切な時期かも知れないと。
あたりを見回すと歳の近い友だちはよくも悪くも落ち着いてしまっているようにも感じられます。
四十代で飛躍するためにはここでひとつもう一度バカになって暴れることも大切なのかも知れません。

そんなことを思った38歳と一日の今日でした。


what's "my wife's camera"?

2010-11-23

ゆるやかなつながり。




昨年Twitterが流行り始めた頃、よく「人々は人間関係におけるコミットメントを避けるようになってき、Twitterのようなゆるやかなつながりだけを求めるようになってきている」というような批評をする人たちがいました。

そういうような批評をする人は大抵ろくにTwitterを使ったことのないか使ってもそのメディアとしての革新性に気づくことのできないデジタルアンシャンレジウムだろうと思い、そういう批判はすべて無視していました。

Twitterの魅力というかすごさは偏在する島宇宙が自由に形を変えながら連携して発展させていくということであって、それが既存メディアをも含めた権力への強力なカウンターとなりうる、フラットな時代(市民革命の成就)の本格到来を予感させるというものであるところにあるわけですから。

とはいえそういうことは棚上げすればやはりTwitterがゆるやかなつながりであるというのは一面の真実ではあります。TwitterだけではなくFacebookなどのSNSがなければ一生のうちで二度と会うことのないような中学校の同級生や海外に移住していしまったような友だちともまたつながることはありますものね。

でね、今日は小難しいことをいうつもりはまったくないんです。島宇宙とか権力とかカウンターとかそういうものはむしろすべてうっちゃって言いたいのです。

「ゆるやかなつながりもいいよね」

今日、誕生日を迎えました。
妻と二人暮らしなので妻には祝ってもらいましたが、それ以外にもTwitter,Facebook,メールなどで色々な方からおめでとうメッセージをもらいました。

これがね、正直なところかなりうれしかった。今までもメッセージを頂くことはありましたし嬉しいこともありました。でもなんだか今年はちょっと嬉しさが違ったんですよね。

それは私自身がまじめにブログを書き始め発信をし続けていることと関係するかも知れませんし、TwitterがFacebookやGreeなどと連携していて広がっていることも関係しているのかも知れません。

はたまた私が年を重ね、人々からのおめでとうを素直に受け止められるようになっただけかも知れません。とにかくみんなからのメッセージが本当に嬉しかったのです。

中には本当に大切な人からのメッセージもありましたし、知り合って数日しか経っていないアーティストからのメッセージもありました。でもどれに対してもすべて等しく嬉しい感謝の気持ちでいっぱいになりました。

だからいまだにTwitterやSNSなどにアレルギー反応を示してウダウダ言い続けている人に私は言わせてもらいたいのです。

「いいじゃん、ゆるやかなつながりで」

そして最後に井上陽水と奥田民生の「ありがとう」から引いて言わせてください。


つながってる人も、そうじゃない人も
「みんな、みんな、ありがとう!!」



what's "my wife's camera"?

2010-11-22

【書評】「ヘヴン」(川上未映子著)



*********************************************
「ヘヴン」(川上未映子著/講談社)
*********************************************

川上未映子は神を殺した。

「ヘヴン」は恐ろしい作品だ。それは単なるいじめに関する物語ではない。今回の評はその恐ろしさについて記したい。だからいわゆる「ネタバレ」などは気にせずどんどん書く。内容を知りたくない人はこの評を読む必要はないが、「ヘヴン」自体は是非手に取ることを勧めたい。

簡単にあらすじから。

+++++
十四歳の主人公の「僕」は斜視で、中学で日常的にいじめを受けている男子。「僕」はあるきっかけで女子の中で「汚い、臭い」といじめを受けている「コジマ」と文通をするようになり、ときどき会っては心を通わすようになる。凄惨ないじめはとどまるところを知らぬが、「コジマ」はそれを「すべて意味のあること」と引き受けようとし「僕」に同志としての連帯と同調を求める。ある日、いじめによる怪我をみせに病院にいった「僕」は斜視が簡単な手術で治ることを知る。それを「コジマ」に告げると二人の関係にはひびが入る。「僕」がなんとか二人の関係を修復させたいと思っていた矢先に、「僕」と「コジマ」の関係がいじめっこグループにばれ、さらなる事件につながり物語はクライマックスを迎える。
+++++

さてまずは著者の川上未映子について。「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞し一躍有名になった作家。

彼女の小説は大阪弁をはじめとする独特の言語感覚が特徴的だ。気になる作家ではあったが、あの文体の方が先に来てしまって彼女の本来の価値が今ひとつ計りかねるというようなところがあった。

しかし本作は彼女が恐らくはじめて変化をつけずド直球で勝負した長編小説。そしてその破壊力はかなりのものだ。

あらすじにも書いたし、よく引き合いに出されるが本書では「いじめ」を取り上げている。「いじめ」が描かれる理由は色々あろうがいずれにせよ小説などの創作においていじめがテーマになる場合、その表現は目を覆いたくなるような凄惨なものでなくてはならない。さもなくばいじめの先にある苦悩や人間の本質を描くことなど到底できないからだ。

そういう意味では本作では虫唾が走るようないじめがきちっと書き込まれている。そしてそのいじめの「加害者」と「被害者」の意識レベルの差も見事に表されている。

しかし本書は必ずしも「いじめ」だけを題材にした小説ではない。もちろん「いじめ」は中心に置かれているが同時に「善悪とは」という哲学的な問いかけもなされている。

あまり指摘されていないようだが、本書では主人公の「僕」の他に二人の重要人物がでてくる。一人はいうまでもなく「コジマ」だが、もうひとりはあらすじには名前は登場してこないが「百瀬」といういじめっ子グループの一員だ。

「僕」へのいじめの中心には二ノ宮という男子がいるのだが、「百瀬」はいじめグループの中でどこかクールで超然とした雰囲気を持つキャラクターとして描かれている。

あるとき「僕」は病院の待合室でたまたま「百瀬」に遭遇し、高ぶる感情を抑えきれなくなり思わず彼に詰め寄る。そこで「百瀬」は「僕」の詰問にことごとく反論する。

***
「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」

「放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ」

「君のことをロンパリと呼んでるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であるとかそういったことは関係ないんだよ。君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けてる決定的な要因じゃないんだよ」

「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」

「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」

「僕の考えに納得する必要なんて全然ないよ。気に入らなきゃ自分でなんとかすればいいじゃないか」

「なあ、世界はさ、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ」

***

「百瀬」は答えていく。自分がいじめている相手から一対一で詰問されて応えるにしては異様な冷静さだ。そこで読者ははじめて気づく。「百瀬はジョーカーなんだ」と。

ジョーカーとはもちろん映画「ダークナイト」のジョーカーのこと。

「ダークナイト」でのジョーカーを「血も涙もない残酷な冷血」と描写する人もいるが、おそらくそんな単純なキャラクターではないだろう。ジョーカーは絶対的な善とか絶対的な悪なんてものは果たして存在するのかといテーゼを人々に突き詰めるキャラクターなのだ。そしてそれは色々なところで指摘されるようキリスト教的価値観に対するニーチェ的挑戦である。

「百瀬」はジョーカーだったのだ。善悪という価値判断の世界を超越したひとつの現実世界の象徴なのだ。

このことは本書を解くのに、そして川上という作家を考えるのにおいてとても大切な点だ。川上は哲学に傾倒していたと公言しているが、日本人の小説家でキリスト教的善悪観をニーチェ的コンテクスト上で否定し、これほど見事に小説を構成する作家はなかなかいない。それは同時に「いじめ」というとても根深い問題を善悪という二元論から切り離して考えなけばいけないという川上からの警鐘でもある。

その役割を担った「百瀬」は独特な存在感を持ったキャラクターに仕上がっている。それでも「百瀬」は「ダークナイト」のジョーカーほどの輝きを放たない。なぜなら本書の狂言回しは「百瀬」ひとりではないからだ。「百瀬」との対立軸上の対称に存在するキャラクターがいるのだ。それが「コジマ」だ。

先述のとおり「コジマ」も「僕」同様いじめられっこだ。「僕」が斜視でいじめられているなら「コジマ」は不潔と悪臭で嫌われている。しかし「コジマ」は自分が服や体を洗わないのは蒸発した父親を忘れないようにしているだけだという。そして「コジマ」と「僕」は汚くしているという事実と斜視という事実で仲間としてつながっていると主張する。

「コジマ」はこの主張を教条主義的に、原理主義的に貫こうとする。そしてそれを貫くことによっていじめを乗り越えられると信じている。その証拠に物語が進んでもいじめが改善されないと次は自らを保つことに加え断食に近いことをすることによって困難を乗り越えようとする。

いうまでもなくこれはキリスト教における信仰により贖罪を得ようとする行為に他ならない。その証拠に「コジマ」はいう

「そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの」と。

また断食にまで至り「コジマ」はなんともいえない強さを増していく。信仰の力だ。そして信仰の先にあるのが「ヘヴン」なのだ。

繰り返しになるが本書は単なるいじめの物語ではない。いじめにより「僕」が死をも考えるほどぎりぎりの状態に追い詰められる。ぎりぎりの状態まで追い込まれたとき、つまり生を突き詰めたときに人間が拠るべきは宗教的普遍なのか実存なのかを問うてる物語なのだ。それを神を信じる「コジマ」と実存を象徴する「百瀬」という二人の狂言回しが引っ張っているのだ。

そして本書で川上は明白に結論を出している。

ラストで受難に耐え続けていた「コジマ」の自我は崩壊し、「僕」は純化されたものの象徴だった斜視を捨てるのだ。そうして川上はニーチェばりに高らかに神の死を宣言するのだ。

しかし川上の巧みさはこれだけでは物語を終わらせない。

斜視を捨てた「僕」は何を得たのか。それは立体的な視野だった。物語は立体的な視野を得た「僕」がいじめから抜け出すことを暗示している。つまり「僕」は斜視という肉体的特徴を正すことによっていじめから抜け出すのではなく、立体的な視野を得ることによって初めてていじめに向き合えるのだ。こういう形で小説としてもきちっといじめという題材に決着をつる技量は見事だ。

それでも最後「僕」の目からは涙がとめどなく溢れる。彼が捨てたのは斜視だけではなかった。彼はそれと同時にやはり純化された何かを失ってしまったのだ。そうすることによって今後いじめにうまく立ち向かうことができるかも知れない。しかし損なわれた「ヘヴン」は永遠に取り戻すことができないこともやはり「僕」は気づいていたのだ。


what's "my wife's camera"?

2010-11-21

神様が必要なわけ。




先日風の強かった日、店に行くため駐車場をおりるとちょっと先でレッドブルの空き缶がからから音を立てて転がっていました。拾いにいってゴミ捨て場までいって帰ってきてもたかだか30メートルそこそこでしょうか。

とっとと拾いにいけばいいのですあ、先日5Kランをしているときに足のかかとを痛めてしまい、その距離でも正直ちょっと億劫でした。

「別に誰も見ていないし、店の目の前でもないし、足を怪我しているのだから無理してまで取りにいかなくてもいいか」という気持ちがもたげました。それでも「いかんいかん私が知らん顔をしていては従業員に示しがつかない」と思って足を引きずり気味にその空き缶を拾いに行って捨てました。

当然のことをしたといわれればそれまでなんですけど、正直自分の中で「よく弱い心に負けないでがんばった、オレ」という気持ちになりました。でも誰にもその行為は見られていないし、別に誰も褒めてくれない。もちろん褒められたくて拾っているわけではないんですけど、少なくとも自分の弱い心に負けてそのまま空き缶を放置する可能性はありました。

「ま、いいっか、大したことじゃないし、誰もみていないし」
そういう風に自分を甘やかしてやりすごしていたかも知れません。

そして実際こういう小さな善行って人が見ているかいないかで行われるか行われないかが存外変わってくると思うんですよね。

「誰もみていないから吸殻このまま捨てちゃえ」とか「あれ、ここに誰かカバンを置き忘れているみたいだけど、面倒くさいから私もそのままにしておこう」とか。

やった方がいい、やっちゃダメだとわかっているけれども別に大したことないからついつい自分を甘やかす。他人が見ているのなら体面を気にして普通に行うかも知れない善行でも人がいないとやらない。

こういうとき「神様がみている」とか「お天道様がみている」って考え方はやっぱりいいなと思うんです。というのも結局そういう善行って因果応報というか、自分に帰ってくるはずですから。もっとも卑近なことをいえば実際に誰か影から目撃しているかも知れませんし、そうじゃなくてもそういういい生活習慣が人生に悪いわけはありません。

本来の意味での「情けは人のためならず」。

人は基本的に弱い存在。でも神様がみていると思うことによって少しでもよく振舞えるかも知れない。ならばやはり神様はいないよりもいた方がいい。


what's "my wife's camera"?

2010-11-20

「いじめられた」と思えばそれで「いじめ」は成立するのか。




さていじめ問題、昨日からのつづきです。

高校時代経験したふたつの事件から、「被害者がいじめられたと思えばそれはいじめとして成立している」といういじめの定義に対して心から賛同しきれないという話です。

ある日の授業が終わった後、仲のいい友人で体のデカいTが別の友だちから「おい、ブタぁ、部活いくぞ!」と呼ばれ「おう、すぐに行くから先いってて」といい支度をしていました。するとその友人T(要はデブです)のもとに授業を終えたばかりの先生が慌てた顔をして近づいてきて「おい、T大丈夫か?いじめられているのか」と聞いてきたという話です。

この話はT本人から笑い話として聞いたのですが、たしかに「いじめられたかは被害者の意識次第」という定義ですと、仲のいい友だち同士のふざけ合ったあだ名のつけ方にさえ先生はびくびくしなければいけません(ちなみにTと「ブタ」と言ったKとはテニスのダブルスのパートナー)。高校時代とかってバカなあだ名つけて楽しんだりするもんですよね。長髪にしていた奴は「お前、ジョン・ボンジョビみてえな髪型だな」と言われたのがきっかけで似ても似つかないのに「ジョン」と呼ばれていたし、失敗パーマをかけてきた友人は「なんだそのサザエさんみたいな髪型は」と笑われしばらく「サザエさん」と呼ばれていたりしました。

もちろん呼ばれた方は「やめろよ、その呼び方」とか言ったりしますがそれもじゃれ合いのうち。そういうものにさえ神経質になって生きていかなければいけないのはちょっといかがかというか、そういうホモソーシャルなじゃれ合いこそが学校生活の楽しいところじゃないかと思うのです。それは強者の論理なのかなあ。

それからもう一つの事件はもう少し深刻なものです。
昨日の投稿が思ったよりも反響があったので、事実関係にできるだけ間違いないように詳しく書きます。

ある日の昼休みある友人Xが友だちに話があり彼の席にいきました。Xは通路に立ちその友だちと話していたのですが、話しだすと通路の反対側の机に軽く寄りかかるような体制になりました。その席に座っていた同級生Aはちょうど弁当を食べていたので「おい、邪魔だからどけよ」というようなことをいいました。すると寄りかかっていたXは「ちょっと待ってすぐ終わるから」といって話をつづけました。ふたたびAが「どけよ」といってもXが「うるせえなあ、すぐ終わるから待ってろよ」といった具合に軽くいなすと、弁当を食べていたAがいきなり箸をナイフのように持ち、Xの顔面めがけて突き刺していきました。

幸い箸は目を数センチはずれ、血はでたものの大事には至りませんでしたが目に刺さっていれば間違いなく失明という大変な事件でした。一部始終を近くで見ていた私から見るとどうみても箸を刺したAの行動はあきらかに発作的な唐突さで、正気の行動にはとうてい見えませんでした。

しかしこれには実は裏というか背景があったようで、Aには「いじめの被害にあっている」という被害妄想があったようなのです。彼は親とともに学校側に「いじめにあっている」とクレームをつけていたようなのでした。

あまり軽率なことはいえないかも知れませんが、同級生のひとりとしてみるとAがいじめられていたようには全く思えず、また彼自身とりわけいじめの対象になるようなタイプではない奴に思えました。学校側も事態を深刻に受け止め調査をしたようですが、特に何も散見されずほとほと困っていたようです。しかしいじめの定義が「被害者がいじめられていると思う」ということなら彼はいじめられていたことになります。

ここでポイントは二つあります。ひとつは周囲の誰が見てもいじめられているように思えない状況でも、「いじめられている」と本人が思えばいじめになってしまうならいじめは防ぎようがなく発生してしまうということです。
もしこのAのケースで「Aがいじめられていると思っているからAはいじめられていた」と認定されたとしましょう。AがXを箸で刺した一件は大騒ぎにはなりましたが、大きな騒動にはなりませんでした。つまり学校内の騒ぎで収まり刑事事件にはなりませんでした。

しかし今大人になった感覚でみるとあれは傷害罪が適用されてもおかしくはありません。Xも悪いところがなかったとは言えなくはありませんが、Aのことをいじめていた事実はありませんし、少なくともあわゆく失明させられるというようなとはまったくしていないと思います。

でももしそれが「いじめが原因」「AはXにいじめられていたと常日頃から思っていたので、少しのことをきっかけに過剰防衛した」ということになって失明事件になってもAが何も問われないのではあまりにおかしいと思います。

二つ目の問題はいじめの定義に対する問題からは少し離れてしまいますが被害妄想の問題です。昨日も私の小学校時代の体験として書きましたが、一度いじめを受けると周囲の些細な行動が自分に対するいじめなのではないかと被害妄想が膨らんでいくのです。Aのケースではいじめがあったようには到底思えませんでしたが、彼がいじめられてしまったと思い込んでしまったことによって被害妄想が膨らんでしまったのは看過できません。

もし自分がいじめられていると常日頃感じていたら、本当に上記のような他愛ないような日常のどこでも起きているような事柄にも過剰反応して却って大きな事件が生じ得ないとは限らないのです。

現場に居合わせたものとしてはAとXの件の非はほぼすべてAにあったと思います。Xは当時は学年一の札付きというように思われていたので、当時の父兄の間でこの件がどのように理解されていたかわかりませんが、少なくともXが突発的な非常に激しい暴力をうける理由はまったくなかったと断言できます。

ですが、AとXの関係の他で被害妄想をこじらせてしまったAに対するケアはやはり何かしら必要だったのかも知れないと思うわけです。そのケアの主体が学校なのか家庭なのかはわかりません。でもあのような狂気の沙汰としか思えない事件が起きたという事実は重く受け止められるべきでしょう。

+++++

色々書いてきましたが、私とていじめ問題に対してなんの提言はできません。私が今さらいじめを苦に思い悩むということはあまり考えられないでしょう。そうなると目下子供のいない私よりもいじめの現場に近い生徒や先生、そしてお子さんのいらっしゃる方々にとっての方がいじめはずっと深刻な問題でしょう。

そういう方々に対して私が軽率に申し上げられるようなことはないのですが、それでも昨日申し上げたように「二十歳をすぎるといじめられっ子よりもいじめっ子の自殺率の方が高い」、いじめっ子の親こそ自分の子供の行動に気を配るべきだという考えは将来親になるかも知れない身としては肝に銘じておきたいと思っています。

+++

いじめは本当に胸糞悪いです。
とくに日本で多く見られる集団無視とかのいじめは本当に頭にきます。

子供は残酷です。異物があるとすぐにいたぶります。
でも少なくとも親が異物をいたぶる自分の子供を保護するのではなく、厳しく叱責する社会がくればと心から思います。

嗚呼、いじめの問題は本当に難しいですね。
とりあえず読みかけの川上未映子の「ヘヴン」でもきちんと読み終えて、またあらためて考えてみたいと思います。


what's "my wife's camera"?

2010-11-19

いじめについて真面目に考えてみる。




TBSラジオの「Dig」で「いじめ」特集。何気なくPodcastを聴いていました。普段はカンニング竹山氏がメインパーソナリティーをつとめる月曜Digに興味を抱くことは少ないのですが、日本の学校のいじめの現状で「教師が率先していじめる」というものがあるということをゲストの人がいったときに、竹山氏が怒りを爆発させました。もちろん学校の先生がいじめに加担するには制度的問題もあるのですが、それを一蹴した上で竹山氏は吼えました。

「これはラジオの生放送なのでいじめられっこが聴いている可能性がある。でも非道い現状をあげつらえているだけで、何の解決の結論も出してあげられないと彼らに救いがなくなってしまう。一番大切なのはいじめに苦しんで救いを求めてこのラジオを聴いている人なんだ。彼らに絶望を与えてはいけない」といった風に。

これにはちょっとぐっときました。確かにいじめの問題は教育制度から家庭問題までが複雑に絡み合って一筋縄に解決できることではないかも知れません。それを分析することも必要ですが「一番大切なのは今いじめに会っているリスナーを救うことだ」という視座は絶対に必要です。

そしてすぐに色々なことに対する結論はでないかも知れませんが、しかしそうやって本気で怒ってくれる大人がいることによって救われたいじめられっこも少なからずいたと思います。竹山株上昇。

この一言で番組に引き込まれ続けて聴いていると教育評論家の尾木直樹氏なる人物登場。この人の話は面白かった。
いきなり群馬県で自殺が生じたクラスで学級崩壊が起きていたことにふれて

「学級崩壊というのは担任が子供たちからいじめられている状況なので、学校の校長はその現状を把握したら即座に担任の先生を更迭すべきです。そうすれば問題は一日で解決します。それをしなかった校長の過失と管理責任は極めて大きい」
ときました。過激ですがなかなか面白い論なので聴いていると

「担任が一番のいじめられっこになっているのに、その担任が他にいじめられている子供を救えるわけがないじゃないですか」と。うむむ、確かに。

さらに尾木氏の論は独創的でした。
彼曰く「ある心理学者の調査によると、二十歳をすぎるといじめられっ子よりもいじめっ子の自殺率が高い」とのこと。
これは「いじめ」というのはそもそも他人に対する虐待行為でそれを見て楽しいという思うことなわけで、それは一種の精神異常だといいます。その異常を抱えたまま社会に出て行くと社会に馴染めなくなると。

だからいじめられっこの親もさることながらいじめっ子の親も自分の子供のことを心配しなければいけない。
しかしながら彼が30年やっているいじめ相談では日々たくさんのいじめられっ子からの相談が入るのに、いじめっ子の親から相談を受けたのは僅か2件しかないという実情を憂えています。

諸外国ではいじめっ子の親からの相談はバンバン入るのに日本では全然入らないのは恥ずかしいことだといいます。加害者の親は「相手にも悪いところがある」とか「うちの子ばかりを悪者にしないで公平に見て欲しい」とするようです。

尾木氏はそれは日本人の人権意識の低さの表れで、2010年現在の民主主義の国としては「超恥ずかしいこと」というのです。いやあ、この人真面目そうな語り口だけれども、なかなか過激で面白い。

さて諸外国と日本の話が出たので個人的な話をひとつ。

以前友人の脚本家が担当した映画を観ているといじめっ子が出ていました。そのいじめっ子はアメリカからの帰国子女という設定だったのですが、その登場人物のいじめの仕方がいかにも陰湿で日本的だったので「ちょっとあの登場人物はアメリカ帰りっぽくないんじゃないか」と彼にいいました。

彼自身ドイツに住んでいたこともあり海外生活があるので私の意見にはガンとして与しませんでしたが、私が幼少期をアメリカで過ごした経験からはちょっと違和感がありました(ちなみにアメリカ帰国子女という設定を除けば相当面白い人物に仕上がっていましたが)。

確かに古今東西いじめは存在するというのは事実なんじゃないかと思います。でも日本のいじめって少なくともアメリカのそれに比べると陰湿な印象があるんですよね。

なんていうんでしょうか、アメリカはよくもわるくも単純でマッチョな国なんで影でみんなで「あいつハブにしようぜ」みたいなことはほとんどない印象でした。せいぜいみんなの前で「おまえ男らしくなくてキモいんだよ。もっとシャキっとしろ。パコッ」というイメージ。

映画とかみていてもナードとジョックの関係は日本ほどひどくないですよね。確かにスクールヒエラルキーは存在するし、ジョックは自分の都合でナードを「うっせー、いいからお前はあっちいってろ」的なことを言ったりしますが、ジョックスが皆を先導してひとりのナードを精神的に追い込んでいくという印象はあまりありません。やはりマッチョな国柄なので「弱いものいじめは男らしくない」という意識があるのだと思います。

なぜ私が日米の事情についてそう考察するかというとそれは私自身が日本に帰ってきたときにいじめにあったからです。

ドン臭いデブで日本語にも問題があった私はわかりやすいいじめの対象だったのでしょう。私は近所でいじめに合いました。
具体的にいうと放課後に一緒に遊ぶ近所の数人、彼らは所属していたソフトボールチームも一緒だったのですが明らかないじめに合いました。

具体的にはよく仲間はずれにされたり、モノを隠されたり、隠されたグローブに小便をかけられたり。最初は自分がいじめられるなどということはゆめゆめ考えもしないので中々自覚できなかったのですが、わかったときは本当に不条理を感じました。

「こいつらこんなことをして楽しいのか」と本当に嫌な気分になりました。しかもそういう被害者意識ができるとそのコミュニティー以外でも、具体的にいうと学校の中でも、ちょっとしたことがあると被害者意識がもたげてくるのです。

幸い私はもともとは陽気でいじめられっ子タイプじゃないこともあり、学校生活で普通に過ごすようになると次第にその「放課後近所いじめ」もなくなっていきました。しかし今思い出すだけでも危険な経験をしました。というのは振り返って考えてみると、いじめの主犯は「ちょっとからかってやろうぜ」程度の気持ちで、まわりは別に対して楽しくもないのになんとなく乗っかっているという状況がいじめられる方を追い込むからです。

まあ何はともあれそういうバックグラウンドもあり、私はいじめが嫌いです。というか見ていると日本人の嫌なところが全部出ているような気がして心から胸糞が悪くなります。事実高校時代同級生のあるグループが一人をパシらせているのをみて気持ち悪くなって彼らをどやしたこともありますし、私自身が授業をサボったり寝ていたりすることはあっても学級崩壊を意図しようとする行動には加担しませんでした。

そういうわけで私は自分のことを完全に「アンチいじめマン」だと思っていました。
しかしある時妻に「あなた絶対いじめっこだったでしょう」と言われて驚きました。それは私が妻をからかった後かなにかに彼女が少しふくれて言った他愛もない言葉なのですが、同時に少し考えもしました。

確かに私はいわゆる特定の生徒をいたぶるようないじめはしたことはありませんが、後輩からは「怖い先輩」と思われていました。まあ怒鳴ったりもしていたのですが、同時に後輩をからかって遊んだりもしていました。

若干いいわけじみたことをいうと、私の通っていた中学高校はバンカラな男子校で封建的な上下関係が成立していたわけです。特に運動部では先輩のいうことは絶対というようなところがあり、私自身もその伝統の継承者としてがんばっていたのでした。

だから合宿に行き中学生が疲れて早々と寝てしまうと(部活も中学高校一貫だったのです)、彼らのまぶたの上にマジックペンで瞳を書き入れたり、同じ合宿所に泊まっているテニスサークルの女子大生たちを示し、後輩に「おい、あのお姉さんから枝毛もらってこい」と指令したりしていました。

もちろん同じことを私たちも先輩からやらされましたし、私としては今思い返しても「はは、懐かしいね」程度の思い出なのですが、大人になった今の感覚なら、その後輩たちの親御さんから「これはいじめです!」と言われたら少なくとも論理的には反論はできないかも知れません。

それを突き詰めると「いじめは客観的な基準にもとづいて定義付けられるのではなく、被害者がいじめられていると思えば成立する」ということなのでしょうが、この定義にも疑問が残らなくもありません。

というのも高校時代の二つの印象に残る思い出があるからです。

その思い出を書こうとしたのですが、いささか長くなりすぎましたので続きはまた明日。
(つづく)


what's "my wife's camera"?