2015-11-03

2015-07-22

小保方さんと安倍首相の共通点とは?

■ なぜ罪人に有利なルールがあるのか?

Due Process of Law という概念をご存知でしょうか?

日本語で言うと、法に基づく適正手続。

基本的には、ちゃんとした法的手続を経ないと警察や検察は被告を有罪にできないよ、という法律用語です。

たとえば拷問とか不正な方法で自白させられてもその証拠は無効である、といった具合です。

あえて乱暴な言い方をすると、起訴して有罪にすることをひとつのゲームとして考えたとき、ルール違反していたら得点していてもそれは無効というものです。

さらに踏み込んで言うと、たとえ神の目から見て有罪であっても、捜査当局が不正な手続きを取っていたら罪は問われないというものです。

なぜこんな罪人に有利になりかねないルールがあるかといえば、それは歴史的にみて権力を持っている為政者が市民の人権を踏みにじることが多かったからです。為政者が市民を裁くときには厳しいルールを定めないと危険だという歴史があったからです。

つまり罪人を取り逃がすリスクよりも、権力者に好き勝手やらせるリスクの方がずっと大きいというのが近代の叡智の結論なわけです。

■ ルールを軽視する日本社会


しかし、日本では残念ながらDue Process of Law の観念が極めて弱いようです。

子どものころアメリカの映画を見ていると犯人逮捕の時いつも警察が「あなたには黙秘の権利があります、あなたの証言はすべて法廷で不利な証拠として採用される可能性があります・・」というような文書を読み上げていました。

これはミランダ警告と呼ばれ、逮捕の前に被告の権利とリスクについてきちんと説明していますが、これもDue Process of Law の一環。

同じ時期に見ていた日本の刑事ドラマで、刑事が被告の胸ぐらをつかみながら顔にライトを当て、机を叩きながらイスを蹴って取り調べしていたのとは大違いです。

どうも日本は適正な手続きを軽視する傾向にあるようです。

最近では厚労省の村木さんの事件でも、検察による証拠改竄があったにも関わらず、危うく村木さんは有罪にされるところでした。

またパソコン遠隔操作事件では、誤認逮捕された四人のうち2人が自白を強要されたにも関わらず、その件については深く追求されないままでした。

細かい手続きに多少問題があっても、結果オーライならいいじゃないか、という気持ちが働いているのかも知れません。

そのことは昨年話題をさらったあの事件でも同じでした。


■ 小保方論文は議論以前の問題


昨年の時の人といえば小保方晴子さん。
まあ、話題になりました。

個人的にはSTAP細胞に関する細かい技術的なことはわかりませんし、ひょっとしたら未だにある可能性がないとは限らないくらいには思っています。

それでも昨年の議論の多くには強い違和感を覚えました。それは「STAP細胞は存在するかも知れない、だから小保方さんは悪くない」という種の議論が横行していたからです。

しかし小保方論文は、STAP細胞が存在しようがしまいが論文としては論外です。不正なコピペや画像使用があったのですから、その良し悪しを論するまでもなくアウトです。それ以上議論する価値がないというのが本筋です。

もしSTAP細胞の存在を証明したいのなら、「STAP細胞はあります!」と記者会見で主張するよりも、淡々と正規の手続きに沿った実験をし論文を発表するより方法はありません。

つまりいくら100mを9.5秒を切って走っても、それがフライングだったり不正な靴を利用していれば世界記録にはならないのと一緒です。ルール内で戦わないと評価さえしてもらえません。

それを「フライングがなかったとしたら9.45秒に相当するタイムを叩きだしてたはずだ」という議論をしても何の意味もないのです。


■ 手続きガン無視の安倍首相


さて話は今年に戻って安倍首相の話。

僕は安倍さんのことを悪くいうことが多いですが、それでも安倍さんは強い思いと信念のある人なのではないかと思っています。

彼なりに日本のことを真剣に考えているのでしょう。
その結果「絶対に日本はこうしないといけない!」と思い込む。

まあ、ここまではいいでしょう。たとえ僕とは考えが違ってもビジョンを持っているということですから。でもこの人が厄介なのは、驚くくらい手続きを軽視すること。これがまあ非道い。

その最たるものが解釈改憲。その前には憲法96条の改正もしようとも目論んでいました。さらには議会にかける前にアメリカで安保関連法案の成立を約束し、そして違憲の法案を強行採決。

手法としては無理やり既成事実を作って、後でうやむやにするといったところでしょうか。

本人としてはある種のマキャベリズムなのかも知れませんが、ここまでくると手続き軽視というより手続きガン無視で笑っちゃいます。いやいや笑えません、本当に。


■ 手続きの持つ意味をもう一度考えよう


でも僕らも大いに反省しなければいけないかも知れません。

安倍さんにもし評価すべき点があるとすれば、それはゴールを設定してそれを達成するためになりふり構わないところでしょう(設定するゴールの善悪はここでは議論しないとして)。

安倍さんは過去の国民の態度を見てきて、多少手続きを無視しても既成事実さえ作って喉元さえすぎさるのを待てばやり過ごせると判断したのでしょう。

そして実際のところ私たち日本人にはそういうところがあると認めざるをえません。

でも考えてみてください、ナチスが適正な手続きを守らなかったのはたった一度です。
それは全権委任法を議会に通すときに反対する議員を拘束したということだけでした。
拘束自体は犯罪的行為といえなくもありませんが、政権与党なら屁理屈をつけてゴリ押しできることでもありました。それがヒトラーの独裁を招いたのです。

安倍内閣にはナチスの手口を学んだらどうかね、と冗談とも本気ともつかぬ発言をしている人がいます。

たった一度強引な手口を許すだけで、国がとんでもない方向にいく可能性があることをみんなで改めて認識しなければいけないでしょう。










what's "my wife's camera"?

安倍さん、相手をバカにしてちゃ正論でも伝わりませんよ。

■ 反安保法案の人の頭はお花畑か?

僕はアンチ安倍政権の立場で、今はどうやったら安倍政権を倒せるのかということしか考えていませんが、おそらく安保関連法案容認派が思っているほど頭の中はお花畑ではないのではないのではないかと思っています。

日本を取り巻く安全保障環境が複雑かつ深刻化しているというのは、ある程度安倍首相のいう通りでしょう。

それでも反対する理由は明白です。一つには意見の法案は論外ということで、もう一つは強引な手口が民主的でなく国民をバカにしており、とても危険だと思っているからです。

つまり法案とか安全保障環境以前の問題。その点においては慶応大学の小林節教授が改憲派であるにも関わらず反安倍を標榜するのと同じです。

まあ、この辺りのことを語る人も多いので、別に今更専門家でもない僕が語る必要もないでしょう。

では具体的に、今日本は安全保障について真剣に考える必要があるのでしょうか?
安倍さんが語る安全保障環境の話は、ただ戦争ができるマッチョな国になりたいための方便なのでしょうか?

僕は安全保障については真剣に考える必要はあると思っています。でも安倍さんの安保法案に関する説明には軽いイラ立ちと怒りを覚えます。

それが手前勝手な作り話であるからではありません。それは安倍さんが国民をバカにしているからです。

■ 日本の安全保障を真剣に考えなければいけない理由

もし安倍さんがいう集団的安全保障の必要性があるなら、それは下記の理由からです。

アメリカに尽くさないと、日本は守ってもらえないから。

こういう言い方をしてしまうと反発されてしまうかも知れないので、もう少し丁寧に説明しましょう。

日本の平和憲法も第9条も素晴らしい理想をもったものではると思うのですが、それが成立したのには当時の時代背景があります。

第二次世界大戦末期からアメリカの関心はすでに冷戦にあり、反ソ・反共というのは深刻な課題でした。その中、一刻も早く日本を西側陣営に引き込む必要がありました。

だから「お前、大戦中は相当無茶したけど、俺が仲間として守ってやるから平和憲法受け入れてうちの陣営に入れ」ということで今の日本国憲法ができました。

それは言ってしまえばwin-winの関係で戦後46年は機能していました。アメリカとしてはどうせソ連を封じ込めるために東アジアに戦力を投下せざるをえなかったですし、日本が共産化するリスクをなくせるなら日本を防衛することは然程高くないコストでした。

日本からするとアメリカに守ってもらって、自らは経済発展を最優先させられるというメリットがありました。

しかし冷戦が終わると状況は変わってしまいます。ソ連とか共産化の脅威は薄れましたし、アメリカ自身が超大国としての影響力を保持するのが難しい状況になり、国民も「アメリカが世界の警察官であるべきではない」と思うようになってきました

つまりアメリカが日本を守る理由が著しく低下してきたのです。
(ちなみに日米安保ではアメリカは議会の承認がないと日本を守れないことになっています)

だから「アメリカさんの機嫌を取らないと守ってもらえなくなるぞ!」という風になるのです。

これは意外と切実です。一部の自民党議員が真剣に集団的安全保障は大切だ!という気持ちもわかります。

■ 安倍政権が本当の理由を説明しない理由

でも、誰も「日本はもはや守る価値があまりないから、アメリカの機嫌を取らないと守ってもらえなくなるぞ」ということを説明しようとしません。

もちろんそんなことを言って喜ぶ国民は少ないでしょう。
でもこのことに触れないで集団的安全保障の大切さを説明しようと思っても無理です。

ホルムズ海峡とか火事とか言っているだけじゃ問題の本質は伝わりません。

にも関わらず安倍政権がその説明をしようとしないのは、国民をバカにしているからだと思うのです。

「どうせ国民に歴史的経緯を話しても理解できないんだから、そんなリスキーな説明をするな」と考えているとしか思えません。

安倍政権は様々な局面でこういう国民をバカにした思想を持っているのではないかと感じさせます。

「大して中身がなくてもアベノミクスと大上段に銘打って株価対策をすれば国民は満足だ」
「オリンピックを東京に招致すれば、国民は喜んで細かいことは気にしないだろう」
「嘘でも堂々と"under control"と言い切った方がウケはいいだろう」
「NHKを押さえて、大手メディアのトップとメシ食って良好な関係を作っておいたらそんなに叩かれないだろう」
「特定秘密法さえ通しちゃえば後は特定秘密に指定しちゃえばいいし、みんなも直に忘れるだろう」
「解釈改憲で既成事実を積み重ねれば、後はなんとかなるだろう」
「違憲でも、法案さえ通しちゃえば来年の参院選までにはみんな忘れるだろう」
「難しい安全保障の話よりも、わかりやすい国立競技場のことを白紙撤回すれば支持率は回復するだろう」

と。

きっと安倍さんは自分のことを狡猾な戦略家だと思っているのでしょうが、すべてが底が浅く見通せてしまう。国民からしてみれば、自分たちがバカだと思っている人からバカにされているのだから、これ以上腹立たしいことはありません。

あらためて言わせてもらいますけど、安全保障の問題はとても難しくて色々な議論の必要があると思います。でも、国民をバカにしたような上っ面のことだけ話してもだれもついて来てくれませんよ、安部さん。


what's "my wife's camera"?

2015-07-21

歴史的意義の大転換にあるスポーツのCM

ひさしぶりのポスト。
私的スポーツメーカーCMベスト5。


第5位 Nike Soccer Brazil National team "Airport Football"




1998年サッカーブラジル代表。'97にフォワードにロナウドとロマーリオ、中盤にレオナルドとドゥンガ、両サイドバックにロベカルとカフーを擁して世界最強と言われ満を持してW杯フランス大会に臨むチーム。

とにかく強さが喧伝される中でオンエアされたこのコマーシャル。

メインにフィーチャーされているのが、圧倒的才能で破竹の勢いで台頭してきたロナウド。ロマーリオの怪我もあり、結局98年ブラジルチームはロナウドのチームになる。

そのブラジルの強さを技術や才能ではなくサッカーを楽しんでいるからだ、というメッセージを悪ガキ然としたロナウドのキャラクターとうまく重ね合わせて表現した一本。

スポーツの原点は楽しむことということをロナウドとTamba Trioの演奏するMas Que Nadaで見事に表現。Mas Que Nadaの冒頭の歌詞、

Mas Que Nada, Sai da minha frente que er quero passar,
Pois o samba esta animado o que eu quero e sambar
(ねえ、そこをどいてよ。通りたいのよ。
 サンバは最高なんだから。私はサンバを踊りたいだけなのよ)

退屈して遊びだすロナウドたちを制止しようと立ちはだかったガードマンからボールを奪った瞬間にボーカルに入る。サンバを踊るようにボールと戯れるブラジルチームが見ていて楽しい。

これから始まるW杯に向けてわくわくさせてくれ、スポーツの楽しさを再認識させてくれた一本。



第4位 Adidas Muhammad Ali "Impossible is Nothing"



スポーツは日々進化している。道具や戦術の進歩もあり、10年以上前の選手が現在のトップ選手に勝つことはかなり難しい。

でもそれは過去のアスリートが時代遅れのものになってしまったということではない。忘れ去れていくだけのアスリートもいる中、あまりにも重要すぎて忘れることが不可能なアスリートもいる。

Muhammad Aliは間違いなくその筆頭格だ。

彼はボクサーとしてもヘビー級の世界に革命をもたらしただけでなく、公民権運動の嵐が吹き荒れる時代をアフリカ系アメリカ人の代表として戦い、ベトナム戦争というアメリカ的独善に対して政治的な存在としても闘争を怠らなかった(アリが良心的兵役拒否で逮捕されていることを知らない日本人は多い)。

そんな20世紀最高のアスリートに対するリスペクトをスポーツ界は忘れてはいけない。
そしてこのCMはAliに対するリスペクトに満ち溢れている。

1990年代後半にAdidasが世界的に展開した"Impossible is Nothing"のキャンペーン、このスローガン実はAliの言葉なのだ。

“Impossible is just a big word thrown around by small men who find it easier to live in the world they've been given than to explore the power they have to change it. Impossible is not a fact. It's an opinion. Impossible is not a declaration. It's a dare. Impossible is potential. Impossible is temporary. Impossible is nothing.” 
― Muhammad Ali

「不可能という言葉は、力を爆発させて世界を変えることよりも、与えられた世界の中で安易に生きていくのを良しとするチンケな男にとって便利なものでしかない。不可能というのは変えられない事実なんかじゃない。意見にすぎない。不可能は決めつけられるものじゃない。挑戦だ。不可能は未来の可能性だ。不可能は一時的なものでしかない。不可能なんてクソくらえだ!」

これがスローガンの引用元だ。
この時期中国のあるスポーツメーカーが「Nothing is Impossible」というコピーを使っていたのをみたが、こちらの本家と比べるとまったくもって薄っぺらで、それこそクソだった。

夜明けの一本道、アリに鼓舞されるアスリートの集団がゆっくりとジョグしている。まとまって走っているけれども、彼らはチームという雰囲気を醸し出していない。一人ひとりがどこか内省的だ。

ナレーションは
"Some people listen to themselves rather then listen to what other say, these people don't come along very often but when they do they remind us that once you set up in a path, even though critics may doubt you, its okay to believe that there is no can't, won't or impossible they remind us it's okay to believe... impossible is nothing"

どこまでも静かに続くこの映像を観て視聴者は突然気づく。
「あれ、ベッカム?ジダン?イアン・ソープ?ライラ・アリ?」

Impossible is nothing.


muhammed ali,his doughter laila,david beckham,zinedine zidane,tracy mcgrady,haile gebreselassie and ian thorpe are in this amazing spot

第3位 Mizuno Spud Webb 「小さかったら高く跳べ」


たしか1980年代終盤の作品。MizunoのRunbirdだったと思うが、この動画はどこを探しても見つからなかった。仕方がないのでフィーチャーされていたSpud Webbの活躍するビデオを。



Spud Webbは170cmもないと言われながら、NBAでスターになった選手。ただしそのサイズでもダンクシュートはできた。

CMはとてもシンプルなものだった。
Webbの身長が低いことが表現され(その方法の詳細は忘れた)、次に「小さかったら」とナレーションが入り、Webbがドリブルから踏切り「高く跳べ」とナレーションが入りダンクを決める。

当時はまだCMの作り手事情とか何も知らない一運動部の学生だった。
それでも、いやだからこそ「小さかったら高く跳べ」というシンプルなメッセージは力強く僕に刺さった。そしてWebbのダンクの圧倒的説得力がそのコピーを力強く後押しした。

四半世紀以上前にただの学生という立場で観たことがあるだけなので、クオリティーの詳細は覚えてないけれども、生涯ベストの中に入れざるを得ないインパクトを僕に与えてくれた。


第2位 Nike  Michael Jordan "Failure"




NikeのCMだけで、ベスト5はおろかベスト10でも20でも選べる。
その中AdidasがMuhammad Ali抜きにアスリートを語ることができなかったのと同じように、Michael Jordanを抜きにしたらNikeは何も語れない。

90年代のNikeの隆盛はMichael JordanとWieden & Kennedyとともにあったと言ってしまっていいだろう。

当時Wieden & Kennedyの作るNikeのCMは他の追随を許さないカッコよさを見せつけていた。

そのカッコよさはもちろん演出によるところもあったが、もっと本質的なことを言うと彼らはアスリートの見せ方を根本的に変えてしまったのだ。

それまではすごいアスリートのカッコいいプレーを見せていた。カッコいいプレーを見せることによって視聴者(=潜在的ユーザー)を高揚させていた。

しかしW&K が見せたのはカッコいいプレーそのものではなかった。彼らが見せたのはカッコいいプレーを実現するカッコいい人間の物語だった。

アスリートの憧れとなるようなカッコいい人間の、カッコいいハートが憧れの対象になった。

そしてそのカッコいいアスリートの最高峰にいたのがMichael Jordanだった。彼はコートの中では「神」だった。そしてAir Jordanブームを巻き起こして商業的にも「神」になった。

その絶対的な「神」が自身の「失敗(failure)」について語る本作。

動的なカッコよさはないどころか一切のバスケシーンがないにも関わらず、最後にJordanが"And that is why I succeed"と言う瞬間に全身の血が沸き、『ロッキー』を観た後と同じように練習がしたくなる。

Nike x MJ x W&K 三つの時代のトップランナーが適切な時期に出会うことによって生まれた奇跡的な一本だ。

I've missed more than 9000 shots in my career. 
I've lost almost 300 games. 
26 times, I've been trusted to take the game 
winning shot and missed. 

I've failed over and over and over again in my life. 

And that is why I succeed.


第1位 Under Armour Misty Copeland "I WILL WHAT I WANT"




さていよいよ1位。

実はこの企画を上げようとと思ったのはこのコマーシャルがあったからだ。
といっても恐らく日本ではOAされていないのでちょっと説明が必要かも知れない。

フィーチャーされているアスリートはMisty Copeland。世界最高峰のバレエ団、アメリカン・バレエ・シアターでアフリカ系アメリカ人として初めてプリンシパルに抜擢された女性。

冒頭で流れるナレーションは、13才の時彼女がバレエ団に応募した際受け取った落選の手紙だ。

いわく体型が相応しくないとか、13才から始めるのでは遅すぎるとか。

続いて彼女の圧倒的にアスレチックで美しい舞を見せられ、最後に自信に満ちたミスティーの表情とともにキャンペーンのスローガン"I WILL WHAT I WANT"のキャプションが入る。

文句なくカッコいい。でもこれがなぜ僕らを魅了し続けたNikeの一連のCMを抑えて1位なのかという疑問があるかも知れない。

正直言おう。印象的なスポーツメーカーのCMを考えて思い浮かんだのはNikeのものばかりだった。

先にも述べたとおり、Nikeがスポーツブランドとしても、Wieden & Kennedy とタグを組んで作った一連のCM主としても圧倒的な一時代を築いたが、それは僕自身がスポーツに明け暮れていた時期と一致していた。

でもここに来て明らかにその時代が更新されている。その最も象徴的な一本が本作なのだ。最早個人的ノスタルジーとは別次元の話としてこれを1位にせざるを得ない。

ブランドはUnder Armour。キャンペーンは"I WILL WHAT I WANT"。

Under Armourはそのウェアにおいてはアスリートオリエンテッドの高性能な商品を提供してきたものの、スポーツメーカーとしてはどうしても後発で用品開発においても後追いにならざるを得なかった。

そうした中、躍進をするにはマーケティングに重きをおくしかない。そのUAがパートナーに選んだのがDroga5だ。

"I WILL WHAT I WANT"のキャンペーンは、日本ではモデルのGisele Bubdchenを起用してカンヌのサイバーグランプリを受賞した作品の方が有名かも知れないが、Misty Copeland を登用した本作の持つ意義の決定的な大きさには及ばない。

それはこのコマーシャルが現代におけるスポーツの意義を再定義したものだからだ。

いや、もう少し正確に言うとスポーツの意義を再定義した"I WILL WHAT I WANT"のキャンペーンのローンチとなったからだ。

言うまでもなくスポーツは今や巨大ビジネスだ。その大きな起点になったのは1984年のロサンゼルスオリンピックだった。

以後スポーツの商業化は進みアメリカではNFL、NBA、MLBとプロスポーツビジネスが高度に発展し、オリンピックやW杯もそれに追随して大きなビジネスとなっていった。

その原動力となったのはMichael Jordanを始めとしたスターアスリートたちだった。超人的能力を見せ、異形として人々の憧れとなった。

その中心にはアメリカがいた。世界中がアメリカに憧れた。
1992年のアトランタ五輪のバスケのアメリカ大陸予選。その頃低迷していたアメリカがNBAの選手を投入し圧倒的な実力差を見せつけた。対戦相手は腐るどころか、憧れのMichael Jordan、Magic Johnson、Karl Maloneと同じコートに立っていることに興奮し、試合中にサイドラインから写真を撮っていた。

その輝きはスポーツだけではなく、映画や音楽などのエンターテイメントもすべてがアメリカの独壇場だった。

クリントン政権の重鎮、ジョセフ・ナイハーバード大学教授は、その影響力を「ソフトパワー」と呼んだ。ベルリンの壁が崩れたのはソフトパワーの力だと説いた。

しかし、そのスターモデルは今日アメリカ的ソフトパワーの凋落とともに明らかに綻びを見せ始めている。

もっと言ってしまうと、アメリカが体現してきた資本主義という価値観とともに地盤沈下し始めている。

21世紀に入りG.W.Bushが大統領になり、道理の通らないイラク戦争を始めた辺りから明らかにアメリカの神通力は低下していった。

911は、逆説的ではあるけれども、アメリカを圧倒的な超大国たらしめていた冷戦構造が完全に終焉していることを確認させてくれた。

リーマンショックは資本主義社会が一つの限界に近づきつつあることを露呈した。

アメリカはベトナム戦争で無邪気さを失ったかのようにも見えたが、その後冷戦構造がもたらした繁栄を無邪気に貪ることができた。

しかしその繁栄はゆっくりと致命的に損なわれてきている。無邪気でいられない時代が再び訪れ、ハリウッド映画さえ単純な勧善懲悪に終わらなくなった。

では無邪気さの上に高みを極めたスポーツはどうだろうか?

超人的スポーツ選手は相変わらず僕らを魅了している。ビッグスポーツイベントの前には僕らはテレビの前に噛りつき固唾を飲んで見守る。

しかし同時に冷めた目も増えてきている。誰もが手放しで東京オリンピックの開催を喜んでいるわけではない。国別対抗戦に政治家の国威発揚への色気を嗅ぎ取り鼻白む人もいる。

ではスポーツは死んだのか?

もちろん死んでいない。依然人々を魅了するビッグビジネスだ。人々はコロッセオの闘いに熱狂し続けている。しかし同時にスポーツはコロッセオの中を飛び出してもいる。

異形の超人のものから、市井の民のものへと広がっている。
猫も杓子もランニングをし、『Number』の美文調から、自ら体を動かすための『Number Do』のインストラクション調に移ろっている。

スポーツは僕ら一般人の手に戻ってきた。いわゆるアスリート以外の人がスポーツの重要な担い手になってきたのだ。

ではスポーツの主体となった僕らの憧れはどういう存在なのだろうか?
人々はなぜせっせと皇居の周りを走り、早起きしてヨガをするのだろうか。

それはよりよい自分になるためだ。

先進国の中では経済成長はもはや望めないと言われているのみならず、資本主義は早晩息詰まる運命にあると言われ、国民国家というアーキテクチャさえ限界をささやかれている。

確かなものが何もない中、信じられるもの。毎日走れば確実に痩せ、タイムも早くなる。
コツコツと続ければ確実にできるポーズが増えるヨガ。

前を向いていこうという人が、よりよい明日を目指した結果としてのスポーツ。

スポットライトと大観衆の声援を浴びたのとは違うスポーツが今重要性を増してきている。

そんな新アスリートにとってのロールモデルはどういう人なのだろう?

彼らは超人的な異形である必要はない。大切なのは彼らのパフォーマンスではなく、明日に向かって生きていく姿勢なのだ。

Charles BarkleyやDennis Rodmanのような問題児であってはいけない。政治的に正しい(PC)存在じゃなくてはいけない。

正しい姿勢で明日に向かっていき、そして鍛え上げられた体を通じて新しい世界を創造する人こそが新しい時代のスポーツのあこがれ像なのだ。その世界観にあてはまるなら、それがスポーツ選手である必要さえないのだ。

だからMisty Copeland。いまだ残された数少ない白人至上主義であるバレエの世界で、実力と反骨精神で世界の頂上まで昇りつめた彼女に勝る存在はいない。いくらGisele がVictoria Secret のモデルから世界最高峰に昇り詰め、Supermodelという言葉を再定義した存在であっても存在としての説得力はMistyに及ばない。

そしてMistyという最高の素材を、旧世界を象徴するrejection letterと圧倒的肉体的説得力を持つ彼女の舞で表現したこのCMはやはりエポックメーキングだ。Droga5による素晴らしい仕事とスポーツの新しい時代に対する理解と戦略を持ったUAに敬意をこめての第1位。


what's "my wife's camera"?

2014-12-31

what's "my wife's camera"?


今年はあっという間に大晦日になってしまった。
2-3週間前までまだ10月だったのに。

というわけで一年をラフに振り返ってみた。
前厄、本厄ときて、今年の後厄でいよいよ終わりか、と
軽い気持ちでいたけど、この最後の一年が何かと強烈だった。

わかりやすいところで言えばiPhone2台ダメにしたし、iPadも1台盗まれた。
妻から「持っていて」と言われたまとまった現金入りの財布も落とした。

とはいれこれらは所詮軽めのパンチ。

重めのものもドスドス喰らった中、メガトン級といえばやはりジョギング中に暴漢に襲われたころでしょう。

詳細は過去のポストを読んで欲しいのですが、状況としてはキワキワだったにも関わらず、幸い怪我は大したことなく大事には至らなかったので、事件の後も割りと冷静に平然と過ごしていたつもりでした。

そんな折に耳に入ってきたのがPharrellの"Happy"でした。





なんというのでしょう、バイラルメディアのチープな煽り文句みたいでイヤなのですが、聴いていくうちに止めどなく溢れ出す涙を止めることができなくなりました。

Youtubeを使ってバズらせるとか、恋チュンとの比較とか、トラックにひねりがないとか、この曲について色々なことを言う人がいますが、そういうものを一切抜きに、この曲がもつシンプルで力強いメッセージ、本当のHappinessとは何かという問いかけがサビのコーラス部分に入ると同時にストレートに胸に突き刺さったのです。

生きて妻や娘と会えるということがどれだけ幸せなのことなのかということが心のそこから感じられ、万感去来したのです。

正直いうと、2014年はシンドイ年でした。
それでもこうして家族ともども五体満足に年を越せるわけですから、悪い1年だったなんて言えるわけがないんだよなぁ。

来年はもっとHappyな年になると嬉しいけど。

Clap Along, everyone!!

2014-12-14

なぜ勉強しなくちゃいけないの?

タイトルを後輩が書いた人気書籍に寄せてみた。

**

先日FBでこんなブログをシェアしました。

高学歴ハイスペックな女子が合コンをするとき、フルスペックオープンで臨むとドン引きされるので苦労するぜ、という内容です。

僕が「面白い!」という感じでシェアしたので、反応は「いがちなメンズ」とか「男ダサ」とかブログに同調するものが多かったです。

でも中には「バリキャリよりも、男を支えてくれる良妻賢母タイプの女性の方がいい」という人ももちろんいるでしょう。

いや、実際日本人男性のマジョリティーはそうかもしれません。

ただ好き嫌いはさておき、このブログの価値観はとても現代的であると言えると思います。特にこれからの日本の状況(低成長、少子化/労働力不足etc)などを考えると、バリキャリの女性を「怖っ!」なんて言う男性は「ダサっ!」と言われることはどんどん増えていくのではないでしょうか。

もちろん良妻賢母タイプやそれを求めることが悪いということではないのですが、残念ながらそういう価値観は時代に則さなくなっていくということです。

それでも「やはり良妻賢母サイコー!」と思うのは、まったく構わないのですが、「バリキャリ怖っ」と言ってしまうと「ダサっ」と思われてしまうのは避けられない時代になりつつあります。

では「ダサっ」と思われないようにするにはどうすればいいのでしょうか?

価値観は家庭や育った学校や社会などの環境で決まってしまいます。
そしてある世代以上の日本人の多くは良妻賢母タイプを是とする環境で育ってきています。そもそもプロフェッショナルを追求する女性なんて昭和の終わりまでほとんどいませんでしたし。

その価値観を変えなければいけません。

価値観を変えるのに一番大切なのは想像力です。もし自分が働きたい女性だったら、もし自分が仕事がとてもできる女性だったら、もし働かざるをえない女性だったらなどと想像することができたら、高いキャリアを持つ女性に対して絶対一定以上の敬意を持つはずです。

その想像力を支えるのは知識と知性です。しっかりと勉強していれば専業主婦モデルは高度成長期の例外的なシステムで、先進国で機能しているところはないということがわかるはずです。さらには今日本の置かれている人口動態や経済成長ステージを考えると、女性が働くのは自己実現のためとは限らず、働かざるをえない人がどんどん増えているということもわかります。

こういうことがわかっているなら、女性は家庭に入って家族の要になった方がいいという考えを持っていたとしても、高次にキャリアを希求する女性に対して偏見を持たなくなるはずです。

そうすれば「バリキャリ怖っ!」という態度をとって「ダサっ」と思われることもなくなるでしょう。だから勉強はした方がいいのです。

その上勉強していくと「バリキャリ怖っ」と言っている人が「ダサっ」と思われるのは、単に彼らの価値観が時代遅れだからというわけではないからだということがわかってきます。

「怖っ」というような男性は、女性を下の存在にとどめ自分の優位性を保つことによって承認欲求を満たそうとする甘ったれタイプが多い、ということが見透かされているからこそ「ダサっ」と言われているのだ、ということに気づくことができるようになるのです。

それ気づかずに「男勝りに肩肘張ってがんばろうとしている女の子って痛々しいよね」なんて上から目線気味に言ってしまうダサさに耐えられる、勇気のある男の中の男だけが勉強をしなくてもいいのかも知れません。

what's "my wife's camera"?

2014-12-06

官邸前デモ、こうすれば面白かったのに。

ちょっと前に考えたこと。

反原発の官邸前デモ。
一生懸命声を上げているわりには、暖簾に腕押しでやり過ごすも議員も結構いた。

ならば参加者がそれぞれ自分の選挙区を書いたゼッケンをして参加すればよかったのに。

自分の選挙区が書かれたゼッケンを付けた人をそこそこ見つけて平静でいられる議員はそんなには多くないはずだと思う。

what's "my wife's camera"?